空の標石

依田一馬

第1話

「この空は、一人では飛べない」

 と、彼は言った。


 その男は飛ぶために生まれてきたような男で、強いて言うならば結構なバカだった。いつもの自分ならば、そんなことはなるべく口にしない方がいいと窘めたかもしれない。もっとひどければ、嘲笑したかもしれない。


 けれど、その男の背中を見ていたら、妙に彼の言い草に納得してしまったのである。


 そしてこうも思う。

 おれもそんな風に、自由になりたかった――と。


***


 アシェルはどこまでも広がる果てのない蒼穹を仰いでいた。


 深い緑色のコートは膝までの長さで、風が吹くたびにひらりと裾が翻る。比較的地味な格好だが、襟元につけられた鴉の紋様が入った徽章と、左腕につけられた臙脂色の腕章がちょうどいいアクセントとなっている。そして足には黒色の軍靴を履く。


 そんな出で立ちの彼は、茶色に銀の光彩をちりばめた独特の瞳をきゅっと細めると、長く息を吐き出した。彼の瞳が見つめるのは、青空の中で流れゆく白い雲である。彼はしばらくそのまま宙を眺めていたが、後に手元へゆっくりと視線を落とす。


「思ったより流れが速いですね」


 そして、ぽつりと呟く。


 彼の両手の中で存在感を露にしている高度計、彼はその目盛を右手で調節した。


 淡々と高度計を操作するアシェルの精悍な顔立ちは凛としている。ひとたび強い風が吹きつけると、額が見えるくらいに短い真っすぐな黒髪がさぁっとなびいていった。


 しばらく高度計に目を落としていると、ふと狭い視界の中に黒い影が写り込んだ。顔を上げると、ああやはり。小さな飛行機が横切ったのである。あの黒い機体は、アシェルも非常によく知る同僚が操縦するものだった。


 じっと見つめると、縦並びに座っている二人の人物のうち前に座っている「誰か」がアシェルに向かって手を振るのが見えた。アシェルの視力は桁外れにいいのである。

 それに対して手を振り返してやると、機体は謎の宙返りを披露し、飛行場へと向かっていく。


 しばらくアシェルはそのまま宙を眺めていた。

 そして、のろのろと高度計を降ろす。履いている制服のポケットから銀色の懐中時計を取り出すと、整った眉の端がぴくりと震えた。


「あいつ、また遅刻ですか」


 さて、とアシェルは踵を返した。ひらりと翻る裾すら気にも留めず、彼はずかずかと背後に鎮座している長大な建物へと戻って行った。


 アシェルは建物に戻るなり、まず宿舎へと足を運んだ。そして自室の戸を勢いよく開け、つかつかと軍靴を鳴らしながら室内に入る。


 部屋の中は非常に簡素なもので、二つのスプリングが潰れたベッドと机が一台ずつ、それからランプが中央に一つぶら下がっているだけである。片方はもちろんアシェル本人のもので、実によく整理整頓されていた。シーツも皺ひとつないくらいに整えられており、その上には寝巻代わりにしているリネンのシャツが丁寧に畳まれていた。


 もうひとつのベッドには、丸い毛布の塊がじっとうずくまっている。微かに上下しているので、どうやらその塊の中央には未だに誰かが眠っているらしい。


(こんなことだろうと思った)


 アシェルがその横に仁王立ちすると、彼は呆れ混じりに長ったらしい溜息をつく。眉間に手を当て、この事態を一体どう対処すればいいのか頭を悩ませている風だった。

 考えあぐねた結果、彼は毛布そのものを勢いよく引っ掴み、そのまま思い切りひっぺがすこととした。


「バル! 一体いつまで寝ているんですか! とっくに始業時刻過ぎてます!」


 アシェルの怒号に反応し、布団の中から出てきた男――バルはうめき声を上げながら両手を宙に漂わせる。彼が探しているのは間違いなく毛布なので、まとめて巻きとり脇に担いだ。


 年齢はアシェルと同様に二〇代半ばほど。癖の強いくすんだ金髪に、今は寝起きなのでみっともない無精髭を生やしている。鼻筋が通っているため、ちゃんとすればそれなりの美青年なのだろうが、今はそんなことお構いなしに寝汚い風体を露にしている。


 そんな彼は怒りを全面に押し出しているアシェルへと目を向けると、腰に響くハスキィ・ヴォイスで返答した。


「昨日の夜間飛行フライトがしんどかったんだよ。寝かせてくれ、頼む」

「しんどかったのはおれも同じです。さぁ、今日の午前はささやかな事務処理が待っていますよ。午後は非番ですし、……まぁ、決して飛びませんがこれも立派な仕事です」

「飛ばねぇんじゃあ、意味ねぇよ」


 短く吐き捨て、バルは再び夢の中へ引き返そうとした。なにを言おうと、彼は布団を誰よりも愛している。そして、誰よりも陸にいることを嫌うのである。


 ――こうなったら、最終手段だ。

 アシェルはぽつりと呟いた。


「先程、随分美人な女性が事務局に訪れましてね。バルがいつまでも仕事をしないから、ずっと待っているのですよ。少しはかわいそうだとか考えたら……」

「なにっ?」


 その言葉に反応して、バルはがばりと起き上がる。そして、爛々と輝く青い目をアシェルへと向けた。


「それは本当か!」

「ええ。だから早く来いと言っているのに」

「今行く!」


 バルの女好きには心底困ったものである。

 アシェルは小さく息をつき、おもむろに寝巻を脱ぎ出したバルに背を向けた。


「じゃあ、お願いします。おれは別件でしばらく留守にしますので」

「えっ、まさかぬけがけ?」

「おバカ」

 ぴしゃりと言い放つ。「いいからさっさと着替えなさい。それと、みっともない髭は剃る。髪、それはなんですか。たんぽぽの綿毛ですか。爆発しています、直しなさい」

「お前は俺の母親か」

「うるさいですよバルデルラバノ。いいですか、その耳かっぽじってよく聞きなさい。三分待ちましょう。一秒でも遅れたら死海に突き落としますのであしからず」


 バルの文句を遮るように早口でまくし立て、アシェルはひとりで自室を出た。


 本来就業時刻であるため、しんと静まり返った宿舎。アシェルはこの空気があまり好きではなかった。どうせなら、ずっとずっとエンジンの回る音を聞いていたい。風が鳴る音を聞いていたい。空にしか居場所がないというのに、どうしてこんなところで油を売らなければならないのか。


 再び懐中時計を取り出し、目をやる。まだ先程から一分ほどしか経っていない。


(早くなさい、まったくもう)


 アシェルは胸の内でぼそりと呟いた。

 そして数分後、身なりを整えてきたバルが勢いよく宿舎から出てきた。


 アシェルが散々文句を言った髭はきちんと剃り、髪もそれなりに整えてある。ふわふわの癖毛は生まれつきのものだが、その端正な顔には非常によく似合っていた。彼はアシェルと同じ深い緑色の制服に、鴉の紋章が入った腕章を引っ提げている。唯一異なるのは、襟の徽章がないことくらいだろうか。


 そんなバルはきらきらと目を輝かせながら、嬉々として事務局へ向かおうとする。


「アシュー! さぁ、行くぞ」

「最初からそれくらいやる気を見せて下さい。ああそれと、」

 アシェルがさらりとした口調で言う。「ご婦人の相手を終えたら、ちょっとだけ付き合ってくれませんか。昨日の夜間飛行(フライト)、機体の息継ぎがおかしかったでしょう」

「ん? ああ、そうだな。じゃあちょっくら行ってくるわ」


 飛行機の話となると、途端にバルの表情はきりりと引き締まる。彼は根っからの飛行士で、飛ぶことを生きがいとしている。初めて会った時からそれは変わらず、今も尚同じように楽しそうに空を飛ぶ。

 アシェルにとって、そんな彼はとても眩しく見えた。


***


 この大陸には、大別して二つの国が隆盛を極めている。


 一つが西の大国・スペルニャ王国。もう一つが東の大国・スウィーデル王国。どちらも大国であるけれども、今のところ全うとも言える友好関係を築いている。ゆくゆくは正式に同盟を結ぼうと考えているようだが、それには大変大きな問題が待ち受けていた。


 というのも、これら二つの国の間にはとてつもなく大きな死海が広がっているのである。この死海、単に塩分濃度が高いだけではない。ひとたびこの死海に近づけば誰もが必ず遭難するという魔の水域なのだ。その最大の理由は、磁場の乱れ。一般的なコンパスはまるで役に立たないし、果てのない死海はそれだけでも方向感覚を狂わせる。


 しかし、打開策がない訳ではない。

 この特殊な磁場の影響だろうか、両国の間には『永久器官』と呼ばれる組織を持つ子供が一定の確率で生まれてくる。この器官はすなわち、「どんなに磁場が悪くとも、絶対に狂うことのない究極の羅針盤」。彼らがいさえすれば、この死海は迷うことなく乗り越えることができるのである。


 そういう理由から、両国では『永久器官』を持つ子供を幼い頃から羅針盤として使うための訓練施設に入れるという決まりが定められていた。


 その生きた羅針盤がどうなるか? それは人によって様々だが、基本的には国家公務員として扱われ、あらゆる任務に同行することが多いようだ。


 アシェルもまた例外ではない。

 彼の所属は『郵便特殊部隊』である。これは空輸を用いて郵便物を両国へ届ける、いわゆる郵便配達員の役割を担っている。この部隊は、飛行士と羅針盤の二人でバディを組み、人々の手紙を届けることを常としている。その中でもアシェルが担当しているのは、最も危険度が高いとされている夜間飛行部隊だ。


 飛行士であるバル――本名バルデルラバノと、羅針盤であるアシェル。バディを組んでから早三年、几帳面を地で行くアシェルと、対照的に色々とだらしのないバルのコンビは、その珍しい組み合わせにより両国ではとても有名であった。


 さて、アシェルが昨日の経過報告から帰ってくると、事務局のロビーに並べられている黒革のソファにバルが倒れ込んでいた。まるで溶けたチーズのように、だらりとふせっている。


(先程までのやる気はどこに行ったんだか)


 そんなことを考えていると、ふとバルが顔を上げた。そして、死んだ魚のような目がアシェルの姿を捉える。


「おい……アシュー。お前、嘘ついたろ」

「なんのことですか?」


 しれっとした口調で問い返すと、バルはくわっと目を見開き、驚くほど早口でまくし立て始めた。


「しらばっくれるな! 美人なご婦人って、ああ確かに昔は美人だったろーよ。だが、違う! 彼女は俺の趣味ではないんだよ!」

「あなたの好きなグラマラスタイプでしたでしょうに」

「腹までグラマラスでどうすんだよ。俺は若いねーちゃんが好きなの。熟女キラーじゃないの。お分かり?」


 それでもご婦人には変わりないだろう。

 アシェルは事実を告げただけだったのだ。勘違いするバルの方が悪い。


 きょとんとしたままのアシェルに何を言っても無駄だ、彼はそのあたりの区別がまるでつかない。バルは長年の経験からそのように察し、大仰に溜息をつきながら再びソファに身体を沈ませる。


「何と言うか、アシューから浮ついた話がまるで聞こえてこない理由が分かった気がするぜ。今更だけど」

「バルに女性の趣味を口出しされる筋合いはありません」

 ところで、とアシェルはぐったりとしているバルに何かを差し出した。「バル。先程言っていた機体の息継ぎの件ですが」

「ん、どれ。見せてみろ」


 バルがご婦人に絡まれている間に、アシェルは専属整備士の元へ行き詳細を尋ねていたのだ。バルに差し出したのはそのレポートで、白い紙にアシェルの几帳面な字面がびっしり並んでいた。

 それを隅から隅まで眺めたのち、バルは「ふぅん」と間の抜けた声を洩らす。


「羅針盤の見解としてはどう? 昨日のフライトは」

「エンジンが妙でしたね。おれはてっきりプラグが死んだのかと思いましたが」

「それも違うみたいだし、うーん。ただのオーバー・クールってとこか?」


 バルは珍しく眉間に皺を寄せ、低く唸った。


「明日は飛ぶだろ。それまでに吸気濃度の調整をしてもらえるかな。それともうひとつ、俺が気になるのは――」


 バルの意見は、突然流れてきた館内放送によって打ち切られた。

 女性の声が二人の名を呼んでいる。この声は、『郵便特殊部隊』局長であるバートの秘書によるものだ。彼女は淡々とした声色で、二人揃って局長室に来るよう告げている。


 局長直々のお呼び出しとなると、なにかしら厄介な臭いがしないでもない。

 二人して同じことを考えたらしく、ついつい似たような渋い表情を浮かべてしまった。

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