第10話 午前三時の団欒
駅から7分。そして家賃は3万円。
不動産屋さんには小声で釘を刺された。
「ものすごく安くなってます……くれぐれも他の住人の皆さんには家賃のこと、内緒にしておいてくださいね」
ほかの住人の人は、少なくともあと5千円プラス以上は取られているらしい。
前に暮らしていたワンルームは新しくてキレイだったけど、家賃が5万円。
築三十年の木造2階建てでも、やはり月々マイナス2万円は大きい。
ちょっと大学からは遠くなったけど……まあ仕方ない。
裏野ハイツに越してきて、ほんとうによかった。
……と、昨日までは思っていた。
しかしなんだったんだろう……昨日のあの騒ぎは。
朝から突然、わたしの部屋のドアを外からメチャクチャに叩く音がして……
ドアを開けたら、ぜんぜん知らない女が立っていた。
女はとても取り乱していて、その充血した目にちょっとゾッとした。
たぶん、年齢はわたしと同じくらいだと思う。
『ゆ……裕子?』
なんであの女は、わたしの名前を知っていたのだろう。
しかも下の名前を。
女の後ろには、彼女の旦那さん……にしてはちょっと歳を食い過ぎているおじさんが立っていたが、とても申し訳なさそうにしていた。
『ほんとうに申し訳ありません……うちの家内が、とんだご迷惑を……』
彼はほんとうに当惑して、困り果ててているようだった。でも、女は言った。
『裕子……聞いて。ここから出なきゃだめ……お願いだから、あたしを信じて』
……まだ引っ越してきて、3ヶ月も経っていないのに、こんなことがあると……さすがに引く。
ちょっと、怖かったし。
なんだか知らないけど、あの女性は精神が不安定なのだろう。
確か、101号室に住んでいるとか……201号室のおばあさんが、そう言っていた。
わたしと同じくらいの歳で、あんなおじさんと結婚して……
まあ、いろいろとストレスが溜まっていたのかもしれない。
わたしだったら、あんなおじさんと結婚するなんて死んでもイヤだけど。
その日、バイトから帰ると……
アパートの前に三歳くらいの男の子が座り込み、チョークで地面に何か書いていた。
いつもよく見かける男の子だ……確か、103号室の子だったかな。
「こんにちは」
あたしは男の子に声を掛けた。男の子が顔を上げる。
無表情。
男の子は緑色のTシャツにベージュのハーフパンツ姿。
「今日もあっついねえ~…… 何描いてるの?」
「…………」
男の子はくすりとも笑わない。人見知りが激しいのだろう。
そういえばあたしは、この子と言葉を交わしたことがない。
何なんだろう。
男の子は上下に3つずつ連なった合計6つの箱を描いている。
そのなかに……たくさんの人影が描かれていた。
「絵、上手いね……これなに?」
あたしを無表情に見上げたまま、男の子がこくりと頷く。
「タカユキ!」
急に、背後から声を掛けられて、あたしは飛び上がった。
振り返る……と、そこに立っていたのは……あの女だった。
「こんにちは…… 暑いですね」
見間違えるはずがない……昨日の朝、わたしのドアを叩いた女だ。
正気を失って、わけのわからないことを言って、目を血走らせていたあの女だ。
昨日とは見違えるような出で立ち。
髪を後ろにまとめて、薄いブルーのワンピースを着ている。
(えっと……ちょっと待って。彼女が、この子のお母さんだったの?)
「ほんとにこの子ったら、絵を描きだしたら止まらないんです。お姉さんに遊んでもらってたの? ……さ、お部屋に入りましょう。お姉さんにバイバイは?」
男の子を抱え上げる女。
……その子……タカユキくんは、じっとわたしの顔を見ている。
女はにっこり笑ってわたしに会釈すると、タカユキくんを抱いて103号室に入っていった。
確かあの女……101号室に住んでる、っておばあさんが言ってたような気がするけど?
おばあさんの記憶違いか、わたしの聞き間違えか……
それともこの暑さのせいで、頭がぼうっとしているのか……。
まあいいや。
わたしは階段を登って、おばあさんが一人で暮らしている201号室、そして、202号室の前を通りすぎた。バッグから自分の部屋の鍵を探しているときに、ふと、昨夜妙な夢を見たことを思い出した。
(…………ほら、もっと飲んで!)
(もう肉、食べられるよ。ほら、もっと食べなよ)
(ママ! ママ!)
(野菜も食べなきゃ……あ、そっちタレまだある?)
たぶん夢だと思う。その声は、隣の202号室から聞こえてくる気がした。
でも……202号室はずっと空き家のはずだ。
そして、ただよってきたのは、むっとするくらいの焼き肉の匂い……。
匂いまでリアルだなんて、妙な夢だった。
わたしは気にせず、そのまま寝なおした。
空き家から、そんな団欒の声が聞こえてくるはずはない。
それに、夜中の3時に焼き肉で家族の団欒をやる人がいるだろうか?
それを、おかしいと思うわたしのほうが、おかしいのだろうか?
ひょっとするとわたしは、とても心が狭いのかもしれない。【了】
2016.07.24
午前三時、202号室の団欒 西田三郎 @nishida33336
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