「道化師ウォウル・カ・シャと夜のサーカス」

 ウォウル・カ・シャ!

 ウォウル・カ・シャがやってくる!

 だから、窓に鍵をかけ、カーテンをお閉めなさい。

 夜の魔物があなたをいざなう前に。


 道化師ウォウル・カ・シャにまつわる噂話は、多摩の田舎では少しだけ有名で、同じ学校の子ならだいたい知っている。といっても、本気で怖がっているのは小学校の低学年のうちで、中学に上がる頃にはみんなそんな話があったこと自体忘れてしまうのだけど。わたしはちがった。

 ロングパーカーに厚手のタイツ、そのうえに学校指定のダッフルコート、それから赤のチェックのマフラー。ポケットには、飴やチョコレートといった夜食を突っ込んで、準備完了。音を立てないように注意を払って、家のドアチェーンを外す。午後十一時半にもなると、早寝が習慣のわたしの家族は皆夢の中にいる。重い暗闇をくぐり抜けるようにドアを開き、わたしは白い息を吐き出した。

 凍てた空には幾千の星が瞬いている。山奥ほど澄み切ってはおらず、だけども都会ほど澱んでもないブルー・グレー。この街の空の色がわたしはすきだ。

 ウォウル・カ・シャ。

 ウォウル・カ・シャがやってくる。

 ポケットに手を入れて、車道のまんなかを歩きながら、わたしは口ずさむ。道沿いの街灯はちかちかと不規則に瞬いて、背には低い山の稜線が、坂の向こうには駅前に立つ高層マンションの明かりが見える。油断をしていたら、後ろからさっとトラックが走り抜けたので、わたしはガードレールの内側に入った。

 道化師、ウォウル・カ・シャ。

 夜のサーカスの水先案内人。そう呼ばれる彼のことをわたしはずっと探している。月のない澄んだ夜、明かりが消えた街をあてどなくさまよいながら。

 夜のサーカスにはうしなわれたものがあると、子どもたちは言っていた。


「こんばんは、お嬢さん。よい夜ですね」


 少し高めの声が夜気を震わせる。この田舎ではめったに見ないフシンシャ、というものかと思って身構えたわたしは、道の中央にひょろりと立つ人影に目を瞠らせた。ふたまたに分かれた白黒のとんがり帽子。かぼちゃパンツに白タイツ。そして白粉を塗りたくった独特のメイク。


「……ウォウル・カ・シャ?」

「おどろいた。おれの名前を知っているの?」


 帽子の先についた星を揺らして、彼は首を傾げた。その足元に影はない。ほんとうだ。ほんものの、ウォウル・カ・シャだ。わたしは高鳴る胸を押さえて、彼のほうへ一歩を踏み出す。


「ウォウル・カ・シャなら、連れていって。わたしを夜のサーカスへ!」



 ★



 ウォウル・カ・シャは夜のサーカスの水先案内人。

 彼に気に入られれば、夜のサーカスへ連れていってもらえるという。

 わたしの申し出に、ウォウル・カ・シャはわずかに難色を示したものの、ポケットの梅こんぶ飴を献上品として差し出すと、喜んで案内役を買ってくれた。

 白手袋をつけた手に手を重ねる。夜の住人、ウォウル・カ・シャの手は死人のように冷たく、温度をまるで感じない。隣に並んでみて、わたしは彼が自分と同い年くらいの男の子であることに気付いた。


「あなた、いくつ?」

「夜の住人に年齢なんてないんだよ。きみは?」

「中学二年生」

「ちゅーがく、にねんせい」

「十四歳」

「夜のサーカスに招待するのには、少し早いね」

「年齢制限があるの?」

「ないけど」


 塗りたくったメイクのしたで、彼は憐憫するように目を細め、夜の道を歩いていく。いつもの散歩道と変わらないのに、どこかがおかしい。見上げた家の明かりや街灯がどれも消えていることにわたしは気付いた。遠くの山の稜線は同じなのに、反対側の街の気配がぷっつり途絶えている。どこにもひとがいない。


「引き返す?」


 歩調が落ちたわたしに、ウォウル・カ・シャが試すように尋ねた。ううん、とわたしは慌てて首を振る。今、不安に負けてウォウル・カ・シャの手を離したら、わたしの望みは断たれてしまう。それは困る。ずっとずっと、夜のサーカスに行きたくて、わたしはウォウル・カ・シャを探していたのだから。


「ウォウル・カ・シャは思ったよりも、若いんだね」


 彼の気をそらそうと、わたしは別のことを訊く。手袋越しに握る彼の手は、少年と青年のあいまのような硬さとやわさがある。まあね、と彼は幾分砕けた口調で顎を引いた。


「ウォウル・カ・シャはサーカスの一番の新入りがやるんだ」

「あなた、新入りなの?」

「うん、そう。新入りのほうが人間の心がわかりやすいからって」

「ベテランになると、わからなくなる?」

「夜の住人により近くなるからね」


 可愛らしいメイクとは不釣り合いに、彼はどこか冷たく言った。ほら、と繋いだ手を引いて、前方を促される。


「夜のサーカスが見えてきた。覚悟はいい? お嬢さん」

「大丈夫」


 彼がわたしと繋ぐ手と反対側の指をぱちんと鳴らす。すると、夜の帳がめくれるように、きらびやかなサーカスの門が現れた。赤、青、黄……。とりどりの風船が結ばれた門の奥には、巨大なサーカス・テント。

『ナイト・サーカスへようこそ!』のネオンが輝くテントの前では、チケットを握る観覧客が一列になって並んでいる。その影がふつうのひとより薄くなっていることにわたしは気付いた。


「夜のサーカスの観覧料は、きみの影」


 わたしの頭の中を読むように、ウォウル・カ・シャは言った。


「夜明けまでに半分。夜明けを過ぎると、もう半分。半分のあいだは、もとの世界に戻れるけれど、ぜんぶ使うと、きみはこちら側の住人になってしまう。気を付けて」

「そんな種明かしをしていいの?」


 不思議そうに尋ねたわたしに、ウォウル・カ・シャは心外とばかりに首をすくめる。


「夜のサーカスは詐欺なんかしないもの。それに、おれが忠告しても、帰らないひとのほうが多い」

「売り上げは上々なのね」

「そんなとこ」


 それでもほんの少し緊張しながら、わたしはウォウル・カ・シャにくっついて門をくぐる。身体が急に下に引っ張られるような感覚があり、気付くとわたしの影も半分、薄くなってしまっていた。


「夜のサーカスへようこそ!」


 花売りの女の子がわたしを出迎え、白い花を一輪胸に挿してくれる。どうやら観覧客ひとりひとりに花を渡しているようだ。去り際にウォウル・カ・シャの袖を引っ張って、「お仕事お疲れさま、ピエロさん」と悪戯っぽく微笑む。

 住宅街のどこにこんな広場があったのだろうと、わたしはあたりを見回して不思議に思った。ウォウル・カ・シャにいわせれば、ここは昼の街の裏側――夜の街であるらしい。ふたつは透明な膜で接していて、ときには行き来もできるけれど、ふつうのひとには裏側のものは見えないし、聞こえない。


「あなたは、昼の街の住人を夜の街に連れて来るのね」

「それが仕事だから。客引きとおなじだよ」

「大変そう」

「皆がきみみたいに乗り気じゃないからね。時には強引にやることもある」


 サーカス・テントは内側のひかりでうっすらと輝いて見える。幕のうちからときどき歓声が聞こえたけれど、中のようすはわからなかった。列は長く、中に入るまではまだ時間がかかりそうだ。


「さっきのおいしい飴はある?」


 目を眇めて入口を見ていたウォウル・カ・シャがわたしにそっと囁いた。わたしはポケットからチョコレートを取り出す。それで取引成立になったらしい。ウォウル・カ・シャはわたしの手を引いて列から抜け出した。


「おいで。このままじゃ、夜が明けてしまう」


 白黒のふたまた帽子をわたしにかぶせて、ウォウル・カ・シャはテントの裏側に回る。観客の姿が次第にまばらになって、代わりに小ぶりのテントがいくつも現れる。並んだ檻の中で金色のライオンがあくびをしているのを見て、わたしは小さく息をのんだ。


「ウォウル・カ・シャ!」

 テントのひとつから、顔に花のペイントをほどこした少女が飛び出してくる。サーカスのキャストの子だろうか。花びらのように広がるチュチュを揺らして、少女はウォウル・カ・シャに駆け寄った。


「おかえりなさい。お客さんは連れて来れたの?」

「……まあね」

「それはよかった。あなたがずっとみそっかすじゃないかってあたし、心配で」


 くるくるとウェーブのかかった白銀の髪を耳にかけて、少女は微笑む。どうやらわたしの頭にかぶせてあるふたまた帽子は魔法の道具らしい。わたしのことはまったく見えていない様子で、《花妖精》と呼ばれた少女はウォウル・カ・シャと会話を続ける。


「中では今、何の演目をやっているの?」

「《獣使い》のショーよ。次が空中ブランコ」

「きみの出番だね」

「あなたも早くステージに立てるといいわね、《道化師》さん?」


 ふわりと微笑んだ《花妖精》がわたしのすぐ前を軽やかなステップでターンする。ラメで彩られた印象的な眸がふいにこちらを捉えた気がして、わたしはウォウル・カ・シャと繋いだ手に力をこめた。


「そういえば、あなた帽子はどうしたの?」


 《花妖精》の眸はまるで、夜の虹だ。

 この眸に見つめられたら、きっと魂をとられてしまう。そんな気がして、わたしはどきどきと心臓が激しく脈打つのを感じた。もう家には帰れなくていい――。そう思ってここに来たのに、やっぱりわたしはこわかったのだ。

 ウォウル・カ・シャは軽く肩をすくめた。


「洗濯中だよ。金色ライオンがまちがえておしっこを引っ掛けたんだ」

「それは災難ね。新調をおすすめするわ」


 《花妖精》は苦笑すると、もう行かなくちゃと足取り軽くサーカス・テントのほうへ向かっていった。白銀の影が小さくなるのを見届けて、ウォウル・カ・シャが息をつく。


「《花妖精》は昼の住人の魂が好物なんだ。鼻も効く」

「こわいのね」

「身内にはやさしい子なんだけど」


 複雑そうに、ウォウル・カ・シャが呟いた。


「あなたも魂を盗る?」

「どうだろう。やればできるのかもしれないけど、あんまりおいしそうには見えないし」


 銀の包装紙を開いて、ウォウル・カ・シャは中のチョコレートを齧る。彼にとっては今のところお菓子のほうが好物であるようで、わたしはちょっとほっとした。


「きみは何しにここへきたの?」


 塗りたくった白粉に涙のメイク。ウォウル・カ・シャの表情はメイクに隠されていて見えない。《花妖精》と同じように彼も夜の住人にはちがいないけれど、ふたまた帽子や繋いだ手の感触は彼をほんの少し、ばけものよりも、ひとらしく見せていた。わたしは口を開いた。


「ひとを、探しているの」

「それは誰?」

「大事なひと。ここに迷い込んだまま帰れなくなってしまっているはずなの。うしなったものがここにはあるって言うでしょう?」


 尋ねたわたしに、彼は「……へえ?」と眉を上げる。


「ちがうの?」

「昼の側ではそういう風になっているんだなって。確かにここには何かを失くしたひとがよくやってくるけども」


 やってくる、とは言ったが、うしなったものがある、という言い方をウォウル・カ・シャはしなかった。

 行こうか、と彼は言って、テントの幕をぺらりとめくった。そこはちょうどバックステージにあたる場所らしく、木製の矢倉が見える。外で何かの技が決まったらしい。わあ、と大きな声が反響して聞こえた。


「夜のサーカスのバックヤードにようこそ」


 花売り娘の口調を真似て、ウォウル・カ・シャはわたしを中へ招いた。夜の凍てた空気が一瞬で熱と光のまざったなまぬるいものに変わる。わたしはそっと息を吐き出した。薄暗いバックヤードは、木箱が乱雑に積まれており、通路は猥雑で狭い。演技を終えて休んでいるらしいキャストと声をかけ合いながら、ウォウル・カ・シャはどんどんと奥へ進んでいく。ふたまた帽子の魔法のおかげで、相変わらず夜の住人にわたしの姿は見えないようだ。


「こっちだよ」


 いつの間にかわたしたちは舞台袖まで来ていた。

 ウォウル・カ・シャがカーテンをめくり、わたしはそこから顔を出す。

 たん、とスポットライトめがけて、銀色ライオンが飛び上がった。その迫力に、わたしは小さな悲鳴を上げる。

 しなやかな銀毛をなびかせて跳躍したライオンは、中央に設けられた火の輪を軽々くぐり抜ける。わたしの数倍はありそうな巨体は、だけど羽のように軽やかにステージに着地した。拍手喝采。《獣使い》の女性がドレスの裾をつまんで、お辞儀をするのが見えた。


「次はお待ちかねの《空中ブランコ》!」


 銀色ライオンを連れて《獣使い》が舞台袖へ引っ込む。目の前を悠々と歩くライオンをわたしがどきどきと見守っていると、


「あら、鑑賞? めずらしい」


 《獣使い》がウォウル・カ・シャに声をかけた。


「今夜は早くに仕事が終わったからさ」

「あなたも早く舞台に上がれるといいわね、小さな道化師さん」


 ウォウル・カ・シャの肩を叩き、《獣使い》がウィンクする。うなずくように銀色ライオンも尾っぽを一回振った。

 ステージでは、火の輪が片付けられて、空中ブランコが天井から降りてくる。《花妖精》の演技は気になったけれど、わたしがここへ来たのはすばらしいサーカスを見るためじゃない。カーテンの固い布を握り締め、わたしは観客席を見回した。テントから吊るされたいくつかの明かりが観客席をうっすら照らしている。


 ――ウォウル・カ・シャ!

 ウォウル・カ・シャがやってくる!


 昼の校舎で、囁き合う子どもたちの姿が走馬灯のように蘇る。

 噂話の内容はこう。

 深夜の街をひとり歩いていると、道化師ウォウル・カ・シャがどこからともなくやってくる。彼は夜のサーカスへの水先案内人。だけど、むやみについていったらいけないよ。夜のサーカスは迷える亡霊が集まるサーカス。こちらの世界のことをきれいさっぱり忘れて、心置きなく夜の世界に渡るために上演されているものだ。まちがって連れ去られると、昼の街には二度と戻れなくなってしまう。


「お嬢さん。きみは何を探しているの?」


 せわしなく左へ右へ視線をめぐらせるわたしに、ウォウル・カ・シャが静かに問いかけた。


「おとうと」


 わたしはこたえる。


「弟。双子の」


 左へ右へ。

 上へ下へ。

 また左へ右へ。

 テントの中にはたくさんのひとがいるのに、わたしの目当ての顔は見つからない。やがて《花妖精》の空中ブランコが始まって、観客たちから何度も拍手が上がる。息が詰まりそうな気分になりながら、わたしはカーテンを握り締め、観客席に何度も何度も視線をめぐらせた。瞬きも忘れていたせいで、目の端に涙が滲む。

 ブランコが往復する。《花妖精》の身体が宙を舞う。

 ブラボー! ブラボー! ブラボー!

 わたしは目を伏せた。


「探し物は見つかった?」


 尋ねたウォウル・カ・シャに力なく首を振る。わたしが指を引っ張ると、彼は手を繋ぎ直してカーテンを元通りにした。それ以上の言葉は交わさず、舞台袖の階段をおりる。

 ステージで《花妖精》がまた成功したのだろう。ブラボー!の声が繰り返し反響している。さっきはあんなにすごいと思ったサーカスも、なんだか今は光を失って灰色のよう。バックヤードの迷宮みたいな通路をウォウル・カ・シャと歩きながら、わたしは思いつくままにぽつぽつと語りだした。

 わたしには双子の弟がいて、二年前に嵐の川に流されていなくなってしまったこと。川に落ちたのはわたしのほうで、弟はわたしを助けようとしてくれただけだったこと。濁流の中で繋いだ手を離してしまったこと、弟はそのまま身体ごと消えてしまったこと。

 ……それ以来、うまくわらえないこと。飼い犬のうめたろうだけがわたしの友だちで、家族ともずっとうまくしゃべれないでいること。うめたろうにしか話せなかったたくさんのことをわたしは何かの堰が切れたように、ぽとぽと語った。


「わたし、自分の影を弟にあげに来たの」


 木箱にちょこんと腰掛けたわたしの隣で、ウォウル・カ・シャはのんきに手品の練習をしている。《花妖精》や《獣使い》の話の様子だと、ウォウル・カ・シャはまだ舞台に上がれていないらしい。新入りが水先案内人をつとめているってそういえば、最初に彼が言っていたっけ。


「影を?」

「そう。ここのこと、噂話で聞いて。わたしが影をあげたら、弟がわたしの世界に戻ってこられるんじゃないかって」

「でもそうしたら、きみが夜の住人になってしまうよ」

「別にいいよ」


 震える声で、わたしは呟いた。


「わたしなんか、もういいよう……」


 こういうことはもっとすっきりした気分で言えると思っていたのに、実際のわたしは駄々をこねたみたいな声を出してしまい、ばつが悪くなってマフラーに顔をうずめる。弟の顔が観客席のどこにもなくって、落胆して、かなしかったのに、それでもどこかで少しほっとしていた。そんな自分がわたしはとてもかなしかった。


「泣かないで」


 ウォウル・カ・シャは途方に暮れた声をして、わたしの前に膝をつく。彼の手がどこにもないところから小さな白い花を取り出して、わたしに差し出した。といっても、わたしには彼がひらひらした袖の下でそれを摘まむのが実は見えてしまっていたのだけども。すん、と鼻を鳴らしてわたしは眉を開いた。


「やさしいね。ウォウル・カ・シャ」

「道化師はひとを笑わせるのが仕事だからね」

「ウォウル・カ・シャも泣くことはある?」

「メイクの下ではごくまれに」


 彼がしごく真面目に言うので、わたしは何故だか少し笑ってしまった。差し出された花を手に取る。白い花はまだ蕾で、これから開く日を待っているかのようだ。

 そのとき、どこからともなくボンボン時計が鳴る。瞬きをしたわたしに対して、ウォウル・カ・シャは慌てた様子で腰を浮かせた。


「まずい。夜明けがやってくる」

「夜明けって……」

「この場所で朝を迎えると、きみはもう昼の街に帰れなくなってしまうよ。影の話はしたでしょう?」


 夜明けまでに影を半分。それを越えるともう半分。

 わたしの手を引いて、ウォウル・カ・シャはテントの外に出る。星が瞬いていた空は今は東のほうからゆっくり白み始めている。張りつめた朝の冷気が頬に痛かった。ここに来たときは長く伸びていた観客の列はなくなり、花売り娘たちが閑散とした門の前でおしゃべりをしている。


「おでかけ? ウォウル・カ・シャ」

「うん、ちょっとね」

「いってらっしゃい、気を付けて。――だけど、帽子の子のほうはだめだよお!」


 愛らしい笑い声が地の底から響くようなそれに代わる。花売り娘たちの足から伸びる影が急に広がるのをわたしは感じた。

 魔法が解けたな、と呟いて、ウォウル・カ・シャがわたしの頭からふたまた帽子を取り上げる。ぱちん!彼が指を鳴らすと、帽子がみるみる膨らんで、獣に姿を転じた花売り娘たちに投網みたいに飛びかかった。


「急いで」


 花売り娘たちが足止めされているうちに、ウォウル・カ・シャはわたしの手を引いて、サーカスの門をくぐる。まだ青い夜の気配が漂う街をふたり駆ける。途切れがちの街灯の下。並んだ電柱は不穏にそびえて、白んだ空を三本の電線が切り裂く。人気のない道路は車が通る気配もないのに、「飛び出し注意!」の看板。

 ウォウル・カ・シャの手を取ってこの道を歩いていたときは、帰るつもりはなかった。どこにも帰らないつもりで、わたしは夜の街をさまよっていた。それなのに、今は走っている。息を切らして、心臓をばくばく鳴らして、背中から忍び寄る夜の気配に絡め取られないように、前へ、前へ、朝に向かって!


「ここまでくれば、もう大丈夫」


 ウォウル・カ・シャはそう言って、ようやく足を止めた。それはちょうどわたしたちが出会った道の真ん中だった。

 道先には、うすべに色の朝の気配。

 来た道には、夜の名残のような一番星。

 走ったせいか、ウォウル・カ・シャのメイクは少し剥げてしまっていた。メイクの下からわずかにのぞいた彼の素顔にわたしは目を瞠らせる。そして、思わず頬を伝ったものをそっと指で拭った。わたしと彼はまだ、右手と左手を繋いだままだった。


「帰り道はわかる?」

「……わかるよ」

「それとも、おれと一緒に来るかい? お嬢さん」


 繋いだ手を持ち上げ、冗談めかして彼は誘った。胸を締め付けるようなさみしさがせり上がる。わたしは彼の冷たい手に五指をぎゅっと絡ませ、ううん、と首を振った。


「がんばってみる。もう少し」

「そっか」

「ねえ、ウォウル・カ・シャ。もしかしてあなたは……」


 彼はその先を閉ざすようにわたしの唇に指をあてた。


「夜のものは夜のまま。秘密にひかりを当ててはいけないよ」


 いかにも道化師らしく、ウォウル・カ・シャはひょいと肩をすくめる。その肩越しに光が満ちていく。ブルー・グレーに染まった夜の街が朝のそれに。夜と朝、ふたつの境目にある道の真ん中で、わたしは親愛なる夜の住人と向かい合った。


「また、会える?」

「もちろん。だって、おれの夜ときみの朝は隣り合っている。こんな風にさ」

「そうだね、こんな風に」


 うなずき、わたしは彼と繋いでいた手を大きく跳ね上げ――離した。

 朝のひかりがさっと街を照らす。


「バイバイ。月子」


 懐かしい声を残して、ウォウル・カ・シャは消えた。

 街に朝がやってくる。



 ★



 赤いチェックのマフラーに顎をうずめ、まだひとのまばらな道をひとり歩く。立ち並んだ家々の雨戸が開き、役目を終えた街灯がひとつふたつと光を落とす。ふわりとくゆる朝ごはんのにおい。犬を連れて、散歩する街のひと。うすべにに染まった山の端に、同じ色をした駅前の高層マンション。家の前で誰かが立っているのを見つけて、わたしは足を止める。


「おかあさん……」


 門の前でしきりに携帯をいじっているのは、見間違えようもない、わたしの母だった。足元で寝そべっていたうめたろうが、先にわたしに気付いて尻尾を振る。わたしを呼ぶおかあさんの声が聞こえた。泣きながら、怒っている。わたしも泣きながら、でもわらって、おかあさんとうめたろうのもとへ力いっぱい駆け出した。

 バイバイ。

 バイバイ、陽ちゃん。

 朝の街で、だいすきなその名を今、呟く。

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とうめい石と藍の渦 @itomaki

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