読み聞かせの形で語られる、とある竜と子供のお話。そして、ひとつの国の成り立ちの物語。
どっぷり濃厚な異世界ファンタジーでした。驚いたのは、おとぎ話・昔話風の体裁でありながら、全然おとぎ話じゃないところです。
書かれているもの自体はおとぎ話のはずなのに、でもそこに自分の見出している〝面白さ〟の種類が、明らかにおとぎ話のそれとは違う。特に中盤以降に顕著だった印象です。
とある山の頂、竜と子供(の幽霊)だけの物語だったものが、やがてひとつの村へと移り、そして国規模の話へ。この空間と時間の連続性。時の流れや土地の広がりを描き出すことで、細部を保ったままに描き出される世界の全体像。
この、物語世界の拓けていく感覚。異世界ファンタジーの魅力というのは様々ありますけれど、そのひとつとしてやはり「世界そのものの面白さ」というのが挙げられると思います。短編で表現するはなかなか難しいその魅力を、でもしっかりと味わわせてくれる。とても上品で良質な物語でした。
金輪王(こんりんおう)というのは聞き慣れない言葉ですけど、じつは古代インドの思想にあって、「法(ダルマ)によって世界全ての統治の輪を転がす理想の王さま」という概念上の存在で、金輪っていうのは言っちゃえば釈迦とかゴッドガンダムの背中についてる輪っか状のアレのことを指します。
雑に言えば金輪王というのは超すごい王さまのことで、西洋ファンタジー作品(ですよね?)の本作「金輪王と赤毛の竜」でも、金輪王はだいたいそんな感じの存在として描かれています。
なんでそういう話をしたのかというと、本作における金輪王と竜の神話は、どことなく仏教における「捨身飼虎」の説話を想起させるんですよね。
「捨身飼虎」っていうのは、釈迦の前世のお話です。
釈迦の前世である王子は竹林で遊んでいる最中に子連れの餓えた虎を見つけるんですが、飢えた虎を憐れに思い、自らの体を崖から落として粉々にして虎に与えました。そういう前世の尊い慈悲の行いがあったから、釈迦は釈迦として産まれたんだよって逸話なんですが、本作を読んでからこのレビューを読んでいる方におかれましては、「本作の金輪王神話ととても似ているな」と思ってくれるんじゃないでしょうか。
たぶんなんですけど、作者の頭の中にも、モチーフとしてこの逸話があるんじゃないかなぁ、と勘ぐっています。
それで本作の話に戻るんですが、本作にはもう一つのストーリーラインがあって、それがルーニィと「私」についての話なんですが、この軸があることによって、作者が我々に伝えたいことが浮き彫りになっていると思います。
要するに、「金輪王の伝説」もルーニィと「私」の物語も、つまるところ「継承」の話だと思うんですよね。
尊い慈悲の行いや想いがあって、それを受け取った人がいて、その人がその想いにどう答えていくか、どう先を紡いで行くのか。本作「金輪王と赤毛の竜」はそういう物語というか、説話のようなものだとぼくは考えています。
劇中で示唆される「どんな子どもも泣くことのない国」への願い、その穏やかで優しい継承は、「ほんの少しずつだけれど世の中は良くなっていくだろう」という希望を与えてくれるものだと思います。
読むことで世の中にちょっと前向きになれる、とても優しい作品でした。面白かったです。