額の上なら、友情のキス/Freundschaft auf die offne Stirn

 今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。


 *


 蝶(スワロウ・テイル)と呼ばれる男娼がいる。

 漆黒の翅を思わせる艶やかな黒髪に、少年らしい細い腕と足がすらりと伸びた白い肢体。さながら七色の麟粉を振りまき花から花へと飛び舞う揚羽蝶のようだと、ラ・キト通りの客人たちにつけられた呼称だった。美しき揚羽。ラ・キトの宝石。かくも評される麗しのアゲハ蝶は、今、ひどく不機嫌な顔をして円卓の端に頬杖をついている。その対面に座るのは、初夏にもかかわらず季節感のない鄙びたコートに身を包んだコウノトリだった。二十代半ばくらいの青年は薄い苦笑を口元に刻んで、シロップをたっぷり入れたレモングラス・ティの氷をからんと鳴らす。


「困ったな。どうしてキミはそうつれないんだろう、蝶」

「当ったり前だよ。僕はねぇ、あんたのことがこのラ・キトでいちばん嫌いなんだ。嫌だといったら嫌。あんたの頼みってだけでこっちは虫唾が走ってんの。マダムが帰ってくるまで僕は受け取ったりしない」


 蝶は淡い花色の唇に似合わぬ悪態をつき、紙巻煙草シガレットに火をつけた。慣れた手つきで指に挟み、それを肺腑の奥まで吸い込む。コウノトリはレモングラス・ティの氷をストローでかき回しながら、「どうしたもんかな」と腕の中の産着に包まれた赤子へ目を落とした。


「キミんとこが引き取ってくれないと、この子に行くところがなくなってしまう。ねぇ蝶。それじゃかわいそうでしょ?」

「ぜぇーんぜん。行くところがないなら、隣の娼館にやんなよ。あいにくここには履いて捨てるほど娼館があって、前のコウノトリのせいでどこもかしこも人手不足だ」

「まぁね。でも、この子はキミんとこの娼婦になる子だよ」

「何ソレ。誰が決めたの」

「僕が決めたの。ラ・キトのコウノトリがね」


 ふふんとコウノトリは眦を和らげて微笑い、飲み干したレモングラス・ティのグラスを円卓に置いた。嫌そうな顔をする蝶に腕の中の赤子を押し付け、ついでに外套のポケットから小さな硝子瓶を取り出して円卓に載せる。コルクで蓋が閉められた小瓶には色とりどりの砂糖をまぶした飴玉が詰まっていた。コウノトリが持ってくるお菓子はみんな、この娼館で雑事を一手に引き受ける地味な少女に宛てられたものである。毎度毎度のことであるので、コウノトリも今さら、黒猫へ、なんてわざわざ言ったりはしない。

 

「僕はこんな子、捨てるからねコウノトリ!」


 なりゆきで受け取ってしまった赤子を投げ捨てる勢いで叫ぶと、コウノトリはレモングラスの葉っぱのくっついた袖をひらりと振って、「白兎によろしく」などとすべてを見透かしたようなことを言い、軽やかに去っていってしまった。


 *


 蝶はコウノトリを恨んでいる。

 理由は簡単、蝶のいちばん愛するひとと蝶を引き裂いたのがコウノトリだったからだ。あれは数年前のこと。桜の樹の根っこに身を寄せ合って震えていた蝶と白兎の前に現れたのがコウノトリを名乗る胡散臭い男で、彼はあろうことか蝶を娼館へ、白兎を教会の孤児院へと連れて行った。

 蝶と蝶の愛する白兎は隣の家と家とに生まれた幼馴染だった。蝶と白兎とはいっぱいいすぎる兄弟のせいで父親と母親に忘れられているところも、美しすぎる容姿のせいでそのいっぱいいる兄弟に苛められているところもそっくりだった。幼い蝶は家の外にある井戸端で兄弟たちの陰湿な苛めで作ったすり傷をよくひとりで洗っていた。そういうとき、そっとそばにやってきて、何を言うでもなくエプロンドレスの前掛けで蝶の泣き濡れた頬や傷ついた腕を拭いてくれるふたつ年上の白兎が蝶は大好きだった。白兎のためなら、白兎の父親や母親の頭をワイン瓶で殴ったってかまわないって思っていた。だけど、そういうことをすると優しい白兎が泣くので、満月の晩、白兎の小さな手を引いて、ラ・キト通りの桜の下まで逃げてきたのだった。まさか、繋いだ手を現れたコウノトリに離されるだなんて思いもせずに。


「そりゃあ僕は美しいから、娼館に連れて行きたくなる気持ちもわかるけどね。でもさぁ、僕はこのとおり心が清いの。真っ白で無垢な子兎のようなんだよ? 笑わない、うさぎ。まったくコウノトリの目は節穴だよ」

 

 蝶は礼拝堂のベンチに行儀悪く足を投げ出し、高いドーム状の天井に向けて煙草をふかしながら悪態をつく。十字架にぶら下がっている死体に向かって何やら難しそうな顔で祈りを捧げていた白兎は聖句をぜんぶ唱え終えるとようやくこちらを振り返って、「ちょうちょ」と苦笑した。ラ・キト通りの〈スワロウ・テイル〉を白兎だけは子どもみたいに「ちょうちょ」と呼ぶ。その、少し舌足らずな呼び方が可愛くて、蝶はなかなか、いつまでも子どもみたいな名前で僕を呼ばないでよ、と注意できない。だらんと肩を背もたれに乗せて、短くなった煙草を礼拝堂のベンチの金具に押し付ける。じゅ、と嫌な臭いを発したが、白兎は肩をすくめるにとどめて、蝶がベンチの上に適当に放っておいた赤子を抱き上げた。


「この子が今日コウノトリが届けた子?」

「そ。いらないから、うさぎ、もらってくれない?」


 冗談半分本気半分で持ちかけると、白兎は赤い目を少し眇めて「ワルイコだねぇちょうちょは」と呟いた。ラ・キト通りで、捨て子の勝手な取引は固く禁じられている。捨て子を運ぶのは、あくまでコウノトリ。コウノトリが運んだ子どもを住人は拒んではならないし、コウノトリの許可なしに別のところへ運び直してもいけない。白兎は、むずがって眉間をしかめた子どものまだろくに生え揃っていないまばらな髪を優しく梳いて、小さな背をあやす。洗いもののせいで少し節ばってきた白兎の指先が往復するのをつまらそうに眺めて、蝶は「つまんない」と唇を尖らせた。


「何がつまんないの?」

「だって兎、さっきからそのちまいのばっか。つまんないよ、すごいつまんない。つまんないつまんない。僕も撫でて?」

 

 さんざん駄々をこねて言いたいのはそれだけだった。白兎は兎みたいな赤い目を瞬かせてから、しょうがないなぁ、という風にくしゃりと苦笑して、蝶の頭を撫ぜてくれる。くしゃくしゃと優しく撫ぜてくれる。蝶はそれがうれしくて、しあわせでたまんなくて、どんな客にだって見せない春霞がふんわり溶けるような微笑を白兎には簡単にこぼしてしまう。花と花のあいだをふわりと舞って、だけど誰にもなびかない蝶を凍れる蝶、とたとえたのは誰だったろう。そんなことはない。蝶はうさぎにはたくさんわらう。うさぎ以外はみんな死んでもいいのにって思っているけど。


「ちょうちょはいつまでも子どもだなぁ」


 蝶を撫ぜながら白兎が呆れた風に呟くので、蝶はくしゃくしゃにされた前髪越しに苦笑して白兎を透かし見た。白兎がふと目を瞬かせる。ちがうよ。ちがうよう、うさぎ。うさぎのほうがずっと、こどもだよ。そう思ったけれど、ふふ、と笑って何も言わないことにして、蝶は白兎の唇のふちに指で触れて、それから、真っ白い首筋にまた触れて、それから、白銀色の前髪をかきあげた。あらわになったまあるい額に、子供がするような、淡い口付けをする。つめたい、と白兎は首をすくめ、蝶は悪戯めいた子どもの顔をする。


 *


 結局、白兎はもちろんのこと、リ・セト教会の神父も首を振ったので、蝶は行き場のない赤子を抱えてラ・キト通りの娼館への道を引き返した。腐れ聖職、ドーテイのくせに、と舌打ちをして近くにあった小石を蹴りつけると、転がった小石が鄙びた黒いブーツにぶつかって止まる。コウノトリだった。蝶はとたんに苦虫を噛み潰したような顔になって、まだ外灯のともっていない扉に背を預けて佇んでいる男を睨めつける。


「何さコウノトリ。こんなとこで何してんの」

「待ちぼうけ。そろそろ我らが麗しのアゲハ蝶がお戻りになられる頃かなぁって、待ってたの」


 それで引き取ってくれるの、とやけに確信的に言う男に半眼をくれてやって、蝶は男の隣に背を預けた。昼のけだるさの残る風が桜の青葉を揺らしている。石畳の道に等間隔に置かれたガス灯が端からぽつりぽつりと灯り始め、ああもうすぐラ・キト通りに夜がやってくるんだな、と思った。


「……ねぇ、コウノトリ。なんで僕は娼館だったの」


 花色の柔らかな唇に煙草をくわえながら、蝶は言った。苦い味をすぅっと胸の奥まで吸い込む。そうすると、蝶の肺腑は灰色に濁って、男の精液や女の体液を飲んだときと同じ味になる。


「決まっているじゃない」


 コウノトリは、蝶の胸ポケットから煙草を一本抜き取ると、ライターをかちんと鳴らして火を起こした。初夏の空を見上げながら、目を細めてくゆらせる。か細い紫煙が群青の空へとのぼっていった。


「キミが淫蕩だったからだよ、蝶(スワロウ・テイル)」


 振り返って、普段は怜悧な眦を和やかに下げて微笑む。どうしてこの男はこんなにやさしい表情で、こんなに最悪なことを言うんだろうと蝶は煙草を口端に引っ掛けたまま苦く思った。何か買っていくの、と尋ねれば、いつものをお願い、とコウノトリが答える。コウノトリが所望するのは、いつも娼婦となめした革鞭だ。この男もたいがい頭がおかしい。

 二本の煙を吸い込んで、ラ・キト通りに夜がやってくる。蝶は揚羽蝶の翅の色をした眸を伏せると、まだ長いままの煙草を地面で潰して娼館のノブを回した。

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