第7話 吉祥寺-六月  秋本 貴志

 父が倒れたという連絡が入ったのは、ビザの切り替えで一時帰国していた六月中旬の夜だった。義母の幸乃さんが会社に電話してきた時は、ちょうど次の事業企画の会議の最中だったが、上司はすぐに会議を中断し、早く行ってやれと送り出してくれた。

 梅雨特有の身にまとわりつく雨が降る中、タクシーを実家の御殿山まで飛ばした。ところが、いざ実家に着いてみると、父は酒臭い高いびきをかきながら、赤い顔をして眠っていた。おでこには大きめの絆創膏が貼られ、ガーゼ部分には血がにじんでいるのが見えた。幸乃さんが申し訳なさそうに言い訳した。

「ごめんなさいね。あの人かなり酔って帰ってきて、玄関で突然倒れたの。いくら揺すっても起きないし、額からは血を流しているしで、すぐに救急車を呼んだのよ。車が来るまでの間、もしかして万が一もあるかもしれないと思ったものだから、貴志さんにも連絡してしまったの…。救急隊員の方が血を拭き取って、病院まで運んでくれたんだけど、結局たいしたことはなかったの。お酒を飲んでいたせいで出血は多かったんだけど、かすり傷だったそうよ。脳波も正常だったし」

「それで家に連れて帰ってきたという訳ですか。まあ、大事でなくて良かった」

「本当にごめんなさい。お仕事中だったんでしょう」

 幸乃さんは本当に申し訳なさそうに恐縮して言った。


 幸乃さんは父の後妻だ。妹の芽依が列車事故で亡くなり、母が出て行ってしまってから、半年後に父は再婚した。もう一人の妹の瑠花がまだ幼かったし、小学生だった僕に母親がいないと、いじめられるかもしれないと心配したからかもしれない。でも、当時の僕は、母がいなくなってすぐに他の人と結婚してしまう父がどうにも理解できなかったし、許せなかった。何よりもそんな父がなんだか、汚らわしい存在にさえ思えた。

 そんな気配を察してか、父の方も再婚してからは、僕と会話を積極的にはしようとしなくなった気がする。再婚相手の幸乃さんの方が、逆に気を遣ってくれて、僕と父との溝を埋めようと努めて明るく振舞ってくれた。しかし、僕が成長するに従って、父との会話はさらに減っていく一方だった。中学生になると僕は、全寮制の私学に入学したので、実家に戻るのは盆と正月くらいになってしまった。

 今はもう、僕も子供ではないから、父が再婚した事情もある程度は理解できるし、幸乃さんともわだかまりなく接することもできる。しかし、一度父との間に作ってしまった溝はなかなか埋まるものではなかった。だから今でも、実家に帰って父と話すよりは幸乃さんと話す時間の方が多いし、その方が気楽だった。


 僕は電話で大事ではなかった旨を上司に報告して、父の寝室から居間に移動した。

「大したものはないけど、ご飯でも食べていって」

 僕がもう会社に戻るつもりがないと分かると、幸乃さんはそう言って台所に姿を消した。

「瑠花にも連絡したんですか?」幸乃さんにそう尋ねると、

「ええ、瑠花さんもさっきまでいてくれたんだけど、明日大事なプレゼンテーションがあるからって会社に戻って行ったわ。今晩は泊まり込みですって。彼女ちょっと、呆れていたわ」

「そうか。でもこういう場合、後になってから症状が出てくることもあるから、僕、今晩泊っていきましょうか?その方が幸乃さんも安心でしょう。明日はここから会社に出勤すればいいし。春奈には、そう電話しておきますよ」

 僕がそう言うと、幸乃さんはほっとした表情で答えた。

「本当?そうしてもらえるとありがたいわ。やっぱりちょっと心配な気もするから…」


 夕食は焼いたししゃもと筑前煮、ほうれん草の胡麻和えと、なすの味噌汁という組み合わせだった。久しぶりに懐かしい家庭的な料理を味わった気がした。幸乃さんの料理は小さな頃から僕の口によく合った。

 夜が更けてからも、雨足は弱まらず、逆に少し強くなってきたようだ。雨戸に雨粒が打ち付ける規則的な音が家の中には響いていた。

「ニューヨークでの新婚生活はどう?向こうでは日本食なんて食べられるの?」

 食事が終わった後で、幸乃さんは濃いお茶を淹れてくれながら僕に尋ねた。

 妻の春菜とは、ニューヨーク赴任前の十一月に籍を入れ、向こうで一緒に暮らしている。アメリカへの移住手続と、仕事の引き継ぎでバタバタしていたせいもあって、大がかりな式は挙げずに、家族だけの小じんまりした祝宴を催しただけだった。彼女も僕も派手な披露宴は必要ないという考えで一致していた。

「今ではニューヨークには日本食のお店が多いし、日本の食材も普通にスーパーで売ってるから不便はないですね。でもやっぱり、さっきみたいな家庭料理は日本で食べたほうが断然おいしいですね」

 僕がそう言うと、幸乃さんは嬉しそうに微笑んだ。

「そう言ってもらえると、作った甲斐があるわ。良かったら、たくさん作ったから持っていってね。まだ何日か日本にいるんでしょう?」そう言いながら、幸乃さんはさっそくおかずの残りを密封容器に詰め始めた。

「でも、おやじがこんなに酔って帰ってくるなんて珍しいんじゃないですか?どんなに飲んでも乱れることはなかったのに」

 お茶請けに出された糠漬けのきゅうりを齧りながら、僕はふと思いついて尋ねた。

「ところが、最近はそうでもないのよ。すっかりお酒に弱くなってしまって…。それに他にも理由があるからかもしれないわね」

 そう言って、幸乃さんはいたずらっぽく笑った。もう五十近い年齢だが、彼女にはいつまでもこういう子供っぽい部分がある。

「他の理由?」僕は思わず訊いてしまう。

「千草さんよ。彼女最近再婚したでしょう。それ以来ね。飲む量が際立って増えたのは…」

 幸乃さんは、まるで他人事のようにそう言った。

「母さんのせい?」

 僕は思わず言ってしまってから後悔する。その途端、幸乃さんは少しだけ悲しそうな顔をした。いまだに僕が幸乃さんの事を「母さん」と呼んだことがないからかもしれない。

「そう、あなたのお父様は千草さんのことがまだ好きなのよ。だから再婚したことがショックなの」

 彼女は何でもない事のようにすごいことを言った。

「おやじがそう言ったんですか?前妻のことがまだ好きだって」

「そんなことあの人が白状するはずないでしょう。でも分かるの。彼の心の中にはずっと千草さんがいるって」

「考えすぎじゃないかな?二十年近くも前に別れた妻のことが今でも好きだなんて聞いたことないし、おやじはそんな柄でもないと思うけど…。それに、そもそも彼女を家から追い出したのはおやじじゃないですか」

 僕がそう言うと、幸乃さんは黙って首を振った。

「それは違うわ。千草さんを追い出したのは、お祖母様なの。あなたのお父様は残って欲しかったのだけど、それまで千草さんをかばってきた負い目もあったのね。それなのにあんなことが起こってしまったから…。結局、お祖母様に押し切られる形で、お父様は従わざるを得なかったのよ。千草さんにもその当時は、意地を突き通すだけの気力もよすがもなかったんでしょうね。私と結婚したのだって、お祖母様がかなり強引に進めたことなのよ。秋本家と私の家との結びつきを強めて、家門の伝統をさらに強固にするためにね」

 初めて聞く話だった。芽依の事故に腹を立てて、母を出ていかせたのは父だとばかり思っていた。しかも、母のことを今の今まで想っているなんて、とても考えられなかった。およそそいういったロマンティシズムとは、父は一番無縁な存在に思えたから。


「実はね、あの人が飲みすぎる理由がもう一つあるのよ」

 まるで秘密を打ち明けるように小声になって、幸乃さんは言った。その顔は紅潮していて、目にはきらきらと不思議な光が宿っていた。まるでお酒を飲んでいるかのようだった。

「まだあるんですか?」

 少し呆れながらも、僕は尋ねた。

「最近恋人に振られたらしいのよね。あの人…」

 僕は絶句してしまった。何を言っているのだろうか、幸乃さんは…。本当に酔っぱらっているのだろうか?

「しばらく前から、あの人には若い恋人がいたの。でも、去年の秋頃に別れちゃったみたいなのよ」

 僕の戸惑いにはお構いなしに、幸乃さんは話を続けた。

「私ね、どうもあの人が怪しいと思ったものだから、去年探偵を雇ったのよ。とても優秀な人でね、二週間後にはきちんとファイリングされた報告書を三十ページも作って持ってきてくれたわ。私の睨んだとおり、やっぱり相手がいたの。でも、その書類に参考資料として添えられていた写真を見て、思わず私は吹きだしてしまったの。だって、その相手というのが千草さんの若い頃にそっくりだったのよ」

 そこまで話すと、幸乃さんは乾いた笑顔で僕を見た。僕は何と言っていいのか分からない。

「あの人の心の中には、いまだに千草さんが存在していて、しかもとても大きな地位を占めているんだなって実感したわ。正直とても悔しかったし、千草さんには嫉妬もしたわ」

 そう言うと、幸乃さんは糠漬けをポリポリと齧ってため息をついた。でもそこには、不思議と恨みや妬みは感じられなかった。

「親父のことが憎いですか?」試しに僕は訊いてみる。

「憎いわ。とってもね」幸乃さんは笑顔で即答した。

「でも…」僕はその続きを先回りして言葉にする。

「そう。でも、好きなのよねぇ。あの人のことが…」

 遠くを見つめる目で、幸乃さんはそう言った。そして昔を思い返しているのか、しばらく一人で回想の世界を楽しんでいるようだった。

「ねえ、知ってる? あなたのお父様は若い頃、とてももてたのよ」

 ふいに現実世界に戻った声で、彼女は明るくそう言った。とても嬉しそうな声で。

「吉祥寺界隈では、ちょっとした有名人だったわ。随分泣かした女性もいたと思うわ。そして、もちろん私も彼に夢中だった。元々許婚だったから、幼い頃から意識していたせいもあるけれど、それだけじゃなかったわね。何というか、彼には女心をくすぐる何かがあったのね。正直他の女の人との噂を聞くと、私はやきもきしたわ。でも、許婚の強みで、最後には私の夫になる人だと考えることで、やっと嫉妬心を抑えることができたの」

 そこまで話してから、幸乃さんは一息つき、新しいお茶を淹れなおしてくれた。それから、先程よりは少しだけ声のトーンを落として、話を続けた。

「でも、千草さんが現れてからは、状況は一変してしまったわ。それまでプレイボーイだったあの人が、千草さんには一途で通したのよ。その変わり様は、傍で見ていてもおかしいくらいだったわ。でもそんな様子を見ていても、まだ私には許婚の余裕があった。どうせすぐ飽きるだろうってね。今までの彼はそうだったから…。

 だけども、その余裕は長くは続かなかったわ。彼は遂には許婚という古い契約を破棄し、家と家との約束を破ってまで彼女を選んだのよ。よっぽど好きだったのね、彼女の事が…。今でも彼女の面影を追い求めているくらいなんだから」

 そこで幸乃さんは口をつぐみ、熱いお茶の入った湯のみを両手で包み込むように持って、その中を静かに見つめていた。

 僕も自分の湯呑みからゆっくりとお茶をすすって飲み、今彼女が語ってくれたことについて考えていた。それから思い切って訊いてみた。

「彼女に勝てそうかい?母さんは?」

 僕のその言葉を聞くと、幸乃さんはちょっとびっくりした顔になった。それからゆっくりと顔をほころばせた。

「ええ、もちろん勝ってみせるわ」

 それから僕の目を見て、まるで自分を奮い立たせるかのように、こんな話をしてくれた。

「私の夢はね、あの人にこう言わせることなの。あの人が死ぬ間際にね、枕元に呼んだ私に向かって言うの。

『俺も今まで色んな女を見てきたが、やっぱりお前が一番だったよ』って。

 それさえ聞ければ、私は満足なの。だから、どうしても、私はあの人より長生きしなきゃいけないし、落ち込んでいる暇なんてないの。まだまだ道は長いかもしれないけれど、勝負はこれからよ。私は絶対に勝ってみせるわ」

 そう言うと、母さんはカラカラと響く声で笑ったのだった。


 翌朝、目を覚ますと、雨はだいぶ弱くなっていた。昼までには久しぶりに晴れ間が広がるでしょうと天気予報は伝えていた。土曜日だったが、昨日会議を中断させてしまった手前もあり、朝早くから会社に向かう支度をしていると、幸乃さんが朝食ができたことを知らせてくれた。

 今朝も純和風の食事が整っていた。炊きたての白いご飯に、しっかりとだしの効いた豆腐と白ねぎの味噌汁。鮭の塩焼きと、だし巻き卵に納豆。そして、焼のりのいい匂いが食卓に漂っていた。

「ごめんなさいね。あの人まだ寝ているのよ。先に召し上がっていて」

 幸乃さんはそう言うと、すりおろした山芋を新たに食卓に並べた。

「ニューヨークに戻ったら、また忙しくなるでしょうから、しっかり精をつけておいてね。それから、早く孫の顔も見せてね」

 そう言って、いたずらっぽく笑った。本当に明るい人だ。

 食事が終わると、僕は父の部屋の前まで行き、ふすまの外から声をかける。しかし返事はない。夕べ、醜態を晒したのが恥ずかしいのかもしれない。仕方がないので、戸は開けずに挨拶した。

「父さん、行ってきます。お加減はどうですか? お酒もいいですが、お体も大事にして下さいね」

 一瞬の沈黙の後、「ああ」とも「うん」ともうなり声ともつかない返事があった。僕は思わず苦笑いする。


 玄関で、昨夜の内に乾かしておいてくれた折りたたみ傘を渡しながら、幸乃さんは一枚の写真を差し出した。

「これ、アルバムの整理をしていたら出てきたんだけど、とても良く撮れているから、邪魔じゃなかったら持って行って」

 そこには、ベビーカーに乗った満面の笑みの男の子と、その横で大きく口を開けて笑っている三十歳くらいの男性が写っていた。僕と父との姿だった。ラベンダー色の幼児服によだれ防止用の大きな前掛けを胸に当てた僕の横で、父が電車のおもちゃを持ってあやしている。

「この写真を見ながら、あの人が珍しく話してくれたわ。貴志さんは小さな頃、電車が大好きだったんですって。電車さえ見せておけば、機嫌が良かったそうよ。覚えている?」

 そう訊かれても、僕は思い出すことができない。そんなことがあっただろうか?

「この写真に写っているベビーカーは、あなたと一緒に散歩できるようにと、お父様が特別に海外から取り寄せたそうよ。その頃から新し物好きだったのね。当時はこんな洒落た物なんて日本になかったから、自慢げに井の頭公園を一緒に歩き回ったそうよ。そして、井の頭線が通るのを見かける度に、立ち止まって二人で大きく手を振っていたんですって。そう話しながら、あの人は笑っていたわ。とても懐かしそうに」

 それだけ言うと、幸乃さんは昨晩来てくれたお礼と手間をかけたお詫びを言って、僕を送り出してくれた。

 雨はほとんど止んでいたので、僕は傘は差さず、急ぎ足で吉祥寺駅へ向かった。歩きながら、さっき幸乃さんが話してくれた父との散歩のことを思い出してみた。本当にそんな事があったのだろうか?家に電車のおもちゃがあった事さえも僕の記憶にはない。結局何も思い出せないまま、吉祥寺駅に着いてしまった。

 平日ほどではないが、渋谷行きの急行電車は混み合っていた。土日が忙しいサービス業らしき人たちや、これからどこかに遊びに行く様子の親子連れの姿が目立った。吉祥寺から乗ると、渋谷寄りの車両になるほど混み合う傾向があるので、僕はちょうど真ん中あたりの車両に乗り込み、ドアの脇に寄りかかって立った。そして、幸乃さんから渡された写真を取り出して、列車が発車するまでぼんやりと眺めていた。

 一分程で発車のアナウンスがあり、列車が動き始めた。僕は写真をスーツの内ポケットにしまい、雨が上がった外の景色を車窓からぼんやりと眺めていた。すると突然、車輪の軋む音がして列車が止まった。思わず進行方向に倒れそうになったが、どうにか両足で踏ん張ってこらえた。車内が騒がしくなる。二十秒程してから、車内アナウンスが入った。

「只今、緊急停止信号を受信したため、急停止いたしました。ご乗車の皆さまには、お急ぎのところ誠に恐れ入りますが、確認作業が終わりますまで今しばらくお待ちください」

 放送を聞いても、車内はしばらくざわついていた。しかし、騒いでも仕方がないと諦めたかのか、次第に落ち着きを取り戻していった。そんな車内風景を感じ取りながら、僕はもう一度車窓の外に目をやった。


 そこには父が立っていた。


 ポケットの写真から抜け出たような姿の父だった。大きく口を開いて笑っている表情もそのままに…。

 電車の高架線路の下で垂直に交わる井の頭公園の遊歩道の上に、彼は立っていた。そして、その傍らにはベビーカーが置かれ、小さな男の子がこちらを指差して座っていた。ラベンダー色の洋服の上に、少し汚れたよだれかけを掛け、満面の笑みを浮かべた男の子だった。

 写真の中の僕と同じ格好だった。

 二人はまっすぐに僕を見つめ、大きく手を振り始めた。

 僕には状況が把握できなかった。ウサギを追って穴の中に落ちた絵本の中の少女のように、自分がどこか異界へ迷い込んでしまった気がした。夢なのかもしれないと思った。でも、どう考えてもそこは現実だった。現実の井の頭線の急行電車の中で、僕は昔の父と僕自身とに向き合っていた。彼らを見ている内に、徐々に僕の脳裏に記憶がよみがえってきた。

 

 ベビーカーに乗り、電車のおもちゃを持った幼い自分。そのすぐそばには、若くたくましい父がいる。自慢のベビーカーをスピードを出して走らせ、急停止させる。キャッキャッと喜ぶ僕に気をよくして、今度はジグザグ走行を始める。僕はさらに高い声を上げて騒ぎ立てる。

 井の頭線の線路が見えると、僕は歓声をあげて「でんしゃ、でんしゃ」と叫び出す。ガタガタと音を立てて、僕の服の色と同じラベンダー色の電車が通り過ぎる。父と僕は大きく手を振って乗っている人たちに挨拶する。それに気付いた何人かの乗客が、手を振り返してくれる。僕たちは嬉しくなって、ますます大きく両手を振り始める。


 そんな父との記憶の世界に、僕は佇んでいた。芽依の事故の後、自分でも意識せずに僕は電車と親しんだ記憶を封印していたのだろうか?いや、母を追い出した父との楽しい思い出を幼心に消し去っていたのかもしれない。でも、確かに幼い頃、僕は電車が大好きだったのだ。

 再びゆっくりと動き出した電車の振動の中で、僕は記憶の世界から現実世界へと帰ってくる。

 列車の外では、若き日の父と僕とが大きく手を振っていた。僕は仕事の書類が入った重い鞄を床に置くと、ゆっくりと、しかし大きく手を振り返した。二人が僕の動作に気付いて、笑顔を返してきた。そして、二人はもっと大きく手を振り返し始めた。僕も負けじと全力で手を振る。

 そんな僕を見て、同じ車両の人々は不審な目で僕を見始める。でも、僕は気にしない。外の二人に向かって、さらに大きく早く手を振る。列車がゆっくりとその場所を離れ、二人の姿が遠ざかってしまうまで…。

 雨はすっかり上がり、窓の外には久しぶりの晴れ間が広がっていた。天気予報どおりの天気だ。そして、列車の後方に去っていく親子の背景には、雨上がりの鮮やかな虹が架かっているのが見えた。






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吉祥寺駅


 井の頭線の始発駅で、頭端式ホーム二面二線を有する高架駅(地上三階)である。

 井の頭線は、終点が両側とも頭端式ホームであり、終着駅到着時は進行方向の先頭車両は常に混雑し、上下線とも終点に向かえば向かうほど混雑の度合いは増していく。特に吉祥寺駅と永福町駅以外のすべての急行停車駅はいずれも渋谷寄りに階段・出口があり、井の頭線全体で見ても渋谷寄りに階段・出口を持つ駅の割合が多い。近年駅の改良工事が行われる際には、わずかでも渋谷寄りから吉祥寺寄りに、階段・出口を移動させている傾向が見られる。

 吉祥寺駅発車後、井の頭線は急カーブ・急勾配の後、井の頭公園の遊歩道の上を走る。公園の上を走る電車というのは、全国的に見ても珍しいといえる。





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井の頭Lovers 金崎 なお @omatto

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