引きこもりの恋

ラブテスター

部屋と人面瘡と私

 膝にできた人面瘡がずいぶん育ったとは思っていたが、ついに今日、口を利きはじめた。


『僕は今日、君の前から消えようと思うんだ』


 ——挨拶もなしの、いきなりの別れ話だった。


『何よりまず、うら若い君の身体にこんなみにくい痣をつけていい筈がなかった』


『そして君が、学校に通えなくなる原因とまでなってしまった』


『あまつさえ、こんな引きこもりの生活から脱けだすためのきっかけを、僕のせいでずっと作れずにいる』


 聞いていれば人面瘡は、ぽつりぽつりと、しかし今にも堰を切りそうな熱っぽい声で語りつづける。

 私が、人の顔に見えるだけと思っていた——思おうとしていた? 固い肉の盛りあがりは、どうやらかなり早い時期から意識をもっていて、しかし口を利けないことで積もりつもる気持ちをため込んでいたらしい。


 でも、そうなら、私にだって押しこめていた疑問、誰にも訊けずにいたことがある。ぜひ答えてほしい質問がある。

 ——なぜ、私の体に人面瘡なぞが出現したのか?



***



 私がいったい何をしたのか? これは私でなければならなかったのか? 何か私にいけないところがあったのか?

 ある日突然、どこにぶつけたわけでもない膝に滲みあらわれた痣。それは治るどころか日々育ち、膨れ、強張り、人の顔を成してきた。

 はじめは大きめの絆創膏を貼り、そのうち包帯を巻くようになった。包帯を巻く日々が何ヶ月かつづいたころ、生徒指導室に呼びだされた。

 いきなり、「それは、おしゃれのつもりなの?」と言い捨てられ、叱られたのか喧嘩を売られたのか戸惑ったものだ。


 ——そのころ仲好くしていた友人で、いつも眼帯をつけている子がいた。

 それは、その子の好きな漫画だかラノベだか(馬鹿にしているわけではない、その作品は漫画でもラノベでも出ていてあとアニメにもなっており、いずれが先か原作かを私は知らないのだ)において、一番人気の隻眼キャラの影響であり、特段その子が目を悪くしているわけではなかった。


 そしてその子は、やはり眼帯生活数ヶ月めに教師より受けることとなった《指導》を、持ち前の舌まわりのよさでのらりくらりと躱しつづけていた。

 そんな子のそばにいることで、私のひざの包帯も、「そういうアレ」として特に引っかかりなくクラスの皆の腑に落としていただけた感じはあり、勝手に有難く思っていたりするところもあったのだ、が——

 その子がのらくらしまくった分、教員側に蓄積された鬱憤を、私が一手に引きうけることになったようだった。


 結局、生徒指導室に呼びだされたその日は暗くなっても帰してもらえなかった。

確かに、私は状況を甘く見ていた。いや、このようなことになるのはむしろ予測して構えていた。ただ、その予測がまったく甘かった。

 私は、いぜん眼帯の子に話していたのと同じように、教師にも「気持ちわるい痣ができてしまって、人に見られるのがいやなんです」——そう《正直》に説明することで、あっさり赦免が得られるものと思いこんでいた。


 そして、甘いというなら、私は自分に対してもずいぶん甘ったれを許す人間であるので、このあと、自分の見積もりの甘さゆえの現実からのしっぺ返しを食らっても、「私はちょっと人間を信頼しすぎていた」という自戒以上の自責をすることはなかった。


 そう、少なくとも、そのときの私は人間を信頼していた。

本当のことをぜんぶ言う必要はない——痣が人の顔を形成しはじめているなど——ましてや、嘘をつく必要もない。

 そんな、おそれるべき脅威のない場所に自分はいる、いられると思っていた。

 職員室から加勢を求められて次々と入室してきた教師たち、男性を含む複数人が、だんだんと感情的になり只では終われない不穏な空気を作りはじめるまでは。


 ひとこと言うたびに机を叩かれ、対話の声量が心を竦ませる怒鳴り声、金切り声ばかりとなるまでは。椅子にひとり座る私を全員が立って取り囲むようになるまでは。ついには、床に引き倒されて手を、足を押さえつけられ包帯を無理やり引き剥がされることになるまでは。

 押さえつけられたまま、わたしの奇妙な痣を見て表情を変えた教師各々に、彼らの携帯端末で膝の写真を何枚も撮られるまでは。

 手足は解放されるも、うずくまった姿勢から立ち上がろうとすると、または声を上げようとすると衝き飛ばすような叱責を受ける状況で——教師たちが人生で突如出遭ったオカルト現象について、教職の体裁も忘れて子供のように好奇の談笑を続けるのを、ただ眇めて見上げるしかない屈辱に打ちのめされるまでは。


 ——そして、やっと帰宅できたあと、脱力しきったベッドの上で、むずかるようにブブと鳴った私の携帯端末。開いたメッセンジャーアプリの、学校のクラスのグループトークに、実にあっさりとその写真が流れてきたのを見るまでは。


 それまでは、確かに私は人間を信じることができていた。

 それがまったくできなくなったので、私は学校に行くことができなくなり、部屋から踏み出すこともおそろしくなった。


 人がいるのが怖い。

 人がこちらを向くのが怖い。

 人の視界に自分がいることが怖い。

 実の親ですら怖い。部屋の前に置かれる三度三度の食事。それを置いた母親が気配を消すのと同時に、床の上のトレイの端を掴んで室内へ引き入れる。そのまま放置して、誰かが見に来たり取りに来たりする可能性が怖い。とても怖い。怖くて怖くて、部屋の外の気配に神経を張りつめ耳を澄ませて一日を終える、そんなことを繰り返す。


 こうして、十代もなかば、わたしの人生は早々に停滞していた。



***



 なぜ、なぜ、私がそんな目に遭わなければならなかったというのか?


 私はいつか人面瘡の言葉をさえぎり、一方的に詰め寄っていた。

 何のつもりでお前は私のからだに現れたのか? お前はいったい、私のつつましくも平穏だった日々がどうなったか分かっているのか? お前を得ることで、わたしは人生と引き換えとするに値するような、どれ程のものを得ることができたというのか?


『ない、何もない、赦してくれ。何もないんだ』


『何の価値も、君に納得してもらえるような理由も、何もないんだ』


『僕の身勝手にすぎない。きっと僕のわがままで、僕の顔は君の体にあらわれた。君は、きみは、被害者でしかない』


『僕はまいにち君を想っていた。君に恋していた。君に会いたい、君に触れたい。君を愛したいと願っていた』


『そうしたら——こうなった。こうなってしまった。なぜだか僕にもわからない』


 人面瘡が悲壮な表情にゆがむ。引っぱられて私の脚の皮膚が引き攣れる。見れば人面瘡の目の位置に、ぷちっと小さな水滴が膨らんでいる。

 水滴がにじみ出ている小さな裂け目の下には、肉の赤ではない、湿ったむき出し感のある白が見える。眼球までも、このできものは備えているのだ。


「泣かないで。痛い」

 言うと人面瘡は、はっと表情を緩めて口をつぐみ、内省する体を見せる。引っ張られていた膝の皮膚がふっとやすらぐ。


「つまりあなたは、元々はどこかのだれかなの?」

 沈黙に乗じて問うと、人面瘡の表情はさらに内にこもったように見えた。

「——人間なの?」

 さらにそう問うと、口が小さく、そうだ、とだけ動いた。

「気がついたら、わたしの膝に自分がいたというの?」

 人面瘡のまぶたがすこし開き、閉じる。私はそこから否定の意をわずか見てとる。


 そのあと、人面瘡の方からなにか言うかと思ったが、なにも言わない。私はすこし考える。

「……それとも、あなたのほんとうの体は、今でも別のところにいるの?」

 そう言うと今度は、人面瘡の顔から表情が失われ、目と口がただの切れ目になってゆく。


 私は軽く手を振り上げ、平手で ッパーン! と膝を打つ。


『……痛いよ……』


 人面瘡に表情がもどる。痛いのは私もだ。


 額や鼻など、いわゆるフルヘッヘンドな部分を赤くした人面瘡に、私は指をあてがうと目にあたる切れめを少々乱暴に押し開く。

「私の目を見れる?」

 切れ目の奥、白い眼球がキロリとうごめき、あらわれた両の黒目がきちんと平行した視線を寄越す。

 人間の視線そのものの挙動を見て、記憶の中に黒く湧き立つものがあり、私の心が勝手にすくみあがる。肺が乾くような、不穏な息苦しさに呼吸が震える。

 私はこれのせいで人が怖いのに、これ自体にも脅かされるのか。


「——あなたはどこのだれなの。正直に教えて」

 私の怯えなど知らず、人面瘡の顔がまたも悲壮さにゆがむ。

 その悲しみの向こうにある理由を知りたく、私は無言のまま助け舟を出さない。


『その質問にほとんど意味はない。君はまちがいなく僕を知らない。僕が勝手に君を見初め、遠くから見つめていた。ずっと、ずっとそれだけだった。君と僕のあいだには、なんにもない』


『君にとって、僕はなんでもない。名前を言っても君はどうせ知らない。僕は……僕は、ただのストーカーだ』


『ほんとうなら、君とこうして話す資格すらない。いてはいけない僕がここにいることで、あるべき現実が歪んでいる。君を不幸にしている』


 人面瘡の声がふるえる。


『だから僕はいなくなるんだ。そう決めたんだ。赦してほしい。どうか、赦してほしい』


 私はそれには答えず、無情に「名前を教えて」とつぶやく。人面瘡が歯があればガチガチ鳴りそうなほど唇をふるわせて姓名を述べる。

私は、静かに「知らない」と答える。人面瘡が、歯のない口で唇をかむような動作をする。


『君は、意地悪をしているのか?』


 あなたは意地悪をしているの、とだけ私は返す。人面瘡は目をきつく閉じ、わずか身じろぎしたように見えた。首を横に振ったのかもしれない。


 同じよ、と私はつづける。あるがままの気持ちを、正直に出しているだけ。

 意地悪をしているつもりなんてない。

 そう言うしかないことをそう言っているだけ。そうするしかできないもの。しょうがないじゃない。



***



「あなたは、私のストーカーなの」


 拗ねたように黙っていた人面瘡は、更にしばしの沈黙をおいて口を開いた。


『そうだ、僕は君のストーカーだ。卑劣で最悪、気持ち悪い、死ねという感じの男だ。君は僕に対して意地悪だけじゃない、もっと軽蔑、侮辱をする権利がある』


 やはり口調が拗ねている。

 それにしても、そう言われても。


「そう言われても、私、自分がストーカーされているなんて知らなかった」

 私は窓を見やる。閉められたカーテンの向こうは雨戸も閉めており、その隙間までくまなく目張りしているので、昼間の光は入ってこない。

「もしかして、今も、すぐ外であなたは——あなたのほんとうの体は、この部屋の窓を見ていたりするの?」


『そんなことは、無理だよ』


 人面瘡は呆れたように呼気で笑った。癇に障った。


『僕だって、君とおなじだ。引きこもりだ。部屋から出ることはない』


『今も、自分の部屋にいるよ。ずっとそうだ。安心してほしい』


 なら。だって。それでどうやってストーカーするの。


『今も自分の部屋で、ひとり、目を閉じている。それが僕の本体、正体だ。そうしていると僕は、届けられる君のまわりの光と、音だけに包まれていることができる。きみと世界を共有できている気分になる』


『ただ、こうなる前も割と似た感じではあったんだよ、僕にとっては』


『今の世の中に』


 人面瘡がすこし言いよどむ。


『監視カメラはあふれているからね』


 ……


 ああ、なるほど。


 キモいわ。


 私の態度が傾聴から沈黙に移行したことに、しかし変わらぬ無言であるため、人面瘡は気づかない。


『映画に出てくるハッカーみたいだったよ、一時期の僕の部屋は。アートでもああいうのを見た気がする』


『中古のディスプレイをネットで買えるだけ買って、部屋に山積みのゴミの上に並べるだけ並べて。うす暗くした部屋で、君の行動半径内の監視カメラを軒なみチェックしていた』


『ウェブカメラのセキュリティなんて、どうせみんなザルだと思っていたけれど、なかなかどうしてきちんとクラッキング対策がされているところばかりだったよ。それをひとつひとつ割っていくのは正直、たのしかった』


『いま僕は生きている、そうまで思った。あやうく当初の目的さえ忘れそうになったくらいだ』


 冗談めかしてハハと笑う人面瘡。お前を忘れかけた、今そう言われた私もフフと笑って沈黙に戻る。


『少なくとも誰かが覗き見られるきみの姿は——僕はすべて見ることができていたと思う』


『ああ、リアルタイムの映像だけではなく、過去のきみの映像のベストセレクションを流したりもしていた。夜中はだいたいその編集をしてた。ああいうは——きりがないね。到達点というものがない。いつまでもいじってしまう』


 うん、知らん。


『そもそも沢山のモニターを常時ライブにする必要はないよね、君はつねに一人しかいないのだから。究極的にいえばひとつ点いていれば十分なのだから』


『だから、熟達するにつれどんどんディスプレイを減らすことができた。最終的には《ライブ》と《ベスト》、二台だけに集約できるだろうと予測していたけど、結局そこまではいかなかったな』


 どうでもよいあまり、皿に乗った寿司のように言葉が右から左へと流れてゆく。


『……君の人面瘡になったからね』


 いきなり話が引き戻され、顔を起こす。


『ほどなく、機材はすべて片付けた。君がまだ学校に行っていた頃の話だよ。白状すると、最初は並行してやっていた。でも、できなくなった』


「冷めたから」


 私はぼそっとつぶやく。


「生活見て、つまんない人間だって、冷めたんだ」


『ち、ちがう』


 人面瘡がとり乱す。


『僕の気持ちは——今も変わってない』


 いま変わってないのはどうなんだ。

 引きこもりの生活だ。

 何もない。


ドアの外の気配におびえ、置かれた食べ物をかき込むだけの目的のない機械だ。


 鏡を見るとつらく、部屋の隅に伏せて置いたのがどのくらい前のことだったのかすら、もう思い出せない。

 過ぎゆく日々は、歩く者のいないリノリウムの床のパネルの一枚一枚のように、どこまでものっぺりとして見分けがつかず。何か思い出そうとしても何の手がかりもない。

 それは、ただ今の日常を喩えることばではない。それは今の私そのものだ。

 不安と懊悩にみずから人の輪郭をすり潰してしまい、床ならせめて人に踏まれて足裏を支えるくらいすればいいものを、それすら果たさず、無為に横たわるだけの役立たずの被造物。


『僕は——』


『もちろん、君と意識や感覚まで共有しているわけではない』


『僕は本当に、ただこの膝にいるだけだ。ここから見聞きできる範囲でしか、何も知ることはできない』


 人面瘡がまだ語る。言い訳を探るように、おそるおそる言葉を選んでいる。


『友達の子と喧嘩していた電話も、申し訳ないが、聞こえてしまった』


 いきなり記憶に立ち入られてイラっとする。


『あれは、常に眼帯をつけていた子だね。君は冷たくあしらっていた。知らない、関係ない、忘れていいと』


『あれは、君のやさしさだね』


 一気にムカッ腹に達する。


『彼女に責任を感じさせまいとした。突き放して、原因から閉め出した』


『君の方がつらかったろうに。君のやさしさを、僕は知ってる。何がつまらないものか——!』


 人面瘡が声を高くする。


『ただ、そのために君が独りになってしまった。苦しみは分かち合えば安らぐという。——だから、僕も君の苦しみを引き受けたい。いや、元々は僕のせいで起こったことだ。君のために僕が何かできることはないか、ずっと考えていたよ』


『僕はいつも君のそばにいた。君がつらかったこと、そのさなかでも友達への思いやりを忘れなかったこと、それからずっとひとりで頑張ってきたことだって、僕は、みんな知ってる』


『やっと伝えることができた。僕が君のためにできる限りのことをする。ずっと続いてきたこの時間を今こそ終わらせるんだ。暗い部屋で君が泣くのを何度も聞いた、すべて聞いていた。でも、僕はもう、もう、聞きたくないよ』


 人面瘡の声が上ずっている。心なしか膝が上気しているように見える気もする。

 そこで私は、聞いていてふと心に引っかかった、あまり話に関係ない疑問を口にする。


「あなたって、私のトイレのときはどうしてるの?」


 人面瘡がストンと表情を無くし、(-_-)という風態になる。


 私は先ほどよりぐうっと高く手を振り上げ、手刀にして力いっぱい ッガーン!! と膝に振り下ろす。

 つづけて二回、三回と振り下ろす。ついでにもう一回ほど振り下ろす。


 今度は不平すら述べなかった。

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