「女王殺しのけだもの」
女王殺し。
国に天災降りかかりしとき。危機ありしとき。その政に乱れありしとき。
紅河(こうが)の傀儡女王は、次の女王の手にかかって死ぬ。
*
古神の眠れる土地、紅河。
その中央を分断して流れる大河は「女王殺しの河」と呼ばれる。湖とみまごう広さを持つ大河に橋はなく、代わりに両岸に渡しの小舟が数艘とまっている。その船着き場から、冬の凍てた氷に閉ざされる前の大河を眺める少女がひとり。灰の上衣にきりりと茜染の帯を締め、手には無骨な太刀を握っている。とわは、この国の次の傀儡女王だ。あすの夜明けには、正式にこの太刀を継承する。
継承の儀で、新たな女王は前の女王を屠らねばならない。
今の女王もそうして女王を継承したし、その前の女王も、その前の前の女王も皆、そうしてきた。国に天災が降りかかりしとき。危機ありしとき。その政に乱れありしとき。この国の傀儡たる女王はその身を大河に捧げて、次の治世の平穏を約束する。在位は、時代によってさまざまで、五年のときもあれば、十年のときもあり、六十年女王でい続けた例もある。今の女王は、二十五年。十三歳のとわにとっては、母ほどに離れた歳の女人だ。
「ここにいたのか、王女殿下」
風に乱された髪を手で押さえていると、若い男が隣に立った。夜天にも似た真っ黒な衣に身を包み、白い手は長い袖の中に隠している。とわには、女王の護衛が何人かついている。されど、この男の魔性をもってすれば、ひとの目を欺くことなどたやすいらしい。彼は、そのときどきで姿を変え、性別を変え、名前を変えて、傀儡たる女王の前に現れる。古神が眠ったあとの、この河に棲むけだもの。
「嫌味ですか」
王女殿下の呼称に、とわは眉をひそめる。
「一年前までは、見世物小屋のとわだったわたしへの」
「おれは次の女王を『王女殿下』と呼ぶだけだよ。他意はない」
「どうだか」
冷たく目を眇めたとわに、男は軽薄そうに肩をすくめた。とわの額には、花のかたちをした赤のしるしが浮かんでいる。このしるしが次の女王を示す。一年前。歓楽街の見世物小屋で、花売りをしていたとわの前に、けだものが姿を現した。そして、額にふわりと口付けるや、国中に届く魔性の声でこう告げたのだ。
紅河の女王に祝福あれ、と。
次の女王はこのように決まる。過去には生まれてまもない赤子や老婆が選ばれた例もあったらしい。今の女王陛下も、もとは外つ国の芸妓だったのだと、彼女自身が教えてくれた。
けだものにさらわれて、とわが王宮にやってきたとき、迎えた女王はやさしかった。あなたを永年待っていたのだと、尊いものを前にしたかのように膝を折る。その横顔に広がるのは、苦悩と疲れ、そして昏い喜びだった。
何が彼女にこのような顔をさせるのか。とわはただ、呆けた顔で女王を見上げるばかりだったと、……記憶している。
「思い悩む顔をしているね、王女殿下」
とわをにやにやと眺め、けだものが言う。
このけだものをうつくしく、穢れのない少女のようだと今の女王はたとえるけれど、とわには何故か最初から、残忍で醜悪な男の姿に見える。そのことについて問うと、おれに何を見るかは君たち次第なんだよ、とけだものは酷薄な笑みを浮かべた。
「いまの女王はわたしに、ひとの心をくれた」
「へえ。ためらっているの? 彼女を殺すことを」
「あの方がいなくなってしまったら、わたしはかなしい」
けだものは所詮けだものだ。だから、とわはひとには決して明かさない胸のうちをぽつんと語りかけることがある。けだものにひとの心はわからない、と知っているから。
王宮にとわを迎え入れた女王は、傀儡としての在り方、たちふるまい、知識と教養、その他すべてをときにやさしく、ときに厳しく教えてくれた。継承は、今の女王にとっては死と同義だ。けれど、女王は文句ひとつ言わず、どころか、とわとあたたかい食事をともにし、眠れぬ夜は子守歌をうたい、母のようにいとおしんでくれた。人形のようだったとわに心を与えてくれたのは今の女王である。とわ。こちらへ来なさい。呼びかける女王の声に幾度、すくわれたことか。
「過去に、女王を殺さない王女殿下もいたよ」
誘惑するように、けだものが言った。
底無しの闇にも似たその目を見つめて、とわは首を傾げる。それですぐに目を輝かせるほど、とわは無邪気ではなかったし、このけだものの本質をわきまえていた。
「その王女殿下はどうなったのですか?」
「さあね。遠い昔のことでもう覚えてないけれど、今も女王の継承が続いているということは、何も変えられなかったんじゃない?」
つまり、別の誰かが女王を屠ったと。
「女王陛下はわたしが来るのを待っていたようでした」
「彼女たちは皆、しまいにはそうなる。最初は闘志と理想に燃えていた女王もいたけれど、そういう女ほど、早々に折れる。君たちがせわしなく交代を繰り返すさまをおれは嫌ってほど見てきたよ。ほんとうにうんざりするくらいの年数」
「わたしもいずれそうなる?」
とわは静かに問うた。けだものは珍しく言いよどむような間をあけてから、にんまり、口端を上げた。
「我が麗しの王女殿下は、闘志にも理想にも燃えていないように見えるけど?」
揚げ足とりの言葉には耳を貸さず、とわはふいと視線をそらした。
紅河の大地を切りひらき、滔々と水は流れている。
その水面にひらり、ひらりと、色の転じた葉が舞う。くるくると。いのちの最期の輝きを放つように。うつくしい。壮絶に。あした、この河のほとりでわたしの前でこうべを垂れる女王も、同じようにうつくしかろう。その最期の輝きをのみこんで、紅河に新たな春がやって来る。とわは、とわの名も、とわと呼ぶ女王のやさしい声もうしなってしまうけれど。それでも、とわの女王陛下が望むなら、とわはこの太刀をためらいもなく振り下ろすのだろうけれど。
「おまえは、女王に仕えるものだと聞いたのですが」
「君がおれを惹きつけて離さないうちはね」
紅河の女王を決めるのは、このけだものだ。けだものに見放されたときが、女王としてのわたしの終わり。
――紅河の女王に祝福あれ。
次にその言葉を聞くときの己をつかの間、夢想した。
「何かを願うかい、王女殿下。一日早いけど、おまけして、叶えてやらないでもない」
「それではひとつ」
落ちゆく一葉をその目に焼き付けると、とわはけだものに向き直った。
「わたしの名を忘れないで。……おまえだけは」
あした、女王殺しをするわたしの。
たったひとつの、愛はここに置いていく。
気のせいかもしれない。けだものは長い睫毛をすこし震わせたようだった。気のせいだろう。けだものに、心などないのだから。
「いいだろう。君がおれを惹きつけるあいだは、呼んであげる。何度でも」
軽薄で、移り気なけだものは、まごころのない約束をひとつくれただけだった。道理である。だってこれはけだものだ。人間ではない。わたしの愛した人は、女王陛下。ただそれだけでいい。それだけが永年、わたしの誇りになる。とわ。彼女が呼んだその名とともに。
目の端を染めてすこしわらい、とわは太刀を取って、河に背を向けた。
「さいごまで、おまえを従えてやりますよ。せいぜい共に苦しむがいい」
*
夜明けの霧がたちのぼる中、紅河のゆるやかな流れを女王の血が赤く染める。
かくして、九十八回目の女王殺しが遂げられ、九十九人目の女王が御座につく。
その背もたれに寄りかかり、けだものはことほぎを上げた。
――豊穣の地、紅河の女王に祝福あれ、と。
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