「BLANCA」

 エディルフォーレ、

 あなたは雪女王が支配する国。


 *


 この国の夜は、昏い。

 凍てついた閂の外れる重低音とともに、分厚い鉄で作られた扉が躯体を傷つけるような軋みを上げながら内向きに開いた。霜を薄くまとった階段を転ばぬよう注意して歩く。先を行く禿げた鼠のような御主人様の手元では、カンテラのほの白い明かりが所在無く揺れている。わたしは知らず詰めていた息を吐いた。


 常冬の王国、エディルフォーレ。

 この国の夜は昏い。月光は鋭く、星々は冷たい。年の半分以上降り続く雪は針葉樹の森をも真白に染める。雪女王の支配する国。わたしが生まれ育ったのは、戦火の絶えぬ、そんな国だ。

 手すりで身を支えながら階段を降りきると、狭い洞穴を切り開いて作った空間が現れる。御主人様は尖った顎をそちらに向けて、白く凍った結露をまとわせている鉄格子をわたしに示した。

 牢獄だった。あるいは鉄格子の先にいたのは、俘虜であった。『将軍』。御主人様は揶揄混じりに、冷たい床に転がる背中に向けてそう言った。わたしの国が戦火に巻き込んだ小国の将軍、であるという。――だが、おまえには俘虜でいい、それで十分さ。名も知らなくていい。どうせ雪がなくなければ、別棟の部下どもと一緒に王都の収容所に連れて行かれる。

 わたしの細い首に鉄鎖の重い懐中時計をかけながら、御主人様は口端を歪めて嗤った。しょうぐん。ふりょ。物覚えの悪い小鳥のようにわたしはそれを繰り返す。傷つき、痩せた背中をたとえる言葉を、御主人様は他に教えてくれなかったので、わたしは目の前に横たわるそのものをふりょ、と覚えることにした。御主人様に銅貨一枚で買われたわたしは名無し(ノーネーム)、このとき十に届いたばかりの幼い子どもだった。


 *

 

 エディルフォーレ北地区三番監獄。ここでの食事は朝と夕の二回、朝はスープと黒パンを半切れ、夕はスープと黒パンを一切れと決まっていた。それ以上をやることは許されておらず、スープは普通の何倍にも薄めて出さなくてはならない。わたしはここに連れて来られた最初の日、濃い味のスープを出してしまい、御主人様に罰として頬を殴られ、下着一枚のまま外に投げ出された上、一食を抜かれたため、ことのほか注意している。わたしの御主人様は、三番監獄の獄吏を務めていた。

 エディルフォーレ。あなたは雪女王の支配する国。

 外では遅い日が上っても、獄舎の中はまだ昏い。痩せた身体をこごめてうずくまっているそのものをわたしは格子越しに一瞥し、手に持ったトレイを足元から中へと差し入れた。天井から地面に刺されただけの無骨な鉄格子はトレイの行き来ができるように一部分だけがくり抜かれている。といっても、人間が通り抜けられるような空間はない。行き来できるのはせいぜいゴミ場に住んでいる蝿たちや百足くらいだろう。それも短く淡い夏の日々に見かけるだけで、今はいない。わたしはトレイを中へ押し込むと、いつもそうしているように足の長い丸椅子を引き寄せてきてそこに座った。

 目の前に、ひとり。別棟にはこのものの部下が幾人か。この監獄に、他に囚人はいない。古の遺物である監獄は普段使われることがほとんどなく、先日隣国との国境線に近いこの場所で小競り合いが起こり、「将軍」とその部下が囚われた際に久方ぶりに扉を開き、雪が解けて道が開けるまでの間、繋ぎ置かれることになったのだった。ここに、俘虜はひとり。なので、わたしは日がな足の長い丸椅子の上で小さな身体を丸めて、俘虜を見張っている。


 わたしはおよそ一時ほど息をひそめて丸まっていたが、首にぶら下げた懐中時計が六時になったのを見て取ると、手に持った鈴を三回鳴らした。起床のベルである。塊がそれでも動かなかったので、壁から長い突っかけ棒を引っ張ってきて、鉄格子の合間に差し入れた。微動だにしない俘虜の肩のあたりをこつんとつつく。何度か同じことを繰り返していると、俘虜が瞼を震わせて目を開いた。濃い睫毛に隠された深い夜に似た藍色の眸。未だ茫洋としたそれを手の甲でこすり、ううんと唸る。やがてわたしを認めて、「    」と言った。それを口にするときの俘虜は、藍色の眸を人懐っこく細める。朝、目が覚めると最初に、俘虜は必ずその同じ四音を発した。いったい何のまじないだろう、御主人様が教えてくださらないので、わたしにはわからない。

 わたしがトレイを指差すと、俘虜は長くなった黒髪を枷のはめられた両手でやりにくそうに紐でくくりながら、トレイの上のものを見やった。一時間近く置いていたせいで、ただでさえも石のような黒パンはいよいよ冷たく固くなってしまっていた。黒パンを鉄格子で叩いて固さを確かめるようにすると、俘虜は口元に苦笑を引っ掛け、ぱんと手を合わせて「      」と言った。あとは黙々と食べる。俘虜は、若い。痩せ細ってもなお獣のごときしなやかな身体。しかしそれは成人した男性のような硬さがなく柔らかで、どこか頼りなく、細い。十八の少年だと聞いた。禿げた鼠顔の御主人様は、貧しい小国だからさ、と嘲笑いつつ教えてくれた。十年に渡る内乱で重鎮がみな斃れ、仕方なく十八の餓鬼が国王をやって、十八の餓鬼が宰相につき、十八の餓鬼が将軍をやっている。ほかにひとがいねぇのさ。弱い国。わたしにはよくわからないけれど、御主人様が言うのだからそうなのだろう。御主人様が言うことはいつだって正しい。


「      」


 黒パンと塩スープをきれいに食べきると、俘虜はまた手を合わせてそう言った。六音の、これもまたお決まりの音である。祈るように、感謝するように、俘虜はその音だけはいつも真摯に口にする。どんなまじないか、わたしにはやはりわからない。異国の言葉。俘虜の発する音など、わたしには獣の鳴き声に等しい。御主人様にそう教わった。なにも聞くな、名無し。なにも、かんじるな。かんがえるな。おまえは俺の言うことだけを聞いていればいい。名無し、おまえに名前はいらない。

 御主人様の教えのとおり、わたしは何も感じず、考えない。

 俘虜がトレイを差し出し、わたしはそれを受け取る。「            」何か複雑な長い音が発せられた。尻上がりの、何かを問いかけるような発音。わたしが目を瞬かせると、俘虜はもう一度「        」と尻上がりに言い、それでも反応しないわたしに苦笑して、ひらひらと手を振った。「      」、五音を添えることを忘れない。

 

 わたしは空になった器とトレイを持って、監獄を出、外へ向かう。御主人様が寝起きする暖炉で暖めた部屋の流しをわたしは使わせてもらえない。だからいつも、トレイを持って外へ行き、深い雪の中を歩いていって、別の小屋の水道を使う。水は冷たい。手を赤くさせながらきれいに洗っていく。汚れを落とした皿を抱えて獄舎に戻ると、御主人様がパイプに刻み煙草を詰めているさなかだった。目に留まったため、殴られる。今しがた洗ったトレイが落ちて激しい音を立てた。転げた床は、氷のように冷たい。ふるっと身じろぎすると、貫頭衣を剥かれて、熱くなった煙草の煤を腕と背中と太腿に落とされる。わたしは赤子のような悲鳴を上げた。なぁにすぐ冷える、なにせエディルフォーレだ。御主人様は嗤った。そのとおり、御主人様の言うことはいつだって正しい。エディルフォーレ。雪女王の支配する国。戦災で親を失った赤子のわたしを銅貨一枚で買って、お屋敷へ連れて来たのは御主人様。名を持たぬわたしの、すべて。雪女王は残酷で容赦なく、わたしは御主人様がいなければ生きることもできない。


 わたしは外の雪を赤く火ぶくれをした肌にあて、とぼとぼと階段をくだり、俘虜の見張りのため、丸椅子に戻った。寝転がって窓枠に近づく鳥を眺めていた俘虜が何気なくこちらを振り返り、目を丸くしてわたしを見る。


「             」


 長い音だ。十音くらいはあっただろうか。けれど、今は朝食の時間でも夕食の時間でもない。起床の時間でなければ、就寝の時間でもない。わたしが見向きもせず、日々の習性で背を丸めて膝を抱いていると、椅子足を叩かれた。それで、鉄格子の間から枷のついた俘虜の手が不器用に伸ばされていることに気付く。わたしは小首を傾げた。俘虜は何かをまくし立て、それから呆けたわたしの顔を見つめて、困った風に目を伏せた。さっきよりも弱い声で、「         」わたしではない誰かを罵るようにどこでもない場所に吐き捨てる。俘虜の手が枯れ木のようなわたしの腕を取る。火ぶくれに乗せた雪は溶けかかっていた。彼は赤みを帯びた周りの肌を少しさすって顔をしかめ、「       」さっきと似た音を呟いた。わたしはそれを、ただ見つめた。藍色の眸と不意に目が合う。吸い込まれそうな、深藍。エディルフォーレの夜空のような。そこには憤りのような、憐れみのような、異なるふたつの色合いと、月のような淡く透き通った何かがあった。

 俘虜はしばらく自分の身体を探るようにしてから、何も見つからなかったのか、ばつが悪そうに顔をしかめた。自分の指を口に入れ、濡らしたそれでわたしの火ぶくれをするりと撫ぜる。ぬくい湿り気が指先を通して伝わる。なんのまじないだろうか。わたしはされるがままに俘虜の仕草を見ている。俘虜は、わたしの腕と背中と太腿を唾液で湿らせた指先で撫ぜ、最後にわたしの小さな頭をおおざっぱに撫ぜた。わたしは眸を大きく開いて、俘虜を見ていた。

 しょうぐん。わたしはぼんやり呟いた。しょうぐん。ふりょ。わたしはそれ以外の呼び方を、彼について知らない。


「   」


 わたしの呟きが異国の彼に伝わったのだろうか。彼は藍色の眸を細めて、短く三音を呟いた。わたしはほとりと首を傾げる。「 、 、 」、彼は噛んで含めるようにゆっくり言った。それでも反応のないわたしに困った風に笑い、彼は大人びた仕草で「   」と首を振った。


 *


 翌朝、わたしはきっかり六時に起床のベルを鳴らした。

 やはりぴくりとも動かない俘虜の肩を突っかけ棒でつつき、起こす。トレイには薄味のスープが載っている。目を覚ました俘虜がほつれた髪をくくっている間、わたしは自分の腹から黒パンを半切れ取り出し、スープ皿の横に置いた。わたしの人肌で温められた黒パンは少しふやけて、くたっとしている。俘虜はそれを不思議そうに見つめてから、雪がほろりと溶けるみたいに相好を崩し、「    」と言った。その五音になりきらぬ四音は今まで幾度となく聞いたことがあるものだった。「      」と俘虜がまたいつものごとく手を合わせて言い、黒パンをちぎり、スープを啜る。ちぎったパンのひとかけらに何かを詰めて、窓の外の小鳥にやる。

 わたしは長椅子には戻らず、床にぺたんと座り込んで、俘虜の食事のさまを見つめた。何をしたいというわけではなく、ただ俘虜の表情や仕草をつぶさに見ていたいと思ったのだった。そのうち、わたしのおなかがぐぅと鳴る。一心にスープをかきこんでいた俘虜が手を止めたのがわかった。わたしの肉のないぺたんこな腹のあたりを見やり、「         」何かを問いかける。聞き取れぬ八音をなんとなく嗅ぎ取って、わたしは小さく顎を引いた。わたしに与えられる食事は日に一度、ミルク粥だけである。わたしは御主人様の子どもたちと同じ歳とは思えぬほど、貧相で薄い身体つきをしていた。俘虜は、彼は、パンをちぎる。そしてためらいもなくわたしのほうへ半分を渡した。鉄格子から差し出された手に握られた黒パン。わたしはそれをきょとんとして見つめた。動かぬわたしをじれったく思ったのか、俘虜は、彼は、わたしの口に黒パンをえいえいと押し込んだ。

 そのぬくい、柔らかなパン。わたしは差し出されるがままにパンをぎこちなく齧った。齧って、嚥下する。そうすると、目頭が熱くなって、ぽろぽろと涙が頬を伝った。彼は、驚いた顔をする。手のひらがパンから離れ、わたしの頬や目尻をせわしなく拭う。なみだが、ひとつもこぼれ落ちないように。屈託なく飄然とした常に似つかぬつたない仕草だった。彼は涙を拭うことに慣れていない。「 、 、 」、わたしは昨日彼の発した音をたどった。きれいな、星のような響きだった。


 それからの日々。

 わたしは貫頭衣の下で毎日黒パンを温め、彼に持っていった。彼が目覚めるまでの一時間、黒パンを腹で温めるのがわたしのささやかな日課となり、わたしにとってそれは至福のときとなった。パンを与える。与えたパンをちぎって与えられる。最初から半分にちぎるのではなく、彼の手から与えられるパン切れをわたしはあいした。彼が時折、何かを忍ばせて窓の外の小鳥にやるパンをわたしは見ないようにした。


 エディルフォーレ。雪女王の支配する国。一年の半分が雪に閉ざされるその国に、遅く、淡やかな春がやってくると、わたしは雪の下にそっと芽吹いた野の花を摘んで、彼のもとへ持っていった。あかぎれた手の上に、花を置く。白い、雪結晶がごときその花。彼は藍色の眸を和ませ、「  」短く言った。まるで大事にしまいこんでいた宝物を差し出すかのようなその響き。彼の口にした音を繰り返すのは、このときにはすでにわたしの癖となっていた。「 、 、 、 」、四音。可憐な音を歌うように舌の上で転がすと、彼は微笑し、「    」同じフレーズを口にして、わたしの灰かぶり色の髪に花を挿した。彼の指先が「    」歌うように四音を転がしながら、わたしの髪を梳く。「    」「    」彼はわたしを見つけると、同じ四音を繰り返す。エディルフォーレ、常冬の国にもうすぐ春がやってくる。


 *


 だけど、その朝。

 エディルフォーレ。雪女王の支配する国。春の淡い日差しが鉄格子の結露を溶かしたその日、彼はいなくなった。前の晩、彼はわたしに寝台の中でずっと眠っているようにと身振り手振りで訴えた。なのでわたしがシーツをかぶってじっとしていると、外で火事だ、と叫ぶ使用人の声が聞こえ、あたりが騒がしくなり、馬の高いいななき声が聞こえ、そして。すべてがおさまったとき、彼と彼の部下と数騎の馬が消え、からになった煙筒だけが草むらに残されていたのだった。おそらく彼と彼の部下だけで為した脱走劇ではないだろう。ちぎった黒パンを咥えさせていた小鳥の果たした役割が、わたしにはなんとなく察しがついた。彼の時折怜悧に窓の外へ向かう眸は、おそらくずっと十八歳の国王と十八歳の宰相のいる故国に向けられていたのだ。


 エディルフォーレ北地区三番監獄。獄舎は騒然となった。俘虜を逃がしてしまった。禿げた鼠顔の御主人様は黄ばんだ前歯で唇を噛み、村中の男どもを集めて、エディルフォーレの森に追っ手をかけた。前後して、三番監獄には王都の豪奢な馬車がやってきていた。雪が解け去り、道が開けるのを待って、将軍とその部下たちは王都の収容所へ輸送される段取りであったらしい。王都の役人にてひどく叱責をされ、御主人様は前歯の突き出た顔を赤黒く歪めた。不穏な気配を感じ取ったのか、御主人様の奥方と子どもたちは、ひっそり馬車で遠方に去っていった。


 夕方、わたしは獄舎の貯蔵庫にいた。騒ぎがにわかに落ち着くのを待って、寝台から這い出たわたしは探しものをしていたのだった。梯子を使って棚をのぼり、大きな籠に積まれたそれをひとつふたつと取って、貫頭衣の下に入れる。けれど、そのとき。

 名無し(ノーネーム)!

 恐ろしい怒鳴り声がわたしを震え上がらせた。

 御主人様であった。わたしを見つけた御主人様が貯蔵庫に押し入り、硬直するわたしの頬を殴りつける。わたしの小さな身体はべたんと力なく床に転がった。御主人様はなおも叫んだ。知っていたんだろう、見ていたんだろう。うらぎったな、うらぎったな名無し! おまえを買い、育ててやったのは俺であるものを!

 殴りつけられ、蹴られ、鞭で何度も叩かれる。わたしは身をこごめ、貫頭衣の下のものを守るようにして、御主人様の怒りがおさまるのを待った。やがて王都の役人が呼びに来るに至って、御主人様はわたしの頬に唾を吐きかけ、貯蔵庫を去って行った。わたしはのろのろと腹を抱えて立ち上がる。そして貫頭衣の下にいくつものそれを詰め直して、足を引きずり階段をのぼった。首にかけられた鉄鎖の懐中時計は置いていった。


 騒がしい獄舎を逃げるように離れ、昏い森を目指す。夜空には白銀の月が架かり、さめざめとした光が斑に雪の残るエディルフォーレの森を照らしていた。普段はひとの入らぬ森を、数知れぬ足跡が踏み荒らしている。黒い樹間からのぞくカンテラの明かりは、彼を探す村人たちのものだろう。防寒着もなければ、ブーツも持たないわたしは寒さに打ち震えながら、貫頭衣の下のものを大事に抱えて、彷徨い歩く。「 、 、 」「 、 、 」、小さな声で彼に教わった三音を繰り返す。星のような、美しい三音。頭上に、ちいさな、銀色の星を見つけたとき、わたしはなんとはなしにあの方角へ向かおうと決めた。

 月は誘惑者。星は旅人。そうであるのに、その小さな銀の星は動くことなく、空の一点をとどまっているように見えた。星明かりに励まされながら、歩き、休み、歩き、休み、また歩いた。「 、 、 」「 、 、 」、凍えた息を吐きながら、わたしは物覚えの悪い小鳥のように繰り返す。こごえていないだろうか。おなかをすかせていないだろうか。子どもであるわたしは、難しいことがわからず、ただそんな心配ばかりをしている。

 エディルフォーレ。雪女王の支配する国。

 何もかんじず、何もかんがえず。閉ざされた殻の中にいたわたしは、今破りかけの重い殻をまとわせたような身体を引きずってたったひとりで歩いている。三晩歩き通し、果てしなく続いたエディルフォーレの森を抜けると、蒼い空が現れた。わたしは息を吸う。エディルフォーレの住人は、誰も森を抜けることはなかったらしい。まっさらな大地に踏み荒らされた形跡はなく、ただ大きな樹の下に灰色の馬が数騎あり、見知らぬ男たちともうひとり、黒髪を結わえ、毛織のコートを羽織った少年がいた。わたしは息を止めて、彼を仰ぐ。足を引きずって駆けていった。驚く若い男をよそに、彼の、毛織のコートをつかむ。強張った喉が弱く震える。その先の、三音。教えられた、とおりに。


「り、ゆ、ん」


 つたない三音が生まれ、名をかたどる。彼の藍色の眸が瞠られた。

 馬上のそのひとにわたしは貫頭衣の中で温めていた黒パンを差し出す。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。わたしの腕に持てるだけを持ってきた。彼は長い旅をすることになるので、パンは多いほうがよいだろうと思ったのだ。ひとつひとつを大事に彼の手の上に置いて行く。パンは彼の大きな手でも持てきれないようだった。ころりと落ちたひとつを拾い上げていると、不意に脇に両手を通され、馬上に抱き上げられた。わたしの貧相な身体は瞬く間に彼の毛織のコートの中にくるまれる。彼はわたしの腫れた頬や鞭で叩かれた背や腕を撫ぜ、それから肩に額をつけて、何がしかを苦しげに呟いた。何かを悔いるような物言いだった。わたしは首を振る。彼の手のひらが喉に触れ、殴られていないほうの頬に触れる。やわらかな、やさしく綻ぶかのような、


「花ブランカ」

 

 ブランカ。歌うような、可憐な四音。

 それはわたし。わたしを呼ぶ声。わたしは、ブランカ。


「花(ブランカ)、来るかい。僕と一緒に」


 頬を包む人肌のぬくもりに目を細め、わたしは微笑んだ。うん、いっしょにつれていって。リユン。――エディルフォーレ。あなたは雪女王の支配する国。わたしは花ブランカ、あなたの腕から旅立つ。


 *


 花(ブランカ)。

 それは、のちに北大陸に名を馳せたリユン将軍の、生涯あいした女の名。

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