新婚ですが、なにか? 後編
それからひと月ちかくが過ぎた頃。
ダイラは女官頭から呼び出された。
何か失敗でもしただろうか。とくに思い当たる節はない。
呼び出されたダイラに突きつけられたものは。
「長期休暇の辞令……ですか。期間、数年って……なんですか、これ」
ダイラは手渡された書類をざっと読んですぐさま目の前にいる女官頭にいぶかしげな視線を送りつけた。
ダイラよりもずいぶんと年長な女官長はダイラの視線をあっさりと受け流した。
「なにって、そのままですよ。長期休暇です。つまりお休み。王太子妃様の許可も取っております。なんなら王太子妃様からの言付けも読みますか?」
ダイラは顎を引いた。
手渡された紙には『ダイラ、いい大人が意地を張ってないでいい加減観念しなさい』と書かれてあった。
「クビにするわけではありません。数年休んで、その間に人生の研鑽を積んできなさい。子供を産むのもよいでしょう。妻として夫を支えるのも立派な仕事です。市井を見、慈善活動を行ってみたり。そのような経験はあなたがまたこちらに戻ってきたときにおおいに役にたつでしょう」
女官長は子供を産んできなさいという一言ではなく、多くの事例をあげた。
ダイラの性格を彼女なりにつかんでいるからだ。ダイラは独立精神の高い娘だ。そういう子に頭ごなしに子供産んで主婦になれ、なんて言っても響かない。
ダイラだってカルロスのことが好きだ。
もちろん彼の子供を産みたい。それなのに、今一歩踏み出せないのは。
「あなた、ね。決心なんてそんなもの待っていても一向につきませんよ」
「べ、別にわたしはつかないなんて一言も」
ダイラは反論をした。
「いいえ。ついていないだけに決まってます。そんなもの後生大事にとっておかないでさっさと夫にあげてしまいなさい。こういうのは周りがさっさとお膳立てをするに限るんです。とにかく早く荷物をまとめて部屋を開けなさい。後任の女官は明日にはやってきますから」
ダイラは目を見開いた。
ずいぶんと手際が良い。
女官長は面白そうに笑みを浮かべた。
「もちろん、あなたの新しい家はミュシャレンに用意されていますよ。あなたがつれない態度ばかりとるから、わたくしたちみんなでリバルス卿の味方をすることにしました」
そんな風に宣言をされて、ダイラはその日のうちに荷物をまとめてアルムデイ宮殿から去ることになった。
女官の仕事を始めてからいつの間にか三年以上の月日が流れていた。
最初はリポト館勤めだった。一風変わった王太子のもとで働き始めてミュシャレンの宮殿に引っ越しをして、アルムデイ宮殿の女官たちは最初とっつきにくい印象だったけれど、次第に打ち解けることができた。
宮殿から去る時、レカルディーナが娘と一緒に顔を見せてくれた。彼女はつい二か月ほど前に二人目の子供を産み落とした。次に生まれたのも女の子である。
レカルディーナは、強くなったと思う。母としても王太子妃としても。
彼女はからりと笑った。窓の外に広がる初夏の空のような明るい笑みだった。
「わたしばかりがダイラのことを独り占めしていたらカルロスに怒られちゃうし。新婚なんだから、ちゃんと旦那さまと仲良くしないとだめよ? あと、子供が生まれたら是非一緒に遊ばせてね」
「ダイラ、ばいばいなの?」
小さな王女様がダイラをまっすぐに見上げてくる。
「そうよお。すこーしだけね」
「明日まで?」
「ううん、このくらいかな」
レカルディーナは娘の問いかけに腕を大きく伸ばした。
いや、それ意味がわからないから。
「また遊びに来ますから」
ダイラは身をかがめて小さな王女様、アンナティーゼとしっかり目線を合わせた。
「ぜったいね」
「はい」
アンナティーゼが笑えばダイラもにっこりほほ笑んだ。
少しの間離れるけれど、会えない距離に行くというわけでもない。少し寄り道をしてまた戻ってこよう。
その頃には家族が増えているかもしれない。
夫と一緒にアルメート大陸へ行ってもいい。彼が長期休暇をとれたらの話だけれど。
最後は女官部屋に別れを告げて、ダイラは宮殿を後にした。
ダイラの新しい住まいではカルロスが待ち構えていた。
夫婦の寝室に案内をされれば、ダイラも遅ればせながら夫婦という言葉を実感した。
これまで書類上の夫婦から、名実ともに夫婦になるという意味。荷物を整理して、家の中を案内された。家事使用人を紹介され、夫の手際の良さに呆れた。というか、これらの事前準備は全部カルロスとダイラを知る者たちによる共同作業なのだろう。家事使用人と料理番はオートリエの紹介だと言われたし、カルロスは本日から三日間の休暇だと言っていた。ということは彼の上司アドルフィートもこの計画に噛んでいることになる。
夜、二人きりになってさすがに別々の寝室で眠るなんてことにはならなくて。
ダイラはぎこちなく寝室に足を踏み入れた。
この男と結婚して、そして。
こんなことになろうだなんて、あの頃の自分には想像がついただろうか。書類に署名をしただけでダイラの結婚は完結していたけれど。
やっぱりだた怖かっただけかもしれない。
ダイラを迎え入れるカルロスがどこか知らない男のように思えて、ダイラは無意識に一歩後退した。ダイラが感じる未知の恐怖を取り払うかのようにカルロスのほうがゆっくりとダイラに近づいた。そして彼はやさしくダイラを抱きしめた。
「やっと捕まえた」
ささやき声はダイラのすぐ近くから聞こえてきた。焦がれるような熱のこもった声にダイラはそのときが来たことをはっきりと悟った。
お互いに夜着を身につけていて、薄布だけということがとても心もとない。
二人きり。
それがこんなにも心もとなくて、逃げ出したくなるなんて。
「ダイラ、震えている」
「……そんなこと、ない」
勝手なんてわかるはずもなく。ダイラは促されるまま寝台へと連れて行かれて。
それからのことは、よく覚えていない。
普段本ばかり読む、どちらかというとお堅いダイラには初めてのことが多すぎて、ついていくのに必死だった。
ダイラはこんなにも必死なのに、わからないことだらけなのにどこか余裕のある夫が気に食わない。
一体これまでどれだけ遊んでいたんだろうなんて、ついかわいくないことを考えてしまう。
ダイラのことを事あるごとに「かわいい」、「愛している」と言ってきて、ダイラの耳は律義にそれらを拾った。そして、痛みとそれとは違う不思議な感覚に襲われた。
頭がぼんやりとしてあまり覚えていないけれど、それでもダイラは最後あたたかな腕のぬくりもりだけはしっかりと記憶に刻んだ。とても安心するぬくもりで、ダイラはそのまま目をつむった。
気が付いたら朝になっていた。
「おはよう、ダイラちゃん」
ダイラの目覚めた気配を察したカルロスが頭をなでてきた。
横になった、すぐとなりにたくましい彼の胸板が見えてダイラはあわてて体の向きを変えようとしたが、カルロスの行動のが早くてダイラは彼の腕の中にすっぽりと抱きかかえられた。
明るい日差しの中で、一糸まとわぬ姿を見られるなんて。
彼の生の体温を感じることに慣れない。
「喉乾いてない? 水飲む? それとも熱いお茶のほうがいいかな」
「水……ほしい」
ダイラの答えにカルロスが起き上がって、寝台の横に置いてあった水差しから水を次いでくれて、手渡してくれた。
「ありがとう」
ダイラは上かけを引き寄せて、胸元を隠しながら起き上がってこくりとのどを潤した。
なんだかとても気恥ずかしくて、なにを話していいのかわからない。視線を感じてダイラはカルロスのほうに顔を向けた。
青いやさしげな瞳を見たら、どうしようもなくなった。
夫になった人。この人に、抱かれた。
近しい距離に呼吸の仕方がわからなくなる。
何か大切なものを無くした気分だった。それなのに、大切なものを手に入れた気もする。不思議だった。
ダイラは知らずに涙を流した。
自分でもなんで泣いているのかよくわからない。
「え、ちょっと。どうしたの? どうして泣いているの? え、そんなに俺よくなかった?」
涙を流したら夫のほうが狼狽して必死な様相をした。
「気持ちよくなかった? 最初だからって手加減したのがまずかったのかな……。いや、俺もっとすごいから! もっと気持ちよくさせてあげるから。なんだったら今からもう一度」
「ちょ、ちょっと! 何言っているのよ! 気持ちいいとかよくないとか、わたしにわかるわけないでしょう! ていうか、そういうあけすけなこと言うのやめなさいっ」
この男は何を言い出すのか。
初めてのダイラにはいいとは悪いとかわかるわけもないのに。
馬鹿。今度は別の意味で泣けてきた。
それなのに、本当にカルロスはダイラの唇に自身のそれを重ねてきた。
彼はダイラの手の中にあったグラスを取り上げて、寝台の傍らの置物台に置いた。
朝からなんてこと始めるの! と必死にのしかかってきた体を押しかえそうもするも軍人の彼にダイラがかなうわけもない。逆に寝台に押し倒され、口づけが深まった。
なんとか息継ぎの合間に彼に文句を言ってやると、困った顔で苦笑された。
「ごめん……。ちょっと、今無理。待てない」
「え、ちょ……」
ダイラは青ざめた。
脳裏に宮殿から去る際に女官長から言われた言葉が咄嗟に思い起こされた。『あなたね、おあずけばかりくらわしていると、反動が怖いですよ』と。
それってこういうこと?
「大丈夫。俺がダイラちゃんのこととろとろにとかしてあげる。俺だけを見て。愛して」
大丈夫じゃないから抗議をしているのに。意味が分からない。
だって、朝なのに。外はこんなにも明るいのに。人が入ってきたらどうするつもりなのだろう。
それなのにカルロスは本当に容赦するつもりもないのか、一度唇を離して嬉しそうにダイラを見下ろした。ひきつけられる笑みだった。
卑怯だ。そんな、顔をするなんて。
「愛しているよ。ダイラ」
ダイラの返事を聞く前に、もう一度カルロスは唇をふさいだ。
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