唇の上なら、愛情のキス/Sel'ge Liebe auf den Mund
今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。
*
ラ・キト通りの娼婦や男娼はだいたいがコウノトリに運ばれた捨て子だ。だけども、もちろん平穏無事に教会の孤児院に届けられた幸福な子どもたちも同じ数だけ存在する。白兎がそれだった。
数年前、幼い白兎は同い年の美しい幼馴染と手と手を取り合って、『駆け落ち』した。桜の樹の下で身体を寄せ合うようにして寒さと飢えをしのいでいたふたりの前に現れたのが、黒い鄙びたコートに身を包んだコウノトリである。白兎の美しい幼馴染はラ・キト通りの男娼になったが、幸いにも白兎は娼婦にはならなかった。コウノトリに連れられて小さな白兎は教会の門を叩き、以来そこの老神父にいたく可愛がられて、平穏な日々を送っている。
春である。その日も、白兎は紺のエプロンドレスの裾をひらひら揺らして教会の門の前に積もった桜の花びらを箒で掃いていた。もともと「捨て子」というには籐が立っていた白兎は、先日十六回目の誕生日を迎え、孤児院でも二番目の年長になっていた。年下の子どもたちのぶんの洗濯をして、掃除をするのは、だから白兎の役割である。
白兎はよく、ぼんやりしている、とか、とろい、とかいわれる。確かに白兎はよくぼんやりと空想にふけっている。それは小さな頃からの白兎の癖だった。白兎の家は兄が五人、姉が三人いる大家族で、両親は「気付いたら増えてしまっていた」この取り立てて特技のない末娘をあまり構おうとしなかった。親や兄弟たちが出かけたあと、ひとりぽつんと家の窓辺に座っているのが幼い白兎には退屈で、窓枠に肘をついて浮かんだ雲の形を眺めながら、白兎はよく白兎の王国を空に作って遊んだ。白兎はたぶん孤独で。ときどき水汲みのとき井戸端で会う隣の家の美しい男の子だけが白兎にとって、喋って遊べる唯一の「トモダチ」だった。だから、そのトモダチが震えながら白兎の身体を抱き締めてきたとき、白兎は彼とともに家を出る決意をした。十歳だった。こわいものなんか何もなかった。ちょうちょの手があるなら、どこへだっていけると信じてた。
「うさぎ」
白兎を白兎ではなく、うさぎ、と呼ぶのはラ・キトではちょうちょだけである。蝶スワロウ・テイル。だけど、白兎はこの美しい名前を厭うてあまり使わない。『兎』と『蝶』では見た目が違いすぎて、釣り合わなくなってしまう。だから、ちょうちょ、と呼ぶ。ちょうちょ。ちょうちょ。優しくて子どもらしい響きは、白兎の舌にもよく馴染む。なので、白兎はその日も少年の声を聞きつけると箒を動かす手を止めて、「ちょうちょ」と微笑んだ。ちょうちょは、美しい。リ・セトの古びた教会の前に佇むちょうちょはどこか異質で、まるで砂礫の上で七色の麟粉を振りまくアゲハ蝶みたいだった。ちょうちょは教会の周りにぐるりとめぐらせた塀に浅く腰かけて、長い足を組む。気だるそうに頬杖をつきながら、白兎の箒と一箇所に集められた花びらとを見て、「何やってんの」と問うた。
「お掃除。昨日の嵐で桜がたくさん散ったでしょ。神父さまに言われて、門の前をきれいにしているの」
白兎は左手に持っていた塵取りを持ちかえると、ちょうちょの膝の上に乗せて「ちょうちょは花を集めてね」と言う。ちょうちょは面倒くさそうに頬を歪めたけれど、何も言わずに足元のあたりに塵取りを置いた。胸ポケットから一本引き抜いた煙草に銀のライターで火をつける。ちょうちょはちょうちょの顔にはさっぱり似合っていない煙草を昔からよく好んだ。身体に悪いからやめて、と何度も言ったのに、気付けば、あの紙に包まれた毒草を口にくわえて吸っている。最近はもう白兎も咎めたりはしない。
「今日はどうしたの、ちょうちょ」
「別にぃ? どうもしないよ。ナニ、用がないとだめなの、うさぎ」
「そんなことは、ないんだけどね。ねぇ、ちょうちょ。喉痛いの? 声ちょっとヘン」
いつものちょうちょは透明な、教会のパイプオルガンの音を思わせるボーイ・ソプラノをしているのに、今は変にかすれて、風邪をひいたひとのようにがらがらとしている。ちょうちょは「別にぃ?」とさっきと同じかわし方をして、そっぽを向いた。しばらくおざなりに門の前の桜を掃いてから、白兎はエプロンドレスを持ち上げて、ちょうちょの隣に座る。少年らしい細い肩の先に自分の肩をくっつけた。幼い頃、傷だらけのちょうちょを見つけたとき、白兎とちょうちょは家には帰らず、いつまでもこうして井戸の前で肩をくっつけて座っていた。ちょうちょの家は、平凡な白兎の家とはちがって、少しおかしかった。ちょうちょはよく身体に傷を作って、泣いていた。隣の家の、美しい、傷だらけの男の子を抱き締めるのは、そういうわけで白兎の役割だった。濡れた頬に頬を擦り合わせて、小さな身体と身体を寄せ合って、雪の中でだってずっと一緒にいた。白兎は、ちょうちょ以外なんにもいらない。何度もそう思った。もしかしたら、優しいちょうちょと違って、白兎は恋や愛情といったものに酔っていただけなのかもしれないけれど。
「ねえうさぎ。散り去った花びらはどこへ行ってしまうんだろうって、思わない?」
不意にちょうちょの口からこぼれた言葉に、白兎は赤い目を瞬かせた。ちょうちょは、煙草を吸っている。暗い漆黒の中に七色の虹彩を閉じ込めたその眸は、足元に吹き溜まった傷ついた花びらを映していた。ちょうちょの手が花びらを拾って、それから、空に向かってこぶしを開く。白い花びらが瞬く間に風にさらわれていくさまをちょうちょは眸を眇めて見ていた。ちょうちょはきっと、その姿に何かを重ねている。何かを――ちょうちょ自身を? 白兎はちょうちょの遠い横顔を眺めながら、ぎゅっと箒の柄を握り締める。この数年で、ちょうちょの背にまとう気配は急速に倦んだ。前は傷を作ってはよく泣いていたのに、近頃のちょうちょはときどき空虚な目をして気だるそうに遠くを見ていたりする。白い花びらがぼろぼろと風にさらわれていくさまが不穏で、不吉で、白兎は思わずちょうちょの手のひらを握っていた。その手のひらが、思ったよりも大きく、固く、骨ばっていてびっくりする。白兎はまだ少女を抜け出すことができないでいるのに、ちょうちょはもう少年をやめようとし始めているみたいだった。なぁに、うさぎ、とちょうちょは突然手を握ってきたこちらに七色の虹彩の眸を向けた。なぁに、じゃないよ。白兎は眉をしかめる。なぁにじゃないよ、ちょうちょ。呟いていると、白兎のまるい頬をちょうちょの男のひとになり始めた手のひらが包んだので、白兎は顎を少し傾けて、ちょうちょの色褪せた唇に己の唇をあてがった。苦い、煙草の味がする。ねぇ、ちょうちょ。散り去る花になんて自分を重ねないで。だめよ。ちょうちょはうさぎがしあわせにするのだから。誰よりもしあわせにしてあげるんだから。ちょうちょが男のひとになるなら、うさぎだって女のひとになるの。
唇を離すと、ちょうちょは漆黒の眸に、白兎が知らない不思議な色合いを浮かべる。それからなんだか今にも泣きそうな顔で微笑って、白兎の首に子どものように頭を押し付けた。ラ・キト通りに夜を告げる鐘が鳴って、ちょうちょが塀に押し付けた煙草がか細く、淡い残り香をすぅっとくゆらせた。
ラ・キト通りの蝶が声を失い、リ・セト教会の白兎が姿を消したのはそれから季節がひとめぐりしてのこと。
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