「花に嫉妬」

 年下男に恋をした。

 遊ぶように花を撮る、その神様みたいな指先に恋をした。


 *


 ハルは小鳥の年下の彼氏である。

 二十四歳。院生二年目、就職を目前にした小鳥に対して、ハルは十九歳。もうすぐハタチになるけれど、三月生まれのハルはまだぎりぎりの十代で、選挙にだって行けないし、お酒だって飲めない。年の差五歳、これはなかなかに犯罪くさい。小鳥はお金でハルを買ったわけでも、年上女の熟練スキルでハルをたらしこんだわけでもなかったが、現実、院生二年目のオンナと大学二年のオトコが付き合うというのはそれだけで少し犯罪くさいのだ。

 友人たちやサークルの先輩後輩たち、あちらこちらから注がれる疑惑の視線がうっとおしいので、近頃小鳥は、うんそうよそうなのよ、ハルをてなづけたのはあたしなのよ、とゆうか奴のドーテイを奪ってやったのもあたしなのよ、と先に笑ってしまうことにしている。ちなみにハルというのは彼の本名ではない。ある日、突然パッションピンクになっていた彼の頭を見て、写真部の女の子が名付けた。お花畑みたいな頭だから、ハルくん。別に美術専門系でもない、普通の地方大学のキャンパスで、パッションピンクの頭は浮きまくる。お花畑のハルくん、はS大では結構な有名人である。


 対する小鳥。小鳥は己を可愛い、と自負する美人である。

 小鳥は地方大学の近所の子が犬の散歩しに回っているようなのどかなキャンパスにいつも完璧なフルメイク武装と髪から爪先まで隙ひとつないコーデで現れる。小鳥ちゃんは可愛い、とみんなが言う。あたりまえよ、可愛いにきまってるでしょあたしが可愛く見えなかったらあんたの趣味がおかしいのよ、と小鳥は内心こぶしを固めつつ、賞賛はぜんぶありがたく受け取ることにしている。変に謙遜しないのは小鳥の主義だ。ゆえに努力は惜しまない。暇あればきゅいきゅい磨いている爪にはいつもきれいなネイルを施しているし、髪はくるくるに巻いて、枝毛の一本だってない。お洒落費用のためのバイトに精を出して、だけどゼミで他の子たちに負けたくだってないから、発表の準備もきっちりやる。そしてあいている時間はすべて趣味のカメラにつぎ込んだ。

 そういうわけで小鳥はいつもへたへたに疲れ果てて、ハルの一人暮らしの部屋になだれこむ。つかれたつかれたよう、ちょっとハルあんたあたしの肩揉んで、それと豆乳と豚肉とネギ買ってきたからお鍋作って、あとメイク落としてマニキュア落としてつうか身体洗ってもうめんどくさいなにもしたくない。ハルのベッドに大の字になり、駄々っ子よろしくばたばた手足を振ると、ことりさんことりさん俺あんたの召使じゃないよ、とハルはためいきをつきつつ、ベッドのそばに片膝をついて、小鳥の罅割れたファンデを悪戯につつくった。やだーさわんないで馬鹿えっちハルあんたキライ。小鳥がまたばたばたすると、不満げな嘆息を落として彼は、そうです俺オトコだもんつうか今のはことりさんが悪い、とさかりのついた十代の雄らしく小鳥の事情などお構いなしに襲ってきたりなどする。


 *


 この年下男との出会いをどんな風に語ったらよいのだろう。

 ジョージア=オキーフ。

 花と骨と荒野の画家。小鳥のあいしてやまない女神は、小鳥の恋の女神でもある。ハルは、写真を撮る。小鳥も小鳥でカメラをあいしている。共通の趣味である。ああ、だから、と周囲はだいたい合点のいく顔をする。だから、年上女と年下男で、気の強い美人な小鳥ちゃんとパッションピンクのお花畑なハルくんでも相性合うんだと。一理あるが、おおいに間違ってもいる。カメラなんて、おんなじものをあいしているせいで、小鳥はときどきハルを殺したくなるし、ときどきハルを憎悪するし、ときどきハルをめちゃくちゃにしてやりたくなる。実際、あたしは隙さえあればハルの喉笛に噛み付きたがっている、と小鳥はハルのまるい喉仏を眺めながら不穏なことを考える。

 だけども、ハルに出会ったのは確かに『オキーフ』がきっかけだった。

 去年のことだ。秋の大学祭の廊下展示で、遠目にそれを見つけた。

 大写しに花を撮った写真。カラーリリー。

 オキーフの真似をしてやがる、とひとめ見て気付いて、別棟に移動途中だった小鳥はひとり憤慨した。オキーフの、ことのほか花モチーフをあいする小鳥はこんな模倣品など認めない。一言物申してやろうと思って向き直り、それからビューラーでくるんとカールさせてマスカラを重ね塗った重い睫毛をはたはたさせた。

 その花は、淫靡だった。この上なく。

 いやらしい。むせかえりそうなくらいに内側からくゆる雌のにおいに、息が詰まりそうになる。だが、美しい。カラーリリーの滑らかな白い花弁は透き通るような清廉さを宿してきらめくかのようだ。清楚な花びらの内側に気だるい雌の淫靡さをひそめている。その、背徳感。題名もよろしかった。オキーフ。逃げも隠れもしない。撮影者の自負と、オリジナルに対する敬愛の念が感じられた。花を、美しく撮る者は多い。そしてそれは案外たやすい。花は、美しいからだ。それそのものが、美しいからだ。けれど、このにおい立つような淫靡さはなんだ。

 小鳥は呆けて、ホワイトフレームの額の下にピンで刺された撮影者のプレートを食い入るように見つめた。サカガミ・リョウ。きっちりインプットすると、廊下展示を主催している写真部の部室に押しかけ、サカガミリョウどいつ、とぶしつけに問う。

 俺ですけど、と畳に寝そべって雑誌をめくりながらだるそうに顔を上げたのはどう見ても自分より年下の学部生だった。クソ。舌打ちする。年上なら、あたしよりも濃密な経験が、とか、培った技術が、とかで自分を納得させられたかもしれないのに。小鳥は腕を組んで年下男を睥睨し、みたわよオキーフ、と写真のタイトルを告げる。


「あんたさ。えっちいでしょ」


 胸を張って断言すると、彼は少し茶味がかっても見える眸を瞬かせたのち、ぷっと吹き出した。「はい、えっちいですけど」答えてそのまま何かのツボに入ったらしく、腹を抱えてごろごろと爆笑する。そのときの部室にはハルと小鳥以外の誰もおらず、すっかり戦闘モードに入っていた小鳥は肩透かしを食らってこの奇妙なパッションピンクの年下男を見下ろす。

 だってさぁいいですか、ことりさん、あのね。あんた可愛いでしょう。好みどストライクの美人なおねーさんが現れて、浮かれてたら一言目がそれなわけ。ウケんよ。あんたね、面白いよね、ことりさん。のちにハルはこう言い訳したけれど、そのときの小鳥は無論知る由もない。ただ笑いすぎて涙目になった男が長い指で眦をおかしげにぬぐう、その仕草を見ていたら、すっかり落ちていた。恋。

 正真正銘の一目ぼれである。


 それから付き合うにこぎつけるまでの三ヶ月。小鳥はこの年下男につきまとわれて拝み倒されて仕方なくオッケーを出した、と周囲に語っている。

 嘘である。

 実際にハルにつきまとって拝み倒して半ば無理やりオッケーを勝ち取ったのは小鳥のほうだ。さっぱり反応の悪いハルに痺れを切らして、駅のプラットホームのふちに立ち、あんたがね、あんたがねえつきあってくれなかったらあたしここから飛び降りて死ぬから!いやでしょお寝覚め悪いでしょおわかったら付き合いなさいよう!と馬鹿なオンナを演じたのも自分である。わかったから、わかったからことりさん。俺もあなたんこと大好きだから、そんな謎の脅しはいらんから、ねーほらもどってきてよ、と毛を逆立てた猫をあやすように言われてむっとなり、なにようあんたあたしのこと馬鹿にしてるんでしょ餓鬼のくせにキライキライ、と叫んで泣きじゃくる。小鳥は馬鹿な女である。そんな愚かしい年上女の世話を買ってでたハルは、徳の高い聖人なのか、それとも自認してるとおりえっちいだけなのか、そのどっちかだろう。で、実際どっちなの、と尋ねると、ハルは弱った顔をしてえっちいほうです、と小鳥をぎゅっと抱き締めてきたりなどする。

 

 この年下男に惹かれた理由。

 それがあの神様みたいな指先だと答えたら、世の恋愛信奉者たちは呆れるだろうか。ハルを知る前に、小鳥はハルに恋してた。

 あの、淫靡な花。それを撮った、ハルの神様みたいな指先。小鳥は知りたかった。彼の少し茶味がかった目にはどんな風にセカイが映るのか。何を見て、何を思い、何を考え、何を感じて、あの表現へとゆきつくのか。知りたい。探りたい、暴きたい。貪欲な衝動ばかりが沸いてくる。

 けれど、同時に小鳥はこのいとおしんでやまない才能を前に打ちのめされてもいる。同じものを見て、シャッターを押す。目の前に広がるのは同一の風景であるはずなのに、彼と小鳥とでは切り取るセカイがまるで違う。出来上がった写真を見て、こんな構図があったのか、こんな表現もできるのかと素直に驚いたり感心したりする他方、果てしなく絶望もする。こんな風に、泣きたいくらいにうつくしいもの。小鳥には撮れない。撮れない。撮れない。突きつけられる己の陳腐さ加減に絶望する。小鳥がメイクやネイルで武装するのは、自分のこの陳腐さを隠すためなんだと気付く。陳腐な感性、凡庸な表現力。血のにじむような努力も、遊ぶようにシャッターを切るハルを前にしたらただのくだらぬ塵灰に過ぎない。あたしは、凡人だ。

 こんな男のそばで呼吸なんてできないと思う。

 あたしに、生きる価値などない。そうとさえ思う。

 だから小鳥はよく泣いて、もう耐えられなくなってくるとびりびりに自分の写真を破った。小鳥は苛烈だ。ハルの写真を破けない代わりにハルの家のものをそこらじゅうに投げつけて破壊しまくり、びっくりして風呂から出てきた男に、あんたなんでこんな写真撮るのキライキライキライ!と叫ぶ。ハルはこの幼稚で暴力的な年上女のいつもの所業に少し眉をひそめながら、なんでよことりさん競争じゃないでしょ、ともっともらしいことを言う。それが、気に食わない。カメラの神様にあいされたあんたにはわからないだろう。己の限界を突きつけられる苦しみ。敵わない、そう認めることのみじめさ。ハルを憎悪して、殺したくなるのはこういった瞬間だ。こんな男、しんでしまえばいい。これ以上、あたしをおとしめないで。溢れるくらいのいとおしさに泣きながら思う。神様。あたしだって、神様の指先が欲しかった。



「ゲージュツカって嫉妬深いんだって。俺、ことりさん見てるとすごいそうだなぁって思うよ。なんでそんなに嫉妬深いの」


 男くさい苦いにおいが染み付いたベッドの上。ハルはどろどろに泣いた小鳥の頭を撫でながら呟く。小鳥は芸術家なんかじゃないから、ハルがどうしてそんな話をするのか、さっぱりわからない。ただ、小鳥が嫉妬深いのは当たっていると思う。ハルへの恋は、嫉妬の恋だ。甘い胸のときめきの代わりに、そこらじゅうのものを壊して自分すら焼きかねない嫉妬の炎ばかりがたぎっている。キライキライキライ、ハルキライ。だけども、ハルが小鳥の誕生日にくれた『オキーフ』を小鳥は宝物みたいに大事に部屋のいっとう好きな場所に飾っている。すき。あいしてる。どうしてこんなにすきなのに、汚くて醜い感情ばかりが沸きあがってくるのだろう。ハルのCDを一枚割ってしまって少ししょぼくれていたので、仲直りのキスを持ちかけると、さかりのついた十代の雄は、でも嫉妬深いことりさんがかわいいんだけどさ、と情欲の滲んだ目で呟いたりなどする。


 *


 目を覚ますと、グレーのブラインドから強い朝日が射していた。眦をこすって、枕元のデジタル時計を引き寄せる。AM 8:25。世の学生さんならともかく、院生としてはまぁ早起きのほうだ。小鳥の年下男は、ベッドの中で未だ惰眠を貪っている。枕に腕を乗せて男の寝顔を眺めてみたりなどしつつ、あっ髭伸びてるな、そらせなきゃな、ととりとめもなく考えたりする。朝ごはんも作ってあげたい。生活能力のない小鳥は料理なんか得意じゃないけど、ちょっと気を利かせたかんじのオムレツとかを作ってあげて、お味噌汁とごはんも用意して。男の口元を緩ませただらしない寝顔を眺めているとそんなことが次々頭に浮かんで、淡いいとしみに駆られたりする。そういうときに見つめる、壁にピンでとめられたハルの写真たちはどれも美しく、いとしく、それはもう息が詰まるくらいにあいしていて。

 花やビルを撮った写真の中に、小鳥を撮ったものが一枚だけある。共通の友人たちはそれを見てよく笑う。ハル、あんた自分のカノジョくらいもうちょっと可愛く撮ってあげなさいよ。そう笑い合う。

 その89mm×127㎜のL判におさめられた小鳥は、眉間にきつい皺を寄せたお世辞にも可愛いとはいえない顔で、足元に咲く花へ一心にカメラを向けている。聞き分けの悪い子どものような頑なな横顔。なによこれ、とハルに訊くと、ことりさんだよ、と年下男は楽しげに笑い、あの神様みたいな指先でまたシャッターを押した。

 この写真たちと男を穏やかにあいするために、カメラを捨てれば小鳥は楽になれるのだろうけども、やはり自分は馬鹿でどうしようもないので、いそいそと彼のカメラを引き寄せてきて、そっと眠る男のふやけた顔にシャッターを押した。ハル。あいしてる。

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