第3話

 死海までの数十マイルは、コンパスも動くので基本的には飛行士一人での操縦となる。ここでのアシェルの役割は、ひたすらバルに方角の指示を出すことだけだ。

 というのも、バルの場合、とんでもない方向音痴なのである。

 バルは元々空軍志望だった。無骨な顔からは想像もできない美麗な運転技術は目を見張るほど素晴らしく、士官学校も実は次席という好成績で卒業した猛者でもある。

 どうして主席になれなかったかというと、理由は二つある。ひとつは筆記試験が散々だったということ。そして、ひとたび空に上がると謎の方向音痴が発動し一人では飛べないということ。後者は特に顕著で、どうやっても矯正できなかった実に頑固な習性だった。

 空軍に所属するとなると、戦闘機の仕様の都合上必ず一人で飛ばなければならない。しかし彼を単独で戦闘機に乗せるのは危険だ。だからと言って彼を地上に置いておくのは宝の持ち腐れである。教官らが悩みに悩み、苦肉の策として出した結論が『郵便特殊部隊』への配属だったのである。

 アシェルはバルがまた変な方向に飛び出したことに気づき、「もう少し右」と告げた。

 言われるがままにバルはその機体を右――つまり、南側へ寄せた。

 今でこそ阿吽の呼吸と言わんばかりの仲になったが、最初は散々だった。

アシェルはその『永久器官』により、感覚のみで方角を判別できる。だからこそいつものように東西南北で指示を出そうとしたのだが、初めてのフライトでバルが言い放った一言はこれだ。

「東って、上? それとも下?」

 衝撃だった。

 上は空で下は死海だ。当然アシェルは「沈みたいんですか?」と返すに至る。

こんな感じで、この男の場合上下左右でしかものを判別できない。アシェルにとってバルは三人目の飛行士だけれども、まさか方角も分からないパイロットがいるなどとは考えたこともなかった。しかも、陸に上がればこの男は方角が分かるようになるのだから呆れたものだ。パイロットに向いていないのではないかと考えたこともある。

 結論から述べると、バルは間違いなく「空を飛ぶために生まれてきた人間」なのだが。

「――シュー、アシュー」

 ふと、バルがアシェルを呼んだ。「この方向で合ってる?」

「え、あー、はい」

 合っていますよ、とアシェルは言いかけて、自分が握っている操縦桿の真上に付いているコンパスを見つめた。念のために確認を、と思ったのだが、それを見てアシェルははてと首を傾げる。

 自分が感じている方角と比べて、ほんの少しだが誤差が生じていたのだ。

 死海はまだ遥か遠くにあるというのに。動揺したままアシェルが口を閉ざすと、再びバルがその名を呼ぶ。

「どうした?」

「いいえ。バル、もう少し高く飛べますか。そろそろ針葉樹林帯です。えーと、それから方向を三〇度くらい修正して下さい。左に、です」

「了解」

 バルが機体をほんの少しだけ修正し、高度を上昇させた。もう一度コンパスを見遣る。今度こそ、自分が感じている方角とぴったり合っている。

(気のせいか)

 アシェルはそう思い直し、再びバルの広い背中を見つめた。

 暗い色の空はどこまでも続いており、ふと見上げると春の星座が立ち並んでいた。肌を刺すような空気の冷たさに目を細めると、突如空気の匂いが変わったのに気がつく。

 二人の眼下に広がるは、とてつもなく広い湖。死海である。水平線が見えるほどに巨大な湖は、最早海と表現しても過言ではない広さを誇る。その塩分濃度の高さ故に、この大陸の人々はこの湖を「父なる海」だと崇めてきた。

 ここからが勝負である。アシェルはもうアテにならないコンパスには目もくれず、ただ真っすぐ前を見据える。

「バル、ここから先はあまり飛ばさないでください。今日の風はなんだか嫌な感じがします。機体ごと攫われるかも」

「おーけー。アシェルのそういう勘は当たるからなぁ。頼りにしてるぜ、羅針盤」

 そう言った矢先、早くも風に流され始めたのでアシェルは冷静に「一〇時方向」とだけ告げた。

 これだけ広い空の上でも、飛んでいるのはこの二人だけだった。死海を越えるには羅針盤が必要。そして、夜間飛行を行えるほどの腕を持った飛行士も。この条件を持ち合わせるバディは、実はそうそういないのが現状である。

 アシェルは細かく方向や速度の指示を出し、バルがそれに従う。死海の上だけは、どんなに腕のいい飛行士も羅針盤に頼るしかない。この場所だけ羅針盤は持て囃されるのだ。

 アシェルはそれがとてつもなく嫌だった。

 人々のために必要なことだとは分かっている。しかし、同時に理不尽にもほどがあると思った。どうして神は己を羅針盤に選んだのか。もっともっと、例えばそう、目の前で操縦桿を握っているこの男に方向感覚を与えた方がずっと有益だったのではないかと思うのだ。

(そうだ。わざわざあの王女様でなくても)

 飛行士にその能力をくれてやった方がいいに決まっている。

「――なぁ、アシュー」

 バルが口を開いた。「さっきから指示が減ったけど、どうした」

 はっとした。そして、アシェルはがばりと顔を上げ、辺りをきょろきょろと見回し始める。

(あれっ――?)

 その異変を理解するのに、相当時間がかかってしまった。

「アシュー?」

 背を向けたまま、バルが呼ぶ。「……アシェル。返事!」

「ま、待って下さい。なんで? えっ?」

 方角が、まるで分からない。

 アシェルはさっと血の気が引いた。

 まるで頭の中をコンパスの針がぐるぐると回り続けているようだった。どんなにあたりを見回しても、ずっと同じ場所を飛び続けているようにも思える。

 とにかく、方向が分からない。そうだ、星! そう思って宙を見上げても、焦りのせいか目印となる星がうまく見つけられない。思うように理解できないのだ。

「もしかして、迷った?」

 ぽつりとバルが尋ねた。「とりあえず、落ち着け。深呼吸は出来る?」

 話はそれからだ、とバルがけろっとした調子で言い放った。まったく怒る素振りもなく、ただ淡々とマイク越しにアシェルに向けて声を投げかけている。

「お前、今日様子がおかしかったもんな。分からないなら分からないって言っていいんだぜ。ここに、ほら」

 そこでようやく、バルが肩越しに後ろを振り返った。「方向音痴の神がいる」

 なにを自信満々に言うのだ。

 そうツッコミを入れるのがいつものアシェルだが、この時ばかりはそんな余裕はまったくなかった。

「……おれの、せいだ」

 アシェルが呟いた。「この海の真ん中で迷ったらどうしよう」

「だから、大丈夫だって――あっ、ちょうどいいところに浮島がある」

 バルが言った。「まだ神様とやらは、俺たちのことを見限ったわけじゃなさそうだ」


***


 機体をその浮島に着陸させると、二人は一旦空輸機から降りた。

 アシェルは未だに顔面蒼白で、じっと俯いたまま黙りこくっている。そんな彼に、バルは一緒に持っていた飲料を渡してやった。

「とりあえず、水分。疲れただろ」

「……酒じゃないですよね」

「俺の信用は最底辺かよ」

 いや、とアシェルは首を横に振った。

「いただきます」

 とにかく、頭を冷やしたかった。むしろ気持ち的には酒でもよかった。

 この場所がどのあたりで、あとどれだけ飛べば死海を抜けるかも分からない以上、水を無駄にはできない。アシェルはそのあたりも充分に考慮し、一気に煽りはせずちびちびと水を口に含めた。

 そんな様子を、バルの青い瞳がじっと見つめている。

 ふぅ、と呼吸を整えたところで、アシェルはようやくその視線に気がついた。てっきり無言の圧力というやつで責めているのだと思った彼は、その身を縮めながらかぼそい声で告げる。

「バル、本当に申し訳ありません」

「いや、それはいい。普通のコンパスでさえ狂うんだ、羅針盤が狂うことだっておかしくないだろ」

 バルがポケットから何かを取り出し、それをアシェルに向かって投げた。

 砂糖菓子だった。銀紙に包まれたそれは、『郵便特殊部隊』の数少ない支給品である。

「やっぱり、寝てないんだろ」

 そして、バルが問い質した。怒りにも似た真剣な問いに、思わずアシェルは口ごもる。しかし、怒られるのは至極当然のことなのである。命の危険が常につきまとう夜間飛行、自分の体調も調整できないようではみすみす死にに行くようなものだ。

 アシェルはじっと押し黙り、機体にその身体を預けた。そのままずるずると滑り落ちるように腰かけると、右手で両目を覆う。

「――ええ。おれは嘘をつきました」

 眠れなかったんです、とアシェルは今にも消え入りそうな声で言った。

 バルも彼の隣に腰かけ、もうひとつ取り出した砂糖菓子を口に含めた。薄荷の涼やかな香りが鼻をすっと抜けて行く。この感覚がバルはとても好きだったが、あまり甘いものを好まないアシェルはどうだろう。現に今もそれを握りしめたままでいる。

「どうしても、あの子の姿を見ていたら。昔の自分と重なって見えてしまったんです」

 バルがぴくんと肩を震わせた。

「そういえば……アシェルはこの部隊に長いんだよな。俺で三人目って言っていたし」

「ええ。おれは一〇代の頃からこの隊にいて、夜間飛行部隊の羅針盤を続けています。ずっと、多分これからも」

 ふ、とアシェルは息を吐いた。「いずれあなたとのバディも解消されて、別の人の羅針盤になることでしょう」

 羅針盤の存在は貴重だ。だからこそ、一人のために尽くすということがない。今でこそバルのみの羅針盤として任務についているが、新人の頃はひどかった。正式なバディの他にも代打として様々な人とこの空を飛ばされることも多く、休みなどほとんど与えられていなかったのである。

 そんな状態の羅針盤が最終的にどうなるか。

「――おれがどうしてバルと組まされたか、知っていますか?」

 ふと、アシェルはそんなことを尋ねた。

「いいや。俺が究極の方向音痴だからだろ?」

「違います。あなたには申し訳ないけれど、おれは左遷されたんです」

「左遷?」

 そう、とアシェルは肯き、ようやくその口に砂糖菓子を含める。一瞬顔をしかめたが、そんなこともどうでもよくなるくらいに彼は気持ちが沈んでいた。

「前にも、こういう風に『永久器官』が狂ったことがあったんです」

 あまりに引っ張り回された結果、疲労も溜まり、そのせいで身体の感覚が鈍った。そのために、本来急ぎで届けなくてはならない荷物を、時間までに配達することができなかったのだ。その損害は非常に大きかった。

 当時の局長は羅針盤の使い方を改めるよう制度の見直しを図ったが、それ以外――例えば、一緒に飛んだパイロットなどからの風当たりは相当強かった。

 そして命じられた、バディの変更。

 左遷だと方々から陰口を叩かれたのは今も記憶に新しい。実際、アシェル自身もその通りだと思い込んでいた。

 なにせ、そこで現れたのが、天才的な操縦センスと桁外れの方向音痴を兼ね揃えた変わり者・バルデルラバノだったからだ。

 アシェルは最前線で働いてきた天才羅針盤である。そんな彼が、まさか方向もろくに分からない新人と組まされるなど本来普通の出来事ではなかったのだ。

 なるほど、とバルが頷く。

「俺は大した栄転だと思ったんだけどなぁ。どうりで周りからの視線が冷たいと思ったよ。嫉妬かと思ったけど、違うんだな」

「すみません、その視線はほとんどおれのせいです」

 どちらかというと、バルに対する視線は単なる憐れみだろう。

 そのあたりは細かく言及せず、なんとか腹の中に押し留めるに至った。

 結論から言えば、彼は悪くない。

(悪いのは、この自分だ)

 アシェルは思わず唇を噛みしめた。

「おれは羅針盤としては不備が多すぎる。あなたを死海のど真ん中で路頭に迷わせてしまってはいけないのに」

 それに、と瞼を震わせる。「……この手紙も、届けられなくなる」

 あんなに焦がれていた家族への思いを、姉への祝辞を、自分のせいで伝えられなかったとしたら。それだけは嫌だった。だが、今も狂ってしまったまま直る兆しがない己のコンパスが事態をより深刻にさせている。

「あの王女様には、自分と同じように寂しい思いをさせたくないと思ったのに。このざまです」

 アシェル、とバルが唐突にその名をぽつりと呼んだ。

「なんつーか、お前、一人で背負いすぎじゃねぇ?」

 え、と顔を上げると、バルは一面に広がる星空をただひたすらに眺めていた。アシェルには目をちらりとも向けていないが、確かに彼に何かを伝えようとしていた。

「羅針盤がどういう風に育てられるのか、俺は話でしか知らない。だけど、アシューやあの子を見ていたら、なんとなくだけどその大変さは分かる、つもり。ひとりでやるしかないって感じに育てられたんだろ。羅針盤が貴重だから、ひとりでたくさん賄えるように、って」

 でもそれは違う、とバルは厳しい口調で言った。

「この空は一人では飛べない」

 その言葉を、アシェルは目が覚めたような思いで聞いていた。

「俺は飛ぶ技術があるけど、方向が分からない。お前は方向は分かるけど、俺ほど速くは飛べないだろ。ふたりでひとつ、それでいいじゃん。だから、お前はひとりで頑張らなくてもいいんだぞ」

 そして、バルはぐいっと水を煽った。

「――俺だって曲がりなりにも空軍出身だからさ。ずっと一人で空を飛ばせられた。でも、今でも思う。背中を預けられるやつがいるって、本当にありがたいことなんだってさ」

 さて、とバルは立ち上がった。

 その姿を、アシェルは呆けた顔で見上げている。

「ゆっくりでいいから。感覚、戻るといいな」

 それまでは釣りでもしてるわ、とバルが海水に近寄ったため、アシェルはぽつりと指摘した。

「バル、死海に魚はいませんよ」

「えっ、そうなの?」

「士官学校でも習ったでしょう。覚えていないのですか」

 尋ねると、バルは一旦首を傾げ、それからきっぱりと言い放った。

「俺、座学のときは八割方寝てたから」

「それ、自慢げに言うことじゃないでしょう。よく卒業できましたね、本当」

 まったく、と呆れながらアシェルは微笑んだ。「死海はもっと別の楽しみ方があります。飛び込むと、身体がぷかぷかと浮くんですよ。もちろん飲み込まないよう細心の注意を払わなければなりませんが」

 ふむふむ、と大人しくアシェルの雑学を聞いていたバルだったが、ふとなにかに気がついたらしい。彼には珍しいやたら神妙な面持ちで一言言い放った。

「これから飛行機に乗る奴が、身体を濡らしたら駄目だよな」

「そう、ですね」

 互いに見つめ合い、そして笑い合う。

 それだけのことなのに、なんだかそれがとても心地良くて、愛おしくすら感じられた。

 アシェルは思う。

 自分は間違っていた。これは決して左遷なんかではなかった、と。

「ん? どうした」

 バルが尋ねた。

「――いいえ、なんでも」

 彼と組むことになったのは、自分にとっても栄転だったのだ、と。

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