「レイ・レイ・リー・シャンの森と龍の玉座」

 レイ・レイ・リー・シャンの森には失われた玉座がある。


 その大きくて美しいものをレイは「天」と呼んだ。

 白銀の鱗が朝日を浴びてきらきらと光っている。可雨カウの空いっぱいを覆う蛇身を仰ぎ、レイは呆けた顔で瞬きを繰り返した。なんて大きい。なんて美しい。小さなレイにとって、それは「天」そのもののように思えた。


「おまえが今日の贄か」


 風のささめきにも似た声がはるか頭上からした。天青を思わせる蒼眸がじっとレイをうかがっている。レイは隣に並べられた饅頭や瓜を抱いて、しっかりうなずいた。


「そうだ。レイ・レイ・リー・シャンに住まう天龍よ」


 レイはそのとき、数えで十二だった。まだようようわらべを抜け出したくらいの年頃であったが、この美しい龍を篭絡するつもりでここに立った。


「しかし食うには及ばない。わたしはあなたの力を求めてここへ来た」


 弾む息を整え、レイは天を仰ぐ。


「天龍よ、わたしの婿となれ」



 一、


 龍が返したのは短い一笑だった。

 レイが饅頭や瓜とともに並べられていたのは、可雨のひとびとが天龍のために設けた廟である。伝承のとおり、霧の泉から姿を現した天龍は、びょうと風を鳴らしてレイの前に白銀の頭を横たえた。蒼の眸は獲物を吟味する獣のように細められている。


「これはまた。ずいぶんと小さな『花嫁』だな」

「人間はすぐに大きくなるぞ。それに控えめにいってこの美貌。無論、いまだ清き身だ。すべて天龍の好きにしてかまわない」


 薄い胸を叩いて請け負うと、天龍は髭を揺らしてあくびをした。天龍にすれば、ほんのひと息吐いただけであろうが、レイには突風が巻き起こったかのように思えた。


「私は人間は好かん」


 すげなく天龍は首を振った。


「まず一に不味い。二に忘れっぽく、三に薄情だ。ゆえ、瓜と饅頭とはいただくが、おまえはいらん」

「それは困る!」


 言葉のとおり、瓜と饅頭を咥えて蛇身を翻そうとした天龍に、慌ててレイはすがった。白銀の身体は触れるとひんやりとして、少し湿っていた。


「あなたを婿に迎えねば、わたしは帰れぬのだ」

「それはおまえの事情だろう。私の知るところではない」

「あなたこそ、可雨の皆さまが心をこめた贄を受け取らぬとは、薄情なのでは? わたしは美しい。二に働き者、三に情が深い。これ以上の花嫁はないと思う」

「それらの美点は別の用向きに生かせばよかろう」


 かぶりを振って、天龍は天にのぼっていってしまおうとする。


「待て――」


 レイは焦った。どうにか天龍を捕まえようとするが、ぬめった鱗のせいで手が滑り、はずみに身体は泉に落ちてしまう。激しい水音が立つ。レイは泳げない。重たい水を小さな手でかいてもがいていると、急に呼吸が楽になった。天龍の尾の端っこに引き上げられたのだった。


「……おまえ」


 天龍は眸を眇めて、尾っぽの上で咳き込んでいるレイを見た。


「足が悪いのか」

「そうだ」


 その眸の奥におぼろげな憐憫を見たとき、レイはしめたと思った。


「この足では可雨の街まで帰ることもままならぬ。天龍よ。せめて足がよくなるまであなたのもとに置いてくれ」

「廟でひとを待てばよかろう」

「薄情め。あの廟には七日に一度しかひとが来ない。わたしを餓死させたいのか。このいたいけな幼子を?」


 まくし立てながらも、レイはすでに天龍を放すつもりなどない。尾っぽにしっかりつかまってあれやこれやと言い立てれば、天龍は面倒そうに頭を振った。


「おまえの声はきゅいきゅいとかしましい」


 うんざりとつかれた息が了承の意を示したとわかるのは、一拍あと。



 天龍の住処は、可雨地方でもひとがまるで立ち入ることのできない深い森にあった。レイ・レイ・リー・シャンの森。獣すら寄り付かない高い峰の先に、それはあった。


「古い……宮殿、か?」


 朝霧のかゆらぐ大樹の根にうずもれるようにして、朽ちた石壁や回廊が見えた。

 天龍の尾っぽから降りたレイは、杖を支えに折れた円柱のひとつに腰掛けて、あたりを見回す。かろうじてそれとわかる石造りの門の先には、ぽつぽつと赤く花を咲かせた蓮池がある。空を映すその池に、天龍は白銀の身体を沈めた。龍とはもっと人外魔境に住まうものだと思っていたから、明らかにひとの手で作られた場所に戻るのは少し不思議だった。


「ひとの子! ひとの子がおるよう!」


 濃緑の葉を茂らせる大樹の影から、甲高い声が響いて、うわっとレイは身を引いた。緑陰でまどろむように瞼を閉じていた天龍が薄く目を開ける。この大きくて美しいものは、侵入者に対してもさしたる感慨を見せず、ただ一言、「猩々しょうじょうか」と呟いた。

 猩々――その名のとおり、大樹から身を躍らせたのは、毛むくじゃらの大猿だ。裾に蓮の刺繍がなされたレイの深衣をぴらりとめくって、舌打ちする。


「なんだあ……。思っていたのとちがう。おい、龍どの。おまえ、かような赤子まで食らうとは大変な悪食だな」

「赤子ではない。わたしはもう十二の女だ。それにわたしは天龍を伴侶とするためにここへ来た」

「伴侶ねえ。おらぁ知ってるぞ。人間の十二歳といったら、まだ餓鬼もよいところではないか。だが、お似合いかもしれぬ。龍どのも、おれにすれば、まだまだ餓鬼もよいところの御歳であるから」

「そうなのか?」


 この大きくて美しいものがまだ子どもであるとは。

 驚いたレイに、猩々は手にした桃の実をかじりながら、うむ、とうなずく。


「ざっと三百年というところであろうか」

「さんびゃくねん」

「ちなみにおれはざっと千年は生きておる。龍どのよりもよほど長生きの知恵者よ。どうだ、赤子。何なら、おれの弟子になるか?」

「餓鬼は御免なのでは」

「余暇を楽しむ身の上ゆえな。赤子を育てるのもまた一興」


 下卑た笑みを浮かべて、猩々は桃の芯をレイに投げた。食せるところなどほとんど残っていない。むう、と眉根を寄せると、


「この猩々の弟子になりたければ、いつでもお呼び」


 きひきひと気味の悪い笑い声を立てて、毛むくじゃらの大猿は樹の向こうに姿を消した。天龍が大きなあくびをする。うるさいものがいなくなってせいせい、といった顔つきだ。それがどうにも人間らしい仕草に見えて、レイはにんまりする。笑って緊張の糸が解けたらしい。忘れていた腹の虫が盛大に鳴った。


「……ちがうぞ。別に腹をすかせているわけでは」


 天龍が片眼を開けたので、レイは頬を染めて、ひとまず猩々がくれた桃の芯をかじることにする。鼻先で膝を小突かれた。それきり天龍は何を言うでもなく、大きな身体を翻してしまう。尾っぽが緩やかに跳ねたのを見て取って、端っこにしがみついてみる。大きな桃の木が生えた草むらに天龍はレイを放った。


「……食べてよいのか?」


 尋ねるが、返事は返らない。けれど、たぶんそういうことなのだろう。見上げると、まるまると熟した実が高い場所になってたが、レイの手では到底届かない。レイの片足はただの肉塊に過ぎないので、座り込んだままこつこつと幹を叩いていると、突如桃の木が大きく揺れた。天龍が尾っぽの端で軽く幹を打ったのだ。


「うわ、わ、わ」


 次々頭上から降ってくる桃の実を、深衣の袖を広げて受け取る。皆まで見届けず、天龍は再び蓮池にもぐりこんだ。巨大な白銀の身体がみどりの水面に揺らめく。腕からこぼれ落ちんばかりの桃を抱き締めて、レイはその大きくて美しいものを見つめた。


「ありがとう、『天』」

「……てん?」

「ああ、いや。初めて見上げたとき、あなたは天そのもののように大きかったから。わたしは『天』だ、これが『天』だと思ったんだ」


 天龍が頭をもたげたはずみにぱらぱらと水の雫が水晶のように舞う。日に照らされた天龍は、鱗が銀色に輝いて、母がときどき見せてくれた絵巻物の中のもののように美しかった。


「ひと目で見惚れた。どうしてもあなたが欲しいと思った」


 目を細め、レイはそっと胸のうちを吐露する。レイを映した水面はしずまり返ったままだ。息をつき、気持ちを取り直して、別のことを尋ねた。


「あなたを、天、と呼んでもよいだろうか」

「――呼び名に意味などあるのか?」


 呆れまじりに漏らされた吐息が了承の意を示したとわかったのは、一拍のち。

 


 二、


 レイ・レイ・リー・シャンに照る月をレイは見上げた。

 日没とともに天龍は「夜の間は決して近寄るな」とだけ言い置き、蓮池に沈んだ。もはや瓦礫と化した宮殿であるものの、風雨をしのげる場所はいくらかあった。草を重ねて寝床を作り、レイは帯を解いた衣を身体にかける。

 数えで七つの年に、可雨の街の紅楼に流れ着いたレイは、同い年の少女たちとかような藁の寝床で身体をくっつけてよく眠った。紅楼とは娼館である。しかも、可雨の街のそれは貧しさからもっとも下層の旅人が使うもので、病気をうつされて死ぬ妓女も多かった。身体の問題で客が取れないレイは、代わりに雑用を一手に引き受け、紅楼の主人もずいぶん可愛がってくれた。

 されど、紅楼はレイの終の棲家とはなりえない。五年の歳月は可雨のどこかに住まうとされる天龍を探すためにあった。一月前、天龍に捧げる贄の娘を探しているという廟の神官を見つけ、レイはすかさず手を上げた。


「天龍を得られなければ、わたしは帰れぬのだ……」


 胸中に過ぎ去る灼熱の記憶をやり過ごし、レイは目を瞑った。

 身体を丸めてうとうととまどろんでいると、ふいに、胡弓にも似た微かな声が風のささめきとともに聞こえた。うう……うう……。それは風向きか、時折大きくなったり小さくなったりを繰り返している。


「何だ……?」


 寝床から半身を起こして、レイは杖を取る。左足を引きずりながら月の射す回廊を歩くと、呻き声は徐々に大きくなった。陽が沈む間際、夜の間は決して近づくな、と言い置き、天は蓮池にもぐった。何かあったのだろうか。七星が瞬く空の下、たたずむ門をくぐると視界が開けて、夜の蓮池が見渡せた。


「天。いるのか」


 あたりは蓮の葉が震えるばかりで、ほかの生き物の気配は見当たらない。きざはしを降りるさなか、足元に不自然な水たまりを見つけてレイは眉根を寄せた。今日は雨が降っていない。水たまりなどできるはずがないのに。


「……足跡?」


 よく見れば、水たまりのできた場所からひとの足跡がぽつぽつと続いている。この場所にレイのほかにもひとがいるのか。もどかしげに杖を操って、レイは足跡を追った。それはちょうど折れた円柱の前で途絶えていた。


「そこに誰かいるのか……?」

「――来てはならん」


 玻璃にも似た細い声が返って、レイは瞬きをする。レイの知る、あの大きくて美しいものから吐き出される声とはちがっていた。

 それではここにいるのはいったい「誰」なのだろう。

 こつ、と踏み出した杖が音を立てる。

 円柱の前に伸びた影は細く――ひとの形をしていた。


「おまえは、だれだ?」

「来るなと言った。ひとは約束すらも、守れぬのか」


 その口ぶりに思い当たって、レイは目を瞠らせる。


「もしかして、天なのか」

「まったく、このようなみすぼらしく、卑小で、醜悪な」


 蒼白い爪が透明な膚を忌々しげにつかんでいる。その手は激しい憤りに満ちて、小刻みに震えていた。


「かような身に落とされたのは、すべてひとのせいだ。ひとは不味い。二に忘れっぽく、三に薄情だ。わかったら、去ね」


 そのひとの声は、少年のように細く、暗闇をかゆらいでいた。




「驚いたろう、ひとの子」


 俯きがちにひとり回廊を歩いていると、石壁に張り付くようにして猩々がこちらを見下ろしていた。唇を真一文字に引き結んだまま、レイはうなずく。


「びっくりした。天に何が起きているんだ?」

「あれは呪いよ」


 しゃくしゃくと桃の実をかじって、猩々は顎を引く。毛むくじゃらの大猿は壁を伝って、回廊の奥へとレイをいざなう。大樹のかたわらにぽつんと残されたそれは、玉座だった。レイにはひと目でわかる。それは薄汚れ、今にも崩れかけた、されど玉座だった。


「いにしえのこの国を知っておるか、ひとの子。千年前……はるか昔の……」

「龍が国を治めたと聞いている。王は龍の化身であったと」

「しかり。龍どのが治める世は、ひとにとっても我々にとっても、平穏だった。今の龍どのは、その最後の世の王よ。もう三百年も昔の話であるが」

「そうであったか」


 となれば、この遺跡はかつて天龍が治めた頃に使われていたものなのだろう。想いを馳せたレイに、猩々は桃の芯をしゃぶりながら続けた。


「治世はつつがなく百年を数えたが、あるとき悲劇が起こった。龍に治められることを不服とする人間が太刀を取ったのよ。裏切ったのは龍どのの后にあたる人間の一族だった。彼らは龍どのがひとの身を取った隙に、宝珠を奪ってしまった。龍どのにとって宝珠は力の源のようなもの。以来、陽の力が弱まる夜のあいだは、かような小さくみすぼらしい身に成り果ててしまうのよ」

「天を失った国はどうなったのだ?」

「それは、おまえのほうが詳しかろう。ひとの子よ。しばらく裏切った人間一族が治めていたようだが、ひと同士で醜く争い合い、いまではあちらの玉座も空っぽだと聞く」


 騒乱の声がひととき、レイの脳裏に浮かんで消えた。

 レイが七つのとき、国は王を失った。王宮には空の玉座が残されたまま継ぐべきものもなく、世は乱れ、荒れた。国外れにある可雨では、国外に逃れる貧民が絶えない。


「三百年も、天はかつての玉座を守っているのか」


 目を落としたレイに、さぁてねえ、と猩々はのんびりと肩をすくめる。


「守っているのか、未練なのか、それともそれ以外にすることがないのか。龍どののことはようわからぬ。おれからすれば、今の世はひとがはびこり、たいそう生きにくい。再び龍どのが治めてくれればうれしいが」


 白々と照る月に、微かな声が響いた。

 細く、憐れな、苦悶のそれ。


「あの様子では無理だろう」


 息をつくと、痩せ細った桃の芯を大樹の向こうにぽいっと放る。



 三、


 レイ・レイ・リー・シャンの夜は、霧とともに明ける。

 翌朝、起き出したレイは暁天を翔ける巨大な影に目を奪われた。うねる蛇身が陽の光を浴びて輝いている。


「天!」


 杖を使うのももどかしく、レイは蓮池のほうへ駆け出す。空をゆっくり飛翔した天龍は一息に蓮池に身をもぐらせた。頭に降りかかった雫を払って、レイは池のふちにかがむ。


「平気か。龍に戻れたのか」


 矢継ぎ早に尋ねるが、天はなかなか水面から顔を出さない。


「天。生きているのか、天」


 不安になって水面に顔を近づける。すると、白い鱗に覆われた鼻づらがレイの肩をそっと小突いた。


「去れ、と言っただろう」


 瞬きをしたレイに、天龍は鼻づらだけを見せて嘆息した。


「まだいたのか。懲りない奴め」

「泣いているものを放り出しては行けんよ」

「人間は好かんと言った」


 ぴしゃりと跳ねのけるように返される。レイは一時押し黙り、そして首を振った。


「人間とひとまとめにされるのは好きじゃない。ひとにもいろいろいる。あなたと猩々が異なるように」

「猿と一緒にされては困る」

「だろう。わたしだって、ただのわたしだよ」


 水面からのぞいた鼻づらに向かって微笑むと、ふくり、とあぶくが上がった。


「……おまえは少々、奇矯なたちだと見える」

「失礼な」


 む、と口を閉ざしたレイに、水面がさざめき立つ。

 それが天龍なりの苦笑だと気付いたのは、一拍のち。


 

 熟れた桃の実は、半分が猩々の、残りがレイの腹におさまり、種は鳥たちが運んでいった。実をすべて落とすと、桃の樹は満足した様子で葉を揺らすだけになってしまったので、猩々とレイは、天のために七日に一度供えられる食物を取りに行ってはときどき喧嘩をしながら分け合った。


「レイは赤子のくせに、食い意地がはっている」


 とは猩々の言である。

 夜は平らな石に草と布を敷いて露をしのぎ、眠った。胡弓のような呻き声はときどきレイの耳にも届いたが、天の姿はあれ以来決して探さないようにしている。代わりにレイは月の射す壁に背を預けて、故郷の歌をうたう。物心つかない頃、レイを寝かしつけるときに母が歌ってくれたものだ。言葉はもう覚えていないので、適当に節をつけて口ずさむ。レイがうたっていると、細い呻き声は次第にしずまって、吐息にも似た風が木々を震わせるばかりになる。

 天は眠るのだろうか。

 この穏やかな風が天の寝息であったらよい、とレイは思って目を閉じる。

 桃の葉を揺らす風の色が変わる。ぽつん、ぽつんと開いた蓮の花が閉じゆくように、月日はゆっくり夏から秋へとめぐっていった。



「近頃、廟の供物が少ない」


 不満げに漏らしたのは、器用に栗の実を剥いていた猩々である。そのかたわらで、栗を焼くレイは思い当たるふしがあってうなずいた。


「確かに七日に一度訪ねても、置いていないときがあるものな」


 相変わらず猩々とレイは夜明け前に山をくだって廟を訪れ、供物を持ち帰って日々の糧としている。しかし以前は、まるまると実のしまった瓜や卵、魚の干物や穀物など、豊富にあった供物はひと月ほど前から徐々に数を減らし、今では痩せた茄子が一本転がっているだけの日もある。

 先日はついに、水以外の供物が途絶えた。可雨はもともと貧民の多い痩せた土地である。とはいえ、今は一年のうちでもっとも豊かとされる秋だ。


「いったい何があったのだろう」

「可雨の外へ向かう民も近頃多いな」


 ふうむと唸った猩々はふと思い出したように呟く。


「そういえば、都のほうでは王の不在をよいことに、隗族カイゾクが侵入して、王都を占領したと聞く。国の混乱がついに可雨まで及んだのかねえ」

「南方の蛮族め。宝庫を食いつぶしてもまだ気が済まんか」


 難しい顔をして顎に手をあてたレイを、猩々はいぶかしげに見やる。


「なんだ、赤子。おまえ、ときどき小せえくせに難しいこと言うなあ」

「可雨にたどりつくまで、わたしにもいろいろとあったのだ」

「赤子のくせに『いろいろ』か。人間ってのは寿命が短いくせに大変だな」


 栗を噛み砕いて、猩々は肩をすくめた。差し出された手に冷ました栗を乗せて、レイは苦くわらう。


「それをいうなら、猩々のほうこそ人間くさい。千年も生きているのに」

「おれはもともと、ひとの身であったゆえな。嫌気が差して猩々になった」


 嘘かまことかわからぬことを猩々は真顔で言った。


「都に縄張りを持つ猩々の話じゃ、隗族によって女子どもはさらわれ、家は壊され、ひどいありさまだという。まったくただでさえ禍つ世であるのに、どうなることやら」


 世間話はそれでおしまいにしたらしい。

 残りの栗をほおばって、猩々は舌打ちした。


「ちくしょう。栗ばかりでは腹の足しにもならねえ」

「おまえは腹減りだな。天はさして必要がなさそうなのに」

「龍どのはおれとはちがうもの。しかし、おまえも変わらんな、ひとの子。いつになったら、龍どのを篭絡できるかのう」


 猩々のまるい金色の目がレイを検分する。

 レイ・レイ・リー・シャンに来て三月ほどが経ち、紅楼にいたときより、レイは血色もよく、痩せ細った身体も少し丸みを帯びた。されど、天は一向にレイに見向きもしない。蓮池にもぐり、ときどき池のふちからのぞくレイを鼻づらで小突くくらいである。まったくだ、とレイは息を吐いた。


「天にもすこし、おまえのような食い気があればよいのに」

「……天龍のつがいなど、ひとには過ぎたものぞ。恐ろしくはないのか」


 首を傾げて、少し不思議そうに猩々が問う。


「天は一に美しい。二に大きい。三にときどき小さい。ひと目で惚れた。恐れる必要がどこに?」

「龍どのの言うとおり、おまえは少々奇矯なたちらしい」


 きひきひと歯を見せて笑い出した猩々は愉快げだった。


「惜しいのう。三百年の小童に与えるのはほんに惜しい。のう、ひとの子よ。おまえ人間をやめて、猩々にならないか」


 瞬きをしたレイに、猩々はじっと顔を近づけてくる。金色の目には獣らしい獰猛さと、ひとの哀切のふたつが同居していた。レイは口元を引き結んで、かぶりを振る。それを見取ると、ふんと鼻を鳴らして猩々は視線を離した。


「猩々というのもよいものだぞ、ひとの子」


 

 夕暮れの蓮池に、天は身を沈めていた。虫の声に耳を傾けながら、レイは池のふちで草を編む。近頃、冷えてきたので夜の掛け布がもう一枚欲しかった。


「あっ」


 風が強く吹いたはずみに、編んでいた草のひとつが手を離れて池に落ちてしまう。それを天龍の鼻づらが押し上げて、レイの足元に戻した。


「わるい」

「もうすぐ日が暮れるな」


 赤銅色に染まり始めた空を見上げ、天は白銀のかしらをレイのかたわらに横たえた。濡れた鱗は七色に光って、ますます輝きを増す。レイは自分よりはるかに大きく美しいものの前にしゃがむと、その姿を見上げた。


「なあ、天よ。そろそろわたしの求婚を受け入れてはくれないか」

「おまえもいい加減、懲りぬ奴だな」


 レイの唐突な問いかけにも、天はさして驚いた様子を見せなかった。もしかしたら猩々との会話を池の底から聞いていたのかもしれない。寡黙な天は、ひとの会話に口をはさむことをめったにしなかったが。草で編んだ掛け布を置いて、レイは言いつのった。


「あなたが欲しい。代わりに命以外のすべてをやるから」

「ひとは不味い」

「試さねばわからんではないか」


 襟元をくつろげて、レイは精一杯の誘惑を試みる。


「この美貌を好きにしてよいと言っているのに」

「おまえには打算が透けて見える」


 天がうんざりと呟くので、レイは肩をすくめた。天の言うことはそのとおりであって、レイは天龍の力を求めて、このレイ・レイ・リー・シャンの森へやってきた。欲するものがある。そのために。

 天は蒼い眸に玻璃のような感情を湛えてレイを見た。レイを非難しているはずであるのに、そこに宿るのは何故かかなしみや切なさといったものに似ていた。

 ――正しく。このときの天は、大地の何人たりとも理解しえぬレイの胸のうちをひととき察したのだと思う。


「帰れぬ、と初めて会ったときおまえは言ったな」

「ああ」

「私にも帰るところはない」


 天は大きく息を吐き出した。


「一度地に降りた身なれば、天に戻ることは叶わず。さりとて、守るべき玉座もすでに朽ち。かように古き遺跡に居座っている、それがこの身だ。おまえが求めるものはここにはない。――レイ」


 はじめて天はレイの名を口にした。


「これが、かえれぬ、というものだ。おまえはちがう」

「天」

「おまえにはその足があるだろう?」

「……片足でもか」

「片足でもさ」


 白い鼻づらがレイの膝がしらを小突く。

 その深い水底にも空にも似た眸を見つめ、レイは奥歯を噛んだ。



 四、


 レイは杖を操って、レイ・レイ・リー・シャンの森をくだっていた。本当は朝を待って山を下りるべきだった。しかし天の突きつけた言葉はレイの胸の凝りを的確についた。

 帰れないのではない。

 ――そうだ、わたしは。

 立ち向かうことを恐れ、逃げていただけでは。

 己の胸のうちを暴かれてしまっては、もうとても、あの大きく、美しいものを見上げることなどできなかった。

 あいにく今日は新月の夜で、細い山道を照らすのは星明かりだけだ。視界を閉ざす蔦を腕でかきやり、レイは顎を伝う汗を拭う。そのとき、激しい葉擦れの音がして、頭の上から大きな影が降ってきた。


「うわっ」


 巻き込まれるようにして倒れ、レイはぶつかってきた大猿を見上げる。


「猩々……!」


 むせ返るような臭気に眉をひそめる。荒く息をする猩々の背はざっくり斬られ、赤い血肉がむき出しになっていた。ただごとではない。呻いた猩々に、どうしたのだ、とレイはすがりつく。


「おまえこそ、何故かような場所におる」

「わたしは……。それより、背の傷はどうした? 何にやられた?」

「おれとしたことが、ぬかったわい。隗族だ。供物をくすねに廟に向かったところを鉢合わせた」

「隗族? 何故ここに」


 ひとまず血止めを、と思い、レイは衣を引き裂く。それをとどめて、「龍どのは?」と猩々が口早に尋ねた。


「日が落ちた。天はたぶん遺跡のどこかに……」


 かすれた胡弓に似た呻き声と、蒼褪めた膚。

 同じものを思い浮かべたのか、猩々はしまったとでもいうように顔を歪めた。


「奴らめ、龍どのの呪いを知っていたな。供物を供える神官が殺されていたのはこのためか」

「何を言っているんだ?」

「隗族が狙っているのは、龍どのよ。古き世、この地を治めた天龍の伝説を奴らは知っている。その力を得んと、龍どのを捕えにきたのだ」

「なんと身勝手な」

「ひととはそういうものだ。おまえにはわかるだろう」


 猩々は急に知った風な顔つきをしてレイを見た。雷に打たれた気分になってレイは口をつぐむ。自分もまた天龍の力を求めてここへ来た。そのことを思い出したのだ。されど、韜晦は短い間のこと。レイは俯いた顔を上げると、杖を使って立ち上がった。


「隗の奴らはどこにいる?」

「反対側の山からのぼって、レイ・レイ・リー・シャンの遺跡をめざしている」

「わかった。すまない、猩々。おまえの手当てができない」

「待て、レイ。おまえひとりでは――」


 止める猩々の声を振り切り、レイはいましがた来た道を駆け上がる。猩々と何度も下りた道とはいえ、足の悪いレイである。加えて今は夜目も利かない。転びかけては立ち上がり、レイ・レイ・リー・シャンの森をめざす。

 暗闇の中では、己の吐く息の音ばかりがうるさい。その情景はレイにひとつの記憶を思い起こさせた。小さなレイの手を引き、逃げた母。


 ――『レイ・レイ・リー・シャン』はここで死ぬ。


 母のたおやかな身体に、無数の刃が突き立てられる。繋いだ手を離され、小さなレイは崖から転がり落ちた。どこまでも。

 あの日、レイの手から滑り抜けてしまったもの。家族。片足。己の名。

 それらを取り戻すために、レイは大きく、美しき龍を欲した。


「天……!」


 レイ・レイ・リー・シャンの静かな森には、無数の松明が灯っていた。暴力的に燃え上がる炎が夜闇に沈む遺跡を照らしている。息を切らして飛び込んできたレイを、武装した隗族の者たちが不審げに見た。


「なんだ、おまえは」

「おまえたちこそ、ここに何の用だ。この地は禁域。何人たりとも立ち入りは許されない」


 幸いにも天はまだ見つかっていないようだ。龍の姿であれば訳ないが、あの姿ではひとの振るう太刀でも危うかろう。レイは隗族のかしららしい若者を見据えて、「去れ」と声を低くした。


「龍の逆鱗に触れてはならぬ。今すぐ山を下れ」

「逆鱗? そのわりにはまるで姿が見当たらない。いるのは汚い子どもひとりではないか」


 大仰に若者が肩をすくめると、ひとしきり笑い声が立つ。数は三十人ほどだろうか。簡素な手甲や胸当てをしているだけだが、炎に照らされた肢体はなめした革のようにしなやかだ。戦士の身体つきだ、とレイは思った。


「長の言いつけで来てはみてが……」


 廃墟と化した遺跡を見渡し、かしらの若者は言った。


「これでわかった。龍の伝説など、まやかしだったのだろう」

「おかしら! 瓦礫の下にこんなものが」


 配下のひとりが掲げたのは、古い宝飾品だ。おそらく王宮があった時代の遺物だろう。薄汚れてはいたが、まごうことなき玉の輝きを前にして、若者の顔つきが変わった。


「こりゃあいい。おまえたち、瓦礫の下から財宝を探し出せ! 見つけた半分はそれぞれの取り分にしていいぞ!」

「や、やめろ!」


 レイ・レイ・リー・シャンの地を荒らされることをレイはよしとしない。割って入ろうとすると、宝飾品を持った男に突き飛ばされた。あっけなく地面に倒れたレイを若者が冷たく見下ろす。


「この餓鬼、どうしましょう」

「どうせ、廃墟に住みつく物乞いだろう。それより財宝だ」


 部下に命じた若者が暗闇にたたずむ玉座を見つけて腰掛けようとする。


「それに触れるな!!!」


 半身を起こしてレイは吼えた。

 突然の剣幕に驚いた様子で、若者が手を引く。半ば這って玉座の前に立つと、レイは男たちの手からそれを守るように両腕を伸ばした。


「これは龍の玉座。この大地を治める者だけが座れる場所だ」

「いったい何を言い出すかと思えば」


 睨み据えたレイを男は嘲笑った。


「かような朽ち椅子を玉座? 頭がいかれた餓鬼が」

「わたしは狂ってなどいない」

「そこをどけ。物乞いの分際で、生意気な」

「わたしは――」


 握ったこぶしがぶるぶると震える。

 その先を口にするのは、レイには己に刃を突き立てるくらいの勇気が要った。卑小な身である。脆弱な身である。されど、天は。

 ――おまえにはその足があると。

 そう言った。


「わたしの名はレイ・レイ・リー・シャン」


 口にしたとたん、相手の顔色が明らかに変わった。

 レイ・レイ・リー・シャン。この国に今、その名を知らぬ者はいまい。

 禍つ名である。忌まれし名である。

 だが、母はこの名を生まれたレイにつけた。

 レイ・レイ・リー・シャンとは、かつてこの地をおさめた最後の龍の名であり、龍を排した人間一族の、最後の皇女につけられた名である。五年前、臣下に謀られ、斃れた王。混乱のさなか、宮殿を逃れた后は当時七つの皇女を隠して息絶えた。

 そうして、ひとり生き延びた。

 すべては奪われた玉座を取り戻すため。


「――おまえたちにも、誰にもその椅子に触らせはしない」


 あの空の玉座に帰るために。

 一時気圧されたように、男たちが顔を強張らせる。その面が急に蒼白に転じた。ひたひたと冷たい水が足元に押し寄せる。ありえないことであった。澄み渡った空には星が瞬くばかりで、雨の気配はない。そうであるのに、滔々と流れる水があっという間に足をさらっていく。


「かようにみすぼらしく、醜い」


 透き通った声は男たちの背後からした。水面に二本のしなやかな足が立つ。星明かりに照らされた白い肢体は何も纏っておらず、されど容易に触れ得ぬ神々しさがあった。少年である。レイとそう歳も変わらぬ、少年である。男たちを眸を眇めて見渡し、少年は嘆息した。


「かような姿をひと目にさらさなくてはならぬとは。腹が立つ」

「……天」

「私を起こした罪は重いぞ、人間の王よ」


 低い声で呟き、天はレイの隣に立った。


「去れ、人間よ。この椅子はおまえたちには重かろう」


 言うや、燃えていた松明が一斉に消える。

 ひっ、と悲鳴を上げたのは首飾りを手にしていた男だった。


「化け物! 化け物だ……!」


 手の中のものを放り出して、身を翻す。恐怖はたちまちほかの者に伝わった。蜘蛛の子を散らすように四方に逃げ出した男たちを無関心そうに眺め、天は首をすくめた。


「天。どうして……」

「おまえの声はきゅいきゅいとかしましい」


 背にかかる銀髪をかき上げた天が腕を振ると、あたりに満ちていたはずの水はさっと引けた。猩々の話では、天はかつて宝珠を奪われたため、夜になると龍の力を失い、姿を保っていられなくなるということだった。しかし姿はともかく、力のほうは失われていないように見える。不思議に思ったレイに天は言った。


「奪われた宝珠は、我が后の一族の身に取り込まれた。その後、血とともにかの一族に受け継がれている。つまり、今はおまえに」

「そう……だったのか」


 ならば、この身体のどこかにも龍の宝珠が息づいているのだろうか。あの大きくて美しいものとおなじ。不思議な感慨に駆られ、レイはそっと息を吐いた。


「レイ・レイ・リー・シャン」


 改めて口にする。それは己の名であり、この大きくて美しいものの名でもある。

 最後の龍の王、その龍を謀り、玉座を奪った一族のそのまた最後の皇女。


「贖罪と祈りがこの名にはこめられている」

「祈り?」

「龍の王の帰還を。あなたは身勝手だと思うかもしれないが、わたしの父と母は古く龍の敷いた善政を理想としていた。わたしにもあなたのようになれと」

「私にこの地を治める気はもはやない。玉座はおまえの好きにしろ」

「……そう言うと思った」


 ぞんざいに投げられた言葉に、レイは苦くわらった。


「わたしの求婚にはこたえてくれないのか」

「最初からそのように言っていたろう」


 ならば、とレイは杖を置いてよろめきながら天に歩み寄った。


「代わりに、わたしがあなたの帰る場所にはなれないか」


 朽ちた玉座の前に立つふたりに、強い風が吹き抜けた。

 目の前の大きく、美しいものに比すれば、卑小なこの身である。いまだ運命を切り開くに値するかどうかもわからぬ。されど。


「レイ・レイ・リー・シャン。この名を負い、再びわたしは生きることにする。今は空の玉座に帰るために」

「欲を捨てれば、穏やかに命をまっとうすることもできたろうに。身を滅ぼすぞ、人間よ」


 天の声は冷ややかであったが、レイはもう惑わなかった。この大きくて美しいもののやさしさを知っていたから。


「取り戻した玉座の前で、あなたを待つ。ずっと待つから。いつか、気が向いたらわたしのもとへ来い」

「ひとの命は短い」

「わたしはしぶとく生き抜くぞ」

「弱く、嘘吐きで、薄情だ」

「情が深いたちなのだと言っただろう」

「おまえを食らえば、私は龍の身を取り戻す」

「すまないが、あと五十年ほど待ってはくれないか」


 龍のときと変わらぬ天穹の眸がレイを見つめた。天の五指がレイの喉をつかむ。顔が近づいてきたので、レイは目を瞑った。瞼裏に暁天に飛翔する大きく、美しいものを思い描く。そのものを見上げたとき、レイは思ったのだ。天だ。これが天だ、と――。


「……なれど、そなたの歌声は食うには惜しいゆえ」


 ふっと喉をかすめた吐息がゆるしを示したのだと気付いたのは、一拍のち。

 レイの額に唇で触れて、天はこのように約した。


「食らうのは死したのちとしよう」




 結、


 その後のレイ・レイ・リー・シャンの名は、古き伝説のなかに見て取れる。国内の有力部族をまとめあげ、異民族を排した少女は、齢十八で玉座についた。

 彼女は生涯、夫を持たなかった。

 一説には、白銀の龍を伴侶としたというが、古き時代のこと、定かではない。彼女が天寿を全うした日、民びとは貴族から市井の子どもに至るまで一様に喪に服した。悲しみに暮れる大地に、夜明けの光が射す。暁天をゆっくりとのぼっていく白銀の龍を、複数の人間が見たとされる。

 まるで天の流した涙のようであったと、今をもって語られている。

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