火照る体とカレーと二人
大村あたる
火照る体とカレーと二人
夕方の暑い陽射しの中、ひたすら自転車をこぎ続ける。耳に届くのはカエルとセミの鳴き声、それと隣を快適に通り過ぎる自動車の排気音。アスファルトから立ち上る照り返した陽射しと昼間貯め込んだ熱気が視界を歪ませ、これでもかと五感に語りかけ暑さを強調してくる。汗がしたたり落ちるのを防ぐために頭に巻いたタオルからは、ほのかに塩臭さが漂っていた。
つまりは、どうしようもなく、夏だった。
最後の上り坂はいつも苦行だ。下り坂ならあんなに快適だった愛車も、こんなときにはお荷物にしか感じない。歩を緩めれば緩めるほどにこの苦しみは続くと分かっていながら、それでもゆっくりとしか進まない自分の足が恨めしい。やっとの思いで坂を上りきって見えた自分の部屋からは、何故か明かりが漏れていた。はて、今朝家を出るときに消し忘れたのだろうか。
自転車を階段下に止め、一階にある自分の部屋へと歩を進める。誰もいないはずの自分の部屋からは、かすかにカレーの匂いが漂ってきていた。
扉を開けると、逃げ場を探していた冷気がここぞとばかりに押し寄せてきた。汗まみれの身体には少し寒く、思わず身をよじりそうになるが、引き換えにベタベタとした気持ち悪さからはすっかり解放された。玄関の外から漂っていたカレーの匂いは、冷気とともに強まっていた。
「お、なんだ早かったじゃねーか。てっきり日が落ちるまで図書館に籠ってると思ってたのに」
僕が玄関でしばらく涼んでいると、バタバタという音とともに奥の和室から一人の男が顔を覗かせた。頬には畳の跡がくっきりと残っていた。
「それはこっちの台詞だよ。帰ってくるなら、連絡の一つくらいくれたっていいじゃないか」
「悪い悪い、急だったもんでさ。連絡する前に帰ってきちまってた」
そう言いながらはにかむ彼の顔を見ると、なんだか少し安心できた。彼のいない大学生活は退屈で、このところ図書館で居残りもせずにさっさと帰ってきてしまっていた、とは流石に恥ずかしくて彼には言えない。以前の僕なら考えられない行動だと思うと、少し笑ってしまう。
なにはともあれ、まずはこの言葉から始めるべきだろう。つまりは。
「おかえり。そしてただいま」
「ん。ただいま。んでおかえり」
日常の帰ってくる音がした。
「でもなんでこんなくそ暑いのにカレー?」
買ってきたカップ麺を棚にしまいつつ、僕は台所に立つ彼に聞いた。さっきまで弱火にかけられていたカレー鍋は、今は中火でゆっくりとその香りを強めている。
「ばーか。このくそ暑いからこそ、キンキンに冷やした部屋で食うカレーなんだろ。あとお前の食生活を治すためでもある」
「なんで今僕の食生活の話が出てくるの」
「これ」
彼が空いている左手で指差した先には一つのゴミ袋が鎮座していた。中身は多種多様なカップ麺の空容器。はて。
「いやお前『これが何か?』みたいな顔をすんな。お前が料理下手くそなのは知ってるが、いくらなんでもありゃないだろ。今更作れとは言わないけど、買ってくるにしたってもう少しまともなのが」
「あれが一番安くてバリエーションがあるんだよ。それに容器洗うの面倒じゃない」
「カップ麺も同じだよ!」
「変形が少なくて最小限の洗浄面積で済むじゃない」
僕がそう反論すれば彼は頭を抱えて天を仰いだ。この生活ももう一年なんだからいい加減学べばいいのに。去年もこんなやり取りをした記憶がある。
「そういや飯当番、最初は交代制だったんだよな……」
「そうそう。だけど君が見てられないから俺が全部作る、って言い出して」
「そっりゃ言い出すに決まってるだろ! 毎食カップ麺出されてみろ、普通の奴だったらとっくにルームシェア解消だよ!」
「えー、喜ぶと思うんだけどな」
「お前だけだそんなん」
こういうやり取りをしているとやっぱり帰ってきたのだと安心する。ルームシェアをし始めて一年が過ぎたけれど、長い間どちらかがいなくなるのは今回が初めてだった。入学当初は一人暮らしだったのだから大丈夫だろう、と高をくくって笑顔で送り出したのはいいものの、一人きりの部屋というのは想定していたよりもずっと寂しくて、少しだけ枕を濡らしてしまった。彼の布団で寝ると少し落ち着いたので、それからは僕のベッドではなく彼の布団で寝ていた、というのはここだけの秘密だ。
そんなくだらないやり取りを数回繰り返していると、急にバツン! という音とともに電気が消えた。彼にちょっと待っててと告げ、非常灯の明かりを頼りに玄関の上にあるブレーカーに手をかける。でもブレーカーは既にどこも上がりきっていて、背伸びして伸ばした僕の指はむなしく虚空を切っていた。
「んー? あれ、もしかしてこれ」
サンダルをつっかけるように履き外へ出る。辺りを見渡せば案の定、この辺り一帯から明かりが消えていた。
「どうしたよー」
家の中から彼の声が響く。どうやら扉を開く音は聞こえていたようで、心なしか声は大きめだった。
「てーでーん」と返して中に戻る。折角の冷気が外に漏れ、代わりに室内には熱く湿った空気が混ざりこんでしまっていた。
「あー、マジか。長く続きそう?」
「僕に分かるわけないでしょ。でも、そう短くないと思っていいんじゃない?」
「そりゃごもっとも」そう言いながら彼はカレーの鍋と炊飯器を交互に見比べる。冷蔵庫の方を見ないってことは、すぐに腐るような物は買ってきてないんだろう。僕はあんまり冷蔵庫使わないし。製氷機くらいか。
「もう夕飯にしちまうか」
やがて諦めたように彼はそう言った。夏の腐敗の速さは尋常ではないのをよく分かっていたので、二つ返事でGOサインを出した。棚から皿とコップをそれぞれ二つずつ用意する。彼はそれを手に取り、まずは炊飯器からご飯をよそい始めた。一すくい、二すくい、三すくい……ちょっと待って多くない?
「いやだって、いつ復旧するか分からないんだろ。だったら全部食っちまわなきゃ」
「……」
「安心しろよ、明日の朝までのつもりだったからたった二食分だ。カップ麺で縮んじまった胃袋を刺激するにはちょうどいい量じゃねーの」
ケラケラと楽しそうに笑う彼に僕は舌をべーと出して抗議の意を示す。構わずよそわれる大盛りのカレー。皿には通常の二倍の高さはあろうごはんが盛られていて、カレールーはこぼれださないように真ん中に窪みを作ってそこに注がれていた。どうやってもこぼれるんだけど、食べる時どうするつもりなんだろうか。
「どうせだから外で食べない?」
彼が二人分の皿に二人前ずつ盛られたカレー(つまり四人前乗ってるわけだ)とスプーンの入った水入りコップを盆に載せたところで、ふとそんなことを提案してみた。既に室内にはさっきまでの冷房の恩恵は欠片も残っておらず、外の気温とさして変わらない。むしろ風のある外の方がまだましだろうと考えたのは、ただの気まぐれと言えばそれまでなんだけど。
僕の考えが伝わったのかは分からないけれど、とりあえず彼はそれに短く「いいぞ」と答えて、カレーとコップの乗った盆を軽々と持ち上げる。結構な重さがあるはずなのに辛そうな顔一つしないのは、僕にはとてもでないが真似できない芸当だ。二の腕に張りつめた彼の筋肉の上を、汗が数滴滴り落ちていった。
玄関から外へと出れば長くなった日も沈みかけていて、地平線はオレンジ色に輝いていた。空気が澄んでいるからだろうか、空を見上げれば既にいくつか星を見ることができた。今は誰も使ってない駐車スペースに胡坐をかいて座り込み、地べたに盆を着地させる。
「「いただきます」」
久しぶりに食べる彼の料理はやっぱり美味しくて、頬が汗と共に溶けだしそうだった。
「そういえばさ」
僕のカレーの量がやっと半分になったところで、彼はそう呟いた。僕が食べ終わるのに合わせようとしているのか、彼の皿には既にほんの少し残ったカレーは、手を付けられることなくそこに居座っていた。カレーの山を崩す速度を落とし、彼の言葉に耳を傾ける。
「お袋、結局ただのぎっくり腰だったんだと。倒れたってまくしたてられるからしかたなしに帰ってやれば、まったく人騒がせなこった」
「あはは。でもよかったじゃない、お母さん元気で」
「ま、それはな。でもまぁ、あっちにはあんまりいい記憶ねーから」
そう言う彼の瞳には寂しさのようなものが透けて見えた。
「お袋には感謝してるよ。ここまで育ててくれたのも、あんなところで俺がゆがまずに育ったのも、ぜんぶあの人のおかげだ。だけどあそこに帰るのはのはもうごめんだね」
僕としては苦笑いしか返せない。同じように逃げてきた身として、その気持ちは痛いほどよく分かる。分かち合えるからこそこうやって笑いあえるのだと思えば、つらい気持ちも少しは和らぐのだけれど。
このやりとりだってもう何回目か分からない。今でこそこのくらいどうってことないけど、会ったばかりの頃はそりゃもう酷かったもんだ。性格も、考え方も、出来ることもやることもまるで正反対。そんな男二人が一つ屋根の下で過ごすなんて初めは耐えきれなかったはずだった。だけどこうやって少しずつ、互いの傷を相手に晒すことで近づくことができた。結局、居場所のない似た者同士だってことが分かったから。
「そだ。前から聞きたかったんだけど」
「なんだよ?」
「どうして僕とのルームシェアの申し出、受けてくれたの?」
出会った頃のお互いのことを考えれば考えるほどに、今のこの状況がありえないことに思えてきてそんな質問をすると、彼は僕から顔をそむけた。どうしたのだろうかと顔を覗きこめば、彼の顔はすっかり真っ赤に染まっていた。
「……なんだよ、そんなこと言わせんのずりいぞ」
「なにが」
「……一目ぼれだよ、馬鹿野郎」
……今度はこっちが真っ赤になる番だった。身体がゆっくりと火照っていくのを感じる。気温よりも体温のほうが熱くなってるんじゃないだろうか。
「……えへ、ありがと」
しばらくの沈黙の後そうやって返すのが、僕のせいいっぱいの強がりで。でも僕らにはそれだけで十分だった。
恥ずかしさを誤魔化すように口に運んでいたら、いつの間にか目の前のカレーはあと一口のところまで減っていた。最後の一口を互いにスプーンですくって、一度逡巡してから自分の口に運ぶ。相手の口に運ぶのは、まだまだ気恥ずかしい。
「暑いな」
「うん」
「アイスでも、買いに行くか」
「うん」
「手」
「うん」
ぶっきらぼうに差し出してきた手に僕の手をゆっくり重ねる。
周囲の明かりは消えたままで、まだ復旧には時間がかかりそうだった。
粘りつくような湿気と暑さ。カエルとセミの鳴き声。揺らぐ視界。
こんな夜に二人で歩くのも、彼となら悪くないなと思えた。
火照る体とカレーと二人 大村あたる @oomuraataru
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