第3話  暗がりの妖精

「お前の本当の望みを、俺が叶えてやろうか?」

 口の両端を釣り上げて、妖精はわらう。



 勢いよく玄関の扉を開ける。

 今日も快晴。

 いい天気だ。

 少年は三つ下の妹を連れて家を飛び出す。


「今日は母さんたち、農園にかかりきりなるから。悪いけど、お昼は二人で食べてちょうだいね。台所のテーブルの上に置いておくから」


 玄関まで送り出しに来た母がすまなそうに言う。

 少年の家は農園を経営している。

 農園で収穫されたものを売るのが主な仕事で、農園の世話は農園の近くに住む管理人に任せている。

 ただ種まきの頃と収穫の時期は人手が足りないので、少年の家族も作業に出向く。

 今は収穫の時期だ。

 少年は快活に笑ってみせる。


「いいって。いつものことじゃん」


 そう、いつものこと。

 春と秋に十日間ぐらい。

 年に二回の家ががらんとする季節。

 どんなに放って置かれても少年はこの季節が好きだった。

 非日常感は少年を意味もなくワクワクさせる。

 そこに十歳上の下の兄が、今から出かけるのか、玄関にやってきた。


「いつものところに行くのか?」

「もちろん!」


 そうかと兄は目を細める。

 痛そうというか。

 悲しそうというか。

 手の届かないものを恋しく思っているような、そんな表情だった。

 少年は兄のそういう顔が好きではない。

 胸の内がもやっとするから。


「妹の面倒をしっかり見るんだぞ」

「わかってるよ!」


 むかっとして叫ぶように言い返す。

 兄はただニヤリと笑って、少年の頭を荒い手つきで撫でる。


「気をつけろよ」


 それだけ言って少年の横をすり抜け、出かけていく。

 兄も今日は農園の手伝いで一日中町の外だ。

 父は既に農園に行っていて、結婚して別の家で暮らす十二歳上の兄も同じく。

 だから今日は気兼ねなく町の中を遊びまわれる。


 妹がいなければね。


 心の中で呟いて、密かに溜息をつく。

 少年もその友達もやんちゃ盛りだ。

 木に登り、川で魚を追い、チャンバラをし。

 少々の擦り傷切り傷なんて気にしない。

 そういう遊び方をしたい年頃。

 けれどそういう遊び方は、親たちには心配でならないらしい。

 それで、少年は妹の世話を任された。

 妹がそばにいればさすがに無茶なことはできない。

 まるで足枷のようだなと少年は思う。

 少年の家から少し離れた町の一角ではお目付役が用意された。

 町で小さい子供たちに一番好かれているお話の上手な少女。

 少女には少年と同い年の弟がいる。

 その弟を見ているついでにと少女の家の近くに住む母親たちが子供たちの世話を頼んだのだ。

 少年には直接関わりのないことだったが、少年がいつも一緒に遊んでいる友達の家がその近くであり、友達の母親が少女に子供たちの世話を頼んだ一人だった。

 友達は素直に親に従っているような性格ではないものの、母親が時々様子を見に来るのでお目付役の元をあまり離れてはいられない。

 よって少年はその友達と遊びたければお目付役のところまで出向かねばならなくなり、妹のことがなくても当然遊びは限定された。

 窮屈なことこの上ない。

 けれど、少年はその窮屈な場所が嫌いではない。

 なんとなくお目付役の少女の顔が見たくて、毎日のようにそこへ行く。

 町中で何かの間違いのようにぽっかりと空いた場所へ。

 庭でも畑でも、広場でもない。

 どちらかと言うと、そこに家を建てようとして空けておいたがずっと建てずじまいになっていると言う風情だ。

 周りを民家に囲まれ、数本の木が生えている以外は何もない。

 おかげで近所の子供たちの格好の遊び場になっている。

 そこにお目付役の少女はやってくる。

 弟と、本を一冊携えて。

 大抵、通りに一番近い木の下で本を読んでいる。

 小さい女の子たちの相手をして、おままごとや花冠作りをしていることもある。

 そうしながら、時々周りで遊ぶ少年たちに目を配る。

 姉のような優しい目で見守って、危ないことをしている時だけ叱りに来る。

 窮屈だけど、窮屈なことを感じさせない。

 なぜか心地よい場所。

 妹を連れて空き地に行くと、少女はもう来ていた。


「おはよう。今日も妹と一緒なのね。いいお兄ちゃんね」


 小さい子たちとボール遊びをしながら、笑顔を向けてくれる。


「おはようございます。…別にそんなんじゃないけど」


 ぼそりと呟いて、妹を女の子たちの輪に連れて行き自分はいつもの遊び仲間のもとに行く。

 この近所に住む友達がニヤニヤ笑いで少年を迎える。


「何照れてんだよ!」

「だから、違うって」


 「違うって何が?」と別の友達も茶々を入れる。

 返す言葉が見つからなくて、「黙れ!」と首を絞める。

 「お、やるか!」とそのまま取っ組み合いの喧嘩けんか遊びに突入する。

 草の上を転がって、十数える間相手を抑えていられた方の勝ち。

 一対一で、物を使うのは反則。目や腹を狙うのもダメ。

 自分たちで作ったルールだ。

 これでも母親たちは目くじらをたてるが、この場所でやるなら少女は何も言わない。

 間違って怪我をしないように、大きな石などは取り除いてあるからだ。

 あとは、少年たちのことを信用してくれているのだろう。

 本気の喧嘩にならない限り、少女は好きにさせてくれる。

 それが、少年たちにはささやかではあるが嬉しいことだった。


「よし、今日はオレの勝ちだ!」


 10カウントを終えて少年が勝利宣言する。

 「くそ、負けた」と口では悔しそうにしながら、友達は笑っている。

 立ち上がった少年が友達に手を差し伸べる。

 手を取った友達はニヤリと笑い、少年を引っ張る。

 友達の上に倒れると思いきや、彼は草の上を転がって避けた。


「わっ」


 友達が起き上がってうつぶせに倒れた少年の上に乗っかる。

 喧嘩遊びでは観客をしていた友達も顔を見合わせてニヤリと笑い、


「おりゃっ!」


 少年の上に折り重なる。

 一番下で潰された少年は呻き声を上げる。


「お、重い。死ぬ~」


 下から二番目になった友達も悲鳴をあげた。


「いたい、いたい。ちょっ、おまえらどけって」


 仕方なく後で乗った二人が退く。

 少年を引き倒した友達も立ち上がってお腹のあたりをさする。

 どうやら、ベルトのバックルがお腹に食い込んだらしい。

 それを見て先に退いた二人が笑う。

 その横で少年はうつぶせに倒れたまま動けずにいた。

 視線は空き地の出入り口を見つめていた。

 いつの間にかボール遊びの輪を抜けていた少女が、見回りで通りがかった自警団の青年と話している。

 少女はとても嬉しそうに、幸せそうに笑っている。

 それは向かい合う青年だけが見られる微笑みで、決して少年には向けられない。

 息苦しさを感じて、視線をそらす。


「どうした?」


 友達がいつまでも起き上がらない少年を訝しんで声をかけてくる。


「別に」


 そっけない言い方に友達は顔を見合わせる。

 少年は立ち上がって、服についた草を払う。

 数日前。

 誰にも何も言わず書置きだけ残して朝早くから出かけて、日が落ちても帰ってこなかった少女。

 大人たちが探し回る中、ただ一人血相を変えて町はずれに駆けて行った青年。

 青年は少女を見つけて帰ってきた。

 たぶん、その時から二人の関係は変わった。

 少年の知らない昔からずっと二人は特別に仲が良かったけれど。

 青年は、少年から見ても魅力的な人物で、

 少女が特別な視線を向けるのは彼だけで、

 優しい青年も、誰よりも彼女に優しくて、

 初めから割り込む余地などないことを少年は知っていたけれど、

 胸が痛むのを知らずにいることはできなかった。

 そして、おそらく下の兄も同じに、あるいはもっと深く胸を痛めていることも。


 夜、子供部屋でベッドに入り眠りに誘われるのを待つ。

 妹はすでに安らかな寝息を立てている。

 少年がなかなか寝付けずにいると、決まって現れるものがあった。


「こんばんは。今宵もいい月だね」


 きししと笑い声が部屋の隅の暗がりから聞こえる。

 少年ははあっと溜息をついて、小声で話しかける。


「今日は何の用?」

「用がなけりゃ、来ちゃいかんのかね?」

「用がないのなら来るな」

「つれないねえ。今日は一段と機嫌が悪いと見える。ちょっと話してみてごらんよ」


 少年はベッドの中で眉を寄せる。

 確かに話てしまえば少し楽になるかもしれない。


 でも、こいつに話すのか。


 いつの間にか夜の暗がりの中に現れるようになったもの。

 どうやらこれは自分のところにしか来ないらしい。

 友達に話したら寝ぼけて何かと間違えたのだろうと笑われた。

 これは町のことは何でも知っていて、どこそこの人の上に鳩が糞を落としただの、仲良く見える誰と誰は互いに嫌っているのだのと言ったことをさも可笑しそうに少年に聞かせる。

 それを聞いて嫌な気分になった少年の顔を見るのが好きらしい。

 全く性悪なのだが、自分は妖精だと言う。

 確かに、ほのかに光るトンボのような透明な羽を持っている。

 おとぎ話の花の中を飛び回る愛らしい妖精たちと全然違うじゃないかと言うと、

 「妖精にもいろいろいるんだ。俺のように暗がりに住む奴もな」と返ってきた。

 本当かどうかはわからない。

 少年は他に妖精を見たことがないし、こんなことを大人に聞いても仕方がない。

 初めは追っ払おうとしたが、それさえ楽しげで効果はなくて妖精は不定期にやってくる。

 とりあえず自分が嫌な気分になるだけで、それ以外の害はないようなので適当に接することにしていた。

 少し考えて少年はベッドから起き上がった。

 妖精のいる暗がりの前に行って腰をおろす。

 妖精の目がキラキラと光っている。

 それだけは本当に妖精らしく宝石みたいできれいだった。

 その目を見て思う。

 この妖精に話しても他の誰かに知られることはない。

 だったら、話して楽になりたい。


「お姉さんが婚約したんだ」


 少年はお目付役の少女のことを友達と同じように「お姉さん」と呼んでいた。


「相手はこの町で一番優しくて強い人で、オレから見ても本当にかっこいい人なんだ」


 少年の胸がきゅっと狭くなる。


「だが、お前は納得していない。そうだな」


 妖精がニヤリと笑う。

 少年は黙って頷く。


「お前、そのお姉さんとやらが好きなんだな」


 その言葉に少年はひるんだ。


「好き?そりゃあ、気に入ってはいるけど……」


 妖精はニヤニヤ笑いながら少年に尋ねる。


「そのお姉さんが相手の男と楽しそうに話しているのを見て嫌な気分にならなかったか?」


 答えは明らかだった。


「……なった」


 妖精はまた聞く。


「お姉さんに自分のことをもっと見て欲しいと思ったことはないか?」

「…………ある」


 妖精がしたり顔で頷く。


「それが人間の、特別な好きと言う感情さ」

「……」

「あれだ。初恋ってやつだな」


 少年は顔がほてってくるのを感じた。

 開いた口が塞がらないとはこのことだと思った。


「なんで、そんなことがお前にわかるんだよ」

「わかるさ。俺はずうっと人間を近くで見てきたからな」


 疑わしげな視線をくれるが、妖精はきししと笑って気にせずしゃべり続ける。


「そして、初恋は実らなかったわけだ」


 ツキっと胸に痛みが走る。


「仕方ないだろ。あの人に敵うわけない」

「そりゃそうだ。お前みたいなチビは目に入っていないだろうさ」


 傷口に塩を塗り込むようなことを妖精は笑いながら言う。


「それに、お姉さんには自分を助けてくれた王子様以上の人なんていないさ。お前の下の兄さんも馬鹿だね」


 少年は反射的に言い返す。


「兄さんのこと、馬鹿って言うな!」

「自分だって、馬鹿だと思っているくせに」


 ぐっと詰まってそれでも、言うだけ言う。


「お前に言われたくない」


 ふーんと妖精は面白そうに腕を組む。


「日頃あんなに反発しているのに、なんだかんだと兄のことが好きなんだな」

「うるさい!」


 声が大きくなって、はっと妹のベッドを振り返る。

 幸い、妹は熟睡しているようで起きる気配はなかった。

 ほっとして、苦虫を噛み潰したような気分になる。

 気持ちを静めて、気になったことを聞く。


「お前、十年前のこと知ってるのか?」


 「もちろん!」と妖精は胸を張る。


「なぜ、お前の下の兄さんがあんなことをしたのかもな」


 ぴくりと少年の肩が揺れる。


「知りたいかい?」


 悪魔めいた問いかけに、少年は黙って頷く。


「理由はお前さ」

「なんだって?」

「お前が生まれたから、下の兄さんはあんなことをしたのさ。

 お前が生まれるまでは、当たり前だが、下の兄さんが一番下だった。

 母親は下の兄さんのことをいつも気にかけていたよ。

 上の兄さんもよく弟の世話をしていた。

 だが、お前が生まれて、母さんはお前につきっきりになった。

 幼いお前の世話で手の回らない部分を上の兄さんが手伝った。

 それで、下の兄さんは放って置かれることになった。

 もうつきっきりでいなくてもいい年頃ではあったからな。

 それで、下の兄さんは一人で町に出て友達と遊ぶようになった。

 けれど、それまで甘えん坊でいられたのが突然一人にさせられたから、鬱憤が溜まったんだろう。

 その友達とイタズラして回る町の有名な悪ガキになったんだ。

 そこにお姉さんの一家が引っ越してきたわけさ。

 それから何が起きたかはもう知っているだろう?」


 そう、知っていた。

 親や上の兄から聞いたのではなく、年上の友達から聞かされた。

 下の兄が引っ越してきたばかりの少女をいじめたこと。

 他の子らが何もできない中ただあの人だけが少女の手を離さなかったこと。

 つまりはー、


「兄さんはオレが邪魔だった?」


 妖精が肯定する。


「その通り。でも、母親が近くにいて手出しができなかったから、目についた少女に八つ当たりをしたというところなのだろうよ」


 「本当は気になって仲良くしたかったのだろうけどな」と妖精は感慨深げに言う。

 反応がないので妖精は少年の顔を覗き込んだ。


「きしし。いい顔が見られたから今日はもう帰るよ。じゃあな」


 妖精が暗がりの奥へとすっと消える。

 よっぽどひどい顔をしているんだろうなと少年はぼんやりとした頭で思う。

 ふらりとベッドに戻って、頭から布団をかぶる。

 目頭が熱くなるのを感じた。


 オレのせいで……。


 声にならない呟きは夜の静けさの中に溶けた。

 翌朝、目が覚めても起き上がる気になれなくていつまでもベッドの中に潜っていた。


「にいちゃん、あさだよ。あさごはんさめちゃうよ」


 妹が布団の上から体を揺する。


「いらない。気分が悪いから一人にして」


 自分でも冷たい言い方だと思った。

 けれどまだ幼い妹はそれをわからず、パタパタと子供部屋を出て行く。

 「おかあさん、にいちゃんきぶんがわるいってー」と声が聞こえてくる。

 少しして母がベッドの横にやってきた。


「風邪でも引いた?気持ち悪いの?」


 返事をしないわけにはいかないので、布団から顔を出す。

 すかさず母は少年の額に手を当てる。


「熱はなさそうね。でも、気分が悪いのならしっかり寝ていなさい。母さんは今日も農園に行かなくちゃいけないから無理しないようにね」


 頭を優しく撫でて母は出かけて行った。

 しばらくしてまた妹が戻ってきた。

 一人にしてと言われたのを律儀に守っているようで、扉を少し開けて少年の様子をうかがっている。

 無性に苛立ってくるのを押さえつけて、優しい声で言う。


「遊んでおいで。いつもの場所なら一人でも行けるだろ。明るいうちに帰ってこれば大丈夫だから」


 妹は少し迷うそぶりを見せてから、こくんとひとつ頷いた。


「いってきます。にいちゃん、よくやすんではやくげんきになって」


 軽い足音が遠ざかって、ほっと息をつく。

 家の中は自分以外に誰もいなくなった。

 静けさが少年に浸透していく。

 同じ静寂でも夜の皆が寝静まっているのとは全然違う。

 人の気配がないことは、自分は一人ぼっちなんだという思いを強く抱かせた。

 また、布団を頭からすっぽりと被る。

 寂しさのような、怒りのような、恨みのような、悲しみのような。

 その全部のような感情を抱えきれずに、少年はただ固く目を閉じる。

 もう一度眠ったら、目覚めた時それらの感情が消え去っているように。

 元の自分に戻れることを願って。

 けれど、眠りはなかなか訪れず、代わりに声がした。


「よう、昼間っからふて寝か?」


 きししといつもの暗がりから軽薄な笑い声が聞こえる。

 少年は不愉快そうに眉をひそめる。

 返事をせずにいると、妖精の愉快そうな声がまた聞こえた。


「おやおや、これは相当に御冠のようだ」


 妖精はげらげらと笑い出す。

 少年は腹が立って、被っていた布団をはねのける。


「一体誰のせいだと思っているんだ!だいたい、こんな明るいうちに出てくるなんて!」

「おいおい、そりゃないぜ。俺は妖精だ。夜しか出ないお化けの類とは違うぞ」


 真顔になって少年の言葉に反論するも、その顔はすぐに崩れてまた腹を抱えて笑い出す。

 少年は妖精を日向に放り込んでやろうかと本気で考え始める。

 暗がりが好きなら、明るいところは苦手に違いない。


「まあまあ、そんな物騒な顔するなって。今日は本当にいいことをお前にしてやろうと思って昼間にわざわざ出てきたんだから」


 少年は胡散臭そうに妖精を睨む。


「いいこと?」

「そうだ。昨日のはちょっと俺の方がいい思いをし過ぎたからな。バランスはちゃんと取らないと」

「いつもいい思いをしているのはお前だけだろ」

「そんなことはないさ。俺がお前に教えたことで避けられたよくないことはあるはずだ。まあ、今のお前にはわからないかもしれないがな」


 まあそんなことよりも、と妖精が話を戻す。


「お前の本当の望みを、俺が叶えてやろうか?」


 口の両端を釣り上げて、妖精は嗤う。


「オレの本当の望みだって?」


 なんのことを言っているのだろうと少年は訝る。

 妖精がちらりと何かに目をやる。

 その動きを何気なく追って、はっとする。

 妖精が見た方向には妹のベッドがあった。


 妹がいなければ。


 口に出して行ったことはないが、そんな風に思ったことは一度や二度ではない。

 まさか、と少年は思う。


「お前、妹に何かする気か?!」


 妖精がニヤニヤと笑う。


「さあな。さて俺は今日忙しいから、またな」

「待てっ」


 捕まえようとする少年の手をするりとかわして、妖精は暗がりに消えた。

 少年は大急ぎで着替えて、家を飛び出した。

 いつもの場所を目指して走る。

 そこに妹の姿はなかった。


「すみません。妹はここに来ませんでしたか?」


 息を切らせながらお姉さんに尋ねる。

 お目付役の少女は少年の様子に少し面食らいながらも、いつものように穏やかに答えた。


「さっきまでここにいたよ。なんでもいいことを思いついたからって早めに帰って行ったけど。それより君、気分が悪くて寝ているって聞いたけど、もう大丈夫なの?」

「……それは、その、もう治りました」


 口ごもりながらそう答える。

 本当はショックでふて寝していただけなんて、カッコ悪くてとても言えない。


「それより、妹がどこいったか知りませんか?」

「すれ違わなかったのならまっすぐ家には帰ってないということよね。確かにどこかに寄ってから帰るようなことを言っていたと思うけど」


 少年の必死の様子に少女も真剣に考え始める。


「わたしたち、あの子がどこにいったかわかるよ」


 低い位置から声が上がった。

 妹の遊び仲間の女の子たちだ。


「あの子、お兄ちゃんのことをすごく心配していた」

「だから、何か元気になることをしてあげたいって」

「あたしたちもいっしょにかんがえてあげたの」

「それで、おいしいもの食べたら元気になるんじゃないってことになって」

「おにいちゃんのすきなものはなにってきいたらぱあってなった」

「答えは教えてくれなかったけれど、それをもらって帰ることにするって言っていたよ」

「だから、お兄ちゃんの好きなものがある場所に行ったんだよ」


 少年の好きなもの、それはチーズだ。

 この町でチーズ作っているところは一軒だけ。

 町の北に広がる放牧場を営む家から新鮮なミルクを仕入れてチーズを作るため、その店も町の北の端にある。

 少年の家がある町の南部からは遠いので、少年も一度しか行ったことがない。

 それも母と一緒に買い物に行った時だ。

 チーズの店を知っているということは妹も母と一緒に行ったことがあるのだろう。

 しかし、小さな妹にはとても遠く感じられるだろうし、一人で無事にたどり着けるとは思えない。

 少年は少女と妹の友達にお礼を言って、また走り出した。

 走っているうちにさっきまで晴れていた空がにわかに曇り始める。

 まだ昼間なのにすっかり暗くなり、雨が降りだした。

 雨の中走り通して少年は店の中に飛び込んだ。


「あの、妹が来ませんでしたか?」


 驚いたおかみさんが一瞬店の奥に消え、大きな布を手に駆け戻ってくる。

 布を少年の頭から被せ、雨水を拭い始める。


「雨の中走ってきたのかい?ええ、ええ、さっき小さい女の子が一人でチーズを買いに来ましたよ。兄さんが早く元気になるように美味しいチーズが欲しいって」


 妹は無事にここまでたどり着いていたことに安堵する。


「それで、妹は?」

「雨が降り出す前に帰って行ったけど、すれ違わなかったかい?」


 少年は凍りついた。

 妖精に連れさらわれたのではという考えが頭に浮かぶ。

 否定するように頭を振る。


「ありがとう、おばさん」


 おかみさんの手をすり抜け、雨の中に飛び出す。

 後ろでおかみさんの声が聞こえたが、構ってはいられなかった。

 いつの間にか雨は土砂降りで、服は雨水を吸い肌に張り付いていた。

 それにも気づかない様子で少年は妹を探し回った。

 ふと少年は思う。


 なんでこんなに必死なんだろう?

 いなくなってしまえばいいと思ったこともあるはずなのに。

 本当にいなくなってしまうと思ったら、こんなになくしたくないと思うなんて。

 本当はこんなに大事に思っていたなんて。


「妖精の嘘つき。オレの本当の望みは、妹がいなくなることなんかじゃないじゃないか!」


「一体どこにやったんだオレの大事なものを!答えろ、妖精!」


 雨の中、叫ぶ。

 その時、時を告げる鐘の音が雨音を縫って響き渡った。

 町の古い古い時計塔。

 ここだよと言われた気がした。

 雷がゴロゴロと鳴り始めている。

 建物の間の小道を抜け、時計塔に急ぐ。

 扉は珍しく開いていた。

 いつもは掃除や修理などの時以外鍵がかけられているのに。

 扉をそっと押し開いて中に入る。

 稲光が窓から差し込んで中を一瞬照らし出した。

 その一瞬で見つけた。

 隅で何かを抱えるようにして縮こまり、震えている小さな影。

 ゆっくりと近づく。

 名前を呼ぶ。

 小さな影がびくりと大きく震える。

 可愛いらしい頭が揺れる。


「にいちゃん?」


 雷がどこかに落ちたのか、すごい音が建物を揺らした。

 妹は悲鳴をあげて、うずくまる。


 ああ、こいつは雷が苦手だった。


 妹は雷が鳴っている時いつも少年のところに来てピッタリとくっついて離れようとしなかった。

 だから、少年は妹の隣に座って頭を撫でてやった。


「大丈夫、雷様はすぐどっかいっちゃうよ」


 優しく声をかけながら、安心させるために撫で続ける。

 妹の髪も少年ほどではないがしっとりと湿っていて、雨が降り出して慌ててここに駆け込んだのだろうと思われた。

 安心したせいか、少年は眠気がこみ上げてきた。

 気がつくと、妹も少年に寄りかかって寝息を立てている。

 妹が大切そうに小さな包みを抱えているのを見つけて温かい気持ちがこみ上げて、

 そこで意識が途切れた。


 バンッ!!


 扉を乱暴に開く大きな音で少年は目を覚ました。

 窓から光が差し込んでいて、雨が上がったことを知らせている。

 開け放たれた扉を見ると、下の兄が息を切らせて立っていた。

 片手に雨水を滴らせた傘を下げている。

 目が合った。

 どれくらいぶりだろう。

 近頃ずっと兄の顔をまともに見ていなかったような気がする。


「こんなところにいたのか」


 気が抜けたようにちょっと情けない表情をしている。

 少年は思わず吹き出した。

 笑い声に驚いて起きた妹が目をパチクリさせている。


「お前……、笑うところじゃないだろ」


 兄が溜息まじりに呟く。


「いや、笑うところだよ」


 だって、結局、兄さんもオレのことが大切だったんだから。

 オレが邪魔だと思っていた妹が大切だったように。


 ちゃんと目を覚ました妹が驚いたように少年に聞く。


「にいちゃん、もうきぶんわるいのなおったの?」


 今更な質問に笑いを噛み殺しながら答える。


「うん、大丈夫。心配かけてごめんな」


 素直な言葉が口をつく。


「兄さんも、探しに来てくれてありがとう」

「まったく、人騒がせなんだよ、お前は」


 照れ隠しなのか、そっぽを向いてしまう。


「ほら、帰るぞ。そんなにびしょ濡れになって。二人ともさっさと着替えないと風邪をひくぞ」


 兄に続いて時計塔を出ると、明るさに目がくらんだ。


「悪かったな。探すの手伝ってもらって」


 兄が誰かに言う。


「いいえ、私も心配でしたから」

「気にしないで。これも仕事のうちだろうからね」


 よく聞き慣れた女性の声と男性の声。

 驚いているうちに明るさに慣れて、少年の目に二人の姿が映る。

 お目付役の少女とその婚約者である自警団の青年。


「え、なんでここに?」


 少年が惚けた声を出す。

 兄が呆れた表情で説明する。


「バカ。お前の様子を気にして家まで来てくれたんだよ。ちょうど、早めに帰ってきた俺と行き合って、お前たちのことを教えてくれたんだ。そのまま、雨の中お前たちを探してくれたんだぞ」

「でも、私だけでは子供達の行きそうなところがわからないから、この人にも手伝ってもらったの」

「そんな他人行儀な言い方しないで。どっかいってしまった子供を探すのは当たり前のことなんだから」

「すまねえな。そう言ってもらえると、ありがたい」

「だから、気にしないでって」


 昔のことが嘘のように自然に会話をしている。

 まるで親しい間柄のように。

 それが上辺だけのことだとしても、そのようにあろうと三人は決めているのかもしれない。

 それを話を聞いただけで実際を知らない人間が違うと言ってぶち壊していいとは思えない。

 それなら、少年にできることはその有り様を受け止めることだけだ。


「それじゃあ」

「風邪ひかないように気をつけてあげてくださいね」

「おう、またな」


 少年の中のもう一つのわだかまりが解けていった。


「行くぞ」


 兄が歩き出す。


「あ、待って。兄さん、こいつをおぶってやってくれない?」


 兄が立ち止まって振り返る。


「そうか、チーズ屋まで一人で歩いて行ったんだったな」


 兄が妹に背中を向けてしゃがむと、妹は兄の背中にしがみついた。

 兄の背中で揺られているうちに妹はまた眠りに落ちた。

 家に帰ると、風呂場に直行させられた。

 着替えは用意してやるからと、無理やり起こされて機嫌の悪い妹も一緒に。

 風呂を出ると、母も帰ってきていた。

 すでに事情は聞いているようで、母は微苦笑を浮かべていた。

 妹は母に、少年は兄に髪の毛の水を拭われた。

 兄の乱暴な手つきに少年が抗議すると、やってもらえるだけありがたいと思えと言われた。

 確かにそうなのだが釈然としなくて不満げな顔をすると、兄が笑った。

 久しぶりに見る屈託のない笑いにまあいいかと少年は機嫌を直す。

 そのあと、久しぶりに兄と喋って、妹と遊んでやって。

 夜に妹と揃って熱を出した。

 眠くはないが何かを考える気力もなくてぼんやりしていると、いつもの声が部屋の暗がりからした。


「おや、風邪をひいちまったのかい?」


 起き上がるのは億劫で、顔だけ妖精の方に向ける。

 妹の行動はともかく、季節外れの雷雨はこの妖精のせいに違いない。


「一体誰のせいだよ」

「はは、だがまあ、思い知っただろう?」

「うん、よくわかったよ」


 少年はしみじみと頷いた。

 こんなことがなければ、きっと気づくのにもっと時間がかかっただろう。

 その間に兄と二人の関係をぶち壊していたかもしれない。

 自分のほのかな気持ちも混ぜこぜにして。

 早く気づくことができて本当に良かったと思う。


「確かにいいことをしてくれたよ。ありがとう、妖精」

「礼を言われる筋合いはない。俺はもらい過ぎたもんを返しただけだからな」


 腕を組んでふんっと鼻を鳴らす。

 どう見ても照れ隠しだった。

 少年は笑った。

 妖精の前で笑うのはひょっとしたら初めてかもしれない。


「お前、本当はいいやつなのか?」


 妖精が心底嫌そうな顔になる。


「いい奴だって?やめてくれ。そんな風に思われるのは気持ち悪い」


 身震いまでしてみせる。

 どこまでも悪役でいたいらしい。


「ちょっと、事後の様子を見に来ただけだからな!じゃあな!」


 よっぽど居心地が悪いのか早々に踵を返す。


「うん、またな」


 片手で答えて、そのまま妖精は消えた。

 答えたからにはまた来るに違いない。

 今度はいつ来るだろうかと、楽しみな気がする。

 また嫌な気分になる話を聞かせてくれるのだろうけれど。

 彼も、大切な友達の一人だと今の少年には思えた。

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