心の重さ

戸松秋茄子

本編

 前略

 

 君から手紙が来るとは思わなかった。


 なんて書いたら、君は信じてくれるだろうか。


 実のところ、自分でも疑わしく思う。僕はもしかしたら君からこうして手紙が来ることを期待していたのかもしれない。


 君はむかしから筆まめな人だったね。僕らが高校生の頃にはもうとっくに携帯電話が普及していたというのに。


 いまでも思い出すよ。いつかの放課後。茜色に染まる教室で、君は手紙を読んでいた。読みながら、静かに泣いていた。君と僕。他には誰もいなかった。


 君はもしかしたら忘れてほしいと思っているかもしれない。泣いているところを見られるなんてあまり気分のいいものではないだろうから。


「どうしたの?」


 あの日、僕はそう尋ねたね。君は僕に気づくとさっと手紙を隠し、それから思い出したように目元を拭った。


「友達が亡くなったの」


「そう」


 僕はそう言いながらも驚いていた。大いに自覚があるだろうけど、その日まで、君に友達がいるだなんて思いもしなかったんだ。それに、君が友達の死を悼んで涙を流すような女の子とも。


 君はいつも一人だった。


 休み時間はいつも文庫本を開いていただろう。本にはいつも革のブックカバーをかけていた。


 わたしには話しかけないでください。


 そんな空気がありありと感じられた。そこに秘かな共感を覚えていたんだ。他人を必要としない君。孤独でも生きていける強い君に。


 その君が友の死を悼んで涙を流している。僕は置いてけぼりにされたような孤独を感じるとともに、君の心を動かす他人の存在に興味を持った。


「それは悲しいね」


 僕は当たり障りのない言葉をかけた。


「わからない」君は言った。「友達といっても特に親しいわけではなかった。一度も会ったことがないし」


「一度も?」


「ええ。その……文通の相手だったから」


 そう言いながら、君は視線を自分の机へと落としていた。


「その人には欠点もいっぱいあった。ううん。欠点の方が多かったかもしれない。救いようのない人間だった。何度殺されても文句は言えないくらい」


 君はそこでいったん言葉を区切り、こみ上げてくる涙を見せまいとばかりうつむいた。


「けれど、人間だった。血肉を備えた人間だったの。それ以上はうまく言えない」


 君の友達とはいったい誰なのだろう。


 僕は君と小中学校が一緒だったという同級生を見つけて話を聞いた。苦労したよ。君はあの学校の生徒には珍しく、市外から通っていたようだからね。友達のツテをたどって、その女の子に行き着くまでにはそれなりに時間がかかった。


「あの子のこと好きなの?」


 そんな勘繰りを受けるのも当然のことだ。けれど、僕はあえて彼女の勘違いを訂正しなかった。あの日の教室で起こったことを他人に説明できるとは思わなかったからね。僕は恋する男子高校生を演じ、まんまと君のことを訊き出した。


「友達らしい友達はいないわね」


「小中学校でもずっと?」


「ええ、ずっと」


 そのとき僕は、彼女が何か話したいことがあるのだと気づいた。


「なんだい?」


「ここだけの話なんだけど」そう言って、彼女は君の秘密を話しはじめた。


 驚かなかった、と言えば嘘になる。


 僕にとって――いや、高校生の大多数がそうだろう――十年以上も前の殺人事件なんて興味の埒外だ。殺人者の娘。そんなものが自分たちと同じ教室にいて、同じ空気を吸っているだなんてどうして想像するだろう。


「驚いた?」 


 彼女はいたずら心と不安がない交ぜになったような表情で聞いた。地面の穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫んだ後、急いで周りを確認するような、そんな表情だ。


 僕は彼女の俗っぽさに微笑ましい気持ちになった。


 彼女がこのことを触れ回れば、君の立場はずっと悪くなるはずだった。大多数の高校生は殺人事件に興味を持たない。けれど、「殺人犯の親族」だなんて絶好の獲物が目の前をうろついてるのにそれを見逃すほどお人よしでもない。実際、君は小中学校で散々いたぶられたと聞く。


 彼女はきっとそれが繰り返されることを恐れていたのだろう。もちろん、それは君のことを思って、ということではない。ただ、火事に群がる野次馬と、放火犯との間には厳然たる違いがあるというだけの話だ。


 彼女が君のことを話したのだって、僕があの頃しばしば言われたようにいかにも人畜無害で、火種にはなりそうになかったからにちがいない。


「誰にも話しちゃダメだよ」


 彼女は念を押すように言った。自分はしっかり火を消した。後々、僕が火元になってもその責任を負うつもりはないとでも言うように。


 僕はさっそくその事件のことを調べたよ。君の父親が消費者金融に強盗に入り二人の店員を殺害したこと。控訴せず一審判決の死刑を受け入れたこと。君が十二歳のときに刑執行されたこと。


 それを知ったとき、僕が何を考えたかわかるかい。


 君は父親の死を知って涙しただろうか。


 そう思ったんだ。


 その少し前、僕は自分の父親を亡くしていた。ある日の学校で、入院していた父がとうとう息をひきとったというメールを受け取ったんだ。


 それまで、僕は自分の冷たさを甘く見ていた。情が薄いことは承知していたけれど、まさか肉親が死んでも涙のひとつも流さないような冷血漢とは思わなかった。


 喘息の僕をおぶって病院まで連れて行ってくれた父。


 一緒にプラモデルを作ってくれた父。


 駄菓子屋で万引きをした僕を叱ってくれた父。


 病室で僕の手を握りただひとこと「すまない」と述べた父。


 どれだけ思い出のアルバムをめくっても、目は乾いたままだった。


 すぐ家に帰る気にはなれなくて、あてもなく放課後の校舎をさまよった。そうしていれば、自然と涙が流れ出るとでも言うように。おかしな話だろ。その頃の僕には涙と汗の違いもわからなかったんだ。


 心には重さがあるのだろうか。


 僕はそんな益体もつかないことを考えはじめた。というのも、万引き事件のあと、父が言っていたことを思い出したからだ。


「これがお前のやったことの重さだ」


 父はそう言って、僕に漬物石を持たせた。子供の細腕にはけっこう重かった。それを一時間続けろって言うんだ。


「二度とやるな」


 一時間が経った後、父は言った。けれど、僕にはついぞ悪いことをしたという意識は芽生えなかった。腕の痺れるような感覚だけがリアルで、なるほど駄菓子ひとつでこれじゃ割に合わないなと冷静に勘定しただけだった。


 あの漬物石と同じで心にも重さがあるのだろうか。


 だとしたらどうして自分は何も感じないのあろう。どうしてあの日感じた腕の痺れに匹敵するだけの何かを感じないのだろう。


 しばらく考えたけど、答えは出なかった。


 いい加減帰ろう。


 そう思って、教室の前を通りかかったとき、君の涙を目撃した。


 そのとき僕は感じたんだ。胸の奥で、何か熱いものがこみあげてくるのを。これまで感じたことのない何か、腕の痺れよりもよっぽど鮮烈で忘れがたい何かを。


   ※※※ ※※※


 秘密というのはどこから漏れ出るものかわからない。


 あの日から数ヵ月後、君の境遇は学校中に知れ渡ってしまった。


 僕はよく君が困った場面に立たされるのを目撃してきた。たとえば、革のブックカバーがぼろぼろに切り裂かれているのを発見したところ。どういうわけか頭からずぶ濡れになった状態で教室に帰って来たところ。どこかのクラスからやって来た同級生からカメラのフラッシュを浴びているところ。


「君は自分のためには涙を流さないんだね」


 いつか、僕は君に話しかけた。


「あなたに何がわかるの」


 君はいらだったように言った。


「何も。ただ、君の生き方はひどく不器用に見える」


「そう言うあなたは調子よくおどけているように見える」


「間違っちゃいないな」


「もう話しかけてこないで。いつか教室で見たことも忘れなさい」


「どうして」


「わたしは殺人者の娘よ」


 君は言った。殺人者の娘。それがまるで立ち入り禁止の立て札であるかのように。


「それは人間の女の子であることと矛盾するのかい?」


「くだらないこと言ってないで」


「君がその死を悼んだ友達」僕は言った。「救いようのない人間だった。何度殺されても文句は言えないと言ったね。けれど、血肉を備えた人間だったと。君は違うのか?」


 僕が言うと、君は胸ポケットからカッターナイフを取り出して僕の喉元に突きつけた。


「忘れろって言ったでしょ」


「物騒なものを持ち歩いてるんだな」


「殺人者の娘だもの。当然でしょ。わたしだって殺したい人間の十や二十はいる」


「それは恐ろしいな。で、実際に手にかけたのはそのうちの何人?」


「茶化さないで。最初の一人になりたいの?」


「それも悪くないかもしれない」


「気味が悪いわね。あなたの目的は何?」


「僕の目的はシンプルなものさ」


「それは何?」


 僕はしばらく押し黙った。刃物の冷たさが僕の決意を試しているようだった。 


「君が好きだ」


 僕がそう言ったとき、君はひどく困った顔をしていたね。さすがにああいう角度か

らの攻撃は慣れていなかったと見える。僕としては、それだけでも告白した価値があったというものさ。


 自己満足であることは承知している。僕は「付き合ってくれ」とは言わなかった。その代わりにこう続けたんだ。


「あの日、君はいったい誰のために涙を流していたんだ?」


 そこからまた僕らは押し問答をした。けれど、君はけっきょくその幸福な男の名前を教えてくれたね。


 僕は自分がその男の名前を知っていたことに驚いた。というのもその少し前に、刑執行された死刑囚としてその名前が報道されたのを覚えていたんだ。


「その人一人じゃないの」


 君は言った。カッターはすでに下ろされていた。


「これまで何人もの文通相手が亡くなった。わたしは最初彼らが嫌いだった。それでも手紙を出したのは、なぜなのか知りたかったから。わたしの手紙の書き出しはいつも同じ。『なぜやったんですか』。一方的に回答を求めるんだから勝手な話だけれど、自分にはそのくらいのことは教えてもらう権利があると思っていた。いろんな人がいたわ。返事を返さない人。上っ面の言葉だけを並べ立てて煙に巻く人、そもそも会話が成り立たない人、汚い文字ながらも誠実に自分の気持ちを書き綴ってくれる人。聞けば聞くほどわからなくなった。わかったのは、彼らもまた人間ということだけ。わたしは気づいたら、ただ質問を投げかけるだけでなく自分のことについても書くようになった。もちろん全員にじゃないわよ。信頼できると思ったほんの数人だけ。ある人に指摘されたわ。ようやっと対等な人間として認めてくれたようだって」


 それが君との最後の会話になった。


   ※※※ ※※※


 あれからどれくらいのときが流れたのだろう。


 いや、こんなものはただのレトリックだ。本当は日付や曜日まではっきりと覚えてる。けれど、僕がいま置かれている環境では、時間感覚が薄れてくるのも事実だ。


 ここでの時間は同じ一日の繰り返しだ。一週間、一ヶ月、一年とつながっていく類のものではない。動物園の檻の中で、同じところを何度も回る猿を想像してくれ。いまの僕が置かれている状況とそう変わらない。


 君と出会った頃、僕は自分の冷たさを甘く見ていた。いや、いまだって正当な評価が下せているかは怪しいところだ。


 いまではニュースを通して、僕が父の死にも涙しなかったことが全国の茶の間に知られている。精神科医は僕の生い立ちや交友関係を徹底的に洗い出し、裁判所に分厚い鑑定書を提出した。


 みんな僕がどれだけ冷酷なのか必死で計量しようとしている。僕はその答えを知りたいと願うと同時に、お前らには決してわかりはしないという絶望も感じている。


 看守が手紙を持って来たとき、すぐにそれが君からのものだとわかった。どうしてだろうね。ただ、僕はあの手触りのいい封筒を受け取ったとき、きっと君からのものに違いないと確信したんだ。


 君は僕にもまた「なぜ」と問いかけてきた。「これがひどく一方的な要求であることは承知している」と前置きした上で。


 その答えはこれからの手紙で書くことになるだろう。けれど、その前にこちらからも訊きたいことがある。


 心には重さがあるのだろうか。


 君が僕を対等な人間として扱ってくれるというのなら、ぜひ教えてほしい。


 君が教えてくれるなら、僕ははじめてそれを実感できるような気がするんだ。

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