ラ・キト通りの子どもたち

手の甲なら、尊敬のキス/Auf die Hande kust die Achtung

 今はもう眠れるお城の足元に、ラ・キトと呼ばれる古びた通りがある。ラ・キト通りに捨てられた子どもたちは、清らかなのは教会へゆき、淫蕩なのは娼婦になる。子どもたちを運ぶのは、真っ黒いコートに身を包んだコウノトリ。


 *


 ラ・キト通りに、いつ桜が植えられたのかを住人は知らない。だけど、気付いたときにはその淫蕩な花はラ・キト通りの灰色っぽく濡れた石畳を覆っていて、風が吹くとラ・キト通りの娼館を春霞の向こうへ隠してしまう。おなかをすかせて泣いている黒猫の前に、コウノトリが現れたのはそんな春の夕暮れだった。


 娼館ばかりが立ち並ぶラ・キト通りにはいくつかの決まりごとがある。育てられない子どもを間違えて生み落としてしまったときには必ずラ・キトでいちばん古い桜の樹の根元に置いておくこと。子どもたちが連れて行かれるのは、娼館か教会の孤児院かで、それを決めるのはコウノトリであること。コウノトリの決断にラ・キト通りの住人は異を唱えてはいけないこと。

 黒猫を桜の樹の根元に捨てたのは、黒猫の母親で、それは黒猫が五歳のときだった。家の壁紙を張り替えることを毎日の生きがいにしている気分屋の母親は、どうやら五年で黒猫の育児に飽きてしまったらしい。黒猫の右手が思わず眉をしかめたくなるくらい醜いこともあったんだろう。その朝、母親は黒猫の小さな右手にサイズのちっともあってない手縫いの黒手袋をかぶせると、黒猫を桜の樹の下まで連れて行って、「じゃあね黒猫。バイバイ」と言った。母親の突然の別れの言葉に、黒猫は琥珀色の眸を瞬かせ、母親の泣きぼくろがふたつある口元を見る。それから、少しわらって、「うん、ばいばいママ」と手を振った。そうすると、思ったとおり母親は口元を綻ばせてくれて、黒猫の小さな胸にいっぱいのしあわせが広がる。バイバイ。バイバイ、黒猫。母親は嬉しそうに手を振って、黒猫のもとを去っていった。黒猫は、ぽつんとひとり置き去りになる。母親のたおやかな、まだ少女のように可憐な後姿が舞い散る花びらに紛れて消えてしまうまで見送ってから、黒猫は膝を抱えて、母親が帰ってきてくれるのを待った。母親はときどきこうして黒猫を桜の樹の下に置き去りにすることがあった。だけど、何度置き去りにしても、いつも戻ってきて、泣きながら黒猫を抱き締めてくれる。今日もきっとそうだろうと幼い黒猫は幼いなりにそう思った。母親が昔代えた壁紙と同じ壁紙をときどき買ってくることを黒猫は知っている。


 その日は、満月だった。

 樹の根元に座って見上げると、白い花にみっしりと埋め尽くされた視界に虚空を思わせる黒い穴がひとつ開いていて、そこに銀色をした月が架かっている。それを、黒猫は自分の腕はおろか肩までを覆い隠す黒い手袋を左手でいじりながら、ずっと、見ていた。夜もふけてくると、黒猫の骨に皮がくっついただけの貧相な身体では寒さがしのげず、膝をきつく抱き締めても震えが止まらなくなってくる。朝、潰したトマトにひとつまみの塩をかけたスープを食べたきりのおなかはとっくにぺこぺこで、猫が鳴き声を上げるみたいにぐぅぐぅ音を立てた。もしかして、と黒猫の小さな頭に冷たい予感がよぎる。ママはもう帰ってきてくれないんじゃないかなぁ。ねぇ、そんな気がする。そんな気がするよ、黒猫。

 黒猫は、潰したトマトを塩で味付けた朝のスープを思い出して、くすんと泣いた。おなかがすいて、寒くて、寂しくて、たまらなかった。

 

「こんばんは。ラ・キト通りのお嬢さん」


 かさりと花を踏みしだく乾いた靴音がしたのはそのときだった。目を上げれば、鄙びた黒い革靴がきっちりふたつ。いつの間にすぐそばまでやってきていたんだろう。驚いて顔を上げた黒猫の目に映ったのは、けれど、待ち望んでいた母親の涙でくしゃくしゃになった顔ではなく、見知らぬ若い男のひとだった。

 その男。その男の姿は、黒い、と。ただ一言につきる。

 眦がすぅっとしている切れ長の双眸も、うなじのあたりで結ばれた髪も真っ黒く、革靴も、丈の長いコートも、シャツに結んだタイも、身につけるものはみんな黒い。まるでお葬式に行く前のひとのようだった。ぽかんとする黒猫に、男は教会の聖母か何かのような慈しみを湛えた顔で、少し微笑む。そうすると、男の切れ長の眦が少し下がって、たいそうやさしげな顔になった。ひと目見て、高くて古いものだとわかる無骨な黒いコートには、桜の花びらがたくさんくっついていて、男が膝を折ると、そのうちのいくつかが離れて黒猫の頬をかすめる。


「はじめまして。僕はコウノトリ。前のコウノトリは昨晩死んだから、引継ぎが行われて、今晩からは僕がラ・キト通りのコウノトリになった。そういうわけで、桜の下に捨てられたキミの運命は、ラ・キトの名のもとに僕にゆだねられる」


 *


 背丈の何倍もある大きな館。それを見上げて、黒猫は泣き濡れた眸を手の甲でこする。コウノトリを名乗る男に手を引かれて連れて行かれたのは、ラ・キト通りの中央にある一軒の娼館だった。アカンサスと蔓薔薇がぐるぐると弧を描く扉の呼び鈴をコウノトリがりん、りんと鳴らすと、若い、まだ少女といっていいような年頃の娘が顔を出す。とたんにくゆってきた白粉と香水が入り混じった濃厚なにおいに黒猫は顔をしかめた。


「あら、おかえんなさい、コウノトリ。はじめてのお仕事はどうだった?」

「女の子をひとり拾ってきたよ。引継ぎが遅れたせいで凍えさせちゃってさ、いつもの部屋と、あと厨房を借りていい?」

「もちろんよ。帰ってきてくれてうれしい」

 

 少女は気安い笑顔で応じると、銀色の鍵をひとつコウノトリに渡し、それからコウノトリの足元でじっとしている黒猫のほうへ一瞥をやった。ふちに淡く紅の入れられた眦がつぅと眇められ、嘲りの色を帯びる。


「華がない子ねぇ。コウノトリ、その子の容姿じゃきっと娼婦にはなれないわよ。だってアタシみたいに美しくないもの」


 少女はローズの刺繍のなされた胸元に手をあてがい、自慢げに言う。「キミにはだぁれも敵わないよ」とコウノトリが苦笑すると、少女は意味深なそぶりで肩をすくめる。コウノトリは少女から受け取った鍵を外套のポケットに突っ込み、黒猫の肩を押して奥へと促した。黒の練鉄でできた階段をのぼる。階段は黒猫の足には大きくて、手すりにつかまって一段一段ゆっくりのぼっていくしかない。透かし彫りのなされたステップ越しに、階下の喧騒と光と、甘い嬌声とが聞こえた。嗅ぎなれないそのにおいに酔うような心地がして、黒猫はぺたんとステップの上にしゃがみこむ。そうすると、コウノトリが黒猫のちっちゃな身体を荷物みたいに抱き上げて、残りの階段をのぼった。白い首元に顔をくっつけると、あまい、花のようなかおりがする。


 コウノトリが慣れた風な足取りで向かったのは、二階のいちばん奥にある寝室だった。扉にくっついていたはずの銀のプレートは外されて、真新しい釘の痕だけが残っている。コウノトリは黒猫を銀色の猫足をした簡素なベッドの上に下ろして、鄙びた黒の外套を脱いだ。無骨なデザインのせいでわからなかったけれど、外套の下のコウノトリの首から肩にかけての線は思ったよりもずっと華奢で、コウノトリがまだ、ようやく少年を過ぎて青年になったくらいの年頃であるのだとわかる。黒猫が母や母の同僚の娼婦たちからたびたび聞いた『コウノトリ』はもっと醜い中年男だったので、美しくて若いコウノトリはなんだか不思議なかんじがした。シーツの海の上で所在なさげに膝を抱えている黒猫に、ハンガーにかけかけた外套を思い直した風にかけると、コウノトリは「何が食べたい?」と言った。


「簡単なものなら、何でも作れるよ。ケーキや七面鳥をご所望なら、それは無理だけど」

「みるく」


 黒猫がすぐに答えを寄越したので、コウノトリは少し驚いた風に目を細めた。ミルクがのみたい、と右手袋をいじりながら呟くと、コウノトリは「ふぅんミルクね」とうなずいて、「オッケー、持って来ましょう」と請け負った。しばらく寝台の上で待っていると、コウノトリが白い湯気のたったふたつのマグカップと小さな鍋のようなものを銀盆に載せて戻ってくる。マグカップには蜂蜜と胡椒のにおいのするミルクが湛えられており、鍋の中はミルク粥がよそわれているようだった。コウノトリは黒猫の手のひらに大きなマグカップを置くと、自分ももう一個のカップを取って隣に座った。


「ずいぶん待たせちゃったみたいでごめんね。身体もすっかり冷えてしまったでしょ? ときどきコウノトリがやってくる前に凍え死んでしまう子どもがいるらしいんだけど、キミがそうならなくてホントよかった。僕にとってもこれは、いちおうはじめての仕事になるから」


 コウノトリはそう言って、カップの中身をすすった。男の白い喉が動くのを見て取り、黒猫もまたカップに口をつける。舌先で舐めると、蜂蜜のやさしくて甘い味と胡椒のぴりりとした味がミルクとほどよく絡み合って、おいしい。半日以上ぶりになる飲み物が黒猫の空っぽのおなかの中に落ちていく。満たされてゆくはずなのに、なんだか胸にぽっかり穴があいたようで、悲しかった。


「こうのとり」


 黒猫は小さな胸にカップをこすりつけるようにして、隣に座る男を仰いだ。


「くろねこ、きのしたにもどりたい」


 男の、夜の深淵を思わせる黒い双眸が不思議そうに一度瞬く。そこには、しかし、黒猫を咎めたり、叱ったりするような気配はなかった。男が眦を和らげて黒猫に先を促すそぶりをしたので、黒猫は、だってね、だってねえ、と懸命に言い募る。


「くろねこのママが、くろねこをさがしにきっともどってくるよ。いつも、そうだったんだもん。くろねこがいなかったら、くろねこのママが泣いちゃうよ。くろねこのママ、泣き虫だから、きっとたくさん泣いちゃうよ。くろねこ、くろねこね、はやくきのしたにもどりたいの」


 そこまで言い切ると、眉間のあたりがぎゅっと熱っぽく痛んで涙がぽろぽろ溢れてくる。ママが作ってくれた手縫いの手袋を濡らしてしまうのは嫌で、左手のほうで必死に目をこすっていると、コウノトリの手が黒猫のちっちゃな左手をつかんで、握った。


「キミの言い分はよーくわかったよ」


 黒猫と手を繋いだままコウノトリはうなずいて、それから考え込むように眸を窓の外へ向けた。窓辺に架かった白い桜を眺める男の横顔は、きれいな白皙の彫像のようで、黒猫は繋いだ手と男の顔をじっと見ていた。やがてコウノトリは黒猫の手を寝台の上に置く。


「それじゃあ僕はこれからキミに悲しいお知らせをしなくちゃならない。キミは愛するママに捨てられてしまってね、黒猫。ラ・キトの名のもとに、コウノトリに運命をゆだねられてしまった」


 まるで何でもないことのように続いた、なんだか残酷っぽい言葉に、黒猫は目を瞬かせる。コウノトリは空っぽになったマグカップを床に置くと、黒猫に身体ごと向き合った。その眸は石のように冷ややかで、そのくせ聖母にも似た慈愛を湛えている。


「そういうわけで説明をするけれど、捨てられたキミが取るべき道はふたつある。ひとつは教会の孤児院。ひとつはラ・キトの娼婦。僕はそのどちらかをキミに与えなくてはならないし、キミは僕が選んだものを受け入れなくてはならない。ただね、黒猫。僕はこのとおり、コウノトリになってまだ日が浅いから、キミにも少し意見を聞いてみたいと思ってる。教会の孤児院。ラ・キトの娼婦。キミはどっちがいい、黒猫」


 黒猫はぽかんとしてコウノトリを仰ぎ続けていた。それから、首を振って俯く。喉が小刻みに震えているのがわかった。分厚い外套に包まれているはずの身体はしかし、真冬の風にさらされているかのように冷たい。


「くろねこはママのくろねこだよ」


 ぽろぽろと大粒の涙が黒猫の頬を伝ってシーツに落ちる。


「しすたーにもしょーふにもならないよう……」


 声を上げて、黒猫は泣き始めた。寒さで強張った喉は嗚咽に震えるたび、空気が入ってみじめったらしくかすれる。マグカップを放り出して、黒猫はわぁわぁと泣き出した。ママ。ママ。ママ。ママ。黒猫をむかえにきてよう。黒猫おなかがへったよ、さむいよ、ママ。ママ。さよならだなんて言わないで。天を仰いで泣きながら、しかし右手の黒手袋だけは汚したくなくて、左手で目元をこすっていると、不意にほとりと大きな骨ばった手の甲が頬にあてられた。火照った頬に、男の手の甲はひどくひんやりして感じる。目を瞬かせた黒猫の、眦にたまった涙を右も左も丁寧に拭いやると、コウノトリは目を細めて、まるで赤子をいとおしむ母親のような顔をする。こころを、柔らかく突き破られた気持ちがして、黒猫はまた泣いた。頬を覆う手のひらから、冷えた、あまい、花のかおりがした。


 *


 翌朝。空は蒼く澄み渡り、春のうららかな陽気の中を可憐な花びらが舞っていた。がらがらと馬車の車輪の回る音が石畳に響く。小さな黒い馬車は朝のラ・キト通りを北から南へ横切り、やがて一軒の娼館の前で唐突に止まった。御者がステップを引き出して扉を開くと、中から黒い外套に身を包んだ男と、小さな少女とが現れる。先に降り立った男が銀の呼び鈴を鳴らす。ほどなくして現れた娼館のマダムに優雅な一礼をすると、男は自分がラ・キト通りの新しいコウノトリであることを告げ、足元にたたずむ少女を娼館のマダムに紹介した。ラ・キトの掟を知るマダムは心得た風にうなずいて、少女のまだ華奢な白い肩を抱く。少女のまるい琥珀の眸は泣き腫れて、赤い色をしていた。

 ざわざわと通りに植えられた花たちがざわめく。

 少女を歓迎するように。あるいは嘲笑するように。侮蔑するように。憐れむように。少女の眸が揺れる花の、その向こうに広がる蒼空のほうへ吸い寄せられたとき、前に立つ男がふと膝を折った。花びらが、またたくさんその鄙びた黒い背にくっついているのがわかる。春めいた、黒いコウノトリ。コウノトリは黒猫の不恰好な手袋に包まれた右手のひらを取ると、憐れなしもべが主人にそうするように手の甲へ唇を押し当てた。黒猫は目を丸くする。ふふ、と微笑うと、バイバイ黒猫、と言って、コウノトリは無骨な外套にいっぱいの花びらをまとわせながら去っていった。

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