第4話
日が昇る頃になり、ようやくアシェルの羅針盤が復活した。自分の能力について、これほどまでに嬉しいと感じたことはかつてなかった。しかし、感動している暇はない。
二人は急いで機体に乗り込み、エンジンを回す。
「本当にすみませんでした。急ぎましょう、バル」
マイク越しにそう伝えると、バルは前を見据えたままいつもの口調で返答してきた。
「ああ。どれくらいで着きそう?」
「普通の人なら、だいたい二時間くらいですね」
そして、アシェルは言う。「空の天才なら、まぁ一時間半ってとこじゃないですか?」
「じゃあ、その天才は一時間を目安に飛ばしますよっと。前半戦に燃料を温存しておいてよかったなぁ、本当に」
再度駆けあがる二人の機体は、朝日を浴びながら猛スピードで突き進んでゆく。
東の空がきらきらと瞬き、視界も一瞬凪いで見えた。
ゴーグル越しに二人はそれを眺め、思わず目を細める。
そのとき、なぁ、とバルが声を洩らした。
しかし、それ以降の言葉は風によりものの見事にかき消されてしまった。
「え? 聞こえません」
アシェルが改めて尋ねると、バルは真正面を見据えたまま首を横に振るだけだった。その背中を見据えながら、アシェルは考える。
そういえば、初めてこの男と会った時も、印象に残ったのはこの広い背中だった。
後ろ姿だけは妙にかっこよくて、その背中を見つめていたら奇跡的な方向音痴により危うく遭難しかけた。一緒にバカをやったのは、この男が初めてだったのだ。
確かその時も、文句を言う自分に対し彼はこのように言ったのである。
――この空は、一人では飛べない。
その時は自分の方向音痴を揶揄しているのだと思っていたが、アシェルはようやくそれが違うのだと気がついた。
ふたりで、ひとつ。
互いが空の
何年もかけてようやく辿り着いた答えに、この男はもうずっと前に辿りついていたというのか。
(悔しいな)
どうやっても辿りつけない、バルのいる領域。
いつか、追いつける日が来るのだろうか。この底抜けに明るい大バカの、けれど誰よりも優しいその領域に。
(いや、追いついてみせる。絶対に)
アシェルがバルに方角を伝えると、彼は右の親指を立てた。大分遠くの方に、豊かな森林が見えてきた。スウィーデル王国の天然記念物だ。あれが見えてきたのなら、もう安心である。
さすが空の天才。本当に一時間でやってのけた。
しかしアシェルは敢えて彼を誉めようとはしなかった。ただ唇の端を吊り上げて笑っただけである。
スウィーデル王国の王都上空まで機体を飛ばし、王城の中に建設されている飛行場を探し出す。
「アシュー、信号」
「了解」
アシェルが着陸許可の信号を送ると、しばらくの後に許可する旨の信号が見えた。これで堂々と降り立つことができる。
着陸用にタイヤを降ろし、軽やかに地上へ滑り込む。この瞬間がふたりは格別に好きだった。プロペラが徐々に回転数を緩め、そして止まる。
急に静まり返った飛行場。二人はゴーグルを外し、空輸機からようやく降り立った。
そこで驚くべき事態が起こった。
飛行場の奥から、責任者らしき人物がやってきたのだが、それと一緒に歩いてくる女性がいた。背がすらりと高く、癖ひとつない黒の長髪を持ち合わせている。アシェルはアクセリナにとてもよく似ているな、と思った。
最敬礼をすると、彼らは二人の前で立ち止まる。
「あなた方は『郵便特殊部隊』ですね」
女性の方が口を開いた。「なにか重要な伝達でしょうか?」
「いえ、」
バルが何かを言いかけたので、それを慌ててアシェルが遮る。この男に口を開かせるとろくでもないことになると踏んだのである。
「第三王女アクセリナ様より、祝辞を賜りました。くれぐれも内密にと申されたため、本来定められている飛行場ではなくこちらに着陸させて頂きました。突然の御無礼、どうかお許しください」
その言葉を聞き、彼女はぱっと顔を明るくした。
「アクセリナが? 会ったの、あの子に?」
矢継ぎ早に質問されたので、驚きながらも彼らは首を縦に動かした。
彼女は涙ぐみながらも、嬉しそうに微笑んでいる。もしかして、もしかしなくても、彼女は例の。
「私の妹が大変お世話になりました。私が第一王女のクリスティナでございます」
やはり本人の登場だった。
慌ててバルとアシェルが跪こうとするが、彼女によってそれは止められた。
「その、アクセリナは元気かしら? こんなことを聞くのはマナー違反だと分かっていますが……」
それくらいなら答えても問題ない。アシェルが肯くと、彼女はさらに嬉しそうに微笑んだ。
「こちらが預かってまいりました祝辞にございます」
手紙を預かっていたのはバルだったので、彼がその手紙を差し出した。クリスティナはそれを震える手で受け取り、より瞳に涙を浮かべはじめた。
「こんなに嬉しいことってないわ! ありがとう、本当に、ありがとう」
***
のちに二人は指定の飛行場に空輸機を降ろし、そこからは単車での移動となった。
実は飛行場に局長直々の連絡が入っていたのである。
曰く、せっかくだからちょっと休憩して来いと。元々非番だったところに突然入れてしまった任務なので、その代わりでもあるのだろう。
こちらの運転はアシェルが担当している。長時間の操縦でくたくたになったバルは、この時既に両腕の握力が極限にまで弱まっていた。空の天才は、陸に降りるとただの凡人になる。アシェルはアクセルを回し、長い道のりを飛ばす。
「なんか、考えさせられたな」
サイドカーに座るバルがアシェルに声を投げかけた。アシェルは依然視線を真正面へと向けているが、別に無視している訳ではなさそうである。微かに顎を動かし、続きを促した。
「この大陸にいる以上、羅針盤は必要不可欠。だけど、家族から引き離すんじゃなく、もっと別の方法があったんじゃないかなぁ。あの王女様を見ていたら、そう思った」
「バルにしては頭を使いましたね」
アシェルはいつもの淡々とした口調で告げた。
「お前、もうちょっと言い方ってもんが……!」
「おれも似たようなことを考えていました。ずっと」
その言葉に、バルの文句がぴたりと収まる。風を切る音と単車のエンジン音がしばらく二人の沈黙を見守っていたが、のちにようやくアシェルがのろのろと口を開いた。
「理不尽だって思っていました。国の狗だとも。でも、不思議ですね。手紙を届けるたびにみんな喜んでくれるんですよ。届けたのはおれじゃなく、あくまで飛行士です。でも、喜んでくれる。それは嫌じゃないんです、まったく嫌じゃないんです」
「そりゃあ、あれだ。飛行士は一人で飛んでる訳じゃないからなぁ」
「だから、少なくともおれに関してはこのままでもいいかと思うようになりました」
勿論他はどうにかして改善してもらいたいが、とアシェルは言った。
ゴーグルをかけているため、表情は分からない。だが、この時バルはなんとなく彼が泣いているんじゃないかと思った。しかし、それを指摘すれば間違いなくアシェルは拗ねるので、バルは敢えて無視してやることにした。
「ええと、要約してくれる? バカな俺にも、分かりやすく」
「おれはバルとだけ飛ぶことにしました。これはおれの自由意思です」
はっ……? とバルが目を剥いた。
一体なにを言い出すのかと思ったら、なんでこうなった。そう言わんばかりに口をぱくぱくさせているバルに、アシェルはさらに付け加えた。
「バルと飛べば分かる気がします。どうしておれが郵便を選んだのか、なんで配達するとこんなにも嬉しくなるのか。その答えを探しに行きます」
そりゃあまぁ、結構なことで。
バルは空気を読んで、それっぽい返答をしておくに至った。
とりあえず、昨夜の失敗を引きずっている訳ではなさそうだったので安心したというのが正直なところだろうか。
(やっぱり言うんじゃなかった)
アシェルは胸中で呟き、それ以降は無駄なことを一切考えないようにした。ただひたすらに、王都へと単車を走らせることだけに専念する。
こんなに自分のことを話したのは生まれて初めてだったので、どうしたらいいのかよく分からない。だが、バルなら否定しないだろうと心のどこかで期待していたのは事実である。
自分の目指すところに必ず彼がいて、絶対に引っ張り上げてくれるだろうと確信した。
少なくとも、昨夜の彼は間違いなく自分にとっての標石だったのだから。
「――スウィーデルといったら、アシェルの出身国だよな」
そこでぽつりとバルが尋ねた。「いつもより多く休めるだろ。どこか行きたいところはないの?」
意味がよく分からなかったので、しばらく思案したのち、アシェルは直球で質問してみることにした。
「それは、一体おれにどうしろと」
「ちょっとくらい羽を伸ばしてみてもいいんじゃないかってこと。また羅針盤が狂われるとたまったもんじゃない。できればこれっきりにしてくれ」
「そうですね、」
アシェルは前を見据えたまま、じっと考え込む。「バルも好きかもしれませんね。この国、スペルニャとは違う方向の美人が多いですし」
「この期に及んで俺の心配か! あぁ、でも酒場には行きたいな」
けらけらと笑いながら、バルは残りの水を煽った。「せっかくだから、バカやって帰ろうぜ。たまには羽目をはずせ!」
「あなたのいいところは、欲望に忠実なところですね」
「それ、貶してる?」
「褒めてます」
そう、褒めているのだ。
アシェルはふっと頬を緩め、王都へと向かう道を突き進んでいった。
了
空の標石 依田一馬 @night_flight
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