最終話 ヒーロー
あの日から三年以上が経過したその日も、世界は平和だった。
十一時。四月上旬の空は快晴だった。郵便受けから手紙を取り出していたアパートの大家は、誰かの階段を下りる音に顔を上げた。大家に気づき、会釈をしたその女学生は先週越してきたばかりだった。
「おはよう、いいお天気ね。ここでの暮らしは慣れた?」
「おはようございます。はい、少しずつですけど」
女学生は咲いた花のような笑顔で言葉を返す。その笑顔で先月までクラス一の人気を誇り、生徒のみならず先生からも信頼されていた彼女は、既にこの町の人々からも好かれていた。
女学生の全身を大家はさりげなく観察した。ほっそりとした腕と、純白のワンピースからちらりと見える綺麗な足。風が吹くと、服と同時に彼女のポニーテールも揺れた。
大家は活発な女学生のイメージを持っていたが、今日の服装は落ち着きのある大人びた雰囲気を醸し出していた。
「その服、とてもよく似合ってるわ。どこかに行くの?」
「ありがとうございます。はい、大通りの方に買い物に。明日から大学が始まるので、今のうちに足りない家具を買ってしまおうかと」
それでは。と小さく礼をして飛び出していった。
春の風は、彼女の顔を優しく撫でた。
女学生の実家は隣町にあった。明日からはこの町の某大学に通うことになっていた。実家から通える距離ではあったが、一人暮らしは彼女が強く望んだ事だった。
一人で生活が出来る人間になりたいと、そしていつか、『あの人』が住んでいたあのアパートに住みたいと思うようになっていた。
「……どこにいるんだろう」
大通りへの坂道を歩きながら、女学生は何度目かわからないほどに脳内に湧きあがる、その言葉の答えを考えた。
消失した『あの人』がアパートから、町から、世界から消えた。世間はあっという間に『あの人』の存在を忘れていった。
しかし、彼女は今でも、ヒーローの帰還を待ち望んでいた。
いつになっても、この世界には『何か』が現れた。
「うわあ、やっぱり人が多いなぁ」
見渡す限りの、人、人、人。中学生時代から日曜に遊びにこの付近へ行くことはあったが、こうも人が多い場面を見るのは初めてだった。毎年、人が増えているのは確かだった。
交差点で立ち止まる人々に紛れると、女学生は胸をなでおろした。中学時代から比べて大きく膨らんだ彼女の胸が上下した、その時だった。
悲鳴が上がった。
交差点の中央、突如コンクリートが隆起し、周囲の車が回転しながら歩道に吹き飛ぶ。そこに出現したのは、黒い体の怪獣だった。百メートルはあろうかというその巨体をのけぞらせると、怪獣は空に向かって咆哮を放った。
突如として終焉を迎えた日常に、人々は絶望の表情を浮かべて叫びだした。一斉にもと来た道を引き返した。車道にも人が溢れると、車の運転手たちは転がるように車から降りると、人の波にそのまま吸い込まれてしまった。
交差点を中心に、人の作る波は広がっていく。女学生も、人の波に飲まれてしまっていた。ちらりと見れば、怪獣の姿はどことなく以前プールで襲ってきた、機械の怪獣に似ていた。
「……あれは、一体?」
その時、赤い影が怪獣の背後を駆けた。
「え!?」
女学生は赤い影の正体を確認しようと首を伸ばしたが、その間にも混乱した人々の波に飲まれ、瞬く間に大通りの隅へと押し流された。
やっとの事で人の波から抜け出した先は、裏路地だった。
呼吸を整えるのも忘れて、彼女はその目に映った影の姿を思い出して、大通りの方向を見つめる。
「あれは……間違いなく――!」
笑顔が咲いた。
見間違うものか。
あの人を、どれだけ待っていたか。
どれだけ心配していたか。
どれだけ待ち望んでいたか。
「行かなきゃ」
女学生は身をひるがえした。裏路地の反対側から、再び大通りに向かおうとして――足を止めた。目の前にいた人物に、彼女の思考は止まった。
「……大家、さん? なんで、ここに……?」
「見たでしょう、あなたも。『キラー』の復活よ」
三日月のように口の端を異様に引きつりあげて、大家は笑っていた。その表情は、女学生の知る、ついさっきまで和やかに会話をしていたアパートの管理人としての顔とはあまりにもかけ離れていた。
「ついに、計画が再び動き出す! 滅悪の力を持つ『キラー』が、縦横無尽に駆け回る! 世界は『キラー』によって善悪を振り分けられるのです!」
「……どういうことですか」
「元より、あの力を得た者はある程度の成長を遂げると、実体を失う。身体という器に抑えることができなくなる。そしていつか、世界のどこかで再び力を宿す者が現れる。しかも、更に強い力を持って! あの『キラー』はあなたが知っている『必殺マン』ではない! 全く新しい英雄なのです!」
大家は、地面に落としたケーキのような顔でつばをまき散らしながら語った。
あの影は『あの人』ではないことが女学生にとっては膝をつきたくなるほどのショックだったが、ここは堪えて質問を続けた。そこまで彼女は弱くはなかった。そして、この人を放っておくのはまずいと、本能が告げていた。
「何が、したいんですか」
「
大家は右手を前に突き出した。
「この私が、『キラー』になったのだ!」
女学生は、突き出された右手から、赤い光線が放たれるのを呆然と見ていた。彼女の視界に映る全てが、急に速度を落とした。まるで、最期の瞬間に向かって進む時間の、その最後の一瞬のように。
いつかの路地裏のように、絶体絶命の状況。あの光線に当たれば命は無いことは何となく理解していた。あと一瞬で、全てが終わる。
彼女がこの時思ったことは、ただ一つだけだった。
たすけて。
刹那、閃光が光を弾いた。
大家が驚きで目を見開いているうちに、閃光は懐に潜り、稲妻のような一撃を叩きつけた。大家の身体が路地裏から弾き飛ばされ、明るい通りの方へ消えた。
「…………ふう」
閃光と化していた男は、額を拭うと、振り向いて親指を立てた。
「お待たせ、杏里ちゃん」
「……遅いですよ、田中さん」
目元を指でこすって、樋口杏里は腰に手を当てて頬を膨らませる。怒っているつもりのようだが、その口元が笑みを隠せていない。
「不器用だなぁ」
田中は苦笑した。しばらくぶりの再開に、二人の間に温かな空気が流れはじめた。
「だって、ずっと待ってたから……どこにいたんですか?」
「この町の片隅に。いつでも立ち向かえるように」
「そうと知ってたらすぐに会いに行ったのに……」
しょげる杏里に田中は思わず微笑んだ。
しかしその時、怪獣の咆哮が響いた。
「まずは、こっちを何とかしないとね」
「どうするの……?」
「殺さない。さっきの人も、ふっ飛ばしただけ。そもそも僕にはもう、そんな力は無いよ。力の残りかすで、なんとか戦える程度でね」
ま、どうにかするさ。と肩をすくめた。
「裁くのは僕の仕事じゃない。僕は守る為に戦うだけだよ」
そして、今日も日常は守られた。 完
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