「初恋薊」

 わたしの恋した蚕が死んだ。

 齢十八つの羽化前の蛹だった。



 一、 当日


 五ノ月のつごもりである。その日、蚕が死んだ。

 明つ方の虫送り野辺は荒南風が吹きすさび、どこもかしこも桑畑の木擦ればかりがかしましい。守兵の目をかいくぐって蚕座コザを抜け出した蚕は霧雨のそぼり始めた野をさまよい、数刻後、村外れの崖下で冷たくなっているのを見つけられた。爛れた膚、いくつもの痣とで傷んだ身体であったが、纏った衣が広がり、その血はむらさきに見えた。

 糸は、蚕の亡骸を抱えた。齢十八つの男のひとであるのに、痩せ細って目を瞠るほどに軽い。

「かいこ」

 男を呼ぶ。

「起きて、かいこ」

 守兵がどんなに引いても解けなかったこぶしが、糸が触れるとほどけた。ほろりと手のひらに落ちる。それは薊だった。

 ふいに糸には、わかった。それだけで、すべてがわかってしまった。くるおしいまでの情動が身体の芯を貫き、引き結んだ唇からつたない嗚咽がこぼれる。かなしくて、かなしくて、かなしくてたまらず糸は、かいこ、と、かいこ、かいこ、と幾度も男を呼んで、はだけた紬からのぞいた白い膚に鼻を擦った。

 かいこ。ねえ、かいこ。

 わたしは、恋をしていた。

 ずっとあなたに、ながくてみじかい恋をしていた。

「だいすきよ」

 雨濡れる葛野をむらさきに染めて、蚕はわらっていた。

 のちに、守兵のひとりのじじが蚕に乞われて蚕座の門を開けたとまでは打ち明けたが、このじじもそのほかは固く口を閉ざし、それゆえ蚕があやまって足を滑らせたのか、誰ぞやに突き落とされたのか、それとも自ら落ちたのか、とんとわからぬ、と村人たちは揃って首を振る。



 二、三日前


 その死の三日前の蚕は、羽化間近の齢十八つの蛹だった。


「いらない」

 月に一度捧げる紬を持って行ったとき、蚕は慰み女の白い乳房に赤い噛み痕をつけていた。羽化の儀を間近に控えた蚕は、蔟マブシと呼ばれる宮の座敷牢に籠もって日がな慰み女をいじっている。玻璃に似た淡紅の目を外にやった蚕は、されど構わずまろび出た乳房を噛んだので、糸は紬を腕に抱えたまま浅い体臭と水音が絡むのを待たねばならなかった。ふしだらな蚕の身体は、透明な水のにおいがする。

「いらない」

 二度も三度も慰み女をいらい、ようやく飽いた。蚕は蛹になるのを待つ蚕虫のほの白く透き通った体皮みたいな膚に紬をみだらにかけて、糸に這い寄ってきた。刈安と藍とでそれぞれ染めた糸で織った紬にはみどりの花葉と小枝が風にそよいでいる。

 糸が織ったものである。糸は蚕の機織り娘だった。

 織り上げた五ノ月の紬を差し出すと、蚕は細い眉を寄せておもむろにそれを裂いた。あっ、と瞑目した糸に、だって気に入らないんだもの、と小首を傾げてわらう。

「いとの紬は辛気臭くて、地味でさっぱり俺の趣味じゃない。どうしていとが俺の機織り娘なの。早くいとじゃない子が織るようになればいいのに」

「羽化の日までは、蚕の機織り娘はいとよ。気に入らないなら、どこが嫌なのかちゃんと教えて」

「ぜんぶだよ。いとの織るものは、ぜんぶだいきらい。おばかさんだね、いとは。そういつも言ってなかった?」

「蚕」

 悔しさのあまり唇を噛み締めた糸にふっと顔を寄せ、「諦めて、おかえり」と蚕は化生のごとく囁いた。肩から落ちかけた衣を引き、寝そべって慰み女の残していったお手玉を転がす。蚕の十八つになっても華奢な少女めいた姿に、花鈴の結ばれたお手玉はよく似合う。先代の数多のお蚕様たちの涙と体液とを吸った畳は褪せた乳色をしており、調度ばかりは桐でこしらえたいっとう品であるものの、窓はなく、昼であっても薄暗い。糸と蚕の間には部屋を囲う格子が並び、唯一もうけられた戸にも錠がかけられていた。もう百年以上、使われてきた座敷牢だ。

「いとは、織り直すから」

 鼻歌まじりにお手玉を転がす蚕にそう告げて、糸はきびすを返す。調子はずれの歌をうたうばかりで蚕は取り合うそぶりを見せなかった。


 虫送り野辺。

 鄙びた島国を東と西に分ける山間の、田畑もろくと作れぬ不毛な地にその村はあった。十八年前、親に捨てられた糸が育った村である。

 五ノ月もつごもりに近いこの時分、虫送り野辺はそこらじゅうの桑がわっと葉を茂らせて、まみどりに染まる。背に籠をしょいた村の子らは、鉈を担いで枝を刈り、そうして持ち帰った桑のうち柔らかな真中のあたりはこまやかに刻まれ、生まれたばかりの毛蚕たちに、あとはまとめて、太った蚕虫たちに与えられる。この時分はどこの家からも、桑の葉をしゃくる音が絶えない。

「はやかったね、糸」

 突き返された紬を抱えて蚕棚の間を通っていると、筵を敷いた濡れ縁に腰掛け、座繰を回していたおばばが顎をしゃくった。

「蚕様はなんて?」

「いらないって」

 足元にころんと落ちた蚕虫を見つけた糸は、手の上に抱き上げて六つ目編み籠の差された台のひとつに戻してやる。そうすると、蚕は健気に身をよじり、再び桑の葉を食し始める。糸は蚕座からの帰り道、ずっと寄せていた眉間をようやく開いた。

「おまえも健気だね。それでまた、蚕様のために紬を織るのかい」

「織るよ。蚕が何と言っても。いとには機しかないもの」

 おばばが頑固者のあかしだとわらう眉根をきゅうとしかめて、糸は裂かれた紬を濡れ縁に置いた。軒に干してあったいくつかの染め糸の調子をうかがう。初夏の日射しを受けて、染め糸たちは内側から光るかのようだ。

「また薊か。物好きだねェ、おまえも」

「いとの頑固はおばばさまに似たのよ」

「威張るんじゃないよ」

 たしなめたおばばに首をすくめ、あかとあおとを主に選んだ染め糸たちを籠に入れる。

 五ノ月の紬は、薊と決めていた。薫風吹き渡る野にひらく、深い薊色。四ノ月は花舞う小枝の息吹をつかもうと、刈安で染めた黄に藍糸をこきまぜて、みどりの花葉や風を織った。その前は、春の訪いを告げる山桜。蘇芳染の糸で花色を出してもよかったけれど、においごと閉じ込めたくて、桜の樹で染めた。まだ眠りのさなかであった木肌を少しだけこそぎ、同じ桜の灰で包んで、糸を染める。残雪に落つる淡い花色がよみがえった。糸はそれで虫送り野辺の桜を織った。

 最後の紬は、薊と決めていた。

「まぁいいさ、おまえは根っからの機織りだもの。せいぜい気張んな」

「はい、おばばさま」

 腕いっぱいの染糸を抱えて、糸は機織り小屋を開く。使い馴らしのおはしょり紐で袖をたくしあげると、朋友である機織りの滑らかな木目に触れた。それから、選んだ染糸たちを機にかけてゆく。小管を杼に入れ込んで仕度を終えると、弾んだ呼吸を整え、糸は祈るように目を閉じた。

 あざみ、と思った。瞼裏に、薫風吹き渡る野と薊の花、そして指をさす棘の鋭い痛みがよぎる。何か目には見えぬものの端をつかんだ心地がして、それを此方へ手繰り寄せるべく、糸はとん、と機を鳴らした。


 虫送り野辺の社で行われる数十年に一度の神様の代替わりを、羽化と呼ぶ。蚕は羽化を間近に控えた、この虫送り野辺の次の神様だ。

 村には何十年かに一度、肌も指の爪も髪もまっしろな子どもが生まれる。お蚕様の一部がひとに受肉すると、このようにまっしろな姿になるのだと村いちばんのおばばが言っていた。

 蚕がそれだった。生まれたばかりの蚕は親兄弟からさらわれ、蚕座と呼ばれる村の社に移された。以来、十八年をかのお社で暮らしている。今代のお蚕様から蚕への代替わりは三日後に迫り、まもなく蚕はこの虫送り野辺の神様になる。

 ひねもす、よすがら、無心で機織りに立ち、ようやく満足のゆく布が織り上がった。仕立ての終えた紬を畳紙でくるんで、糸は蚕座へ向かう。

「蚕様への紬を届けにまいりました」

 息を切らした糸が戸を叩くと、顔馴染みのおじじが気付いて、蚕座の門を開いてくれた。すでに宵初めの時分であったが、羽化前ともなれば拝殿の前にも篝火が焚かれて明るい。奥の本殿は祭儀をのぞいて開かれることはなく、踏み入ることができるのは機織り娘をはじめとした限られた人間だけに決まっていた。

「おまえも懲りないね、いと。また来たの?」

 内廊を進むと、足音に気付いたのか玻璃のふれるような声がした。蜜蝋がひとつきり灯された座敷牢で、蚕はみどりの紬をしどけなく纏い、夕餉を取っていた。蚕はひどい偏食のたちで、柔らかく煮出した甘粥か、砂糖菓子のたぐいしか口にしない。蚕の前には、漆塗りの高杯が出され、そこにはやはりとろとろにした甘粥と、水飴を練り込んだ餅、干した山査子の赤い実と芋飴とが並べられていた。蚕はそれらを折れそうな指で摘まんでは次々に腹へおさめていく。

「それで、何の用?」

「織り直したの」

 包みを解いて中のものを差し出し、糸は言った。

「気に入らないなら、着なくてもいいよ。いとが織りたかっただけだから」

「しつこい女。おまえは座繰おばばにそっくりだよ」

「いとに機を教えたのはおばばだもの」

「そうだった」

 呟き、蚕は汗の乾いた糸の首筋にふっと鼻梁を触れさせた。

「においも、そっくりだ。桑の葉のにおい」

 生まれつき目の悪い蚕はこうやってもののにおいを嗅ぐ。

 はずみにずり落ちた紬に代わり、織り上げた紬を糸は格子に腕を通して蚕にかける。蛹になる前の蚕虫のように淡く透き通った膚をした蚕に、むらさきはたいそうそぐわった。次いで衿を整えてやろうとし、蚕の痩せたうなじのあたりに鬱血した淡むらさきの痕を見つけ、糸は目を細めた。蚕の身体には、たくさんの淡むらさきの痕がある。どの痕も、違う慰み女の唇のつけた痕だろう。息が詰まる心地がして、糸は蚕の白い膚に思い切り爪を立てたくなった。いと。呼気がざらりと膚を撫でたのに気付いて目を落とせば、蚕は玻璃の眸で糸を見つめていた。

「いとは、俺がすき?」

 その眸に、月が架かる。ひかりの膜をかけて、淡紅に浮かぶのは毒のごとき甘い誘惑だった。

「すき。言って。俺がすきって」

「蚕」

「言って」

「かいこ」

「ねえ、言って。それで、かわいそうな俺を慰めてよ」

 何かを試すように嘯き、蚕は糸の胸骨に鼻梁をこすりつける。このように甘えることばかりうまくなった男なのだ、蚕は。ふしだらで、気まぐれで、甘えたがりの、ひとりではなんにもできないおとこ。

「いとはかいこなんか、きらい」

 だから糸はずっと決めていたことを決めていた風に口にした。

「そう。俺もおまえなんか、きらいだよ。ふふ。いとなんか、だぁいきらい。変わってなくって安心した」

 身をもたげ、満足そうに喉を鳴らして蚕はわらう。


 その死の三日前の蚕は、羽化間近の齢十八つの蛹だった。



 三、三月前


 その死の三月前の蚕は、上蔟を控える齢十八つの蚕だった。


「織れないよ、いとは」

 月に一度の紬を持って行くなり蚕が告げたのは、予言めいた一言だった。ましろの雪に落つる寒椿の爛れゆく花びらを織り込んだ紬は、蚕の膚にみだらなまでに映えて、ほのあかく染まった膝のあたりに散らばっている。その脚に己の織ったものではない女の襦袢が絡んでいるのを見つけ、糸は眉をしかめた。気の立った糸を焚き付けて遊ぶのは、蚕の悪い癖だ。

「織れないにきまってる。俺は裸で上蔟しなくちゃならないかわいそうな蚕だ」

「それで震えて、風邪をひいてしまえばいいよ、蚕なんか」

「ふうん、言ったね。俺が凍えて死んだらぜんぶ、いとのせいだからね。おぼえてごらん」

 蚕は憐れっぽく首をすくめて嘯き、糸の腕に手を絡ませた。

「もしも織れなかったら、いとのこと裸にして、雪山に吊し上げてやる。鷹につつかれて死んじまえ」

「いとは、織るよ」

「ふうん?」

 愉快そうに口端を上げる蚕を、糸は唇を噛んで睨めつける。


 二ノ月の虫送り野辺は、不毛の地だ。

 まだ春には程遠く、桑の葉もなければ、蚕たちもいない。蚕たちのいない屋敷はどこもがらんどうで、糸は雪のひどい日はおばばと身を寄せ合って草鞋を編み、日の射した日には籠をしょいて林に入り揚桃の樹皮をこそげとって染め材とする。そして、あとの時間は藍染じじの小屋に籠もり、藍甕たちの世話を手伝った。

 藍は染めの中でもいっとう手ごわい、気難しがりだ。地中深くに埋めたひとの子ほどの甕に藍玉を据えて、焼酎や石灰や砂糖水といったものを少しずつ与え、寒い日には炭火を熾して温めてやり、ふくふくと表面に育つ藍の花を固唾をのんで見守る。

「糸ねえ、お酒を持ってきたよ」

「すくも」

 腰の曲がった藍染じじを支えて酒瓶を傾けていると、末弟のすくもが足しの酒を積んだ荷車を曳いてやってきた。

「俺も手伝おうか?」

「いいよ。すくもは危ないから、近づいちゃだめよ」

 手を貸そうとした弟に首を振り、糸は焼酎を甕に呑ませ終えた。じじさま、とそっとうかがえば、前掛けで手を拭いていた藍染じじが皺の刻まれた顎をしゃくる。村いちばんの気難しがりやのくせに、じじは糸にはとびきり甘かった。

「おいで、すくも。おでこから血が出てる」

 すくものまだ小さな手を引いてじじの屋敷の庭にある切り株に座らせると、糸は藪椿の葉をひとひら拝借して噛み、血の滲んだおでこに置いた。一緒に手のひらをあてがえば、「ひやっこい」とすくもはこそばゆそうに首をすくめる。

「糸ねえ。どうなの、藍は。間に合いそう?」

 藍染じじの屋敷は、社から集落へ続く一本道のちょうど真中のあたりにある。道々の家には明かりの入っていない提灯と玻璃の短冊が飾られ、十日後に迫った上蔟の祭を待ちわびるかのようだ。

 上蔟とは、お蚕様の代替わりに向け、次代の蚕が蔟と呼ばれる宮へ渡ることを言う。糸は、そのときに蚕が纏う衣の仕度を任せられていた。生まれてはじめての大役である。

「どうだろう。藍のことは藍にしかわからない」

「俺は糸ねえが心配なんだよ」

「藍は気難しやだけど、情は深いから。だから、きっと平気。じじさまもそう言ってたよ」

 糸は藍の世話にかかりきりで灰色くなった手のひらですくもの頭を撫で、自慢げに言う。揚桃の樹も、桑の樹も、梅や杏たちも、皆気のいい話し好きばかりで、年月にさらされた太くてしなやかな幹に糸がおでこを擦ると、たくさんの話をしてくれる。

 藍は、腹を割るのに少しの時間を要した。けれど、そのぶん誰よりも情が深いのだと藍染じじはよく呟いている。藍は確かに染めるとどこまでも深くて、ときに渋みを帯びた淡さを抱き、されどいつだって胸にしみる情の深さを湛えている。上蔟の帯にはこのあおなんだ、と糸はもうずっと決めていた。


 おじじの言うとおり、情の深い藍は最後にはいっとう深みを帯びたあおを差し出してくれた。糸はそれで、春を待つ蕗の薹を織った。地中深くの澄みきったあおの闇に黄蘗の光を挿して、淡色のみどりを織る。されど、蕗の薹は雪土の中を眠っていたたくましい色で、ぴかぴかのみどりではいけない。渋色で汚すと、無垢なみどりはやんわりと力強い命に満ちた色になる。

 先代のお蚕様が上蔟の際にお召しになった白絹の衣と新調したみどりの帯、そのふたつに薄絹の垂布のそよぐ花笠をかぶり、上蔟の夜、蚕はそれまでいた新宮から蔟の宮に村人らに見守られながら渡った。笠の下でつまらなそうに口を曲げているであろう蚕に、糸はひっそり胸を張る。

「次のお蚕様はおなごなの?」

 背伸びして上蔟を見守っていたすくもが尋ねた。

 常は蚕座の深くに棲まう蚕が、自ら顔を見せることはほとんどない。蚕の透き通った膚は日の光を浴びればたちまち爛れ、玻璃の眸は潰れる。そうであるから、上蔟は日が沈みきるのを待って行われた。篝火に照らされ、蚕が被いた薄絹が玉虫色に移ろう。面を隠し、女の衣を纏った蚕は清冽な艶を帯びて、たおやかなる女神のようにも見えた。

「ちがうよ」

「それじゃあ、醜いから顔を隠しているんだ」

「ふふ」

 首を傾げて、糸はすくもの小さな手のひらを節々が灰色くなった手のひらで握り締めた。そうして、蔟の宮に上る蚕の背中を見届ける。


 その死の三月前の蚕は、上蔟を終えた齢十八つの蚕だった。



 四、三年前


 その死の三年前の蚕は、齢十五つのみだらな稚虫だった。


 蚕蛾がふしだらな虫と呼ばれるのは、羽化するや雄をつかまえ尻をつつきあい、精を吸うかららしい。交わり終えた蚕蛾が太った腹を抱えて六つ目編み籠の隅にしなだれかかった姿を思い起こしていた糸は、唇を噛んで、目の前でまぐわる白い脚をきつく睨み据えた。蚕は近頃、慰み女で遊ぶことを覚え、日がな供される女たちを弄り、尻を叩いて、口を吸う。蚕とのまぐわいは、病を癒し、命を永らえさせるものであるから、蚕座には身体を患った老者たち、ときに孕み女、ときに子ども、それから女も男も、皆蚕を求めてやってくる。蚕の体臭は透明な水のような甘さで、乳色の畳に染み込んだそのにおいが糸はいとわしくてならなかった。いとわしい。糸はたいそう、蚕がいとわしい。

 慰み女の耳朶を噛んだ蚕は、淡紅の眸を細めて化生のごとくわらったので、いとわしい、と思い、糸は織り立ての紬を蚕に投げつけて背を向けた。


「それはおまえが悪い」

「どうして? おばばさまはいつも蚕の味方をする」

 渡しそびれた帯を濡れ縁に置いて、糸はむくれ面をした。

 桑葉が鈴鳴る夏の盛りである。母屋も離れも蚕棚に埋め尽くされたおばばの屋敷は、麓のほうから手伝いにやってきた子どもたち、女たちが日に日に増えゆく蚕の世話に忙しい。軒には、桑葉の詰まった背負い籠のほか、藍草の生葉で染めたあおやみどりの糸が連なって時折吹く風に揺れている。

 先年、おばばから機織りの役目を継いだ糸もまた、月の紬織に忙しかった。これまで、六ノ月には五月雨がみどりの葛葉に降りかかる雨音を織り、七ノ月には雨上がりのひかりに震える露草のあおい息吹を織った。次は、きりりと月の冴える夜のしじまを紡いでみたいと考え、そうして摘んだ藍草たちである。

「人聞き悪いね。あたしはいつだって糸の味方さ」

 おばばは煮えた糸繰鍋から繭を取り出しつつ言った。燃した炭火のせいでおばばの浅黒い額には玉の汗が浮いている。

「蚕様の遊びは、あれは病気だもの。わかっていて、毎度紬を持っていくおまえが馬鹿なんだよ」

「だけど、紬を届けるのはいとの仕事だから」

「ああ、いやだ。おまえの頑固も病だね」

「ちがうもの。いとの頑固はおばばさまに似たのよ」

 頤をそらすと、「威張るんじゃないよ」とおばばは皺の刻まれた眦をきゅっと細めて笑った。おばばの笑い声はいつだって糸を身体の内からぽっと温めてくれる。捨て子だった糸を拾い上げ、機を教えてくれた頃からちっとも変わらない。糸は愁眉を開いて、ずっと子守唄代わりにしてきたおばばの座繰の音に耳を傾けた。

 十五になった糸は村外れの藍染じじのあとについて、藍建を教わっていた。藍建はたいそう難しく、ふくふくと甕の表面に咲く藍の花を育てるには熟練した技が必要であり、糸のような小娘ひとりではとても叶わない。

「おじじ」

 昨晩のうちから作っておいた砂糖水を抱えて藍染小屋の戸を叩く。少し腰の曲がったおじじの背についてひとつひとつを学びながら、糸はいくつかの甕に焼酎を注ぎ、石灰を呑ませ、少しの砂糖水を与えた。それでも藍は気難しがりやであるから、こたえてくれるかはわからぬのだという。どうにも歯がゆい気持ちが膨らんで、糸は口を閉じた甕のふちにしゃがみこみ、そっとおでこを擦りつけてみた。

 幼い頃から糸は村のほかの子らと遊ぶよりも、樹と話すことのほうが好きな子どもだった。樹は無口だと皆が言う。けれどそのようなことはない。太い幹に触れて、おでこを擦りつけると、彼らはたくさんの話をしてくれるし、大事にお願いをすれば、その身に蓄えた色をほんの少し分けてくれる。糸はその色や木々のささめきや光の移ろい、風の声を紬に織り込めばよかった。この娘はまったく機織り以外のなにものでもないね、とおばばなどは言う。そのとおりだった。糸は蚕の機織り以外の何にだってなりたくはない。

 藍は糸がはじめて出会った、無口な色だった。

「またあしたもよろしくお願いします」

 額が冷たくなるまで擦り寄せて、糸はされどやっぱり語ってはくれない藍を少しさみしく思った。肩を落とした糸に、藍染じじは皺の刻まれた顔を少しも変えずに、さりとてもう来るなとも言わないで、寡黙に焼酎瓶を担ぎ上げる。


 紬は投げつけたが、そろいの帯を渡すのを忘れてしまった。

 守兵のじじから言伝を受けた糸は、しぶしぶ帯を抱えて蚕座へ向かう。蚕はどうしようもない子どもで、さんざ好き勝手に慰み女とのまぐわいを糸に見せる癖に、帯がないから持って来いと今度は拗ねた風に糸を呼ぶのだ。

「遅い。いとはほんとうに、のろまだね」

 案内されたとき、蚕は高杯に載せられた芋飴を細い指で摘まんでいるところだった。帯のない蚕は、炎天の影でそっとまどろむ昼顔を織ったうすべに色の紬をしどけなく纏っている。蚕の膚は、前はもっとあおくて固かったのに、慰み女の口付けを受けるたび、艶めいて透き通ったやわさを持つように変じて、それに気づくたび、いとわしい、と糸は思う。

「いーと。むすんでちょうだい?」

 蚕は芋飴を摘まんだ指先を舐めて、当たり前のように帯を差し出した。紬を着るのも、髪をくしけずるのも、蚕は何ひとつじぶんではできない。ひとりでは帯を結ぶことだって、むずかしいんだもの、と小首を傾げてわらう。昔はそうでなかったはずなのに、蚕はいつしか、なんにもじぶんではしなくなった。代わりに、眸を甘く細めて、おねだりをする。いと。ねえ、いと。かわいそうな俺の言うことを聞いてよ。憐れっぽくふるまい、同情を誘って、言うことを聞かせる。蚕はこの乳色の畳の上でそのようなことばかりを学んでいくのだ。

「……いや」

「どうして」

「だって、いやなのだもの」

「ふうん? そう、嫌なの。ふふん、おでこあかくって、かわいいねえいと。何していたの?」

 蚕は別のことを言って、藍甕に長いこと擦りつけていた糸の額に唇を触れさせた。こんなことはすべて言うことを聞かせたい蚕の当てつけだ。わかっているのに糸は身じろぎすることもできず、額に触れて、頬を滑り、瞼や眦といったところに好きに触れる蚕を見つめている。本当は、触らないでって、言いたいのに。嫌なのに。こんなのは、嫌でたまらないのに。ばかだねえ、ばかだねえいと。耳奥にいつかのおばばの声が蘇った。わかっているのに、お前は何度だって蚕様のもとに足を運ぶんだ。

「いとは、俺のこと、すき?」

 いとは、蚕がいとわしい。いとわしい。いとわしくてたまらない。いとでないひとが、蚕に触れることがもう、頭がおかしくなるほどいとわしい。

「かいこなんか、きらいよ」

 唇を噛み締めてこたえると、蚕はとてもうれしそうに笑った。

「ふふ。俺もいとのこと、だぁいきらい。おんなじだ」


 その死の三年前の蚕は、齢十五つのみだらな稚虫だった。



 五、六年前


 その死の六年前の蚕は、齢十二つの不幸な稚虫だった。


 蚕と口を利かなくなって、すでに半月が経っていた。

 嘆息をして、糸は朋友である機織りをことん、と鳴らす。おばばの見よう見まねで機を覚えた糸は、秋風に揺れる紫苑や桔梗を織り込みたくて、濃淡さまざまなむらさきの染め糸を使い、紬を織っていた。おばばはまだだめだというけれど、いつかは蚕の紬を織りたい。それで、覚えた機である。

「糸」

 おばばに呼ばれたので、糸はいったん機を止めて母屋のほうへと顔を出した。

 秋も深まる時分、虫送り野辺の養蚕も終わりが近い。蚕の餌である桑は冷たい風にあたると、葉を落としてしまうからだ。今はこの年最後の蚕たちを育てている。夏の間手伝いに来ていた村の子らは畑の収穫に出てしまったので、数を減らした蚕の世話は糸や兄姉たちがやっている。背に籠をしょいて山紅葉の咲く道をのぼり、少なくなった桑の葉を摘み取っては、まるまると太った蚕虫たちに食わせてやる。蛹になる前の蚕は、淡く透き通ったきれいな乳色の膚をする。それらを蔟という繭を作るための竹ひごに縄を絡めた敷居に入れてやるのも、糸たちの仕事だった。

 蚕というのは能無しの虫で、蔟に入れてやらねばろくに繭を作ることもできぬ。餌だって与えてやらねば、腹がすいてもじっともらえるのを待っている。そうして作った繭は羽化する前にほとんどがひとの手で繰り取られ、また蛾となりた少しの蚕たちも卵を産んで十日で死ぬ。翅はあるが、飛ぶことはない。ほかの虫らは、ひとの手を恐れて逃げ出すのに、蚕蛾だけは好いた母を見つけたように擦り寄ってくる。

 蚕とは、健気な虫なのである。

「めずらしいね、おまえが家にばかり寄りついているなんて」

「だって、蚕と喧嘩したのだもの」

 尋ねたおばばに、糸は集めた桑の葉を包丁で刻みつつ、唇を尖らせた。おばばが座繰を回すかたわらでは飴色をした繭たちが糸取鍋に浮かんで、くつくつと煮立てられている。そうすると繭がほぐれて、糸を繰りやすくなるからだ。

「喧嘩? また何故」

「蚕におばばの織った紬を着せようとしたら、身をよじって嫌がったの」

「糸、それはおまえがいけない。蚕様だって、年頃のおのこだもの。女のおまえが着替えなんてさせちゃいけないよ」

「おばばはすぐに蚕の味方をする。蚕のことなんて、いとはなんでも知っているよ」

 つまらなくて、糸はますます眉根を寄せる。

 十二つになった近頃の蚕はやたらに乱暴者で、糸がおばばの織った紬を持ってゆくと、「いらない」と言って目の前で裂こうとしたりなどする。糸は蚕の頬を張った。おばばがひねもす、よすがら、機織りの前に立ち織り上げた紬を破くなどゆるせぬ、と思った。蚕は癇癪を起して、紬を糸に投げつけた。十一ノ月の紬はだからまだ、糸の機織り小屋にかけられている。落日に照らされた山紅葉の燃ゆるがごときあかを織った紬だ。

「糸ねえ、おばば。ふかしたお芋もらったよ」

 気に食わぬ、と思い、桑の葉をざくざくと切っていると、末子のすくもが芋を腕に抱えて帰ってきた。隣の家から分けてもらったのだという。この虫送り野辺にはぜいたくなおやつだ。金色の芋をおばばとすくもと分けて、糸はまだ熱いそれにかぶりついた。一口ふた口続けて食うてから、少し悩んで目を伏せる。

「持って行っておあげ」

 こういうときのおばばは不思議と糸のことが何でもわかるらしい。自分の芋をさらに半分に割って、糸の前掛けの上に置いた。ぱっと顔を上げると、おばばが眦に皺を寄せて笑っていたので、悔しくなって糸は懸命にしかめ面をする。

「いけないのは蚕よ。でも、いとのほうがおねえさんだから、仲直りしてあげるの」

 そのように言い訳じみたことをいい、糸は前掛けにふたかけの芋をくるみこむ。


 蚕がこの蚕座に棲むようになってからずっと、おばばは蚕の衣を仕立てるお役目についている。一度は突き返された山紅葉の紬を携え、糸は守兵のじじに訳を話して中へ通してもらった。今代のお蚕様が棲む旧宮と、今は空いている蔟、それから蚕が棲んでいる新宮。蚕座の奥には三つの宮が棟ごと分かれて立っている。

「いと。おまえはここで少し待ってな」

 新宮の前で、糸はやにわに守兵のじじに引きとめられた。なんでも、蚕はちょうど大事な祈願のさなかなのだという。決められた神事や雨乞いなどを除いて蚕が何かをしていたためしがないので糸は首を傾げたが、仕方なく宮の脇にひょろりと立つ桑の下で蚕を待った。冷めてしまわぬように芋を懐に入れる。

 神事は長かった。やってきたのは昼過ぎであったのに、吹く風はぐんと冷たくなり、空の色もまたより深みのあるものに移ろうていった。一度おばばのもとに帰ってしまおうか。そんな考えがよぎったものの、何故か離れがたくて糸は抱えた膝を引き寄せる。

 守兵のおじじに呼ばれた頃には、すでに秋の早い日は落ち、宵初めのむらさきが足元を覆っていた。開いた妻戸から入れ替わりに、若い女が出てくる。赤襦袢が見えるほど単を着崩して、白粉で塗りたくった肩をさらす女は村の盛り場で暗くなると立つ遊び女のように見えた。

「蚕はもういいの?」

「ああ。もういい」

 おじじの横顔は青黒く歪んでちっともよいという風ではない。不穏な予感に駆られながらも、糸は蚕のいる座敷牢へ続く内廊を歩いた。おじじの持つ紙燭の明かりをたよりに、見えてきた木格子を仰ぐ。

 中に蚕はいつものようにいた。蜜蝋の焚かれた格子の向こうで、子どもらしい痩せた背中をさらしている。この間行ったときは膚を見せるのをひどく嫌がったのに、と糸は思った。

「蚕、おばばの紬を持ってきたよ。あとは、お芋も。蚕も好きでしょ」

 呼びかけたが、蚕は振り返らない。生白い膝を抱えて、そこだけほんのりと色づいた爪先をじっと見つめている。

 癇癪を起したと思えば、今度は喋らない。近頃の蚕のことが糸にはさっぱりわからない。かいこ、ともう一度呼んで骨の浮いた華奢な肩に触れると、跳ねるように肩が振れて逃げられた。蚕の端正な顔がくしゃりと歪む。

「かえれ」

「かいこ?」

「かえれ。俺にさわったら、いとのこと、おかして、殺してやる」

 気の張った、それでいてたやすく折れてしまいそうな声で言って、蚕は引き寄せた膝に頤をうずめる。糸は眉をひそめて、蚕の背中を見つめた。蚕のまだ生まれてだんだんとほの白くなったばかりの稚虫のような無垢な膚は、浮いた背骨に沿って淡むらさきの痕がぽつぽつとある。蚕の羽織っていた紬や襦袢が散らかされた畳には水のような蚕の体臭がかゆらいでおり、この狭い畳の上でどういうことがあったのか、糸にはうっすらわかってしまった。糸は思わず守兵のじじを振り返ったが、じじは決まったさだめのように渋面をして俯いている。

「さむくないの?」

 尋ね、蚕のたやすく瑕のつきそうな背中におばばから預かった紬をかけた。紬は蚕を守る繭のように、しっくりと白い膚にそぐわる。蚕がおばばの紬を引き寄せたので、糸は手を伸ばして、紬の上からその背をさすった。蚕の膚は無垢でやわらかで、そのまま触れると傷つけて破ってしまいそうであるので、紬をかけると糸にはちょうどよいようなそんな気がした。

「いと」

 ふいと蚕は頭をもたげた。

「いと。いと。いと」

 さまよいかけた手を引いてやると、蚕は糸の胸骨のあたりに鼻梁を擦ってうずめた。

「うそつき。おまえなんか、きらいだよ」

「かいこ」

「おまえだって、十八つになったら、いなくなっちゃうくせに」

「……かいこ」

 見つめると、蚕は恨めしげに糸を睨んだ。

 あのおんなのせいだ、と糸は胸いっぱいでなじりたくなった。

 虫送り野辺にはいくつかのならわしがある。ひとつは、村に生まれたまっしろい子どもは次の蚕様の一部が受肉した姿であるから、取り上げて蚕座の中で育てること。また数えで十八つのつごもりに代替わりは行われること。そのとき、古い宮、竈、調度、食器、衣、それから守兵や機織りをはじめとした使用人のたぐいは皆新調されること。古い宮、竈、調度、食器、衣、使用人たちは虫送り野辺の外れの崖下にまとめて捨てられること。糸はそのさだめを知っている。物心ついたばかりの糸にそれを教えたのはおばばであったから。

「いと。おまえなんか、きらいだよ」

「かいこ」

「きらいだよ。だいきらいだ。うそつき。うそつき。うそつき。おまえなんか、しんじまえ」

 胸骨に擦った頬からなまぬるい雫が伝う。そっと手を触れさせた背は、か細い嗚咽で小さく震えていた。このように、無垢で傷つきやすい膚を持ったひとをいずれひとりにしなければならないのかと思うと、糸の幼い胸にさまざまな想いが去来した。

 その中でふと、糸は食い荒らされた蚕虫などを思い出した。

 今よりもっと幼い頃、糸はいとおしんでいた蚕虫の一頭を連れ出して、外の桑葉の上に逃がしてやったことがあった。何ゆえ、そのようなことをしたのかはわからない。ただ健気に桑の葉を食べて、繭になるために身をよじっている姿を見ていたらたまらなくなって、連れ出してしまったのだった。何も知らなかった糸は蚕虫が蛾となり、どこかへ自由に飛んでゆくことを夢見た。

 しかし、だめだった。一晩のうちに蚕虫は桑の葉から滑り落ち、地面でもがいていたのを鳥につつかれ、食われて死んだ。糸は、それが。それが、何かのさだめのように思え、かなしくてたまらず。かなしくて、いとおしゅうてたまらず。さあらば、歯を食いしばって嗚咽する蚕の額にことんと額を擦って、目を瞑った。この無垢で傷つきやすい膚のひとのために、糸はたくさんの紬を織ってあげようと心に決めた。そして、そして。

 一度だって、糸はこの恋を口にしないって。十八つになったそのとき、いとなんかきらいだと、わらわれるくらい蚕に嫌われて死ぬのだって。


 その死の六年前の蚕は、齢十二つの不幸な稚虫だった。



 六、十三年前


 その死の十三年前の蚕は、齢五つの幸福な稚虫だった。


 物心ついたばかりの糸に、おばばが告げたさだめはひどく酷なものだった。

 いと。おまえは、数えで十八つまでしか生きられぬ。恋もできぬ。子をつくることも叶わぬ。いと。おまえは、蚕様が羽化されるまで衣を織り、無事この蚕座のぬしとなられたときにおばばとともに大地にその命を捧げねばならぬ。

 幼い糸は蚕様を恨んだ。


「もう、いやよ。帰りたい」

 おばばに乞われて蚕座に紬を届けにゆくことが糸はいつも億劫でならなかった。蚕座までの桑畑に囲まれた山道は、まだ五つの糸には足の節々が痛くなるほど険しいものであったし、何より次代の蚕様が糸は憎くてたまらなかったからだ。道の途中で投げ出して帰りたくなり、おばばに持たされた芋飴を舐めてこらえる。おばばの作る芋飴は甘くてこめかみがきゅうとなる、糸の好物だ。紬を届けさせるとき、おばばは必ず芋飴を糸に持たせてくれる。

「おじじ、おばばさまから預かったいつもの紬です」

 顔馴染みの守兵のじじを見つけて、抱えた包みを渡す。常であるならおじじの改めが済むと、すぐに引き返していたのだが、その日はちがった。

「いと、持って行っておやり。蚕様も今は起きておられる」

「いとは、いいよ」

「今日は俺ひとりで、ここから離れられんのだよ。この道をまっすぐ行った突き当たりに置いてくるだけでよいから」

 おじじは皺の刻まれた分厚い手で糸の背を押して、新宮の妻戸を押し開けた。常はひとの目を拒むようにきっちり閉められた妻戸が開かれるのを糸は初めて見た。紬を抱き締め、言われたとおりにしぶしぶ内廊を歩く。

 蚕様はこの虫送り野辺の神様である。次の神様のお住まいの処であるから豪奢で美しいお宮にちがいない、と思っていたのだけれど、蚕座の中は昼であるが薄暗く、ところどころに蜘蛛の巣が張り、しんとしている。ひとなどどこにもいないように思えた。細い内廊だけがひっそり奥へと続き、突き当たりの暗がりに見慣れぬ木格子がたたずんでいる。

「蚕様」

 守兵の呼びかけに、しゃがみこんで畳の目を数えていた子どもが顔を上げた。

「糸ですよ。機織りおばばの養い子です」

「ふうん」

 蚕と呼ばれた子どもはつまらなそうな顔をして首を振る。

 その姿は白かった。髪の毛も、爪も、膚もみんな白い。唯一、淡紅の眸だけが白でかたちづくられたそのひとの中で異彩を放っていた。糸は紬を抱きしめたまま、息をひそめてしまう。色に囲まれて育った糸には、目が覚めるようだった。おばばがかつて一度だけ、まっしろい雪に埋もれゆく死に菫を織ったことがあったが、その白とも、異なる。

 色が無い。

 こんなに、こんなに美しいひとを糸は初めて見た。

 守兵に促され、糸はおずおずとおばばに持たされた紬を開いた。風の吹き渡る野に咲く薊を織り込んだものだった。染めはおばばと一緒に糸もやった。むらさきの根をふんだんに使い、椿の灰で包んで染め上げる。機織りの前にはまだ立たせてもらえなかったけれど、ひねもす、よすがら、おばばの手から紡ぎだされる紬を糸もまた始終息をひそめて見守ったのだ。格子の向こうから蚕が腕を差し出してきたので、糸はその肩に広げた紬をかけた。深いむらさきは不思議なくらい、しっくりと蚕の膚になじむ。

「これは、なにの色」

 気を引かれたのか、袖をつかんで蚕が訊いた。

「あざみよ」

「あざみ」

「どこの野にも咲いているよ。知らないの?」

「知らない」

 ふるると蚕は首を振る。その所作が存外素直で愛らしく、糸は得意になって紬の袖に触れた。

「これね、おばばといとが染めたの」

「ふうん」

「今はまだ織れないけれど、もっとうまくなったら、いとが蚕のためにあざみを織ってあげる。そうしたら、あざみがどの花か蚕にもすぐにわかるでしょ」

 淡紅の眸がふと揺らぐのを糸は見た。揺れて、細まる。玻璃のようであった眸に不意にくるおしいくらいの情がよぎった。

 うん、と蚕はすこし、わらった。

「じゃあ、俺はそうして見つけたあざみをいとにあげるよ」

「ほんとう?」

「うん。いとにだけ、あげる。十八つになったいとの髪にむらさきの薊を飾ってあげる」

 十八つ、という言葉を聞いて、糸の胸がちくんと痛む。

 だけれど、糸はわらった。

「やくそくね。きっとよ」

「うん。俺はこの村の神さまだもの」

 蚕が小さな指を差し出してきたので、糸はそれに己の指を絡めた。細くたおやかな、力の弱い指が絡まる。とたんに、身体じゅうが痛くなるような気持ちが糸の胸に湧きあがった。かいこ、かいこ、かいこ。訳もわからず、涙ばかりが溢れる。

 それは恋だった。

 刹那で落ちた、みじかくてされどきっとながくなる恋だった。

「かいこ。芋飴、あげる」

 大事にねぶっていた飴を、糸は蚕の頬に手を添えて舌の上へ移した。ぬるい唾液がまじりあって、確かな温かさを湛えて喉を伝う。蚕の唾液は水のようで甘い。こくん、と飲み干し、それが喉から胎に落ちゆくのを感じながら、糸は少し前に連れ出して桑の葉に放した蚕虫のことなどを考えた。翅をひらいて自由に空へと飛び立つことを夢見たけれど、蚕虫は桑の葉から滑り落ち、鳥につつかれ死んでしまった。無残な亡骸を抱え上げて頬擦りしながら、糸はされど、細くつたない蚕の声を聴いたのだ。いと、いっしょにいてって。ひとりにしないでって。それから、ねえいと。いと。ずっと、ずっといっしょだよ。

 ふわりと玻璃の眸を細めた蚕に、糸もまたあまく微笑む。

 かいこ。あなたが、すき。だいすきよ。

 幼い糸はその恋を抱いて、わたしは生きて死ぬのだと思った。



 *



 薊を抱いて、蚕は死んだ。

 齢十八つの羽化前の蛹だった。

 のちに、守兵のひとりのじじが蚕に乞われて蚕座の門を開けたとまでは打ち明けたが、このじじもそのほかは固く口を閉ざし、それゆえ蚕があやまって足を滑らせたのか、誰ぞやに突き落とされたのか、それとも自ら落ちたのか、とんとわからぬ、と村人たちは揃って首を振る。

 

 これは、そんな恋のはなしである。

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