第7話 雪の覇者 前編
雪に閉ざされていた。
右も左も。
前と後ろも。
天も。
乱れ舞う雪の中、どこからともなく蹄の音が聞こえる。
確かに音は捉えていたのに、不意に現れたようだった。
黒馬に跨り、白いマントを翻す。
白に覆われた世界で、なお圧倒的な白を纏った存在。
手が届きそうな距離にも関わらず、とても遠い。
それなのに。
「なるほど。私を呼び寄せたのは其方だな」
冷たい声音と聞こえるのに、そこに込められているものは決して冷たくはなく。
「私とともに、来るか?」
まるで何もかもを承知しているような物言いで。
瞼が震える。
一瞬にして詰められていた息を吐き出す。
答えは、決まっている。
真っ直ぐ「彼」の目を見返した。
*
賑やかな街の音が近づいて来る。
それに連れて少女の足取りは重くなる。
酪農家の店にお使いを頼まれて行った帰り道。
酪農家の店は牧場と隣接していて、街の北の外れにある。
少女の家は南寄りの外れだ。
酪農家のところへ行くなら街の中心を通ることになる。
行きは朝の時間帯だったのでまだ静かだった。
今は、太陽が最も高い位置に差し掛かる頃。
街は活気に満ちている。
街の中心付近は職人たちの工房が集中している。
その横とか表に店を構えている。
街の中央には古い小さな時計塔があり、この街を築いた職人たちが力を合わせて造ったのだとか。
後に聖堂や集会所、史料館なども周辺に建てられた。
時計塔の周りは自然と人の集まる界隈になった。
その周囲に広がるように家が増えていき今に至る。
そんな街の経緯を現実逃避のように思い出しながら少女は歩いて行く。
金属細工の店先で星形の花を模した銀製の飾りがキラキラと光っている。
星形の花は聖なる花。
白銀の花で邪を祓う力を持つと言われている。
古くなった年を清め新年を迎えるために必要な花だ。
その花は森の奥にしか咲かない。
一年が終わるその日の早朝に街の代表者が二輪だけ摘みにいく。
街の始まりの場所である時計塔と、聖堂に供える分だ。
小さな花二輪だけで街全体が清められるのだと言う。
それでも、自分の家にも清めの花を置きたいと思うのが人情というもので。
いつしか魔を寄せ付けないという銀で作られた花が新年の飾りとして定着した。
他に真っ白な絹でまるで本物のように作った花を花瓶に生けたりもする。
新年最初の朝日に照らされた飾り花を見ながら、新しい年を迎えられた幸運を祝い、その年も恙無く過ごせるよう祈る。
新年最初の日の出を迎えた時、誰もが敬虔な気持ちを抱く。
それはそれとして。
年明けの三日間は祝日であり、祭りの日だ。
年明けは新年に幸運を呼び込むために賑やかにするというのが元の謂れらしい。
今はそんな謂れを真面目に考えてやっている人は少ないだろう。
ただ皆で愉快に笑い合いたい。
過去のことも、先のことも横に置いておいて。
様々な不安や心配、怖れを吹き飛ばすように。
楽しみへの準備は皆、余念がない。
店先には晴れの日を祝うに相応しい華やかな品が並ぶ。
聖堂から子供達の歌声が聞こえる。
集会所から何かを準備する物音と声がする。
どこかの家から楽器の音が流れてくる。
街ゆく人は忙しなく。
けれど、どこか心弾む様子で。
少女はつい目を伏せそうになる。
去年は自分もこの中の一員だった。
今年だってそのつもりでいた。
現実は一員になれないでいる。
理由はわかっている。
でも、認めるわけにはいかない。
自分でそう仕向けたことの結果だ。
その結果に満足している。
だから、笑っていなければならない。
「浮かない顔をしているねえ」
「ひゃぁ」
足元からの声に、思わず飛び上がりそうになる。
目を向けると、白い猫が自分を見上げている。
この猫が街の中央を歩いているなんて珍しい。
「ちょっと、シロさん。脅かさないでよ」
抱き上げて小声で抗議する。
「ふふん。こんな賑々しい街で暗い顔しているからだよ」
悪びれる様子もなく返してくる。
白い猫だから、シロさん。
小さい頃の自分たちのネーミングセンスに胸の内で苦笑する。
十年くらい前、麦畑でこの喋る白猫と出会った。
その頃はいつも一緒だった双子の姉と二人で。
それ以来、白猫は双子の秘密の友達となった。
双子の家の納屋の隅に住み着いていた。
けれど、数年前に白猫は街を出て行った。
喋れるようになった猫には寿命がなく、いくらでも生きられるらしい。
そのため一箇所に長くいると人に怪しまれる。
ある程度したら住処を変えて、放浪するように暮らすのだ。
だけど別れる時、戻ってくると約束してくれた。
同じ猫だと思われない程度に時間を置いたらと。
それがこの秋に帰ってきた。
思ったより早く戻ってきてくれたと少女は思う。
そして、とても良いタイミングだったとも。
自分たちを取り巻く人間関係に大きく変化が生じていて、そのために適度な他者が必要だった。
シロさんは最適だった。
双子の、親にも悟らせていない気持ちを知っている。
異種族のためなのか、近くにいても客観的に自分たちのことを見てくれる。
あまりに近すぎる自分では姉の背中を押すことはできなかった。
今、シロさんが戻ってきてくれて本当に良かったと思う。
「私、そんなに暗い顔してる?」
笑顔を作って、シロさんにだけ聞こえる声量で聞いてみる。
「すれ違う程度の人間は気づかないだろうが、わかるものにはわかるさ」
「そっか。気をつけないとね」
白猫が目を細める。
人なら眉間に皺を寄せたと言ったところだろう。
何か言いたげな顔でもある。
でも、結局それについては何も言わないで。
「籠の中身、後で分けておくれよ」
そんなことを言った。
腕にかけられた小ぶりの籠は乳製品が詰まっていて見た目より少し重い。
ほんのりと発酵食品の甘い匂いが漂っている。
少女はくすりと笑って、少しだけねと答える。
猫を抱いたまま小さく歌を歌う。
表面を明るく取り繕うことで暗い気持ちを押し込めるように。
「あ、お姉さんだ!」
突然、明るい声が誤魔化しの鼻歌を遮った。
目を向けると、兄妹に見える二人が店から出てきたところだった。
少女の両親が管理する農園によく遊びに来る年下の少女と、その世話係をしている自分と同い年の少年だ。
二人は本当の兄妹ではない。
兄妹のように一緒にいるのは二人とも一人っ子で近所に住んでいたことと、幼い頃の双方の親の意向の結果だ。
具体的には、「一人っ子同士だし、仲良くしてやってね」程度のこと。
大人ではないものの、もう幼くはない二人を縛るものではない。
それでも今だに兄妹をやっているのは、少女が実年齢より幼い言動を取りどこへでも一人で行ってしまうからだろう。
その言動のために街の子供達から「不思議ちゃん」と揶揄される少女には友達らしい友達もなく、それを気にする風もない。
一人で街の周りの森や原っぱを遊び場にしている。
木々や草花に囲まれ、動物たちと戯れるのを好んでいる。
それが兄役の少年には心配なのだ。
「こんにちは!」
「こんにちは。えっと、君も買い物?」
少女の元気な挨拶と少年のちょっとぎこちない言葉。
少女と同じくらい少年とも付き合いは長いのだけど、なぜかぎこちない。
それも自分に対してだけ。
昔はそんなことはなかったと思う。
いつの間にかそうなっていて、理由がわからないからそのままだ。
聞くのも何か違うような気がして、ただ変わらない接し方を心がけている。
「そう、酪農家さんのところまで」
それで会話が途切れてしまう。
「ねえねえ、猫さん抱っこさせて」
「いいよ」
少女にシロさんを渡す。
抗議の視線を受けて、相手してあげてと目で返してみる。
通じたかはわからない。
シロさんは黙って抱っこされて、少しの間大人しく撫でられていた。
「あっ」
白猫がするっと少女の腕を抜け出し、トコトコと歩き出す。
「待って、猫さん」
少女は追いかけようとして、忘れてたとばかりに振り返る。
少年が抱えていた袋を奪うように取る。
「お姉さん、またね」
そう言った時には、白猫は走り出していた。
少女も追って走り出す。
止める間もなかった。
「行っちゃった」
ポツリと呟くと、応えがあった。
「まったく、いつになったら落ち着くんだろ」
溜息を吐く少年に笑いかける。
「大変ね。でも、そこまで心配することはないと思うよ?あの子はあれでちゃんといろいろわかっているから」
「わかっているとは思うけど、思いがけないことをするから心配なんだ」
少女はくすりと笑う。
「過保護なお兄さんね」
少年は顔を赤くしてそっぽを向く。
しばらく口の中で何かを言っていたようだが、溜息をもう一つ吐いた。
気持ちを切り替えたように少年は少女を見てためらいがちに口を開く。
「途中まで送るよ。それ、重いだろう?」
少年が籠を見て、手を差し出す。
つまり帰り道が分かれるまで籠を持とうかと言ってくれているのだろう。
いつも少年は言葉足らずだ。
でも、少女にはわかる。
「追いかけなくていいの?」
「荷物を持って行ったからな。変なところまでは行かないだろう。だから、いい」
「そう?じゃあ、お願い」
少年は頷いて籠を受け取る。
ふっと腕が軽くなった。
実は猫も抱えたせいで、腕が辛くなっていた。
自業自得だけど、それでもシロさんを抱えていたかった。
二人並んで歩き出す。
少年の方から話始める。
最近の街のことなど他愛のない内容をぽつりぽつりと。
話は途切れがちだった。
でも少年は沈黙を恐れるように喋り続ける。
それでも、少女にとって気まずいということはなかった。
話を途切れたままにして黙って並んで歩いたってきっと心地よい。
店の多い場所を抜けて、人通りがまばらになった。
「あのさ」
少年が少し改まった様子で何かを言いだそうとする。
少女は首を傾げつつ、黙って待つ。
少年は口を開いたり閉じたりで、なかなか言葉が出てこない。
ようやく音になって出て来始めた時。
「ほ−−」
「あ!お~い!」
連れ立って歩く青年達が少年を見つけて声をかけた。
「今から時計塔の大掃除をするんだと。お前も手が空いてるなら来い」
少年はあからさまに肩を落とす。
「わかりました。すぐ行きます!」
返事をして、済まなそうに少女に顔を向ける。
「ごめん。もう少し運んであげたかったけど、ここまでだ」
少女は首を横に振り、笑顔で答える。
「気にしないで。十分助かったから。お掃除頑張ってね」
「うん、ありがとう。それじゃあ」
少年が街の中心の方へと踵を返す。
少年の後ろ姿を見て、寂しさが胸を過ぎる。
それでも、沈んだ気持ちがほんの少し浮き上がった。
だから、本当に十分だ。
何を言いかけたのか気になるけれど、また今度聞かせてくれるだろう。
少女は籠の持ち手を握り直してまた一人で歩き始めた。
*
「はぁ。さむ」
少女は手に息を吐きかけながら玄関を出る。
今年最後の日の前日。
明日は新年の飾り付けと、夜には年越しの祭礼。
だから、今日中に一年分の埃を落とし終えなければならない。
実のところ、大掃除は二十日以上前から始めている。
けれど、冬物の収穫、冬の間寝かせる野菜や果物の支度とかもあって少しずつしか進んでいない。
作物の冬支度が終わったここ数日は一家総出でやっている。
それでも、やっぱりギリギリまで残ってしまった。
広い土地には小さな作業小屋が数カ所ある。
住居周りも納屋や家畜小屋がある。
雇っている手伝いの人達も年末までは駆り出せない。
各家の大掃除や新年の準備時間まで奪うわけにはいかないからだ。
雇い主の心遣いを知っていてか、お手伝いさん達は休みに入る前にできることを少しやっておいてくれたりする。
全体から見ればささやかなものだけど、本当に有り難い。
それがあるからいつもなんとか間に合うのだろう。
少女は裏手の納屋に回って、バケツと雑巾を持ってくる。
途中、水場でバケツに水を満たすのも忘れない。
玄関横の窓の前にバケツを置く。
窓を見上げて、気合を入れて袖を捲る。
今日最初の少女の担当は窓の外側の汚れ落としだった。
「あれ?」
脚立に乗って、雑巾を手に腕を伸ばした状態で固まる。
窓の上辺に届かない。
脚立の一番上に立っても、手のひら分くらい足りない。
いつもは背の高い父がやっていたのだが、父は電球を点検するなど他にも高所の作業を受け持っている。
窓くらいなら自分でも何とかできるだろうと今回引き受けたのだ。
けれど、見積もりが甘かったようだ。
もっと高い脚立もあるにはあるが、木に立て掛け固定して使う型の物だ。
壁に立てかけて使うのは危ない。
肩を落とし、溜息を吐く。
「はぁ。せっかく引き受けたのに。できる所までやって父さんに任せるしかないかぁ」
「じゃあ、俺が引き受けようか?」
驚いてバランスを崩しかける。
慌てて窓に手を突き脚立の上にしゃがみ込む。
重心が安定し落ち着くと、はぁと息を吐き出した。
慌てた声が脚立のすぐ下に来る。
「わるい。驚かせたか?」
少女は下を見てわざと膨れてみせる。
「ほんとですよ。いきなり声をかけないでください。こんな年末の早朝に人が訪ねて来るなんて思わないんですからね」
少し早くなった鼓動を抑えつけるように小さく深呼吸する。
これは、脚立の上で均衡を崩してひやっとしたせいだ。
自分に言い聞かせながら注意深く下に降りる。
「で、こんなに朝早く何しに来たんです?姉さんを誘いに来たんですか?あいにく今日は一日掃除で人手がいるので貸してあげられませんよ」
「ばっ。そんなわけないだろ。ここの事はよくわかってるんだ」
青年が少し頬を赤くして否定する。
「そうじゃなくて、ウチの方はもう親父と弟でやれるから手伝いに来たんだ」
収穫期の後もちょくちょく手伝いに来てくれていたのだ。
そんな所だろうと、わかっていた。
「へえ。それは助かるわ。是非お願い」
青年はニヤッと笑う。
「おう、任せろ。まず、親父さんに挨拶して来るからな。家の中でいいか?」
少女が頷くと、玄関の呼び鈴を鳴らし扉を開ける。
青年は声をかけながら中へと入って行った。
去年どころか今年の夏までの青年からは到底考えられない言動。
青年はこの秋で大きく変化した。
明るく、前向きになった。
他人に向ける刺々しさがなくなった。
相変わらずぶっきらぼうで特にあまり親しくない相手には無愛想にも見えるけれど、すっかり悪童の面影が消えた。
農園の手伝いに強制的に通わされるようになったのは、まだ小さい頃。
それまでは街中で他の子供らと悪さをたくさんしていた。
やり過ぎてその子らからも仲間外れにされるに至り、父親の手で農園に連れてこられたのだ。
少女と姉は連れてこられた彼を怖がった。
けれど、父に言われて避けるのをやめた。
手負いの獣のようなものだと表現した父の言葉は確かだった。
傷ついて、傷つけられて。
己を守るために誰彼構わず牙を剥く。
まだ血を流している傷を手当てしようとする手にさえ噛みつこうとする。
近づくもの全てを信じられず拒絶することしかできない。
最も信用していないのは大人達だった。
だから、子供の双子なら手を差し伸べられる。
当時の双子は彼に何があったのか知らなかった。
父は話さなかったし、おそらく周りの人にも口止めをしていたのだろうと今は思い至る。
先入観なく接することができる子供だけが彼を助けることができる。
父親たちの計画は半分成功で、半分失敗だった。
しばらく経つと彼は落ち着いて大人とも話せるようになった。
でも、心のうちに刺々しいものを抱えたままで、時折表面化することもあって。
その一方で、来たばかりの頃を除けば不思議と双子には優しかった。
少女と姉を間違えることがなかった。
見た目も言動もそっくりだった幼い双子を見分けるのは難しいのに。
両親以外にすぐ見分けられる人はいなかったから、双子にとって彼は特別になった。
幼い頃の特別は、特別仲の良い友達。
成長しても表面的には変わらなかった。
内側では変わらずにはいられなかった。
きっとそれと同時に姉と自分は性格が分かれた。
性格が違ったから彼の二人への接し方も変わった。
生真面目で大人しい姉には穏やかに。
活発で冗談も言える自分には軽快に。
どちらがどうということはなかった。
ただ気がついたら姉が細やかに気を使うようになっていた。
自分がそれを手伝うことも多かったけれど。
いつしか青年もなんとなく気づいたようで。
青年と姉の距離が少しだけ近くなった。
姉が彼のことをどう思っているかなんて考えなくてもわかる。
いつも一緒にいて、小さい頃は特に一心同体だった。
何を見て、何を聞いて、何を感じ、何を思う。
相手に尋ねる必要も感じないくらい同じだとわかっていた。
性格が違ってしまった後も考えることは変わらず同じで。
その結果の行動が違うだけだったから。
少女も同じことを願っていた。
青年の冷たく固まった心をほぐしてあげたい。
自分の方だけ見て欲しいとかそんなことは露も思わなかったに違いない。
姉はずっと距離が縮んでしまったことに気づいていなかった。
外から見ていた自分は気づいてしまった。
気がつかない姉をからかって自分の気持ちを誤魔化した。
そうやっていつまでも有耶無耶にしておきたかった。
そんなの無理だとわかっていた。
「待たせたな。ここは俺がやるから他のところをやりな」
「うん、ありがとう。ここはよろしく」
「おう!」
戻ってきた青年と入れ違いに家の中へと入る。
台所に行くと姉が鍋を磨いていた。
「どう、進んでる?」
「ぼちぼちね。もう腕が痛くなってきたよ。これ終わるまで保つのかしら」
台所は母の次によく使う姉が自ら引き受けていた。
台所掃除はテーブルや棚だけでなく調理器具や食器の手入れもあるから大変だ。
最も時間のかかる場所の一つ。
それだけにいつも母が担当しているのを自分がやろうと思ったのだろう。
「代わろうか?」
「まだ大丈夫。限界になったらお願いするわ」
「了解」
頷いて、テーブルの上に目を落とす。
そこに掃除場所の一覧表がある。
あまりにもやる場所が多いので表を作ったのだ。
終わったらここに来て場所名に線を引いて消す。
誰かがやっている所は場所名の前に丸がついている。
まだやってない場所を探しながら姉に話しかける。
「そう言えば、大掃除も手伝いに来てくれるとはね」
二人で青年の話をする時はいつも主語が抜ける。
「本当にね。窓掃除終わったら、こっちも手伝ってくれるって」
顔を上げなくてもわかる。
姉はきっと嬉しそうな顔をしている。
「よし、これにしよう。次行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい」
自分から振っておいてこの様はなんだと思う。
逃げるように、次の場所へと足を向ける。
だから、姉が本当はどんな表情を浮かべていたのか気がつかなかった。
午後に入り、大掃除の終わりが見えてきた。
青年が手伝いに来てくれたおかげで、いつもより少し早く終わりそうだ。
少女が台所に戻って来た時、最後の頑張りの前に一息つこうと母が言った。
母がお茶の準備を始めて、少女が皆を呼びに行く。
まず家の中にいた父と祖父母に声を掛ける。
次に外に出て納屋へ向かう。
姉と青年がそこにいる。
納屋の扉は半開きにされていた。
埃が立つので開けたいけれど、全開にすると寒い。
妥協してこの開き具合なのだろうなと、何とはなしに思う。
中から声が聞こえて来て思わず立ち止まる。
「なあ、明日の星祭の時。一緒に星を見ないか?」
青年の声に少女は息を呑む。
彼の近くにいる姉も同じだろう。
星祭とは年越しの祭礼のことだ。
街の代表者と聖堂の神職とで執り行われる。
それ以外の人々の参列は自由だ。
祭礼の間、街中が灯りを落とす。
満点の星空を戴き、祭礼は行われる。
清き星の光を星の欠片である白銀の花に集めるのだ。
それを街の中心に供えることで、街に漂う悪しきモノを祓う。
その時、星が降る。
夜空の天辺から四方に向けて。
無数に。
地上を祝福するように。
星祭の時、一緒に星を見ようというのはその流星を共に見ようということ。
年頃の男女がその約束を交わすということは、特別な意味が含まれる。
すなわち、恋の成就。
星の祝福を受けて、永く共に居られるように願いをかける。
「はい」
姉の気恥ずかしそうな、それでいてとても嬉しそうな返事が聞こえた。
泣きたくなった。
けれど、泣くわけにはいかない。
まだ。
今、ここでは。
ゆっくりと深く息を吸って、ゆるゆると静かに吐き出す。
胸を満たしそうになったものを奥へと沈める。
扉へと一歩踏み出す。
「姉さん。義兄さん。母さんが一息入れようって」
元気よく、さも今来たように扉口に立つ。
「なっ」
青年が絶句する。
姉も赤くなってうろたえる。
そんな二人を心底可愛いと思う。
「二人きりのところ邪魔して悪いけど、早く来てね」
お茶が冷めちゃうからねとニヤニヤ笑いを浮かべたまま踵を返す。
何事もなかったように台所に戻って、すでに始まっていたお茶の輪に加わる。
少し遅れて姉と青年も来た。
大掃除に目処が立ったせいか、話が弾む。
そうすると、祖父母の話題は姉達に向く。
いつ式を挙げるとか、早く孫の顔が見たいとか。
まともに返せない二人を庇って、父が気が早いと嗜める。
それで引っ込むような祖父母でもなく、話は続く。
胸が苦しい。
責められているわけではない。
話は決してこちらを向いてはいない。
わかっているけれど、どうしようもない。
お茶を吹き冷まして早く飲んでしまう。
席を立つ。
祖母が目を丸くしてこちらを見た。
「おや。もう飲んだのかい?」
「うん。残りは外だからね。暗くならないうちにさっさと終わらせてくるよ」
「そうかい。せっかく温まったんだ。冷えてしまわないように暖かくしてやるんだよ」
「もちろん。じゃあ、お先に」
一旦部屋に戻り、厚手のフード付きの上着を羽織る。
マフラーや手袋もしたいところだけど、それでは掃除にならないので諦める。
最後の場所は表札と郵便受け、あまり意味があるとは思えない門柱だ。
風雨に晒されるため早く綺麗にしても意味がないと、最後にとっておかれたもの。
郵便受けと門柱は家の近くだが、表札の方は農園の入り口にあるので少し歩く。
家は農園の敷地全体から見れば街寄りにあるけど、間に畑が横たわっているのだ。
バケツに水を満たしブラシと雑巾も手にぶら下げて、先に表札へ向かう。
朝から雲が多めの空模様だったが、いつの間にか一面曇り空になっている。
どんよりと重たそうな空。
夜には雪になるかもしれない。
白い息が風に流れていく。
「…………」
首を振り、前を向く。
木彫りの表札に辿り着く。
バケツを下ろし、ブラシで表札に付いた土埃を払う。
雑巾で丁寧に拭う。
風雨に晒された木製の表札が切り出したばかりのようになることはない。
でも、汚れを落とせば落ち着いた趣を取り戻す。
「こんなものかな」
薄暗くなって少し物が見えにくくなってきた。
急いで引き返して、郵便受けと門柱も洗ってしまう。
外の水場でバケツや雑巾を洗って納屋にしまいに行く。
納屋の掃除は終わったようで、すでに二人の姿はなかった。
納屋を出て、玄関へ向かうその途中。
何気なく窓の明かりを見上げる。
暖かな光をこぼす部屋、その中に姉と青年が見えた。
窓に明かりを映した家はそれだけで幸せの象徴のようなものだ。
その中に幸せそうに笑い合う二人の姿。
自分は暗くて冷たい外にいる。
もう、無理だ。
立ち止まっていた足が動き出す。
徐々に速度を増して、玄関を素通りする。
「おや?今からどこへ行くんだい?」
どこかから帰ってきた白猫が問いかける。
答えなどない。
行き先はないのだから。
それよりも、口を開けば押し込めていたものが飛び出してしまいそうだった。
「待ちなさい!」
白猫の聞いたこともない緊迫した声。
それでも、立ち止まらない。
振り返りもしない。
走って。
走って。
息が切れてきて、仕方なく歩調を緩める。
葉を全て落とした寒々しい森の中をのろのろと漂うように歩く。
目の端を白いものがかすめ、頰に冷たいものが当たる。
見上げると、雪が舞い始めていた。
はらり。
はらり。
まるで重さがないみたいに、それでも落ちてくる。
少女は自分の頰に触れて苦笑する。
あんなに泣きたいと思っていたのに結局泣いていない。
今、ここでなら思い切り泣いても構わないのに。
舞う雪を見る。
裸の木の枝をすり抜けて落ちて来る。
暗くなってよく見えない目にもそれはとても鮮やかで。
息をすることも忘れそうなくらい綺麗に思われて。
自分もこのひとひらになれたらいいのにと。
いつの間にか立ち止まっていた。
また歩き出す。
くるくると踊るように。
雪のひとひらと変われるように。
手がかじかむのも意識せず。
心に浮かぶものは何もなく。
雪と共に森の中を踊る。
枯葉の鳴る音は次第に消える。
森が白に染まっていく。
一陣の強い風が吹き、少女はよろめいて雪に手をついた。
雪の冷たさで我に返ったようだった。
瞬きをして、周りを見る。
雪に閉ざされていた。
右も左も。
前と後ろも。
天も。
乱れ舞う雪の中、どこからともなく蹄の音が聞こえる。
確かに音は捉えていたのに、不意に現れたようだった。
黒馬に跨り、白いマントを翻す。
白に覆われた世界で、なお圧倒的な白を纏った存在。
手が届きそうな距離にも関わらず、とても遠い。
それなのに。
「なるほど。私を呼び寄せたのは其方だな」
冷たい声音と聞こえるのに、そこに込められているものは決して冷たくはなく。
「私とともに、来るか?」
まるで何もかもを承知しているような物言いで。
瞼が震える。
一瞬にして詰められていた息を吐き出す。
答えは、決まっている。
真っ直ぐ「彼」の目を見返した。
「連れて行って」
馬上の彼が手を差し伸べる。
少女はその手に己の手を重ねる。
力強く握られたかと思うと、次の瞬間には少女も馬上の人となっていた。
彼の前に横向きに座っている。
まるでおとぎ話のお姫様のよう。
彼を間近から見上げる。
老いているのか若いのかよくわからないが、とても美しい顔立ちだ。
無表情に見えるのに、目が優しく微笑んでいる気がする。
ただの錯覚かもしれない。
「では、行こうか」
深みのある声が告げる。
「ええ、行きましょう」
彼の胸に頭をもたせかける。
冷たいのかと思ったら、ほんのりと暖かい。
気づいている。
このヒトは人ではない。
きっと雪を統べる精霊の王。
その証拠に、激しさを増した雪は二人を避け濡らすことはない。
彼が精霊ならば、行く先はきっと常若の国。
ヒトならざるもの達の国。
あるいは人々が伝承する理想郷。
一度入れば帰ってくるのは困難と言われる場所。
この世とは違う時間が流れていて、毎日のように宴が開かれていると言う。
楽しくて、幸福で、時間を忘れてしまう。
忘れてしまえたらいい。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
ふと言葉足らずな少年の顔が瞼の裏に浮かぶ。
意を決して何かを言おうとしていた。
次会った時に聞かせてくれるだろうと、何とはなしに思っていた。
けれど、それはもう叶わない。
「ごめんね」
囁きは雪と共に舞い散る。
騎影が吹雪の奥へと消えた。
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