花火はどこへ消えたのでしょう?

深水えいな

花火はどこへ消えたのでしょう?

「ねえ、花火って消えた後はどこへ行くの? 川の中を探せば、消えた花火を捕まえられる?」


 幼い私が尋ねると、ナツ兄さんはまるで少年みたいに笑った。


「いや、消えてしまった花火はどこを探しても見つけられないんだ。でも大丈夫、例え目の前から消えてしまっても、心の中に残り続けるんだ。ほら目を閉じてごらん。そこでいつだって花火は色づいている」


 言われた通り目を閉じる。そして苦笑した。


 子供の私でも笑ってしまうほど、ずいぶんとクサい台詞だったから。

 でも、そんな台詞を恥じることなく、堂々と楽し気に話すナツ兄さんが、私はたまらなく好きだった。


 ナツ兄さんは隣の家に住んでいるお兄ちゃんで、姉さんの婚約者。そして私の大好きな人。


 物心ついた時から私はナツ兄さんが好きだったし、ナツ兄さんは姉さんが好き。


 私の恋は、始まった時から叶わないことが決まっていた。


 だけれど私は、それでも構わないと思っていた。


 姉さんは美人で優しい。

 その上、十歳も年が離れているからだろうか、私のことをすごく可愛いがってくれて、私は姉さんが大好きだった。 


 私の大好きな姉さんと、私の大好きなナツ兄さん。そんな二人はお似合いで、私の理想のカップルだった。


 私はナツ兄さんが好きだったけれど、姉さんから奪いたいなんてことは全く思わなかった。

 姉さんに一途なナツ兄さんが、好きだったから。

 もしナツ兄さんが姉さんから私に心移りなんかしたら、逆にナツ兄さんを嫌いになったかもしれない。

 


 そんな思いを抱いたまま私は大きくなり、中三の夏を迎えた。その頃には、ナツ兄さんと姉さんの結婚が正式に決まっていた。


 私は祝福した。ナツ兄さんが、本当に私のお兄さんになるのだ。こんなに嬉しいことはない。


 本当に本当に、心から祝福した。


 それでも、なぜだろう。私の心の奥底には、時折、薄闇の空みたいなもやもやした感情がくすぶるようになったのは。


 私はそんな薄暗い感情を、心の隅に追いやって見ないようにした。もやもやがふとした瞬間に顔を出すのを必死に抑えた。


 そんな不器用な自分が、時々すごく嫌で、逃げ出したくて――私は母親に、全寮制の高校に行きたいと告げた。


 母さんは私のその決断を喜んだ。その高校は県内で有数の進学校で、そこに行けば、将来はいい大学に行けることが決まったようなものだったから。父さんも、少し寂しがったけど応援してくれた。


 姉さんが笑う。


「じゃあ、大学進学を目指すんだ。いいなあ。頭がよくて羨ましい。私はバカだったから大学には行けなかったし」


 胃がむかむかした。頭なんか良くたって、欲しいものは何一つ手に入らない。私が欲しいたった一つのものを持っているくせに。


 叫び出したい気持ちをぐっとこらえ、笑顔で「ありがとう」と言う。


 本当は、進学のためなんかじゃない。ただ単に、ここに居たくなかったから。でもそんなこと誰にも言えるはずなかった。



 春が終わり、夏になった。

 中学最後の花火大会の日、母親は私のために浴衣を用意していた。


「受験勉強の追い込みの時期なのに」


 すねる私に母は笑う。


「たまには息抜きも必要でしょ」

 

 仕方なく、母の着せ替え人形になって似合わない浴衣を着る羽目になる。

 

 友達にも「受験勉強があるから花火大会にはいかない」とすでにメールしてあるのに。


 一人で行ったって、むなしくなるだけだ。どうしようか?


 迷った末、私は姉さんを誘おうと思った。


 姉さんの部屋に行き声をかける。


「今日は風邪気味で具合が悪いからごめんね?」


 かすれた声。


 途方に暮れていると、甚平姿のナツ兄さんがやってきた。


「姉さんは風邪気味だって」


 伝えると、ナツ兄さんは


「じゃあ代わりに一緒に花火大会に行こう」


 なんて言いだした。


「代わりなんて嫌です」


 冗談めかしてすねてみせるとナツ兄さんは笑う。


「あはは、ごめんごめん。代わりなんかじゃありませんよ。 君と一緒に行きたいのです!」


 憎たらしいくらい、晴れやかな笑顔。私の心はぐらりと揺らぐ。この女たらしめ。




 ナツ兄さんと二人で、花火の上がる土手を歩いた。

 私は屋台で水風船と、りんご飴を買ってもらった。

 人ごみの中ではぐれないように、ナツ兄さんの甚平の袖をちょびっとだけ掴んだ。


「綺麗だなあ」


 赤や黄色やオレンジの光が、轟音と共に、パッと夜空を彩っては消えていく。

 煌めく夏の夜空。空を見上げるナツ兄さんの横顔。それをじっと眺めているだけで幸せだった。


 今日一日だけは、ナツ兄さんは私の物だった。


 だけれども、幸せな時間は長くは続かない。花火が終わり、店仕舞いをする屋台。人々が次々に家路につく。


「じゃあ、帰ろうか」


「うん……」


 心臓が痛い。たまらなく寂しい。

 明日からはまた、ナツ兄さんは姉さんのものになってしまうのだ。


「あっ」


 ぷつり。


 下駄の鼻緒が切れた。


 必死に結び直そうとしていると、ナツ兄さんは言った。


「おんぶしてやろうか?」


「いい、いい。大丈夫」


 慌てて首を振ったが、ナツ兄さんは「いいから」としゃがみこんだまま動かない。


 裸足で歩くのも痛そうなので、私は仕方なくナツ兄さんにおぶわれることになった。


「よーし、出発進行!」


 元気よく言うナツ兄さん。おずおずと肩につかまる。広くて大きな背中。


「しっかり捕まってろよー。落ちるからな!」


 確かにそのままだと振り落とされそうだった。しっかりと、ナツ兄さんの首に手をまわす。


 少し汗ばんだ、よく日焼けした太い首元。心臓の鼓動が早くなる。暖かな感触が、ナツ兄さんの広くてしっかりした背中から伝わってくる。


 昼間はあんなに暑かったのに、夜の空気はは少しだけ冷たい。夜風に乗って流れ込んでくる、微かな煙の匂い。遠くで響く微かな虫の声。はだけた袖元が少し寒い。


 ナツ兄さんの暖かさをもっと感じようと、回した腕にぎゅっと力を込める。

 ああ、神様。これぐらいならいいよね。今日だけ。今だけだから。


 自分の頬を、ナツ兄さんの肩口に擦り付けてみる。幸せだった。このまま溶けて一つになれたらいいのに、そう思った。


「眠いのか?」


 ナツ兄さんの声。


「うんそう」


 目をつぶりながら答える。


「全く、まだ子供だな」


 たまらなく愛しい笑い声。耳をくすぐるその甘く低い声に、思いは、理性という堤防を越えて溢れ出す――


「私、ナツお兄ちゃんが好き」


 言ってしまった。声に出して言ってしまった。


 ナツ兄さんの動きが止まる。ざわめきの中、心臓の鼓動が早くなる。かすれ声だったけど。ちゃんと聞こえたみたいだった。


 ――ああ、これはまずい。


 咄嗟にそう思った私は、慌ててつけ足した。


「――だから、お兄ちゃんが本当のお兄ちゃんになってくれて、本当に嬉しい」


 ナツ兄さんは安堵した様な声でこう言った。


「うん。俺もうれしいよ」


 良かった。胸をなでおろす。なぜだか、胸がすっと軽くなったようだった。


 これでいい。目をつぶり、涙をこらえる。きっとこれでいいんだ。この恋は、私が墓場まで持っていく秘密にすべきなのだ。

 私の大切なこの思いは、誰かに打ち明けて、傷つけるようなものにはしたくない。


 ――これで、よかったのだ。


 こうして私の小さな初恋は、夏の日の花火と共に終わりを告げたのだった。

 


 その秋に、姉さんとナツ兄さんは式を上げた。


 姉さんが、私に小さな白いブーケを渡す。


 「いい出会いを」


 その言葉に、笑顔で頷いた。

 

 そして長い受験勉強の冬を乗り越え、私は高校に合格し、大学に入り、そこで大学の後輩と付き合うことになった。


 「忘れられない人がいる」と言った私に、「それでもいい」と言ってくれた。


 年下で線が細くて子犬みたいな彼は、頼れる兄貴分のナツ兄さんとは真逆のタイプだった。


 燃え上がるだけが恋ではないことを、その人は教えてくれた。


 やがて彼と私は結婚し、子供もできた。

 時の流れと家族の存在は、私にナツ兄さんのことを徐々に忘れさせた。 


 今でもナツ兄さんのことは好きだ。でも、以前のような感情ではない。


 お盆や正月の時に時折顔を合わせても、ただ「ああ、老けたなあ」「年々おじさんになっていくなあ」とため息が出るばかりだ。嬉しいような、悲しいような。複雑な感情だ。


 ナツ兄さんは、幼い私にとっての全てだった。


 しかし、今にして思えば、ああ、なんと小さな世界だったのか。


 あの日の私に今の私を見せたらどう反応するだろうか?




「そういえば、明日出かけるから」


 ある日のこと、旦那がいきなりそんなことを言いだした。


「どこにいくの?」


 台所にいた私が聞くと、旦那は答える。


「ナツ兄さんと野球を見に」


 どういうわけか、旦那とナツ兄さんは私の知らないところで仲良くしているようなのだ。頻繁にメールやSNSでやりとりしていると聞き、どうしてそんなに仲良しなのかと驚く。


「あの人、凄いいい人だなあ。俺と趣味も合うし。まるで本当の兄弟みたいだ」


 旦那の言葉に少しドキリとする。ナツ兄さんと正反対のタイプを選んだつもりが、実はそっくりな人を選んでいたのかもしれない。


「そう言えば、昔ナツ兄さんと花火大会に行ったんだって?」


 だしぬけにそんなことを言われて、思わず持っていた切りかけのスイカを落っことしそうになった。


「う、うん、そうね」


 目をそらしながら答える。変に動揺したところを見せまいと、平然とした顔をしたふりをしてスイカに包丁を入れる。


「ナツ兄さんが言ってたよ。お前にりんご飴と水風船とスーパーボールを買ってあげたって」


「そうだったかしら?」


 懸命に記憶を探る。りんご飴と水風船のことは覚えていたが、スーパーボールのことなんてすっかり忘れていた。


「お前が水色の朝顔の浴衣を着ていてすごく似合ってたって言ってたよ。それでさ、その浴衣って、今どこにある? 姪っ子が今度、浴衣を着たいらしいんだけど借りれないかな?」


 私は首をひねった。ナツ兄さんが甚平を着ていたことは覚えているが、自分の浴衣の柄なんか、これっぽっちも覚えていなかった。


「そんな柄の浴衣なんか着ていたかしら。あるとしたら実家だと思うけど」


 旦那はため息をついた。


「お前、何にも覚えてねーのな!」


「うるさい」


 旦那を台所から追い出す。そして窓辺で洗濯物を畳みながらしばらく考えた。


 覚えていない? そんなわけない。あれは私の大事な大事な思い出だ。

 あの時の気持ちは、いつまでも忘れるはずなんかない。


 静かに目を閉じ、あの大切な夏の日のことを思い出そうとする。

 大好きな、ナツお兄ちゃんとの記憶。空に浮かぶ大輪の花火。ナツお兄ちゃんが全ての、ちっぽけな少女。その気持ちを。


 だけど記憶の川底をさらってみても、湧き上がって来るのは、断片的な記憶だけ。


 微かな硝煙の匂いと、人のざわめき。そして、暖かな背中のぬくもり。


 それだけが、ただキラキラと手の届かない宝物のように光っている。

 

 ああ。あんなに激しく燃えていたはずなのに、花火はどこへ消えたのでしょう?

 

 しばらく記憶の川べりに立ち尽くし、あの日の花火を探していたが、やがて私は、思い出すのを諦め、そこから立ち去った。


 消えてしまった大事な思い出たち。少し名残惜しい。だが、それでいいのだ。


 私の大切な宝石が、誰かを傷つけるものになるのならば、汚れてしまうくらいなら、いっそ消えてしまえばいい。


 墓の下まで持っていく荷物はむやみに増やす必要はないのだ。


 もしもその時になったら、私は手荷物に収まるだけの思い出だけ持って、跡を濁さずひょいと飛んでいくから。それが、私のなりたい私。


 私が愛したすべての人たちのように、優しい自分に、私はなりたい。


 だから、やがて旅立つその日まで、まだしばらくは川の底で、眠っていておくれ。


 さよなら。


 さようなら、私の初恋。

 そっと、記憶のアルバムを閉る。



 遠くでどん、と花火の鳴る音がした。






【完】

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