第2話 空の主

 強くなると誓った。


 少女は大きな岩がゴロゴロとしている山の斜面を登っていく。

 ただひたすら山頂を目指して。



 一昨日の夕暮れのこと。

 少女は龍を見た。

 いつものように近くの森で山ぶどうや木苺を摘んで帰る途中だった。

 森と町の間の草原を歩いていて、ふと空を見上げた。

 一面の見事なうろこ雲。

 見惚みほれつつ、今夜は雨かと考える。


 帰ったら、れて困るものは中に入れよう。

 そのためには急いで帰らないと。


 早足で歩き出す。

 遅ればせながら、違和感を覚える。

 もう一度、空を見上げた。

 さっきと変わらぬうろこ雲。

 うろこの大きさが見事にそろっている。

 綺麗きれいに揃い過ぎだった。

 よくよく目を凝らして見ると、うろこ雲に光沢があるような気がする。

 魚のうろこを霧に透かしてみたら、こんな感じではないだろうか。


 まさか、龍?


 この世界のどこかに巨大な龍がいる。

 そんな話を小さい頃、祖母から聞いた。


 まさか!


 少女は思考を振り払い、家路を急いだ。

 翌日、近所の幼い子供達を広場で遊ばせているとあの人が通りかかった。


「やあ、おはよう。今日もちびたちは元気だね」


 心臓が高鳴るのを無理やり押さえつけて挨拶あいさつを返す。


「おはようございます。いい天気ですね」

「ああ、本当にね。こんな日は仕事を放り出して木陰で昼寝をしていたいよ」


 青年はくすりと笑う。

 それだけで心臓が跳ねそうになる。

 ひとりぼっちにさせられそうになっていた少女をただ一人、助けてくれた少年。

 10年前、少女が家族と共にこの町に引っ越してきてすぐのことだ。

 その時から少女にとって少年は騎士で王子様だった。

 けれど、少女を助けたために優しい少年は傷ついた。

 だから、少年に少女は誓った。

 強くなる、と。

 いつかまた優しい少年が悲しい目に合いそうになった時、今度は自分が助けるために。

 10年経って少年は、変わらず優しく、皆から頼られる青年になった。

 小さな女の子も、凛とした美しさを帯び始めた少女となった。

 けれど、少女にはどうしたら強くなれるのかわからなかった。


「そう言えば、昨日の夕方、すごいうろこ雲が出たのに天気が崩れなかったね。あんなのが出て雨が降らなかったことは今までになかったって、年寄りたちが驚いていたよ」


 少女が小首を傾げる。


「あたしも見ましたけど、少し変な雲でしたよね?」

「変?」


 昨日のうろこ雲を見て思ったことを伝えると、青年は興味深そうに頷いた。


「へえ、それは本当に空の主、龍かもしれないね。この町の北に見える険しい山には龍が降り立つって言うしね」


 少女は目をぱちくりさせる。


「あれ、知らなかった?でも、そうか。君は外から来た人だし、ここに来た時からお話を聞く側ではなく語る側だったね」


 ちくりと少女の胸に痛みが走る。

 少女の語り部の才能こそが、かつて少女を救い、代わりに少年を傷つけた。

 少年は違うと言って、語ることをやめようとしていた少女に笑いかけた。

 それは少女の大切な力だから、捨ててはいけない。

 何より、みんなが少女のお話を好いているから。

 自分も少女のお話が好きだからやめないでほしい。

 そんな風に言われてしまっては、捨てることなどできなかった。

 あれから少女の語りはますます磨きがかかり、それが仕事のような年寄りたちよりも上手くなった。

 少女もお話をするのは好きだ。

 皆に喜んでもらえるのも嬉しい。

 でも、少年を傷つけたという思いが消えることはない。

 そんな少女の心中には気づかず、青年は町に伝わる昔話を語った。


 空に住まう巨大な龍は世界を飛び回っている。

 故に空の主と呼ばれ、この世界のことで龍の知らないことはない。

 それを信じた少年がいた。

 彼は知りたがりで、臆病者だった。

 彼は人々の語ることや書物に書いてあることが本当か知りたがり、大人たちに煙たがられていた。

 子供達にとっても、小柄でひ弱な少年は格好のいじめの対象だった。

 毎日、何かでおどされ、「臆病者」とあざけられた。

 それでも少年は年寄りから英雄の冒険譚を聞いて、憧れを募らせた。

 いつか自分もこの町を出て、世界を見に行きたいと思った。

 そして、勇気が欲しいと願った。

 でも、どうしたら勇気を得られるのかわからなかった。

 ある日、少年は空に立派なうろこ雲を見た。

 いや、よく見るとそれは空を行く龍の腹だった。

 龍は北に向かって飛んでいた。

 龍の行く先には急峻きゅうしゅんな山がそびえている。

 あの山に登れば、龍に声が届くのではないだろうか。

 そうしたら、教えてもらえるかもしれない。

 少年は急いで水筒や食料、ロープなどをカバンに詰めて家を飛び出した。

 険しい岩だらけの山を登りきって、少年は頂上に立った。

「龍よ、あなたに聞きたいことがあります」

 空に声を張り上げる。

「聞こえたならどうか教えてください。どうしたら勇気を手に入れられますか?」

 しばらく待つが空に変化はない。

 やっぱり無理かと俯く。

 その時、上からの風を感じた。

 反射的に上を向くと、そこに龍の大きな顔があった。

 金色の瞳に見つめられ立ちすくむ。

「我に問いかける者はおまえか?」

 声は耳ではなく頭の中に直接響いた。

 少年は意を決して「はい」と答える。

 龍は金色の目を細めて「では、答えよう」と言った。

「おまえはすでに勇気を持っている」

 驚いて聞き返す。

「すでに持っている?そんなわけないです。だって、あなたを前にして僕はこんなにも震えている」

 実際少年の足は震えていて、声も出なくなりそうなのを必死でこらえて話している状態だった。

「それでも、おまえは勇気を持っている。険しい道を越え、我に会いにここまで来たこと。我と向き合って逃げ出さずに立っていること。いずれも人にとっては賞賛に値する勇気ある行動だと思うが、違うか?」

 確かに龍に会って話したと人から聞かされたら、その人のことをなんと勇気のある人なのだろうと思うに違いない。

「だけど、自分に勇気があるなんて思えないよ」

 呟きがれる。

「ならば、勇気の証を与えてやろう」

 少年の前に大きなうろこが一枚降ってきた。

 うろこは落ちる途中で一振りの剣に変わる。

 差し出した手の上に降りて、見た目より軽く少年にとっては十分に重い手応えが腕に伝わる。

 剣の刀身は水晶のように透明で、刃がなかった。

「その剣は我がうろこからできている。真の勇者にしか扱えぬものだ。大切にせよ」

 それだけ言って、龍は空の彼方へと去っていった。

 町に帰った少年は誰にもどこに行って何をしてきたのか話さず、剣も大切に布に包んでベッドの下にしまいこんだ。

 龍に会う前と変わらない日々。

 けれど、時々剣を手に取り半信半疑ながらも誇らしい気持ちを胸に抱いた。

 そうして、一年が経った頃、町に凶暴で大きな魔物が現れた。

 魔物は人食いで、たちまち犠牲者が出た。

 町の人々は大人も子供もなく逃げ惑った。

 ただ一人、少年はベッドの下に隠していた剣を手に魔物へと立ち向かった。

 なぜ、そんな行動が起こせたのかわからない。

 ただみんなを守らなくてはと思ったのだ。

 鋼の剣さえ振り回したことはないのに、龍の剣は吸い付くように少年の手によく馴染んだ。

 刃のない剣はとても鋭く魔物を切りつけた。

 龍の剣は切ろうと思うものだけを切る剣だったのだ。

 夜の町に魔物の咆哮が響く。

 少年は傷だらけになりながらも、見事魔物を討ち取った。

 少年は勇者と呼ばれるようになり、初代自警団の長となった。


「めでたし、めでたし」


 そう言って青年は物語を締めくくった。

 ぱちぱちと少女は手を叩く。

 青年は照れて笑いながら頬をかく。


「やっぱり君のように上手くはいかないな」

「そんなことないですよ。ありがとうございます」


 少女の嬉しそうな顔を見て青年も嬉しそうな表情になる。


「と、そろそろ見回りを再開しないと。じゃあね」


 青年は自警団に所属していて、毎日町の見回りをしている。

 喧嘩を仲裁したり、年寄りの話し相手をしたり。

 時には自警団の仲間と盗賊を捕まえることもある。

 優しくて勇敢で強い人。

 町中の女の子の憧れの的。

 その華々しさの陰に隠れているものを少女は知っている。

 だから、広場から出て行く青年に手を振りながら、一つのことが頭の中を巡る。


 あの山に登れば、龍に会えるかもしれない。

 龍に会えれば、聞けるかもしれない。

 どうしたら、強くなれるのか。


 うろこ雲はもう見えないけれど、明日朝早く出かけようと決意する。

 次の日、まだ夜も明けきらないうちから起き出して家を出る。

 家族には「夜までには帰ります」と書置きだけしてきた。

 まだ空に残る北極星を見ながら、北を目指す。

 町を出ると放牧場が広がっている。

 話には聞いていたけれど、実際に見るのは初めてだった。

 今はまだ羊たちも小屋で眠っているのだろう。ただ柵と草地が広がっているだけの放牧場に、羊たちが気ままに草を食べている姿を思い描いてみる。


 今度ちびたちを連れて見に来よう。


 その時のことを思い浮かべてくすりと笑う。

 前方を見晴るかして、放牧場を抜けたあたりから道が徐々に荒々しいものになっているの気づく。

 気持ちを引き締める。

 登山開始だ。

 少女は大きな岩がゴロゴロとしている山の斜面を登っていく。

 ただひたすら山頂を目指して。

 転がる石に足を取られないように気をつけながら前に進む。

 道の外の草木がどんどん疎らになっていく。

 朝日が顔をのぞかせた頃、道も周囲も岩だらけになっていた。

 周囲と比べて石が細かく歩きやすくなっているため道とわかる、そんな状態だ。

 その道も程なくわからなくなってしまった。

 これより上に行く人はいないのかもしれない。

 目に入るのは岩だけで、岩に用があるのでなければ登ったところでくたびれるだけだろう。

 山の向こうに行きたいのならば、山を迂回する道があったはずだ。

 それこそ、龍に会おうと思わなければ頂上なんて目指さないに違いない。

 少女は一旦休憩することにした。

 座るのにちょうど良さそう岩を見つけて腰を下ろす。

 リュックの中から水筒とパンを取り出す。

 朝食を摂らずにここまで登ってきたので、いつもと同じパンもいつもより何倍も美味しく感じられた。

 そこから見下ろす町は、草原に囲まれたお城のようだった。

 朝日に照らされる町は柔らかな黄金の光をまとって美しかった。

 休憩の後は険しい行程が待ち構えていた。

 大人の背丈ほどもある岩が多くなり、傾斜も急になった。

 足を踏ん張るだけでは足りず、両手で岩にしがみついた。

 次第に立って歩けなくなり、両手両足を駆使して崖を登るのと大差なくなった。

 なんども足を滑らせ、その度に冷や汗が背中を伝った。

 切り立つ斜面を前にして、諦めて引き返そうかと思った。

 それでも、歯を食いしばって己を叱咤しったした。

 ただ山頂を目指して。

 それでもさすがに疲れが溜まって足が上がらなくなってきた。

 大きな段差を渾身の力で上がる。

 平なところに出て思わずリュックと体を投げ出した。

 仰向いて目を閉じ、荒い息を吐く。

 しばらくそのまま動けなかった。

 ようやく呼吸がしやすくなって目を開く。


「あっ」


 高い空の青を透かして、うっすらとひし形の模様が見える。

 龍のうろこに違いなかった。

 リュックを引き寄せ、ハンカチで汗を拭き、水筒でかれた喉を潤す。

 呼吸を整え、立ち上がる。

 先に目を向ける。

 登るべき斜面はもうなかった。

 頂上だった。

 はあ~と長い息をついた。

 もう一度空を見上げる。

 うっすらと龍のうろこが見える。

 筋雲よりも、昼間の月よりももっと淡い。

 一昨日の夕暮れよりも、もっと高いところを飛んでいるのだろう。


 ここから叫んで、果たして届くだろうか?


 可能性は限りなく低く感じられた。

 でも、ここまで来て、

 自分の上に龍がいるのをわかっていて、

 何もせず諦めることはできない。

 少女は大きく息を吸い込んだ。


「龍よ。聞こえたなら、どうか教えてください。」


「どうしたら、私は強くなれますか?」


 目を閉じ、耳を澄ます。

 龍の声を聞き逃さないように。

 随分長い時間経ったような気がして、目を開ける。

 うろこが見えなくなって、代わりに奇妙な形の雲が現れている。

 がっかりしかけて、気がついて息を飲んだ。

 奇妙な形の雲は見てる間にはっきりとした輪郭を持って、龍の顔となった。

 風が吹き下ろす。

 万年雪に峰を覆われた西の山脈から吹いてくる冷たい風と同じ風だ。

 満月のような金色の瞳が少女を見つめる。

 畏怖の念にかられ、その場にひざまずきたくなる。


「おまえか、我に問いかけるものは?」


 町を回る低い風の音のような響きが頭の中に流れ込む。

 少女は震えないようにしっかりと両手を組み合わせ、顔を上げ答える。


「はい。龍よ、教えて下さい。私はどうしたら強くなれますか?」


 少し間をおいて、龍が問い返す。


「おまえが求める『強さ』とは何だ?肉体的な意味か、武芸のことか、それとも心のことか?」


「私が求めているのは、心の強さです」


 かつて少女は恐怖に負けていじめっ子の手を取り、優しい少年を裏切って傷つけてしまった。

 少年が失踪して戻って来た朝からずっと、もう二度とそんなことにならないように強くなりたいと願っている。

 けれど、大人になったいじめっ子らと町ですれ違う度、体がこわばる。

 あのとき以来、彼らとは何もない。

 いじめなどなかったかのように普通に、特別親しいわけではない町人と同じような態度で接している。

 それでも、一度刷り込まれてしまった恐怖は簡単に拭い去れない。

 あの人はそのことを知っている。

 あの出来事が終わってその後も、一番近くにいてくれたのはやっぱりあの人だったから。

 仕方がない。大丈夫だよ。

 そう言って手を握っていてくれたから。

 そうやって握ってくれた手が微かに震えていたことを知っているから。

 その手を握り返す強さが欲しかった。


「心の強さならば、おまえはもう持っている」


 龍の言葉に驚く。


「えっ、持っている?」


「然り。この山を登るのは人にとって大変な困難だろう。足を滑らせ危うく大怪我をしそうになったり、とても越えられそうにない断崖を前にくじけそうになったりしたはずだ。しかし、おまえは心折れずにここまで登りきった。それが心の強さでなくてなんであろう?」


 確かにそうかもしれない。

 でも、そうではなくて。


「私は何があってもただ一人の味方でいられる強さが欲しいのです」


 さっきより間があった。


「それは我に教えられるものではない。我はたった一つの存在に寄り添うものではない故」


「あっ」


 答えを得られない絶望より、龍の孤独を悲しまずにはいられなかった。

 それを感じたのか、龍は言葉をなくした少女に語りかける。


「我の孤独を悲しむ必要はない。我は一つの存在に寄り添えなくとも、我は世界の一部である。一つの存在の一部でもあるのだ」


 それに、と龍は続ける。


「おまえに明確な答えを教えることはできないが、一つの真実を与えよう」


「誰かのために強くなりたいと願い続けるのも、また一つの強さである。人には、己の弱さを見つめることも、強くなければできないことなれば」


 偉大なる存在の誠意に胸が熱くなる。

 龍が遠ざかって行く。


「龍よ、待って。何かお礼を!」


 偉大なものに応えてもらったなら、対価を差し出さなければならない。

 古よりの約束と伝えられている。

 しかし、龍は遠ざかる声で言う。


「必要ない。我はおまえの一部でもある」


 それならと、少女は叫んだ。


「ありがとうございます!あなたのこと、忘れません!」


 龍が笑ったような気がした。

 きっと気のせいだろうけど。

 空を見上げたまま、どれくらい立ち尽くしていただろう。

 出会いの余韻から覚めて、ふと少女は目を瞬かせる。

 何気なく太陽の位置を見て、声を上げる。


「しまった!早く山を降りないと」


 太陽はまだ空の高い場所にあるものの、西に傾き始めている。

 半日かけて登った山を降りるには、やはり半日かかると思っていた。

 それは間違っていた。

 実際には、断崖は登るより降りる方が大変で、大回りに大回りを重ねた。

 どうしようもない時は四肢を使って急斜面を注意深く降りることになったが、体重をかけた途端足場が崩れるなんてことは両手で数えきれないほどで、行きより帰りのために手足は傷だらけになった。

 それでも、太陽と競争するように帰り道を急いだ。

 なんとか行きに休憩した場所まで戻ってこられたが、そこでタイムリミットとなってしまった。

 日が沈み、辺りが薄暗くなる。

 見下ろす先で町の家々に明かりが灯る。

 放牧場の辺りまで行けたら、夜道でも町まで帰りつくことができた。

 けれど、ここから放牧場までの道のりは明かりなしでは難しい。

 明かりがあれば足元を照らしてなんとか歩いていけただろう。


「ランプを置いてくるなんて…」


 足場の悪い場所は明るいうちに抜けられると思っていたので、荷物を少しでも軽くするためにランプを置いてきてしまったのだ。

 少女はその場にしゃがみ込んだ。

 自分の迂闊うかつさを恨みつつ、神経を研ぎ澄ませる。

 こんなところまで来るクマやオオカミはいないと思うが油断はできない。

 このまま眠らずに朝を待つ。

 それしか方法はなかった。

 空の青が深まり、星が瞬きだす。

 急激に気温が下がってきて、少女は荷物を抱えてできるだけ小さくなる。


 これ、朝まで保つのかな。


 凍え死んでしまうのではないかという言葉が頭の中を過る。

 激しく頭を振って否定する。

 そんなことになっては、あの人を助けるどころか悲しませてしまう。

 そんなことは絶対にできない。

 なんのために龍に会いに行ったのかわからないではないか。


 でも、もしも夜を越えられなかったら……。


 もう二度とあの人に会えない。

 想像してしまって、涙がにじんだ。

 想像を振り払うように頭を振り、唇を噛む。

 心を強く保たなければ越えられるものも越えられない。

 町の明かりの方をきっと睨む。

 滲む視界の中で、一つだけ明かりが揺れた。

 少女は涙を拭って、じっと目を凝らす。

 一つの明かりは確かに動いていた。

 しかも次第に近づいてくる。

 背の高い人物がランプを手に少女の方へ道をゆっくりと登ってくる。

 少女は立ち上がった。

 立ち尽くした。

 信じられなかった。

 暗くて、ランプの持ち主はシルエットしかわからない。

 それでも、その背格好、歩き方はよく知っているものだった。

 ふと、足元を照らしていたランプを持ち上げ、その人は顔を上げる。


「あ…」


 それはどちらの声だったか。

 その人は心底ほっとした表情を浮かべて、きっと眉を釣り上げる。

 再び足元に視線を落とし、大きな石に足を取られないように登ってくる。

 少女の数歩前でその人は立ち止まった。


「ばか!一人でこんな無茶をして、どれだけ心配したと思っているんだ!」


 滅多に声を荒げない青年が本気で怒っていた。

 少女は顔をくしゃくしゃにしながら、それでも涙は堪えて言った。


「ごめんなさい」


 ゆらりとランプの明かりが揺れる。

 次の瞬間、少女は青年の腕の中にいた。


「…よかった。見つけられて本当によかった」


 かすかに声が震えている。

 どれだけ心配させたのか、わかった。

 同時にどれだけ大切に思われているのかもわかった気がした。

 だからこそ、願いはより強くなる。

 強くなりたいと心から望む。


「約束、覚えていますか?私、強くなりたい。どんな時もあなたの味方でいられるように」


 だから龍に会いに行ったのだと打ち明ける。

 少女の顔をのぞき込んで青年が顔を歪める。


「やっぱりそうだったのか」


 青年の瞳が揺れている。

 ランプに照らされたその顔は少女も初めて見る弱々しいものだった。


「……ごめん」


 絞り出すように呟いた声も揺れている。

 少女は微笑みを浮かべて、問い返す。


「なぜ、謝るの?いくら謝っても足りないのはあたしの方ですよ?」


 青年は首を横に振る。


「僕があのとき世界樹の元に逃げ出さなければ、君が思い詰めることはなかった」


 今度は少女が首を振る。


「いいえ。たとえあなたが失踪しなくても、あたしはあなたを裏切ってしまったという思いを抱えていました。それに、それこそあなたがあたしを助けなければそんなことにはならなかったのです。あたしが原因なの。あたしが彼らに対抗できていたら起きなかったことだから。この町に来た時のあたしがもっと強かったら!」


 握りしめ過ぎて白くなった少女の手を青年が優しく包む。


「そうだったら、僕らはきっと、こんな風に関わることはなかったよ」

「それでも、あなたが傷つかずに済んだのだったら、その方がよかった」


 訴える少女に青年は困った顔で言った。


「僕は、いやだな」


 少女の目が大きく開かれる。


「もっと深い傷を負ったとしても、僕は君と共にある未来がいい。君にも苦悩を強いてしまうことを、本当に、心苦しく思うけれど」


「後悔しているなら、この手を離すべきなんだろうけれど」


 瞳を伏せたまま、青年は囁く。


「もうこの手を離せそうにないから、ごめん」


 言葉にならない思いが込み上げてくる。

 どうしたらいいのかわからないから、青年の手を包み返し強く握る。


「あなたが望んでくれるなら、あたしはあなたといる。どんな苦しみや辛さにも負けたりはしません」


「あなたのそばにいたい。それが、あたしの一番の望み。だから、謝らないで」


 少女は真っ直ぐに青年を見て告げる。


「言ったでしょう?どんな時も、何があってもあたしはあなたの味方です」


 今なら、信じられる。

 何があってもこの人の手を離したりはしない。


 少女は溢れる思いの名前をまだ知らない。

 けれど、その思いが自分を強くすることを感じていた。

 知らず、少女は力強い笑みを浮かべていた。

 少女の顔を見た青年は少し驚いた表情をしたかと思うと、少女の額にそっと口づけをした。

 少女は一瞬何をされたかわからなかった。

 青年の幸せそうな微笑みを見ているうちに理解が追いついて顔が熱くなる。

 きっと顔色も真っ赤になっているに違いない。

 逃げ出して隠れたい気持ちに駆られるが、場所柄そうするわけにもいかない。

 暗いのがせめてもの救いだ。

 耳の奥で鼓動が大きな音を立てている。

 頭が真っ白になって、何も考えられない。

 うろたえる少女の耳に噴き出すような声が聞こえた。

 青年を見ると、必死に笑いをこらえている。

 少女が青年のことを見ているのに気がつくと弁解するように言った。


「ごめん、ごめん。なんて言うか、その、君の反応があまりにも可愛くて」


 口を開いたせいで堪えきれなくなったのか、青年はくすくす笑い出す。

 ぽかんとして、言われたことにまた赤面して。

 でも、そのおかげで頭が働きだす。

 からかわれているような気がして、むっとする。


「……ひどい」

「あははは、ごめん、ごめん」


 青年は謝りながら笑いを収める努力をする。

 しばらく待つとなんとか笑い止んで、青年がはぁーと大きく息を吐いた。

 そして、少女のリュックを拾い上げ肩に担いだ。


「さあ、帰ろう」

「はい」


 少女は大きく頷いた。

 リュックを持ってもらったから、せめてランプを持つと申し出る。

 足元が悪いからダメと言われて、「あなたの方が両手が塞がっていて危ない」と言い返すと「日常鍛えているから、これくらいで足を取られたりはしない」と自信満々に言われてそれ以上食い下がることはできなかった。

 青年は断言した通りバランスを崩すことなく荒れ道を抜けた。

 少女の方が石に足を取られてふらつくことがしばしばだった。

 納得いかないという顔をしていると、またくすくす笑われた。

 無言で手を出すと、今度はランプをくれた。

 青年の左手が空く。

 少女はランプを、受け取った右手から左手に持ち替える。

 空いた右手で青年の左手を握る。

 驚いた表情。

 青年の少しうろたえるようなそぶりに、してやったりと溜飲りゅういんが下がる。

 照れ笑いを浮かべながら、力強く手を握り返してくれる。

 放牧場わきの道をランプで照らしながら二人で、手をつないで歩く。

 どんなに暗い道でも、こんな風に二人で歩いて行ける。

 たとえつないだ手が離れてしまっても、心で寄り添える。

 青年の横顔を見て、幸せな気持ちで胸がいっぱいになって少女はふと気がつく。


 そうか、こんなに近くにあったんだ。


 求めていた強さは、もう探さなくていい。

 龍が言っていたように、自分の中にあるのだから。

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