光さす部屋

 どこからか差し込んでいる一条の光の束のなか、埃がキラキラと舞っている。


『僕は』


 もの憂い時間。


『こうなってから《やさしさ》についてよく考えるようになった』


 いっとき静かになった部屋で、人面瘡が思い出したように口を開く。誰が、口を利いてよいと言ったのだろう。


『どうやったら、やさしくあれる。どうしたら、やさしくない? 僕は弱い。誰にも直接的に危害など加えられないが、なら僕は、やさしいでいいのか』


『違うだろう? ——だって僕は、最低の男だ』


 私は、特に返事をしない。


『……それは、それとしても。つくづく、化けものみたいな言葉だと思わないかい、《やさしさ》って? 人にはやさしくしろとか、やさしいだけじゃだめだとか、強くなければ本当にやさしくなれないとか』


『僕にはてんで正体が掴めなかった。——君は、考えたことあるかい?』


 私は、久しぶりのコミュニケーション、それもとりわけ奇妙なもののためにすっかり疲労しており、珍しくうたた寝の中にいた。

 なのになにやら鬱陶しい話が始まったことが疎ましくて、人面瘡のいる方の脚をすこし浮かせると、かかとからゴトンと床に落とす。


『……』


 黙った。


『僕はずっと、君にやさしくしたかった』


 あ、まだ喋る。


『でも、僕は逆に、君にこわいことばかりをした——妄想の押しつけ、覗き見、ついにはこんな、気味の悪いできものだなんて、こわいことばかりをした』


『それは、僕の弱さの象徴だ。人にやさしくすることができない。こわく、強く出ないと相手に呑み込まれそうで、相手の手の届かない壁の上に立たないとのしかかられて押し潰されそうで』


『僕は、人とふつうに心を通わすことができない。弱いくせに、いや弱いから、相手を攻撃しよう、先手を打とうと考えることしかできない、できなかった——でも、苦しむ君を見て、僕は初めて人にやさしくしたい、そう思った』


 そこまで喋って、人面瘡の言葉に間が空く。

 膝まわりの皮膚が動く感覚から、なにか表情がくるくるとしているような気配があるが、眠たい私は興味をもてない。


『……でもね、例えば、たとえばだよ、僕は考えることがあるんだけど、僕と君がもし、実際に出会えていたようなことがあったとして。僕は面と向かっては人に強く出られないから、恐らくきみの言うなりだろう』


『君の望むとおりのことをしてあげて、君のねだるままに物を買ってあげたりもして。それはまことにやさしいことだ。そうだろう? でもその《やさしさ》も、やはり、僕の弱さゆえの僕のための保身であり、また自己欺瞞であり、つまりは利己的なものなんだ』


 それはいいんだが、出会うはともかく、なんか付き合っていないか。


『僕が君にやさしくしたいというのは、そういうことじゃない。弱い僕がみずからの弱さを克服して、自らをなげうつことも厭わず、利己的でなく発揮される善き《やさしさ》。それが僕の理想とするものだ』


『自己犠牲なら尊いと言うつもりはないよ——でも、それは僕が人生で成しえなかったことなんだ』


『僕は、善良なことをしたい。僕の人生で、たった一度だけでいい、この自分勝手で無力な僕が献身的な《やさしさ》を成す。自分でない誰かのために、望むらくは、君のために——』


「それが、今日、消えるということなの」


 目を開けた私が口をはさむ。人面瘡の口が止まる。


「本当にそんなことができるの」


 人面瘡ができること。私のためにできること。

 自ら、消えることができるというのか。


 でも、もし本当に、やろうとしてそれが出来るのなら——なぜ今まで消えずに居座っていたの。

 そう口に出すと、自分がまたぞろ恨みごとを連ねそうに思えて、やめる。


『僕さえ消えれば——また君は学校に行けるようになると思うんだ』


 わたしはできるかどうかを訊いた。質問には答えてほしい。


『君は、他人が自分の膝にまた目をつけるのではないかと恐れているんだと思う』


『君は、この部屋のなかでさえ、常にひざを隠す服ばかり着ていた』


 今は、人面瘡のいる方だけ裾をまくり上げている。


『君は——人の目が怖い。ふたたび僕の存在に目をつけられることを恐れている。普通でないものを抱えたまま外を歩くことを恐れている』


『人の好奇心がいまの君の敵だ。僕さえいなくなれば、君は、きっとどんな服も安心して着られる。人の目をおそれずスカートだって穿ける。だから制服も着られるようになるし、きっといつか、必ず、また学校へ行ける』


 わたしの陰鬱の種が、希望に満ちた未来を語る。


『言ったろう。僕は、君の苦しみを終わらせたい。そのためにできる限りのことをしたい』


『それで僕がどうなろうとも、僕はかまわない。ほかに望むものはもうなにもない。君のためになるのなら、僕は——』


 自分勝手なことばかり、滔々と語る。


「あなたはどうなるの」


 私が遮る。人面瘡が黙る。


「何をするつもりなの」


 人面瘡は——


『僕は』


 言いよどむ。


『僕が、』


 言いかける。



 ッバーン!!!


 爆ぜるような音が部屋に響きわたる。私が、立ち上がってベッドの木枠を思い切り蹴ったのだ。

 痛みというより塊のような電撃が走る。

 蹴った足を床につくも、力が入らず倒れこみ、板張りで強く背中を打つ。肺がつぶされて息がつまる。横倒れの視界のなかで脛がみるみる赤く、いや青く腫れはじめるのを見る。


『そこは、僕ではない!』


 人面瘡が叫ぶ。悲痛な声。痛くないくせに。

 外したんだから、当たり前だ。これは、私のための痛みだ。あなたにはやらない痛みだ。


『なぜそんなことをするんだ!』


「おまえのせいだろうが!」


 私は荒い呼吸のまま天井を仰ぎ叫ぶ、つよい怒りを込めて叫ぶ。


「なんだ、勝手に出てきて、クソ邪魔、うっざいばっかで! 口きくからなんだと思ったら、死ぬとか! 」

 出しなれない大声に、すぐに喉がからからになる。それでも私は、もっと大きな声で喚く。

「なんだ、私のためってなんだ!! 恩着せがましんだ、ばかあ!」


『そんなつもりじゃない……』


「私の体だろ、私の体だ! おまえが仕切るな! わたしの体を私にかえせ! かえせよお、よそでやれ、ふざけんな!」


 私は拳をつくって振り上げ、人面瘡の上にゴツン、ゴツンと振り下ろす。何かいいかけていた人面瘡が口ごと言葉を潰されてぶふう、ぶふうと無様な声だか音を漏らす。どうせ当たっているのは掌の腹だ。一番やわらかいところだ。


『そうだ僕はもう、返すんだ、君の元の体を、また君だけの、ものにする、ために』


 わかってない。


「私の体は、ずっと私のもんだ!! だったらおまえも私のもんだろ、いうこと聞けよおッ!」


 消えるとか。死ぬとか。


「おまえが勝手に、決めんなッ!!」


 私は跳ねるように体を起こすと、今度はこぶしを、体重をのせて壁に叩きつけた。

 指がイヤな音を発てたのを肉伝いに聞く。壁にはね返されるように、もんどりうってふたたび床に倒れこむ。


『——やめて』


 急に暴れたことで、引きこもりでただでさえ衰えた体を痛めつけたことで、嵐のように息が乱れる。

 鐘の鳴るような動悸。肩がかってに上下する。

 呼吸が痛い。視界がチカチカする。


『やめてください——お願いします。僕が悪い。悪いのは僕なんだ。自分を傷つけるのは、どうか、やめてください』


 指先から、はちきれそうに膨れ上がる痛みが腕にまで噴きあがり、暴れている。沸騰するような、骨にまで響く痛み。


『僕のせいだ。間違っていた』


 人面瘡の声が弱っている。

 もっと、もっと弱らせる。


『口が利けるらしいのを、きみと話してよいのだと勘違いした。君を見られるから君を愛してよいのだと思った過ちを、繰り返した』


『黙って、


 わたしの腹で再び、かあっと燃え上がるものがあったが——痛みと虚脱で起き上がることができない。

 ふたたび喚こうとしたが、大きく咳込んだ。

 閉じた生活でこそげ落ちた体力が祟っている。

 わたしは咳を噛みころし、大きく息を吐き、吸った。


「へえ死ぬの? できるの? いつか私と出会って、なんて夢見てたくせに」

 しぼり出すように、わたしは精いっぱいの悪態をつく。

「顔を見せろ、弱虫。一人で頭が煮詰まってんでしょう。馬鹿だから。住所を言え、卑怯者。じかに顔を見てやる——ひっぱたいてやる」

 弾丸を装填するような心持ちで、喋る。

「ストーカーなら、赤い糸で結ばれてんだくらいの妄想垂れてみなさいよ。あるかもしれないじゃない。こんな、人面瘡になるなんてバカげた奇跡もあったんだ」

 自分の声に、笛のような風の音が混じりはじめる。

「だから」

 ついには喉にえずきが衝きあげ、私は顔を伏せる。

「だから——」

 唾を飲もうとして、できない。

 全身が熱いのにすかすかとしていて燃えかすのようで、動くことができない。


『赤い糸か』


 人面瘡がひとりごとのように呟く。

 声が平坦で、とてもとても遠くから響くように聞こえる。


『信じていたのかもしれない。……だって、実は。僕がいま首に掛けている紐、天井から吊り下げているこの紐がね、赤いんだ』


 背筋がぞくっと冷える。


『あれは、小指と小指だったっけ。そして左手どうし? でも、僕と君はちがうよね』


『僕からの赤い糸があるなら、それはその人面瘡みたいに君の足に絡みついて、現実で君の足を引っ張っている』


『ごめんね。すぐに終わる。これから、こちらからから。その勢いで、君は自分の足からその忌まわしい紐を抜き去るんだ』


 そんな。


『ひとつだけお願いだ。すまないけれどお願いだ。僕のそのみにくい人面瘡、それ、きみの手で覆って隠しておいて』


 いやだ。


『自分がどうなるかわからなくて。これ以上きみに、こわいものを見せたくない』


 どうすればいい。人が死ぬ。

 だれか。なにをすれば。


 手が震える。痛みのためばかりでなく震える。

 彼の言うことを聞いてはいけないのに、私は彼のこんな望みに応えてはいけないのに。強がったことで見てしまうものが怖くて、私は彼に従いひざを手のひらで覆ってしまう。


『ありがとう』


 彼が言う。違う、違う、私はそう言おうとしたけれど、声が出ない。

 手のひらの下で人面瘡の口がまた開きかけて——

 なにかを飲みこむように閉じた。

 そして改めて口を開くと、


『——ありがとう』


 もう一度、そう言った。


 私の震えは背にまで及び、手が膝からはずれそうになる。私は自分の膝にかじり付くように、腿にしがみつくようになって、体を支える。


 そして、幾ばくかののち。

 わたしは、手の下に、芋虫のように動めくものを感じる。

 恐怖に叫びだしそうになる。しかしやはり、喉は涸れている。

 手の下の芋虫は、逃げ出そうとするかのように激しくもがいている。

 私は、それが正しいことなのかもわからないまま、手の上から頬を押し当ておさえつける。熱い涙がぼろぼろと溢れ、指がすべりそうになる。


 うっ、ふ、ううっ。


 声が聞こえる。搾り出すようなうめき声。


 う、ぐうっ、うっ、ああっ。


 彼の声だと思った。断末魔。最期の叫び。でも、違った。


 うああ、あああ……!


 私の声だった。知らず声が漏れていた。

 すごく不気味な声だった。地の底から響く死人の声みたいだと思った。こんな時にそんな想像ばかりしている自分を、心底ひどい奴だと思った。



 芋虫は、いつのまにか静かになっていた。



「ねえ」


 濡れて冷たい頬を離し、わたしは呼びかける。


 答えはなかった。


 ああ——


 いやだ。


 これは、いやだ。


「いやだよ」


 私はつぶやく。


「私、いやだよ」


 私はわたしの気持ちを口にする。


 私は今さら、私にできることをする。でも、


「私はいやです」


 いまの私は、わたしの気持ちをあらわすだけで精いっぱいで、


「いやです」


 それが彼にとどくことを祈ることしかできない。


「おねがい——」




 答える声は、なかった。



***





***



 ユリスモール、これが僕の愛。


 私は、むかし親の本棚から拝借して読んだ、古い漫画の冒頭を——うつろな頭で思い出していた。

 恋する人、ユーリのために自分の命を投げ出した男の子。彼が死の直前にユーリに出した手紙。


 これが僕の心臓。


 もうどれくらい、横になったまま動けずにいるのか。

 時間の感覚がこわれたかのように、前後が全くさだかでない。


 私は結局、勝手に押しつけられた心臓を受けとってしまったのだろう。

 なんでこんなもの、あなたの胸になければいっこの意味もないのに。あなたの胸で、あなたを生かすことでしか価値はないのに。


 でも——でも。


 私は夢想する。

 もし、もし、いつかまた彼に会えることがあるならば、そこで何か言ってあげられるならば。

 あなたの心臓が、支えになってくれた。あなたの心臓のおかげで、私は生きていかれた。

 そう、言ってあげてもいい。

 そうだ、それはきっと、嘘でもいいんだ。


 ありがとう、あなたの心臓は、大切な、もう私の一部よ。ありがとう。


 嘘なんかつかないことは楽だ。

 どうせ、彼はわたしに弱い。

 ああもう、なんの役にも立たなかった。すごい邪魔だった。そう言って彼の前に心臓をなげ捨てるだけなら、いまの私にもできる。

 心を閉じて、彼の顔を視界から追い出し、私が上に立っている力関係に甘えて。弱いわたしを吐露するだけなら今もできる。


 ——私は妄想にすがる。

 だけどその時はきっと、私はかれのために笑ってあげよう。それまでに何があろうと、どんな痛みを負おうと、すべて隠して明るく笑って。私は気持ちを張って嘘をつくんだ。


 それが私の《やさしさ》だ。


 そんなことができるくらい、きっと、わたしは強くなろう。


 ——なれるだろうか。


 私は身を折り、そっと膝を抱え込む。

 すでに萎みきった人面瘡は、わずかな凹凸すらかさかさに乾いて剥がれかけており、下から艶のつよい新しい皮膚さえ見えかけている。


 私は、そっと唇をよせてささやく。

 最後に彼と交わせなかった言葉をつぶやく。


 さよなら、私のやさしい人面瘡。



***



 部屋の外、ドアの前で何かが鳴る。


 私は身を竦ませ、目を見張る。おそるおそる視線を向けるも、閉め切られたドアの外はもちろん見えない。

 でも、私はすぐにそれが何の音だっだか思い出し、緊張を緩める。

 母親だ。食事を持ってきたのだ。


 部屋のドアを、しばらく眺める。人の気配は、すぐに消えている。

 以前は、ドアの前に食事が置かれることに危機感を覚えていた。世界に、私がこの場所に存在することを知らせるサインになってしまうことを恐れていた。

 でも今は、ドアのある壁一面に張り詰められていた、神経過敏な一枚の膜がすっかりはがれ落ちてしまったかのように、私は無感覚にドアを見ている。


 私はゆっくりと這ってドアまでたどり着くと、上半身を起こしてノブを回す。質感の違う空気が流れ込んできて顔を打ち、身を引いて息を呑む。

 ドア枠に頭をもたせかけ、呆けたように廊下の木目を数えるでもなしに目でなぞりつつ、人心地つくまで待つ。


 そして私は、食事の載ったトレイに手をかけ——部屋に引き入れるのではなく、持って立ち上がる。

 いきなり高くなった頭に血がついて来ず、また手に、足にかかった重力の負荷に引き倒されそうになり、壁で背を打ってしまう。


 トレイを両手で持ちなおし、痛みにゆるく痙攣する指のために料理を零さないよう、気をつけて階段を下りる。片足のすねが弾けそうに痛み、ひどく遅く下りる。

 自分のにおいの立ちこめていない空気が、おそろしい。床が自分の体重を受けてきしむ音をたてるのがおそろしい。


 いつか、あかるい部屋に踏みこむ。

 いちど真っ白に飛んだ視界が慣れてきて、こちらを振り向いた母親が目をまるくしているのを見る。努めて平静を装おうとする気持ちが、私の手の震えを加速する。

 だが母親がぎこちないながら、声もかけずにまたこちらに背を向けてくれたことで、有難くも解放される。


 私はテーブルに歩み寄り、そっとトレイを置くと、自分も椅子に腰掛けた。

 窓と向かいになる。水平に近く差し込む光が、目を刺すように眩しい。私はその強さに息をつく。

 そうか、いまは朝なのだ。これは、朝食なのだ。

 ——私は痛みにきしむ指を開き、ふたたびトレイに手を伸ばす。

 そうだ。私は一日を、これから始めるのだ。


 失ったもの。

 できなかったこと。

 やりのこしたこと。

 これから、たち向かわなくてはいけないこと。


 それらをいっぺんに、ふるえる指で掴んでしまう錯覚にふと指先がひるんだが、頭を振ってそのそのまぼろしを振り払い、


「いただきます」


 そう口の中でつぶやいて、私は箸をとった。

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引きこもりの恋 ラブテスター @lovetester

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