「数多の花と、ただ一片の」

 その姫君は、無知だった。

 花よ蝶よと愛でられ、

 たくさんの花々と甘いお菓子と美しい着物だけを与えられて育った。


 *


 銀砂一袋と引き換えに渡し守に与えられたのは、自国の姫君を川下の処刑場へと運ぶ仕事だった。

 無学な渡し守はよく知らないが、姫君の父親は圧政はなはだしく、税を搾取し、民を酷使し、この国をやせ細らせてきらびやかな宮殿を建てたのだとか。

 たまりかねた民が蜂起を決行したのはつい先日のこと。玉座から引きずりおろされた姫はまもなく己が民の手により葬られるのだそうな。


 船着場から渡し守の舟に乗り込む際、白装束に身を包んだ姫君は育ちのよいものらしく品よく微笑い、お願いしますね、と優しく囁いた。

 心もとない足元を危ぶみ、渡し守が差し出した手に、姫君の小さな手が重ねられる。水仕事などしたこともないような柔肌はどうにも頼りなく、壊れ物でも扱うかのように、渡し守はそ、とその手を握りやる。

 ――微かな震えに気づいてしまったのは、まるで悪戯。

 思わず姫君をうかがえば、彼女は震える己には気づいていない様子で、こちらの視線へ戸惑ったように首を傾けた。身体は確かに怯えているというのに、それに気づくには心があまりにも未熟なようだ。

 なんとも無知でたわいない。

 さしずめ宮殿の奥深くで何も知らずに育った姫君であろうに、と渡し守は思うのだけど、時代の流れとは時に弱者に容赦ない。


 時代転変の際、血が流れるのは必然。

 どこに無血にて終わる謀反があろうか。

 どこに前の皇族を殺さなかった民がおろうか。

 古き者は根絶やしにされるのだ。新しき世の礎に。

 だからこれは、人の世の理。

 王を、そしてこの小さな姫君を殺めなければ、時代は変わらぬ。


 渡し守は櫓をこぎ、舟を出しつつ、自然胸に落ちた苦い気持ちをまぎらわすように、なじみの舟唄を口ずさんだ。

 舟を漕いでは上がる水音が、唄に旋律をつける。


 川岸に咲き誇る桜の樹。

 はらはら舞い落ちる薄紅の花弁をぼんやり眺めていた姫君はふと微笑み、


「綺麗なお声ですね」


 と柔和な表情で褒めなすった。

 父と同じくごうつくならよかったのに、そこで微笑うたのはひどく普通の少女で、渡し守はどうにもいたたまれなくなって、唄をやめた。

 とたん、姫君はひどく悲しそうな表情をする。すぐに胸をついたのは、後悔、だったろうか。

 姫君の気を少しでも紛らわせられたかもしれないのに。唄い続けていればよかった。

 渡し守は目を伏せて、それから首を振る。


「……貴方を死地へと運ぶ者の声です」


 わびる代わりに漏らされた言葉はどうにも苦い。


「でも、綺麗」


 姫君はゆうるり首を傾けて、空を眺む。

 春の光に包まれる世界を眺む。


「空も綺麗」


 ひとひら。


「川も綺麗」


 ふたひら。


「花も綺麗」


 言の葉が生まれるたび、そして散るたび、姫君の命の刻限は迫ってゆく。

 死ぬ前に思うことは、他にもあるだろう。

 見ることは、他にもあるだろう。

 命を削りながら、何故なおも姫君は言葉を紡ぐのか。


「世界はとても綺麗。    今までどうして気づけなかったのでしょう」


 呟き、姫君は目を伏せる。

 ――もう少し、早く愛してやりたかった。

 微か、震える声でそう呟いた。

 その中に混じってしまったのは後悔だろうか。それとも哀惜だろうか。


 あるいは、と無知なる人形であった姫君を眺め、渡し守は思い直す。

 この少女は、育まれつつある感情を、紡いでいるのやもしれぬ。

 ただひたすらと。迫りつつある命の刻限の中で。


 何故だろう。

 何故、王は姫君をもっと早く外へ出してやらなかったのだろう。

 死への道のりにて、初めて外を出たなんてあまりにも。あまりにも。


「何故…、」


 紡ぎかけてしまった言葉を、中途でのみこみ、渡し守はまた櫓を漕いだ。

 口にしてしまっては、かえってこの無垢なる姫君を傷つけてしまうような気がしたのだ。


 陽光にきらめく水面へ、すぅっと一筋の航路が引かれてゆく。

 白蝶が櫓の先へ止まり、またひらり、どこぞへと飛んでいった。

 春のぬるい水を泳ぐ魚、蛙の声、そよめく花風、土手に咲いた花々は咲き誇り、光を謳歌し、そうして“春”は、枯れゆくさだめの姫君を置き去りにする。

 何故なら、これから時代は変わるのだ。

 渡し守のような貧民が蔑まれることもない、愚鈍な王に税を搾取されることもない、争いもない、美しい世が訪れるのだ。

 けれどそこに、この姫君はいない。

 この姫君だけは、花を咲かすこと、叶わない。喜びを分かち合うことも。微笑い合うことも。何一つ。

 それを惜しいと思うてしまうのは、刹那、同舟で言葉を交わしたゆえの同情だろうか。下賎な、憐れみやもしれぬ。

 ――それでもわたしは、恨みつらみを述べずに、花美しと仰るあなたを美しいと思う。


 ぼちゃん、と飛んできた石のひとつが舟の手前で水音を立てた。

 渡し守は櫓を止め、顔を上げる。

 遠めに見て取れる船着場には、血に飢えた群衆がすでに姫を待ち構えていた。姫君をはじめとした王族を貶める声が数多。叫ばれる。血に飢えるように。血を欲するように。……ああ、醜いのはどちらだったのか。

 渡し守はそれらを振り払うように、姫君を振り返った。

 黒き髪に、白装束に、落ちる薄紅の花弁を無礼も承知で取り払いながら、

 その耳元へそっと囁きかける。


「さらって、あげましょうか」


 花狂い、したのかもしれない。

 あとのことなど考えず、そう持ちかけていた。

 何よりも、この姫の咲かせる花を渡し守は見たかった。

 ほんのたまゆらののち、姫君はあどけなく、微笑んだらしかった。


「あなたさままでも身を散らす必要はございません。優しい方」


 囁き返し、姫君はかがみこんだ渡し守の頭へ、ひとつ、口付けを落とす。

 無知なる姫君は、空を、花を、民を、いとおしむことを知った。

 それはあるいは、一番残酷な罰だったかもしれぬ。

 けれどもしかしたら、最後の幸福であったのかもしれぬ。

 花のごとくある少女は、ただほんの一時『姫君』の仮面を取り去りて渡し守へと手を伸ばす。

 握ってやれば、彼女は淡い微笑をたたえ、ゆるりと首を振った。


「舟を出して。そしてよろしければ、また唄を聴かせてください」

「……仰せのままに」


 はらはらと。

 舞い狂う花に混じりて、唄の葉が散る。

 残り少ない航路を、残り少ない少女の綺麗な命を、想って渡し守は唄をうたった。



 船着場では、いつの間にか罵声が息をひそめ、もう石を投げる者もいない。

 訪れた厳かなまでの静寂の中、白装束の姫君の前に、民らは声もなく叩頭した。



 *



 史実は、のちに語る。

 かの王朝、治世二百年にして民の蜂起によりその幕を閉じる。王、王妃ともども処刑、歓喜する民あふれんばかり、路上にて喝采の声途切れることなし。しかし末の姫君処刑の折のみ、その場に集った者たち皆、涙流しながらその首を斬ったと。……げに不思議なこともあるものよ。

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