第2話

 局長室へ向かうと、さきほど館内放送を流していた秘書・エミリアが迎えてくれた。彼女は腰まである亜麻色の髪をさらりとなびかせ、にこりと微笑む。


「二人ともいらっしゃい。ごめんなさいね、午後は二人とも非番なのに」

「いえ」


 几帳面にアシェルが答えると同時に、バルがきりっとした口調で答えた。


「エミリアさんにお会いできるならいつでも馳せ参じます」


 アシェルは知っていた。エミリアの容姿が、バルの好みどストライクなのである。暇さえあれば彼女を口説いているようだが、そこは大人の女性だけあり、適当にあしらっているらしい。


 というか、アシェルはこの三年、バルが振られているところしか見たことがない。

 現に今もエミリアは気さくな笑みを浮かべながら、バルの背を「やぁねぇ」とばしばし叩いている。一応軍属出身であるが故に、彼女の叩き方は結構豪快だ。


「まぁ、バルったら。こういうことをどの女の子にも言っているんでしょう?」

「そんなことないですよ、俺はエミリアさん一筋っス」


 どんなに表情を引き締めて言っても無駄だ。その台詞、数ヶ月前に別の女性にも言っていただろうに。この男の将来を憂いて、思わず嘆息をつきたくなるアシェルだった。

 このままでは埒が明かないので、アシェルは「ところで」と敢えて話の腰をぶった切った。


「本日はどういったご用件で?」

「ああ、それがね……」


 エミリアが言葉を濁しながら、彼らを局長室の中へと案内する。


 そこには男性と少女という奇妙な組み合わせの二人がいた。

 男性の方は、もちろんこの『郵便特殊部隊』局長のバートである。それなりの年齢であるはずなのに、まったく歳を取ったようには感じられない。白髪一つ生えていない茶色の髪は若々しいし、東国独特の黄味がかった肌だってハリが違う。彼と会うたび、部署内でまことしやかに噂されている「局長不老不死説」は実は本当なのではないかと考えてしまう二人である。


 そして、彼の横で大人しくココアを飲んでいる少女。こちらは見覚えがない。彼女も東国出身らしく、独特の癖ひとつない黒髪をさらりと肩まで伸ばしている。もしや局長の隠し子? とバルがアシェルの耳元で囁いた。ついつい「否定できない……」とアシェルが考えてしまうくらいには、この局長も女遊びが過ぎる人だった。


「お待たせしました。バルデルラバノ、アシェル両名到着いたしました」

「うん、お疲れー」

 そしてこの局長は、どこまでもちゃらんぽらんな人間なのである。「あ、ココア飲む? アシューは好きだったでしょ。甘いもの」

「結構です。甘いものが嫌いだと何度言ったら覚えてくれるのですか。それとも嫌がらせですか」

「育て親としての愛情表現」

「いっぺん死海の水を飲んでみたらいいんじゃありません?」


 天下の局長相手にアシェルは実にとげとげしい言葉を投げかけている。

 この手のやりとりはいつものことなので、バルは敢えて首を突っ込まない。アシェル曰く「これは羅針盤としての戦いでもある」そうなので、いっぱしの飛行士には手出ししてはいけない領域なのだった。


 事実、バル以上に付き合いの長い二人の間に入り込む余地はほとんどない。仲いいなぁ、とごちたところで、アシェルがきつい睨みを利かせてきた。とばっちりもいいところである。


 じゃれあいはここまで、とバートは手を叩いた。


「実は二人にお願いがあるんだ」


 ぴくりとアシェルの整った眉が震える。「仕事ではないのか」と尋ねると、バートはあっけらかんとした口調で言う。


「うん。あくまで『お願い』」

 そしてバートは、隣に座る少女の肩を叩いた。「この子のお姉さんに手紙を届けてほしいんだ。あくまで個人的に」


 きょとんとして、アシェルとバルは互いに顔を見合わせた。

 それは別に自分たちでなくとも出来る仕事だ。わざわざ二人を指名する理由なんかなかろう。それに、今の時間なら昼の部隊が飛ぶことだってできる。なぜわざわざ夜間飛行部隊である二人にそんなことを『お願い』したのか、彼らには皆目見当がつかなかったのである。


 バートは、それすらも想定内と言わんばかりの含み笑いを浮かべている。


「場所はスウィーデル王室。できるだけ内密にお願い」

「はっ?」

 さすがに二人は声を同時に上げてしまった。

「なんで王室……」


 バルがそこまで言いかけると、少女がずっと手にしていたカップを降ろした。そして、彼女はまっすぐにバルとアシェルを見つめ、ひとつ礼をした。


「お初にお目にかかります。わたくし、スウィーデル王国第三王女・アクセリナと申します」


 再び二人は目を剥くこととなった。

 どうして。なんでこんなところに王女様なんて人物がいらっしゃるのか。バルがこそこそと「東国は王家が気軽に出歩けるものなのか」とアシェルに耳打ちしているが、そんなはずあるわけない。東国出身のアシェルだって初耳だ。

 バートが彼女の自己紹介に一言付け加えた。


「彼女、さる事情があってお家には帰れないんだ」


 それを聞くなり、アシェルの表情が変わった。

 呆けているバルの横で彼はしばらく思考を巡らせていたが、のちにようやくひとつの結論を導き出したらしい。つかつかと彼女の元へ足を進めると、

「失礼」

 そして、おもむろに彼女の顔を覗きこんだ。


 一般的なスウィーデル人が持つ茶色の瞳だ。しかし、アシェルは気付いてしまった。彼女の瞳の中に、独特の銀の光彩がちりばめられていることを。


 この銀の光彩はごく一部の限られた人間にしか現れない特殊な形質である。アシェルの瞳にも現れている、「特定の条件下にしか現れない」光彩。


 と、いうことは。


「局長。彼女は、羅針盤なのですか……?」

「その通り」

 バートが言う。「一応規則というものがあるからね。王家の生まれだとしても例外はない」


 アシェルが黙りこんだ。

 そんな彼をバルがじっと見つめ、それから彼も彼女の元へと近づいた。


「それで? なにを届けてほしいんだ、王女様」


 バルの言葉に、彼女はおずおずと一通の封筒を差し出した。黄色のシーリングワックスに捺されている紋章は、確かにスウィーデル王家のものである。


「実は、近々お姉さまが結婚されるのです……」


 それを聞き、なんとなくだが事情を察した。

 どこかの王家に嫁ぐという情報は、この両国間においては事後報告でなされるのが通例である。それを事前に国民に洩らしてしまえば大変な騒ぎになるということは目に見えて分かっていた。だからこそ、彼女は内密にしたかったのだ。


「どうしても、お姉さまにおめでとうって言いたくて……」


 しかし、彼女は自ら家に帰ることは出来ない。だから手紙を書くことにしたのだが、それを公に届けさせるのは非常に危険だ。だからこそ、彼女は局長であるバートに頼み込んだのだろう。おおよその推測を頭の中で組み立てたのち、


「アシュー。どうする」


 バルが尋ねた。

 のろのろとアシェルが顔を上げる。随分ひどい顔をしているな、とバルは思った。こんなにひどい顔をしているアシェルは年に一回あるかないかである。


「お前が決めていい。俺は飛べればそれでいいから」

「……バル、飛んでくれませんか」

 アシェルが言う。「個人的な感情で申し訳ありませんが」

「おう。飛んでやろうじゃねぇの」


 そしてバルはにかっと笑った。そしてアクセリナから手紙を受け取る。

 彼女は二人の顔を交互に見つめ、それから深々と頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「うん、わかった。必ず届ける」


 善は急げ、だ。

 二人はすぐさま細かい飛行予定を立て、今夜には飛び立つことを決めた。いつもの機体は修理中であるため、今回は空いている機体を使えるよう手配する。このあたりはエミリアが率先してやってくれたので、アシェルは天候や風向きを読むことに徹した。それを元に調整してくれるよう、整備室にも連絡を入れておいた。


 ここまでやれば、あとは実際に飛ぶだけである。


 所長室を出ると、アシェルはそっとバルに声を掛けた。


「すみません。せっかくの非番なのに」

「いや、いいさ。俺は飛んでいる時が一番幸せだ。地上にさほど興味はないし」

 さて、と彼は背筋を伸ばす。「夜に備えて、ちょっくら寝てくるかな。アシューも早く休んでくれ。お前のナビだけが頼りなんだからな」


***


 そうは言われても、アシェルはなかなか寝付けなかった。


 隣のベッドでいびきをかいているバルを見遣ると、やはり彼は完全に爆睡中で、アシェルがいくら物音を立てようが気付きもしなかった。

 その能天気さが、今は心底羨ましかった。


 アシェルは毛布にくるまり、そっと目を閉じる。


(あの子も、羅針盤になるのか)


『永久器官』を身体に宿した者は、幼少の頃から郵便事務局に引き渡され、親と隔離されて暮らすこととなる。アシェルも物心ついた頃には施設で育てられていたため、親の記憶など一切ない。特別寂しいという感情はないはずだった。だが、アシェルの胸中では、今も変わらずしこりのようなものが残っていた。


(あの子は、親の記憶を持っている)


 いくら親の記憶がなかろうとも、アシェル少年は「両親」というものに非常に憧れていた。名前も、顔も知れない彼らに思いを馳せ、一体どういう人物なのか想像したこともあった。バートに直接どういった人なのか聞いたこともあったが、彼は東国の出身であることしか教えてくれなかった。


 だからこそ思う。

 親を知らない自分でさえそうなのだから、大事な家族を知っている彼女はもっと辛い思いをしているのだろう。今回の件だって、本当は直接会って祝ってやりたかったはずだ。せめて一日だけでも会うことを許されれば、こんなに残酷なことにはならなかったろうに。


(どうして、『永久器官』なんてものがあるんだろう)


 もちろん、それがなければ死海を越えることはできない。必要だということくらい、アシェルも分かっている。


 しかし、この現状はなんだ。結局我々羅針盤は、国に捕らわれているだけではないのか。


(できれば、おれもバルのように自由になりたかった)


 ぎゅっと枕の端を掴むと、アシェルはのろのろと息を吐き出す。


 結局アシェルは一睡もしないままに、夜間飛行に臨むこととなった。

 飛行用の防寒具姿になり、二人は格納庫へと姿を現した。


 バルは実にすっきりとした顔で大きく背伸びをしている。対照的に、その後ろでぼんやりとしているアシェルの顔色はいまいち優れない。もちろんそれに気がつかないバルではないので、


「アシュー、もしかして眠れなかった?」


 尋ねられ、アシェルはつい首を横に振ってしまった。


「いえ、ちゃんと眠りましたよ」

「そっか。今日もよろしく頼む」

「ええ」


 肯くと、二人はコックピットに乗り込む。

 彼らが乗る空輸機は二人乗りで、前に飛行士・後ろに羅針盤が乗るよう設計されている。機体そのものは極めて軽く、大きな荷物を載せていなければかなりの速さで飛ぶことができる。今日は手紙を一通だけなので、上手く行けば明け方には辿り着くはずだ。


 二人はゴーグルをかけ、無線用の垂れ耳のついたヘッドセットを装着する。すると、すぐにバルの声が機械越しに耳に飛び込んできた。


「アシュー、風はどっちだ?」

「西です。初めはあまり高いところを飛ばない方がいいですね」

「おう。りょー、かい」


 バルは決して後ろを振り向かなかったが、代わりに左腕を真横に突き出し親指を立てた。

 こうしていつも背中を預けてくれるバルの潔さが、アシェルにとってはとても心地良かった。彼は空を飛ぶとき、度胸くらいしか持ち合わせていない。悩みも何もかも、邪魔なものは全て地上に置いてゆく。だから速く飛べるのだろう。


(おれには到底出来ない。出来やしない)


 エンジンが解放される音。燃料が燃える爆音と独特の振動にその身を委ね、二人は大空へと飛び立っていく。

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