「百年薔薇」

 ハルカゼ。

 元気か。突然いなくなってわるかった。

 おまえが舞台に上がりたがらないと母が嘆くから、心配して電話をかけてしまったよ。ハルカゼ、わたしの血を分けていない弟。おまえが存外情が深いのをわたしは知ってるよ。だから、これだけは言っておきたくて。わたしのことは案じなくていい。おまえなら、わたしがいなくてもきっと舞えるから。

 ああ、もう行かなくちゃ。百年薔薇ヒャクネンソウビがわたしをよんでいる。

 プツッ、ツー……ツー……ツー……



 序――はくひょうめいたつめたさがかえった。



 飢えた女の目がそこには映っている。

 切り抜かれた写真が嵌ったロケットをいとしげに撫でていた男は、ノックの音に気付いて椅子を引いた。


「ようこそ、ハルカゼくん。わが校へ」


 少し掠れたバリトンに促され、少年――ハルカゼは顔を上げる。東京の実家から電車を乗り次いで山を越え、信州北部の山間にあるこの学校までやってきた。外の世界から「鳥籠」と称される星北せいほく高校は全寮制で、ある条件をクリアした生徒だけが入学できる。


「転入生を迎えるのはわが校始まって以来だよ。東京では……」

「ふつうの公立に通ってました」


 ハルカゼの返事に、理事長は興味深げに顎を引いた。格子窓からは錆びた斜陽がハルカゼのほうへ射している。


「君の名はかねてより聞いていた。はじめて能の舞台に立ったのは七歳のときだったそうだね」

「養父のつてで立たせてもらっただけですけど」

「君が演じた『富士太鼓ふじだいこ』の娘役はたいへんな評判を呼んだと聞いているよ。我々は才能豊かな者を歓迎する。特に君のような」


 理事長の賛辞に、当のハルカゼは淡泊に首を傾げただけだった。

 ハルカゼはまださほど背丈があるわけではなく、撫で肩の痩躯とあいまって、ブレザーには着られている、という印象を受ける。だけども、うつくしい。岩のあいだでしたたかに息づく原石のような、そういう何者にも侵しがたいうつくしさが十六歳の少年にはすでに備わっていた。

 ちらりと腕時計に目をやる理事長に気付いた教師が、ハルカゼの薄い肩を押す。退出の合図だ。


「ハルカゼくんのクラスは?」

「2のBです」


 うなずき、理事長は眼鏡のブリッジを押し上げた。


「東京とは勝手がちがうだろうが、すぐに慣れる。よき高校生活を」



 トランクをごろごろと引きながら、ハルカゼは校舎を案内された。今日びめずらしい木造校舎は昭和初期に建てられたものらしい。飴色をした壁には歴代の卒業生の功績が写真と一緒に飾ってある。数学者、バレリーナ、小説家、ファッションデザイナー、ラグビー選手……。分野は多種多様で、卒業年度もさまざまだ。


「寮の鍵を取ってくるから、ここで少し待っていてくれ」


 担任となる教師はそのように言い置いて、職員室に入った。

 やれやれとハルカゼは壁際に置いたトランクの上に軽く腰掛ける。放課後の校内にさほど生徒は残っていないが、ときどきハルカゼのほうを指して囁く声がする。転入生、というのはこの閉ざされた空間では希少種らしい。組んだ足に頬杖をついて外を眺めていたハルカゼだが、二重サッシの窓の向こうにふと鮮烈な赤を見つけて、瞬きをした。

 痩せ衰えた薔薇の老樹である。

 新緑の季節にもかかわらず、花はひとつしかつけていない。無数の細枝はしどけなく四方に伸び、濃緑の茂みには秘密めいた沈黙があった。まるで己の胎内に誘い込むかのような。


「百年薔薇」


 樹に目を奪われていたハルカゼの意識を、澄んだ少女の声が引き戻す。いつの間にか、前に紺色のセーラー服を着た少女が立っていた。軽く目を瞠らせたハルカゼに、「そう呼ばれているの、あの花」と老樹を見つめて少女が言った。


「君が噂の転入生?」

「噂かは知らないけど、転入してきたのはおれだよ」

「たいそうな舞手だっていう」

「舞はもうしてない」


 すげなく首を振って、ハルカゼはトランクから立ち上がった。


「百年薔薇、ほんとうにあったなんて」

「新作能の題名のほうが有名だものね。作者は昔この学校に在籍していて、あの薔薇をモデルに『百年薔薇』を書き上げたんですって」


 能の世界にいる者ならば、知らない者はいない異色作「百年薔薇」。

 もう二十年近く前、この学校の卒業生だった作家が書いたものだ。完成稿のみを書斎に遺し、作家は薔薇の樹で首を吊って死んだという。その薔薇が呼んでいると、セイランは言った。


「セイラン、という生徒を探しているんだ」


 表面に埃の浮いた窓硝子に触れ、ハルカゼは呟いた。


「心当たりは?」


 とたんに冷えた眼差しに転じたハルカゼに、「さあ、どうでしょうね」と少女は微笑んだ。


「この学校の薔薇はよくひとを隠すから」


 少女は夜子よること名乗った。

 あの理事長のひとり娘だという。撫でつけられたシルバーグレーの髪を思い出し、ずいぶん遅くにできた子どもなんだな、とハルカゼはなんとなく思った。



 案内された部屋には、ハルカゼのほかに知らないネームプレートが架かっていた。寮はふたり部屋を基本としているが、ハルカゼの相方は人数の関係でこれまでひとりで部屋を使っていたらしい。新しいルームメイトに喜んだ彼は、コーラとポテトチップスでささやかな歓迎会を開いてくれた。

 セイランのことを尋ねると、あのひとは僕らの憧れだよ、と目を細めて言う。セイランの名前がまだ生徒たちに認識されていることに少しほっとする。


「君は何をするんだい、ハルカゼ」


 この学校の生徒にとって、特性を訊くのは挨拶みたいなものらしい。確かに星北高校の唯一の入学条件は「何らかの分野に秀でていること」だ。芸術、スポーツ、学問、なんだっていい。既存の枠に囚われない教育は、鬼才と呼ばれる種類の天才たちを輩出し続けている。


「舞を。今はもうやってないけれど」


 粋狂なハルカゼの返事に、生徒たちは一様に奇妙な顔をした。スランプのたぐいだろうか、と邪推する者もいたが、ちがう、と返したきりハルカゼは答えない。

 一週間ほど経つと、この変わり者の転入生はそういうものなのだ、という了解が皆の中にも生じて、あえて聞いてくる者はいなくなった。

 ハルカゼの舞は、未だに一部の好事家に信仰とすら呼べる人気がある。いわく、そのままで完成された原石、いにしえの神懸かりに通じる技。だけどこの一年、ハルカゼは能舞台に立っていない。子どもの頃からハルカゼはセイランのためにだけ舞ってきた。セイランがいなくなった今、ほかに舞う意味が見当たらない。


「さっそく変わり者の名をほしいままにしているね」


 放課後、陽当たりのよいベンチでおやつのアンパンを食べていると、夜子が現れてからかった。彼女のセーラー服は時代遅れの燕色で、うすべにの膝小僧に長めのプリーツスカートがかかっている。


「夜子は何組なの?」

「1の1」


 ふうんひとつ下か、と意外な面持ちでハルカゼは呟いた。


「おれはセイランを探しにきただけ。それ以外のことはどうでもいい」

「ふふ、潔いほど率直だね、ハルカゼは」

「百年薔薇がひとを隠す、というのはどういう意味?」


 ここに来た初日の謎かけめいた夜子の言葉を、ハルカゼはずっと気にしていた。

 意味を尋ねようと夜子を探したものの、どこにも見当たらず、ルームメートに訊いてもそんな名前の女生徒は知らないという。なるほど、学年がひとつ下だからわからなかったのだ。アンパンを平らげ、クリームパンの袋を破くハルカゼを面白そうに眺めて、夜子はベンチに座った。


「そのままの意味。あの薔薇は薔薇のくせに、さみしがりでひとが好きなの。ときどき、心を通わせた者を隠してしまう。――ハルカゼは『百年薔薇』の筋書きを知っている?」

「だいたいは」


 「百年薔薇」は月の照る夜、旅の僧侶の前に薔薇の精が顕れて、過去を聞かせるというあらすじの演目だ。かつてひとの娘に恋した薔薇は彼女を己の花嫁に迎えるが、それを快く思わない母親の奸計で、娘は首を吊って死んでしまう。これを嘆いた薔薇の精は今も娘の面影を探して、気に入った子どもを隠すのだという。


「あれは作家の実体験をもとにしているの。百年薔薇は昔から、気に入った子どもを隠してきたのよ」

「セイランも?」

「さあね。それは薔薇に訊いてみないとわからない」


 無邪気な笑みを浮かべ、夜子は首を振った。


「百年薔薇のことを知りたいなら、北棟にある図書館に行ってごらん。作家の父親が寄贈した『百年薔薇』の原本があったはずだから」


 一年生ならこの学校に入学してまだ三月も経たないはずだ。なのにどうして夜子はこんなことにまで詳しいのだろう。やはり理事長の娘だからか。そもそも、彼女は入学条件をどうやってクリアしたのだろう。


「夜子は『何』をするの?」


 不思議に思って尋ねると、「あててみて」とハルカゼの唇にそっと夜子が指をあてた。風を孕んだ黒髪がひかりに揺れる。



 セイランはハルカゼの血を分けていないたったひとりの家族だった。

 ハルカゼは能楽師の家元がふらっとよそで作ってきた子どもだ。母親のことは覚えていない。ハルカゼを生み落とした母親は、ちっぽけなハルカゼを家元の屋敷に預けたきり、行方をくらましたのだという。

 ふつうならそのまま捨てられてもおかしくなかった。だけど家元はどうにも不思議な淫蕩さと情のあるひとで、己の子どもかどうかもわからないハルカゼを養子にして、屋敷に迎えることを決めた。セイランは家元のほんものの子どもだ。幼い頃から言葉を覚えるより早く謡を諳んじ、当世一流の舞を見て育ったセイランは、ハルカゼと目を合わせるなりこう言った。

 こいつは天性の舞手だと。

 何も持たないハルカゼを舞手にしたのは、だからセイランだ。時に家族として、親友として、セイランは同年のハルカゼを導いてくれた。十六歳になる年、突然家を出て信州山奥の学校に行ってしまうまでは。

 ハルカゼにはわからない。

 何故セイランはハルカゼのもとからいなくなってしまったのか。最後の留守番電話のメッセージにはハルカゼを案じる愛情の色があった。なのにどうして直後、不可解な失踪を遂げてしまったのだろう。わからないまま、セイランを探してハルカゼはここまでやってきた。


 かちり、と踊り場の古時計が零時を告げる。

 聞く者のいない空虚な音は校舎に長いこと木霊した。懐中電灯を前方に向け、ハルカゼは夜の廊下をひとり歩く。入学十日でさっそく規則破りなんておれもたいがいだな、と思ったけれど、ここに長くいる気もないハルカゼにはどうだっていいことだ。

 幸い警備員の姿はなかった。夜子の言っていた図書館は、校舎のいちばん端に併設されていて、特徴的な半球体のシルエットですぐにわかる。東京では初夏にあたる季節だが、信州の夜は冷える。厚手のパーカーを引き寄せ、ハルカゼは白い息を吐いた。

 鍵は何故か開いていた。吹き抜けの建物は二階までが見渡せて、書架が整然と並んでいる。しばらく待っていると、暗がりから少女の笑い声が響いた。


「本当にやってくるなんて。君は無謀な冒険家ね」

「夜子」


 春物の淡いベージュのコートを羽織った夜子の手には、銀製の鍵が握られている。どうやら彼女が図書館を開けておいたらしい。その物言いが嘲るようなので、「君が誘ったんだろ」とハルカゼは顔をしかめた。


「そうね。確かに君はどちらかというと共犯者の役かも。紅茶とサンドイッチはいかが? 身体があったまるよ」

「図書館は飲食禁止なんじゃないの」

「意外にふつうのことを言う。いいのよ、夜だし、閲覧席のほうなら」

「ふうん」


 ハルカゼはあまり深く考えないたちなので、理事長の娘がいいというならいいかと思って、おとなしくサンドイッチを受け取った。紅茶は魔法瓶に入れてあって、コップに口をつけると砂糖の甘みが広がった。


「本当に原本なんてあるの?」

「あるよ。君が望むなら貸してもいいけど、ただし条件がある」


 ハムとレタスのサンドイッチに手をつけて、夜子が言った。夜子がひとつ食べるあいだに、腹へりなハルカゼは三つも四つも平らげていく。バスケットを空にしてようやく一息ついた。


「条件って、なに?」

「『百年薔薇』を君に演じてほしいの」


 いぶかしむ顔をハルカゼはした。


「なぜ?」

「絶賛された君の舞を私も見てみたくて。父も言っていたでしょう。ようこそ、ハルカゼ。私たちは君を歓迎する。君のような、魂そのものを降ろせる優れた舞手を私はずっと待っていたのよ」

「セイランのいるところじゃないと、おれは舞えないよ」

「君のセイランへの執着は知ってるつもり。うまく舞うことができたら、私が百年薔薇に取りなしをして、セイランをかえしてあげる。それなら、どう?」


 夜子の昏い目がハルカゼをのぞきこむ。ひとの心の機微をたどり、操ることに長けた少女の顔つきだった。こういう顔の女をハルカゼはよく知っている。家元の本妻がそう。巧みな甘言や悪意から、ハルカゼを守ってきたのはセイランだった。誰よりも強くて、清冽なセイラン。ハルカゼの唯一。


「……おれが舞えばいいの?」

「適当なものをやるんじゃないよ?」

「おまえこそ、おれを馬鹿にしないで」


 夜子の声にかぶせるようにハルカゼは言った。

 ひとたび舞台に立つ以上は己をかける。それは舞の神様とハルカゼが交わした約束だ。あの場所は、心のゆるみをゆるさない。漠々とした雪の平原のような、さみしくて、だけどうつくしい場所。

 セイランがいないところで舞うのは、たぶんはじめてだった。

 ハルカゼの返事に満足そうにうなずいて、夜子は魔法瓶を締めた。お夜食の時間は終わったらしい。並ぶ書架のあいだをまっすぐ進んで、夜子は地下に続く扉を開けた。古い蔵書はこちらにおさめられているのだという。切れかけた蛍光灯の下には、ステンレス製の棚が並んでいた。そのひとつから夜子は数冊のノートを取り出して、ハルカゼに渡した。


「作家が『百年薔薇』の構想を思いついたのは、この学校に在学中のことだったそうよ。完成させて絶命するまで十年あまり。薔薇に魅入られた人生だった」


 受け取ったノートの湿った重みにハルカゼは目を細める。

 

『百年薔薇』


 細くのたうつ文字で書かれた題名がハルカゼの背中をぞっと撫ぜた。その文字のかたちだけで、作家の歪んだ執着と愛憎が見えた気がした。

 演じることができるだろうか。ハルカゼは急に不安になってくる。セイランがいないと、おれはいつも「かえりかた」がわからなくなってしまう。おれひとりでこちら側に戻れるだろうか。思いあぐね、指の腹でそっとノートの表面をなぞると、薄氷めいた冷たさがかえった。



 破――そのばらのしたでくびをつってね。



 雲の上なほ遥なる。

 雲の上なほ遥なる。

 富士の行方をたづねん。

 はじめて舞台で演じたのは、「富士太鼓」の娘役だった。橋懸かりへの揚げ幕が上げられた瞬間、すっと身体が空虚な器のようになるのを感じた。足裏から伝わる床の冷たさ、観客の発する独特の熱。重い装束を身につけているのに、身体が雲のように軽い。

 くものうえ、なほ、はるかなる。

 謡う声はおれの声ではなく、手も足も、おれのものではなくなっていた。幼いハルカゼに、それは深い充足を与えた。飢えた己が別の大いなるもので満たされるような。舞台が終わったあとも、ハルカゼはしばらくこちら側にかえってこられなかった。


『ハルカゼ』


 虚ろな目でぼんやり遠方を見ているハルカゼの腕をつかんだのは、セイランだった。それでハルカゼは緩やかに正気を取り戻す。ハルカゼ。涼やかなセイランの声はいつもハルカゼをこちら側につなぎ止めてくれた。

 能楽師の家元と資産家の令嬢のあいだに生まれたセイランは、確かな審美眼と深い洞察力を持つ早熟な子どもだった。家元に連れられてハルカゼはときどき、知識人や芸術家の集まるサロンに顔を出したけれど、若いセイランはいつも溌溂とした顔でその中心にいた。セイランはうつくしいものを愛でることに長けた子どもだった。そしてそれらを見出すこと、磨くことにも。


『ほら、ハルカゼ。動いてはだめだよ』


 ハルカゼの曲がったネクタイをセイランが締め直す。セイランの手首には祖父からもらったという無骨な腕時計が嵌められていて、血管が浮いた細い手首と、飴色の革のバンドのコントラストがうつくしい。セイランを構成する数あるパーツの中で、ハルカゼはことのほかこの手首と白い咽喉を好んだ。

 セイランの指がタイをきゅっと結ぶ。離れようとしたその手をつかんで、ハルカゼは己の頬に白い手首を擦り寄せた。


『甘えたがりだなあ、ハルカゼ』


 くすぐったそうに首をすくめて、セイランはなされるままになっている。


『もっとおまえも皆と交わればいいのに』

『おれはいいよ、セイランさえいれば』

『ふうん。そんなにわたしがトクベツ?』

『あたりまえ』


 飾らないハルカゼの言葉は、快活で多弁で、そのくせ暗がりを目の奥に宿したセイランをいたく満足させたらしい。ご褒美をやるように、セイランの腕がハルカゼを抱き締めた。澄んだ香がくすぐる。セイランからはいつも降る雪とおなじ清冽なかおりがした。ハルカゼ。セイランが呟く。わたしのかわいい宝石。


『君を誰にも見せたくないな。名器を閉じ込める蒐集家の気持ちがわかる気がする』


 さみしげにつぶやいて、セイランは一度腕の力を強めた。


『行こうか』


 するりと身体を離して促すセイランの目には、いつもの社交家らしい明るい色が戻っている。ビロード張りの重い扉を開くと、光の乱舞が押し寄せた。セイランが信州山奥の高校に通うと言い出したのは、その数か月後のことだ。



 あくびをして、ハルカゼはシャープペンを置いた。黒板にえんえんと書き写されている数列は曼荼羅のよう。ハルカゼの通っていた高校ではまだやっていなかった範囲だから、さっぱりわからない。おまえは頭はわるくないのに、知識を貯めるということができないたちだね。そう言っていたのはセイランだったか。

 思い直してハルカゼは窓から外を眺めた。コの字型の校舎に囲まれた中庭には、あの百年薔薇がぽつんとたたずんでいる。陽のもとにあるのに、どうしてか常に夜の気配を纏う老樹。

 薔薇の寿命はいったいどれくらいだったろう。少なくとも百年はないはずだ。ばけものめいた木膚には退廃的な色香があり、見る者を捕らえて離さない。考えていると、薔薇の幹に接吻する少女がひかりにかゆらいだ気がして、ハルカゼは瞬きをした。横顔が夜子に似ていたが、今はどの学年も授業中のはずだ。そのとき午前を終えるチャイムが鳴ったので、ハルカゼは席を立った。


 エビカツサンド、マヨネーズコーン、コロッケパン、アンドーナツ、チョココルネ。

 ハルカゼの食欲は成長期の少年であることを差し引いてもすさまじい。それでいて白い痩躯はしなやかに引き締まり、余分なものがまるでないので、おまえの胃袋はどこへ通じているんだと級友たちにからかわれる。腕に抱えたパンをハルカゼはベンチでひとり貪り食う。ものの数分ですべて平らげて紙パックの牛乳を空にすると、脇に置いていたノートを広げた。

 「百年薔薇」は薔薇の精がありし日の恋を回想するというシンプルな物語だ。登場人物はシテの薔薇の精、ワキの旅の僧侶のみ。舞踊性が高い演目で、中でも終盤、娘に焦がれて乱れ舞う薔薇の精の姿がみどころのひとつとなっている。ハルカゼも一度、セイランに連れられて行った舞台で見たことがある。

 あせぬあか、きよきあか、つやめくあか……。

 切々とした謡と呼応して揺らめく紅の唐織。笛の旋律、地謡の声、無音の足さばき、そしてそれらの気配が途絶える一瞬の静寂。ゆらりと立つシテ方の背に、ハルカゼは薔薇の老樹を重ね見た。


『研ぎ澄まされた狂気は透明なんだよ』


 詩的な言い方をセイランはした。


『目に見えないんだ』


 むねかきみだし、かみふりみだし、

 あわれむすめは、

 おに、とぞなりにける――。


「鬼」


 細くのたうつ文字を目で追いながら、この「おに」は娘のほうと薔薇の精、どっちだろうとハルカゼはなんとなく考える。薔薇の精の口を借りた回想になっているけれど、愛憎めいた執着はむしろ樹で首を吊った娘にこそふさわしい。少なくとも作者は娘に己を重ね合わせていたのではないか。百年薔薇を完成させたあと、娘と同じように薔薇の樹で首を吊って死んだ作者は。


「ハルカゼくん」


 やにわに声をかけられて、ハルカゼはびくっと肩を震わせた。一寸の乱れもなく撫でつけられたシルバーグレーの髪。校舎の外廊下にたたずむのは理事長だった。ノートを鞄にしまって、ハルカゼはベンチから立ち上がる。


「学校生活にはもう慣れたかな」


 百年薔薇を見上げて、理事長が尋ねた。ええまあ、とハルカゼは気のない返事をかえす。ハルカゼは結局どこへ行ってもハルカゼであるので、協調性はないけれど、適応力は高い。


「この樹ってほんとうに百年前からあるんですか」


 おそらく理事長が想像もしていなかった質問をハルカゼはした。ブレザーのポケットに冷たくなった手を入れる。ハルカゼの夜を閉じ込めたような眸が、百年薔薇にぽつんと咲いた花を見つめた。


「先代がここに校舎を建てたときにはすでにあったそうだよ。たいそう美しい薔薇の樹だったから、伐らずにその周りに校舎を建てたのだと」

「伐ってしまえばよかったのに」


 暴力的な言葉をさらりとハルカゼは吐いた。


「そうしたら、セイランがいなくなることもなかった」

「君はセイラン本位にしか物事を考えられないようだね」


 薔薇の痩せ細った幹にハルカゼは手を触れさせた。殺意めいた言葉を口にしたハルカゼにも牙を剥かず、百年薔薇はただ風に葉を揺らしている。


「セイランはどんな生徒でしたか」

「賢い子だったよ」


 理事長は苦笑した。


「賢くて……感受性の強い子だった。そういう子は己の畸形にもよく気付く。生きづらい子だったかもしれない。――おとうさまは捜索願を取り下げたそうだね?」

「どうせあの子はそのうち帰ってくる。で、終わり。あのひとは情が深いのだか、薄情なのだかわからない」


 しかしセイランを追って信州山奥の高校に向かったハルカゼを止めることもしなかった。セイランを失って以来、舞台に立たなくなったハルカゼを責めるような真似も。家元もまた、常人とは異なることわりで生きているひとだった。舞の神様に魂を売ってしまったのだろう。


「セイランへの君の執着は異常だと、君は理解しているのか」

「セイランはおれを変だとは言わなかった」

「それで構わないと?」

「十分」


 痒くなってきた首の後ろに手をあてて、ハルカゼは百年薔薇から離れた。ちょうどそのとき予鈴が鳴ったので、足元に置いていた鞄を取る。


「そういえば、さっき夜子がここに……」

「夜子?」


 呟いたハルカゼに、急に語気荒く理事長が聞き返した。その目に執着と呼ばれるものを見て取って、ハルカゼは眉をひそめる。


「今、夜子といったか」

「さっき夜子がここにいたんだ。授業中なのに」

「まさか」


 さながら亡霊の名でも聞いたかのように理事長は頬を歪めた。その口ぶりにひとつの予感を抱いて、ハルカゼは尋ねる。


「なぜ、まさかなの?」

「夜子はいない」


 首にかけたロケットペンダントを引き寄せ、理事長は言った。


「もう二十年も前にあの子は死んでいる。その薔薇の樹の下で首を吊ってね」



 

 幕外――そういうこどもをひゃくねんそうびはよんでいる。


 わたしは才能豊かな、感受性の鋭い子どもだった。

 父親の影響で、幼い頃からわたしはうつくしいものとそうでないものを見分けることがすぐにできた。うつくしいものには価値がある。そうでないものには価値がない。わたしの物差しは明快で、それゆえに容赦がなかった。わたしの無邪気な言葉ひとつで、くずおれていく芸術家を何人見ただろう。けれどそれもかまわない。うつくしくないものに価値はないのだから。

 わたしの前に現れた君は、そのなかでも「トクベツ」だった。

 それまで褒めたたえていたものがすべて茶色く萎んでしまうくらい。君はそこに立つだけで、瑕ひとつなく完成されていた。

 ハルカゼ。わたしの宝石。

 そのとき、才にも財にも恵まれたわたしにはじめて生じた欲望を、君は理解できただろうか。君が欲しい。これまで何ものにも平等に愛を注げていたのは、それらが皆、所詮は君の模倣に過ぎなかったからだ。君という存在を誰にも譲りたくない。その細首にネクタイを結んでやるとき、このまま縊り殺してしまえたらどんなに好いだろうと何度夢想したことか。わたしは己に生じた畸形に驚いた。なんて醜い。おぞましい。わたしの畸形はいつか、君を殺す。

 わかるわ、とわたしの手を取って彼女は言った。

 わかるわ。わたしも昔は苦しかった。

 そういう子どもを百年薔薇は呼んでいる。



 急――セイランはうすくわらってハルカゼとよんだ。

 

 信州の空は張りつめた透明な水色をしている。

 百年薔薇の下でハルカゼは空を仰いでいた。やがて日が山の端に沈んで、空の色が徐々に深まっていく。


「ハルカゼ」


 気付けば、紺のセーラー服を着た少女が前に立っていた。焦げ茶のローファーに、うすべにの膝小僧にちょうどかかるくらいのプリーツスカート。夜子だった。


「どうしたの、こんなところで」

「君を待っていたんだ」

「ふうん、わたしを?」


 首を傾げた夜子に、腕に抱いたノートを差し出す。


「これを書いたのは君?」

「……ああ、気付いてしまった?」


 さして動揺したそぶりもなく、ただ少し何かを惜しがるように夜子は嘆息した。

 「百年薔薇」を書いた謎の作家、鷺沢さぎさわ夜子。

 夜子は確かにこの学校に通っていた。けれどそれはもう三十年も昔で、夜子本人も二十年前にこの薔薇の樹で首を吊って死んでいる。彼女が残した遺品は、「百年薔薇」の完成稿のみ。おそらく夜子の父親である理事長が「百年薔薇」を世に出したのち、星北高校の図書館に寄贈したのだろう。


「すこし、変だとは思っていたんだ。君の制服はおれたちのとはちがっていたから」

「鈍いね、ハルカゼ。ふつうはもっと不思議がるものよ。1の1なんてクラス、今はないんだから」


 星北高校の組分けはアルファベット。数字が使われていたのはずっと前のことだ。ハルカゼは宵のむらさきに沈む夜子のなまめかしい頬を見た。


「夜子はユウレイなの?」

「さあ。ハルカゼは人間なのかと訊かれて、うんそうだよ、とこたえる? そういう乱暴なまとめ方は好きじゃない」


 夜子は理屈っぽく文句を言った。


「この高校に通っていた頃、わたしはひとと交わることが下手な、気難しい子どもだったの。代わりに短いあいだ、百年薔薇と心を交わした」


 夜子の手が薔薇の幹に触れる。人肌を愛撫するようなやさしい手つきだった。


「話をした。語り合った。嘘じゃないのよ。――いいえ、もしかしたらわたし以外のひとには嘘なのかもしれない。でもわたしにとっては本当に起きたことだった。そのあと、案じた父に病院に送られてしまって。帰ってきたときには、百年薔薇とはもう話せなくなっていた。かつてはあんなに深くつながりあうことができたのに」


 老樹についたひとつきりの花は茶色く朽ちかけていた。いとおしげに薔薇の花弁を撫でる夜子を見て、百年薔薇の精は確かにいたのかもしれない、とハルカゼは思った。そもそも真実とはいったい何を指すのだろう。どうやってはかられるのだろう。正気と狂気の境はどこにあると。神や精を降ろしてしまえるおれははじめから狂っているし、こういう風に理論立ててものを考えている状態のほうがおれにとっては「異常」だというのに。


「百年薔薇ともう一度会いたくて、わたしは能楽『百年薔薇』を書いた」


 薄闇のなか、夜子の赤い唇が緩やかに持ち上がる。校舎に人気はなく、四角い陰影の向こうで欠けた半月が雲間に浮かんでいた。


「はじめに歓迎すると言ったでしょう。わたしは幾千の夜をさまよいながら、ずっと君を待っていたの。『百年薔薇』を演じられる舞手を。ハルカゼ。わたしを百年薔薇と会わせて。そうしたら、君のセイランをかえしてあげる」

「……わかった」


 そう気負った風でもなくハルカゼはこたえた。


「ただし、約束はまもってね」


 ブレザーを脱いでシャツ一枚の姿になり、革靴と靴下も脱ぐ。地面に足をつけると、陽のぬくもりと土の冷ややかさが同時に足裏から伝わった。舞台もなければ、地謡や囃子方もいない。そのことに恐れはなかった。

 ただ、――セイランなしでこちら側にもどれるだろうか。

 ちらりと氷の粒のようにそんな疑念がかすめただけで。


 あせぬあか、きよきあか、つやめくあか、


 すいと仕舞扇で月を指し、足を前へ運ぶ。

 はじめの場面は月の照る夜。百年薔薇の精が顕れて、旅の僧侶の前で己の身の上を回想するところから始まる。

 いまはむかし、百年薔薇は初夏のみどり野で、若菜摘みをしていた人間の娘と出会う。娘の清らかな美しさに惹かれた百年薔薇が名を問い、娘が名をかえす。名問いは心の交歓だ。娘と心を交わした百年薔薇は、彼女をおのれの花嫁にと乞う。されど、娘の母親がゆるさない。


 いにしえのちぎり、おうせはよるのゆめ、


 俯き、顔を両手で覆うシオリの型。するりと手を解いて、重心を保ったまま中之舞に戻る。次第に指先からゆっくり己の熱が去っていくのをハルカゼは感じた。ハルカゼという少年の存在が希薄になって、代わりに大きなものが身体に押し入ってくる。


 ――ひゃくねんそうび。


 空っぽになり始めたハルカゼの心を代わりに占めたのは、薔薇への激しい希求だった。みだらに伸びた枝と痩せ細った幹。濃緑の茂みは秘密めいた沈黙を持っている。ああ、とハルカゼは半月を見上げて息を吐いた。


 ――百年薔薇がおれをよんでいる。


 ふ、と意識が手元に戻って、ハルカゼは背後にたたずむ老樹と相対す。

 開ききった扇を風の赴くままに揺らす。ハルカゼの空ろな目に涙が伝った。指先から、爪先から熱がかけめぐる。生きたまま身体を焼かれる焦げたにおいがした。もだえ、のたうち、足さばき、千々にみだれ、髪ふりみだし、呻き、もがいて指を伸ばす。執着と愛。慟哭と官能。無音のあいまに閃く、色の無い――。

 研ぎ澄まされた狂気は透明なんだ。

 舞台を眺めるセイランが呟いた。

 オニというようにね。


「見つけた」


 それまで黙していた夜子がふいと口を開く。


「見つけた。わたしの……」


 夜子の手がハルカゼを捕えた。

 突然の闖入者にハルカゼは瞠目する。もつれあいながら地に倒れ、夜子は月を背にして艶然とわらった。蒼白い手がハルカゼの首に伸びる。汗をぐっしょりかいたハルカゼは少女の力に抗うことができない。

 はなせ。

 優美な舞とは異なる罵倒を口走った気がする。

 はなせ、おれは。

 夜子は陶然と目を細めるばかりで、ハルカゼの首に回した手を緩めない。その目にすっと金の色が宿る。泥眼でいがん。菩薩にも怨霊にも使われる金眼の能面がハルカゼの脳裏によぎった。息を詰めて動けなくなったハルカゼに、やがて甘い口付けが下りてきた。

 

 あなたに、あいたかった。


 夜子が熱に浮かれた顔で囁く。

 あいたくて、果てのなき夜をひとりさまよってきた。

 いとしい、いとしい、


「わたしの百年薔薇」


 浅い呼吸を繰り返し、ハルカゼは見た。薔薇の痩せ細った無数の腕が少女の身体に絡まり、ふたつが分かちがたいひとつのものに転じるのを。夢かうつつか。おれは今どこで、何を見ているのか。ここはいったい、『どこ』なのだろう。

 息が途切れ、ハルカゼは扇を取り落とす。

 百年薔薇の下で、やがて少年は動かなくなった。

 

 ・

 ・


 ハルカゼ。

 ハルカゼ。ハルカゼ。

 また帰られなくなってしまったのかい。


「ハルカゼくん」


 万年筆のキャップを締める音に、ハルカゼは窓の外に向けていた視線を戻した。書類のサインを終えた理事長は、マホガニーのデスクの上でゆっくりと手を組む。


「まことに残念だよ。君ほどの逸材を手放すことになるなんて。心変わりは?」

「ないです」


 淡白なハルカゼの返事に、「そうか」と言葉ほどには惜しがる風でもなく理事長は顎を引く。信州の山奥にも夏が訪れようとしていた。たった三月で退校に至った風変わりな生徒を理事長は興味深げに見つめる。


「今日は折り入って話があると聞いたが?」

「これを」


 ハルカゼが差し出したのは三冊のノート、「百年薔薇」の原本だった。理事長の顔色がさっと変わる。


「これをどこで……」

「夜子に貸してもらったんだ」

「夜子は二十年前に死んだと話したはずだが。しかし、懐かしいな」


 語調を少し和らげ、理事長はノートを手に取る。遺された完成稿をもとに彼は「百年薔薇」を世に出したが、初演を迎えたあと、ノート自体はどこかになくなってしまったのだという。

 北棟の図書館と夜子の話をすると、「まさか……」と理事長は呟いたきり押し黙った。嘘をついているようには到底見えないハルカゼの口ぶりに、感じるところがあったのかもしれない。


「これは君にあげよう。舞台復帰へのささやかな祝いだ」


 返されるとは思っていなかったので、ハルカゼは困惑した表情を浮かべたが、結局受け取った。それできびすを返そうとした少年に、理事長が声をかける。


「探しものは見つかったかね、ハルカゼくん」

「なくしたものは、かえしてもらいました」

「それはよかった」


 うなずく理事長もまた失ったものを取り戻した顔つきをしている。彼を苦しめていたのはなんだったのだろう。娘の亡霊か、それとも彼女を殺した老樹のほうか。ともあれ今はもうどちらもなくなってしまった。首にかけたロケットを引き寄せ、「よき人生を、ハルカゼくん」と理事長は話を締めた。

 トランクをごろごろと引いて、放課後の校舎を歩く。飴色をした壁には歴代の卒業生のさまざまな功績が写真と一緒に飾ってあった。数学者、バレリーナ、小説家……。その中にひとり見知った顔を見つけて、ハルカゼは足を止める。

 鷺沢夜子の名前はあっけなくそこに書かれていた。

 何故今まで気づかなかったのだろう。異端と呼ばれた小説家、鷺沢夜子。代表作の欄に「百年薔薇」はなかったが、彼女は陰鬱そうに、何かに飢えた目をしてこちらを見つめていた。

 ――この学校の薔薇はよくひとを隠すから。

 可憐に微笑う少女の声が耳奥に蘇る。あの夜子とこの夜子、果たしてどちらがほんものだったのだろう。考えつつ階段を降りたハルカゼは、探していた人影を中庭のベンチに見つけて扉を開いた。


「セイラン」


 呼びかけると、セイランは頬にかかる長い黒髪を耳にかけ、顔を上げる。人形めいた面に人懐っこい笑みが広がった。


「ハルカゼ。理事長とのはなしは終わったの?」

「結局、ノートは返されちゃったけど」

「君は肝心なところで押しが弱いね。前からだけど」


 セイランは端正な仕草で肩をすくめ、ハルカゼの手からノートをかすめ取る。ベンチに座るふたりのかたわらに今、薔薇の老樹はない。ハルカゼが「百年薔薇」を舞ったあの日、季節外れの雷が落ちて、樹をまるごと炭に変えてしまったのだ。

 理事長は薔薇を惜しんだが、そのままにしておくのは危険なので、後日根ごと撤去された。落雷のせいで意識を失っていたハルカゼが病院で目を覚ましたのは、その数日後のことである。


『ハルカゼ』


 寝台の上でぼんやり瞬きを繰り返すハルカゼに、セイランはそっと身を寄せた。こめかみに唇が触れる。


『また帰れなくなってしまってたんだろう?』


 澄んだ雪の香が消毒液のにおいに混じって鼻をくすぐる。家元の言うとおり、捜索願なんて必要なく、セイランは自らハルカゼたちのもとに戻ってきた。

 三月もどこへ行っていたのか。詰問する母親には、『異界を旅してきたんだよ』と笑うばかりで、それ以上を語ろうとしない。セイランもまた、ハルカゼとともに東京へ帰ることを決めた。


「まさか君がわたしを探して、こんなところまで来るなんて思わなかった」

「セイランがあんな伝言を残すから」

「あんなの、冗談だよ。『百年薔薇』を見つけたからつい」


 セイランの目には秘密めいた夜の暗がりがあって、ハルカゼにも真意などわからない。けれど、この片割れが息をするように嘘をつくのをハルカゼは知っている。


「何故、君はいなくなってしまったの?」

「さあね。君が呼ばなかったら、帰るつもりもなかった」

「セイランはすぐ嘘をつく」

「そりゃあ、本当のことは隠しておくものだもの。――まあ、もうどうだっていいんだ。わたしも君も、互いを手放せなそうにないから」


 苦笑して、セイランはハルカゼにライターを投げた。ノートを老樹のあった場所に置く。点火したライターを紙の端に近づけると、あっという間に燃え上がった。

 夜子。

 老樹と分かたれたまま、君は幾千の夜をどんな想いで彷徨っていたのだろう。幸福だったのだろうか。薔薇に魅入られた人生だったと、自ら語っていた君は。そもそも、本当に君はここにいたの?


 あせぬあか、きよきあか、つやめくあか……


 「百年薔薇」の一節が蘇り、ハルカゼはいつの間にか眦に滲んでいた涙をこすった。百年薔薇を求めた夜子が樹で首を吊ったように、セイランを求めるおれか、おれを求めるセイランも、やがて互いの首に手を伸ばすかもしれない。予感を抱いたハルカゼの胸に、一抹の翳りが射す。それを悲しいと思うおれと、確かに悦んでいるおれ、どちらがほんものなのだろう。おれの正気はいつだってたやすく狂気にすり替わってしまうのに。

 どちらにせよ、それはまだもう少し、先のことだ。


「かえろうか、ハルカゼ」


 差し出された手に五指を絡める。燃え滓を足で潰すと、ハルカゼはつかの間よぎった懊悩を消し去り、緩やかに口端を上げた。


「セイラン」


 片割れの手首をつかんでそっと囁く。


「もう、おれから逃げたらだめだよ」


 夜の昏に射し込んだ金色に、セイランはうすくわらって「ハルカゼ」と呼んだ。




 結――いまはむかし、百年薔薇の下で、鬼となった娘がいたという。

 


                            鷺沢夜子/1996年

                           「百年薔薇」(絶筆)

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