頬の上なら、厚情のキス/Auf die Wange Wohlgefallen

 今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。


 *


 ――ラ・キト通りの子どもたちは総じて不幸だ、とアタシは思う。

 だって、信仰心なんて髪の毛ほども持ってないのに教会にやられるオンナもいるし、反対に神父になりかたかったのに男娼にさせられてしまうオトコもいる。桜の下に捨てられた時点で、子どもたちに自分の運命を選ぶ権利はない。それはラ・キトのコウノトリだけが持つものだ。だけども、ときには幸福な、根っからの娼婦もいる。もちろん、アタシ――カナリヤのことだ。


 黒猫がピアノの練習をしている。この娼館でひときわだって地味で華がない黒猫は、もう十三歳になるっていうのに娼婦らしい仕事はひとつもさせてもらえず、いつも汗水垂らしながら階段の手すりや柱や床を雑巾で拭いて、朝は裏っ手に山ほど積まれたシーツをひとりぼっちで片付けている。一晩かけて娼婦と客たちの体液をしみこませたシーツは、白日のもとではひどい腐臭にも似た臭いを放つ。夜は艶めかしい娼婦たちも、朝はみんな死人みたい顔で疲れてベッドや長椅子に横たわっているので、そういうものを片付けるのはここでは黒猫の役割だった。黒猫は小さな白い手のひらにたくさんあかぎれを作りながら、男と女の欲のかたまりを洗っている。いじらしくって、かわいいよねえ。かわいい、アタシの、黒猫。

 かくいうアタシも朝は大の苦手だ。蝶の坊やと並んでこの店一の売れっこであるアタシは一晩を通して次から次へと男たちに組み敷かれて啼き声を上げなくてはならないし、最後の客だからって適当にやるわけにもいかないから、結構気を使う。夜を愛するアタシは、そういうわけで朝は喉はひりひりするし、腰は痛いし、肩は凝っているしで、いつもえらく不機嫌だった。だいたい昼までは自室の長椅子に横たわって、外に出てこない。だから、今日もそのつもりでお気に入りのレコードを流してうとうととまどろんでいたのだけど。そこへポーン、ポーン、と黒猫のつたないピアノが響いてきたのだった。アタシも最初は我慢していたけれど、そのピアノの音がひどいったらなくって、お気に入りのレコードのメロディをぐちゃぐちゃにかき回されてしまう。だから、アタシは長椅子から起き上がると、気だるい身体をおして、階下へと下っていったのだった。


 練鉄のステップは足音がよく響く。アタシに気付いたのだろう、少し黄ばんだピアノの鍵盤を人差し指で押していた黒猫が顔を上げて、「かなりや」と言う。黒猫のいつまでたっても直らないちょっと舌ったらずな喋り方がアタシは好きだったので、少しだけ機嫌をよくして、「何よアンタ、いつから音楽家になっちゃったの」と唇を歪めて苦笑した。ああ、と黒猫は鍵盤のほうへ目を落として、「うるさかった?」と訊く。


「まぁねぇ。控えめに言って、ものすごくうるさかった」

「ごめん、カナリヤ。起こした?」

「起こしたわよーう。怒ってるわよーう。アンタ、可愛いわね黒猫」


 うふふと黒猫相手にサービスして蠢惑的な笑みなんてしてみせちゃって、アタシは黒猫のまだ男を知らない細くて貧相で水みたいなにおいのする身体を抱き締める。ちなみにアタシは女も男も両方いける。女を組み敷いてあげるのも、男に組み敷かれてやるのも、みんなスキ。本当、アタシってば淫蕩。コウノトリがアタシを見た瞬間、娼館に連れて行ったのもうなずける。ごめん、と腕の中で黒猫が申し訳なさそうにしょぼくれたので、アタシは「いいわよ、アタシ、今日出かけるんだからちょうどよかったのよ」と嘘をついた。


「そうなの? よかったぁ。カナリヤ、どこ行くの?」


 単純な黒猫はすぐに騙され、琥珀色の眸を好奇心でいっぱいに輝かせて尋ねてくる。えーとねぇ、とアタシは右方へ少し視線を上げて、「市場」と答えておいた。娼婦は嘘がうまいのだ。


「あ、わかった。しゃらしゃらビーズがゆうショール見つけたからでしょ。カナリヤ、ビーズがしゃらしゃらゆうやつスキだもんね」

「……しゃらしゃら?」

 

 そんな話、アタシしたっけなぁ。

 アタシの芳しくない反応に、黒猫はきょとりと目を瞬かせる。


「あれ、ちがった?」

「あー、ううんちがわなーい。しゃらしゃらビーズがゆうのダイスキー。そうよ、アンタすごいわね黒猫。アタシ、今からそれ買いに行くの」


 こうして、アタシの昼の予定が決まった。


 *


 お世辞じゃないけど、アタシはお馬鹿さんだ。

 よく自分が言ったことを忘れるし、よく自分がついた嘘も忘れるし、同じぶんだけひとの言ったことやひとのついた嘘も忘れる。黒猫はアタシとは逆で、ひとが言ったことやついた嘘をよく覚えていた。可愛いわよねぇ黒猫。あの子は頭がよくって、だから傷ついて、ときどきひとりで泣いている。

 お化粧をして、お気に入りのレースで三段のアンガジャントを作った貴族娘みたいなドレスを着ると、アタシは流行の日傘を差してみたりなどして市場をぶらついた。ときどきキレイな細工の施された宝石や、よいにおいのする香水や、あとお気に入りのレコードを見つけて、それらを片っ端から腕にかけた籠に放り込んでいく。アタシの金遣いは荒い。だけど、黒猫ならともかく、アタシにはアタシみたいな小娘には到底扱いきれないくらいの額の金が毎晩入ってくるのだから、別にどうってことはない。それにアタシは馬鹿だけど抜け目がないから、金だけはきちんと必要なぶんだけ貯めている。華が華である時間は短い。アタシが母親から教わった一個きりの教訓は「華は華であるうちに金を貯めておけ」だ。


 冬らしい透き通った水色の空に、リ・セト教会の鐘の音がりんごん鳴る。気分に任せてぶらぶらしていたら、いつの間にやら正午を過ぎてしまったらしい。さぁてビーズのショールはどこにあるかしら、と鼻歌をうたってアタシは手に取っていた林檎を銅貨と引き換えに籠に入れる。ぐっと、強い力で肩を引かれたのはそのときだった。怪訝混じりに振り返った先にいた、四十過ぎの冴えない女を見て、アタシは目を瞬かせる。女は黒髪に琥珀の眸の、なんだか見覚えのある容姿をしていた。


「ねェ貴族のお嬢さん! あんた、アタシの黒猫を知らない? 黒髪に琥珀の眸をしていてね、十年前に桜の下に置き去りにした可愛い子なの」


 まくし立てる女の血走って濁った眸を、アタシはふぅんという顔をして見つめる。



 聞けば、女は十年前にラ・キト通りの桜の下に娘を置き去りにした元娼婦なのだという。きれいな黒髪でねぇ、月の色みたいな琥珀の眸でねぇ、アタシに懐いていてねぇ、とぶつぶつ呟く女をアタシはカフェの店先であったかいココアを舐めながら観察した。


「――どう? 心当たりはない?」


 女が目玉をぎょろりと動かしてアタシを見てくる。アタシはせいぜい『貴族娘』らしい清廉な笑みを貼り付けてやって、「さぁ、どうかしら」ととぼけた。


「おかあさま。わたくし、この町のことには詳しくていらっしゃるけど、黒髪に琥珀の眸だけじゃあ、むつかしいわ。ねぇ、おかあさまはその娘さんがどちらに行ったとお思いですの?」

「どちら?」

「つまり、娼館なのか教会なのかって話ですわ」


 慣れていないせいで若干変な風になったアタシの口調にも女は無頓着に、「そんなのリ・セトに決まっているわ」と胸を張った。


「あの子は心が美しいの。幼い頃からそうだった。あの子はリ・セトでよいシスターになっている。アタシを見たら、ママって言って、笑って抱き締めてくれるの。そしたらアタシは言うのよ、待たせてごめんね黒猫って」


 ふぅん、そう。

 アタシは女と同じように無頓着な顔でうなずいた。『シスター』ねぇ? 乾いた心で考えて、だけど、アタシはそんなことはおくびにも出さずに愛らしく微笑む。だって、アタシは娼婦で、娼婦は嘘吐きなのが相場だから、こんなのなんてことでもない。


「それなら、リ・セトに行きましょうよ、おかあさま」


 アタシはうふふと笑って、ココアを飲み干したカップをテーブルに置いた。


「わたくし、信心深いからリ・セトにはよくお祈りに行くのよ。あそこの可愛い兎の女の子も知っている。あなたの言う黒猫がそこにいるのか、確かめに行きましょうよ」


 そのとき、ずっと所在無く宙を泳いでいた女の眸がふとアタシの口元のあたりの泣きぼくろで焦点を結ぶ。アタシはウェーブがかったブロンドの髪を押さえて、「何かしら」と花のように微笑った。



 アタシと女はラ・キト通りを北に歩いて、リ・セト教会へと向かった。吹きつける風は冷たく、女の枯れた貧相な身体は時折がたがたと震えた。アタシは温かい毛織のショールを胸にかき寄せて、女の顔を見ないで歩く。歩きながら、どうしようかな、と考える。アタシは馬鹿なので、教会に行って、それからどうするかをあまりちゃんと考えてはいなかった。女の望む黒猫は、リ・セトにはいない。何故なら、彼女はラ・キトで娼婦になったから。女を許すこともない。だって、彼女は女を心の底から憎んでいるから。ああ、でもどうしようかしら、どうしようかしらカナリヤ。どんな顔をして、どんな風に、真実を告げたら、この女を絶望のどん底に突き落せるのかしら。わかんないわぁ、こういうのは蝶の坊やのほうがきっと得意なのよね。

 リ・セト教会が近づき、シンボルである尖塔が大きくなってくるにつれ、女の足取りは遅くなり、風に吹き飛ばされそうになって大きく身体が傾ぐ。罅割れた唇は病人みたいに青い。女の黒髪はアタシが知っていたときよりもずっと艶気をなくして、変な風に骨の浮き出た背中で力なくたなびいていた。女が老婆のような声でがらがらとしわぶく。アタシは、ついに足を止めた。


「ねぇ。もうわかってると思うけど、リ・セトに黒猫はいないわ。黒猫は娼婦になったのよ」


 面倒くさくなってアタシは言った。

 ああ、ほんとアタシってこらえ症がない。

 だけど、ぱちぱちと幼子みたいに血走った目を瞬かせる女の顔を見たら、不意に暴力的な気持ちが腹の底のほうからわいてきて、アタシはこんな女相手にサービスして蠢惑的な笑みを浮かべてやった。うふふ、と嗤う、誇らしげに、咲き誇る大輪の華のように。


「黒猫はねぇ、アンタの黒猫はねぇ、アンタに捨てられた晩、わんわん泣いて、コウノトリに犯されて娼婦になっちゃったのよ。アンタとおそろいの黒髪をブロンドにして、くるくるにして、貴族娘みたいな服着て、美しくなって、いっぱい金稼いで愉しくやってんのよ。どう、満足?」


 アタシはくるくるにしたブロンドを風に甘くなびかせて、女を見下ろす。女の目がじっとアタシを見る。ねぇ、ママ。懐かしいわね、ママ。知ってんのよアタシ。あんたには五匹の黒猫がいて、懲りずにぽんぽん生むたび、ママの真似事して捨ててったのよ。三匹は飢えて死んだの。一匹は娼婦になった。もう一匹もそのうち娼婦になる。ママ。知ってんのよアタシ。アンタ、寂しくなってまたママの真似事したくなったのよ。知ってんのよ。ママ。アタシ、アンタのことずっと殺したかった。

 

「くろねこ……」


 ママのひからびた喉がひくりと鳴り、ママの弱い女の眸が大きく開く。アタシはふふっと笑った。ふふっと笑って、その笑顔のまま「嘘よ」と押さえていたブロンドの髪をばらまく。


「嘘。ぜぇんぶ嘘。アンタの黒猫はよいシスターになって、街を出て行ったわ。別れるとき、アンタに感謝してた」


 アタシはかがみこみ、女のこけた頬に唇を寄せる。そのとき垣間見た、女のこめかみに混じった白髪の塊が醜くて、なんだかもう、本当に醜くて、アタシは少しだけ泣きたくなった。


「生んでくれてありがと。アンタの黒猫は毎晩しあわせよ」


 言いながら、アタシはぼんやり考える。

 ねぇ、コウノトリ。アンタ、アタシを娼婦じゃなくって、シスターにしたほうがよかったんじゃない? だって、アタシはこんなにも美しい。


 *


 呼び鈴をちりんと鳴らして扉を開くと、残照のまだらに落ちたピアノの前でまだ黒猫が鍵盤を叩いていた。扉の前に突っ立っているアタシに気付いて、「おかえり」と言う。


「カナリヤ。ビーズのショールは見つかった?」

「ああ。……そんなこと言ってたっけねアタシ」


 すっかり忘れていた。アタシがすっとぼけた答えを返すと、黒猫は大きな目を瞬かせてから、仕方ないなぁ、という顔で苦笑する。柔らかそうな頬に片えくぼがひとつ生まれる。それから椅子から下りてきて、膝の上にかけていたらしいものをアタシのほうへ差し出してきた。花がいくつもくっついている。ショール。それを黒猫はアタシの肩にかける。よく見ると、花はみんな手製らしく不恰好で、危うい均衡でショールにぶら下がっていた。


「あげる。寒かったでしょう、カナリヤ」


 アタシは大きく目を瞠って、それからこの小さな黒猫を見つめた。ああもう、あなたがダイスキよ。黒猫。そうして、アタシは小さな妹の柔らかな片えくぼにキスをする。


 ――そのあと、ねぇ黒猫、あんたってば実はアタシの妹なのよ、と言うと、黒猫は、カナリヤはときどきへんな嘘言うねぇ、と笑った。嘘吐きが相場の娼婦だから、まぁこれが業よね。

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