第4話 陽だまりの妖精

 陽だまりのように優しい声なのに、とても厳しい言葉。

 その声が青年の背中を押す。



 柔らかな朝の日差しが青年の背中に降り注ぐ。

 まだ人通りのまばらな町をゆっくりと歩いている。

 農園の収穫の手伝いがこの数日の、そしてもう数日続く青年の仕事だった。

 普段は収穫された野菜や果物を得意先の店や家庭に配達するのが仕事で、時間に追われることなく日々こなしている。

 だから、年に一度のもっとも忙しい収穫時期は少し面倒臭いと思っていた。

 今年はこの忙しさがとても有難い。

 忙しく動き回っている間は何も考えずにいられるから。

 しかし、今日はそうもいかない。


「いい天気だねー、兄さん」


 青年の隣を彼の弟が機嫌よく歩いている。

 ずっとわずらわしそうにしていたはずの妹の手をしっかりと握って。

 青年の心中を知ってか、知らずか、二人はとても楽しそうだ。

 それ自体はいいことだ。

 青年は弟妹のことを彼なりに宝のように大事に思っている。

 でも二人を見ていると、二人が世話になっている少女のことを思い出す。

 町の一角で近所の子供達の世話を任されているお話の上手な少女。


「あ、おはようございます」


 鈴の音のように綺麗きれいな声が耳に届く。

 不意を打たれて一瞬青年の動きが止まる。


「あ、お姉さん!おはようございます!」

「おはようございます!」


 弟と妹が元気に挨拶をする。

 弟達はお話の上手な少女のことを「お姉さん」と呼んでいる。


「おはよう。早いんだな」


 ぎこちない笑みを浮かべていないか心配しつつ、青年も答える。


「ええ、ちょっと用事があって。今日も農園の手伝いですか?」

「そう!今日はオレたちも手伝いに行くんだよ!」

「そうなの!怪我をしないように気をつけてね。それでは、頑張ってくださいね」


 弟たちと自分にも笑顔を向けて去っていく。

 切ない気持ちが胸を過る。

 これでも前よりずっとマシになったのだからと自分に言い聞かせる。

 七日前までは短い会話さえまともにできなかった。

 それは十年前に自分がしでかしたことのせいで自業自得だ。

 けれど、自分が遠くにやってしまったにも関わらず焦がれる気持ちは薄れるどころか年々強くなる一方で。


 もう決して届くことはないのにな。


 自嘲せずにはいられない。

 ふと視線に気づいて目線を下げる。

 弟の複雑そうな表情を見つけた。


「なんだ?」

「別に」


 ふいっと視線を外す。


「それより早く行こう!」


 再び顔を上げた弟はニカッと笑った。

 弟の笑顔を青年はまぶしく思う。

 弟妹と三人で並んで歩くのは実に久しぶりだった。

 正確には、以前の妹は青年の背中におぶさっていたのだが。

 いつの間にか妹はそれなりの距離を歩けるようになっていた。

 弟が青年に反発するようになってからそれくらいの時間が経っていた。

 弟が自分に反発心を抱いた原因はよくわからない。

 ただ、自分にも身に覚えのあることではあった。

 一時というには少々長い時間、家族に対して無性に腹が立って仕方がなかった。

 今ならその理由がなんとなくわかるが、当時は全くわからなかった。

 だから、弟も同じだろうと思っていた。

 父と母にはうまく猫をかぶっていたものの自分に反発するだけでなく、妹の面倒は仕方なく見ているという様子がありありと出ていたから。

 同じならもうしばらくすれば少しずつ落ち着いてくるだろうと。

 もうしばらくの先は予想以上に早くやってきた。

 七日ほど前から弟の様子は変わった。

 自分とあの二人の関係が少しだけ柔らかくなったのと同じ日。

 季節外れの激しいにわか雨の後だ。

 見事にひるがえった。

 激しい雨がわだかまりをも洗い流して、反抗期を終わらせたようだった。

 それ以来、弟は反抗期に入る前の明るさを取り戻した。

 あまりに無邪気に明るく笑うので幼子に戻ったのではないかと思ってしまうほど。

 でも時々目に深い色を宿すこともあって、やはり彼は少し大人になったのだと知らされるのだった。

 今日も、自分から農園の手伝いをしたいと言い出した。


「どれくらい役に立つかわからないし、こいつがいるから逆に邪魔にしかならないかもしれないけれど」


 そんなことも付け足して。

 自分が行くなら妹も一緒に行くのだと当たり前のように。

 遊び盛りの少年がそんなことを言うものだから、青年は驚いた。

 それを聞いた母もたいそう驚いていたが、嬉しそうに頷いた。

 あの雨の日に一体何があったのだろう。

 尋ねてみたら、


「とても大切なことを思い知らされたんだ。友達のおかげでね」


 それだけで詳しいことは笑って話してくれなかった。

 それだけのことがとても大人びて見えて青年は焦りを感じてしまう。

 日ごとに焦燥感が募る。

 弟のことだけではない。

 青年にとって特別な少女と自警団の青年のことがずっと心に引っかかっている。

 十年前からそうだった。

 けれど、最近になってついに二人が婚約して結婚する日が近づいてくると心の引っかかりは今まで以上に存在感を放って、理由のはっきりしない焦りを生み出した。

 二人との関係が少しマシなものになってもそれは変わらなかった。

 そのせいで農園でも気がつくとぼんやり手を止めてしまっていたりする。

 農園の管理人の双子の娘に怒られることもしばしばだった。

 だから、林檎の収穫をしながら弟が何気なく口にした言葉にすぐに反応できなかったのだ。


「兄さんは、あの人のことが好きなの?」


 妹は母の元にいてここにはいなく、近くに聞き耳を立てているような人もいない。

 兄弟二人きりの状況を選んで、弟は切り出してきたのだろう。

 一瞬動きを止めてしまったが、何気なさを装って青年は聞き返す。


「あの人って?」

「決まってるだろ。とぼけないでよ」


 溜息が含まれていそうな声で弟が言う。

 青年はただ沈黙して弟の顔を振り返りもしない。


「オレはお姉さんのこと好きだよ。いや、好きだった、かな。友達や家族とは違う意味で」


 弟が隠していた思いを兄に告白する。

 青年は驚きとささやかな嫉妬しっとでまた手が止まりそうになる。


「でも、もういいんだ。なんか納得できたから。今は、姉さんがいたらこんな感じかなって、そういう風に好きだと思う」


 だから、と弟は続ける。


「二人のこと、心から祝ってあげられるよ」


 自分の弟はいつの間に自分を追い越して大人になってしまったのだろうか。

 そんな考えが青年の頭をかすめる。

 自分はみっともないくらいどうしたらよいかわからずうろたえているというのに、弟は自分の気持ちにちゃんと決着をつけている。


「だから、今のうちにちゃんとはっきりさせないと後悔するよ。オレは兄さんの後悔する姿を見たくない」


 きっぱりとした口調で言う。

 見なくてもわかる。

 今、弟は澄んだまっすぐな瞳で自分のことを見ている。

 真摯な気持ちを自分に向けてくれている。

 それはあの二人と同じもので、多分自分にはないもので。

 そんな綺麗なものは薄汚れた自分にはとても直視できない。

 ひょっとしたらこれを言うために手伝いを言い出したのかもしれないと思えてくる。

 青年は無意識に口を開きかける。

 その時、林檎園の端から元気な声が聞こえてきた。


「にいちゃんたちー、おかあさんたちがきゅうけいにしよーってー!」


 振り返ると妹の姿が見えた。


「今行くよー!」


 弟が叫び返す。


「だってさ。行こう、兄さん」

「おう」


 さっきまでの会話がなかったかのように「おやつ何かなあ?何だと思う?」なんて楽しそうに弟が話す。

 話が終わったことで青年は内心でほっとし、また焦りを感じてしまう。

 弟はいつの間にこう言う切り替えができるようになったのだろうと。

 休憩のお茶菓子は甘い焼き菓子だった。

 管理人の奥さんと双子が焼いたのだと言う。

 程よくお腹も満たされ昼食までまた頑張ろうと、皆がやる気を取り戻して再び農園に散っていった。

 今度は弟も妹と一緒に母のところに行った。

 青年は一人で林檎園に戻り、収穫を再開する。

 悶々もんもんとしている時は一人で何かに没頭するに限る。

 けれど、こういう時に決まって訪れる者がいる。


「こんにちは。今日もお日様が気持ちいいわね」


 近くの葉の上にキラキラと光るものが乗っている。

 青年は横目でチラリと見ただけで作業を続ける。


「あ、ひどい。あいさつしたのに返さないって大人としてどうかと思うわ」


 それは葉の上で仁王立ちになって憤慨する。

 青年は溜息混じりに答える。


「こんにちは」


 それだけで満足したのか日の当たる葉の上に腰掛ける。

 足をぶらぶらさせながら歌を歌い始める。

 小鳥が数羽飛んできて、それの歌に合わせてさえずり出す。

 それがいる時、小鳥たちは青年が近くで作業をしていても気にしない。

 美しい旋律が木々の間に留まり、その辺りを輝かせているようだ。

 歌を聴いている間、青年も悩みから解放される。

 自分の悩みなんてとてもちっぽけなものに感じられる。

 けれど、歌が終わるとまた悩みが戻ってくる。

 歌を聴く前よりも深く悩みに沈む。

 そんなちっぽけなものをいつまでも引きずって解決できずにいる自分の小ささに嫌悪してしまう。

 だから、青年はその歌が好きで、嫌いだ。

 歌が終わり、小鳥たちがどこかへと飛び去っていった。

 自己嫌悪に陥る前に青年は口を開いた。

 ずっと無視するように黙っていたが、どうしても聞きたいことがあった。


「なんでいつも、俺のところに来て歌うんだ?」


 どうしても怒ったような口調になる。

 自分でも八つ当たりだとわかっているので、また自分が嫌いになる。

 それは気にした風もなく小首を傾げて答える。


「あなたに必要そうだからよ」


 青年は苛立ちを感じながら言い返す。


「必要そうって言うんなら、俺よりも必要そうな奴がいるだろう。だいたい天使ならもっといい奴のところに行け!」


 それがキョトンと不思議そうな顔をする。


「天使?私が?なんでそう思うの?」


 青年も意表を突かれて、口ごもる。


「……そんな真っ白な翼をしているから。違うのか?」


 思い切り呆れた顔をされた。


「どうしてこう、人って見た目で判断するのかしら。天使は天の使い。つまり、神様の使いでしょ。私は妖精。神様の使いなんかじゃなくて、地上で自由気ままに生きる妖精よ」


 改めて自称妖精を見る。

 日光を浴びてキラキラ光っているので細部はよく見えないが、不思議な文様の入ったワンピースを着た少女と言った見た目だ。

 真っ白な雁のような翼は純粋無垢の象徴のようにも見えるが、確かに神の使いのような神々しさはない。


「……気ままな妖精ならなおのこと、何で俺のところに来るんだよ」

「見ていられないのよ、あなた。何でそんなに素直になれないのかしら」

「余計なお世話だ」


 吐き捨てるように言って、それっきり妖精を無視して作業に没頭する。

 小さな溜息が聞こえた。


「また来るわ。あなたは嫌がるかもしれないけれど」


 聞こえないふりをしていたが、少し経ってやっぱり振り返る。

 妖精は去って行った後だった。

 また来ると言ったのだから、おそらくまた明日来るのだろう。

 青年が今年の収穫の手伝いを始めてから毎日、妖精は青年が作業をしているところに現れる。

 良い天気も続いていて、キラキラと光っていない妖精は見たことがない。

 青年はまだそこに妖精がいるかのように眼を細める。

 怒らせてしまったかもしれないと思った。

 初めてまともに話しかけたのに、突っかかってしまった。

 本当はそんなつもりはなかったのに、どうしてもうまくできない。

 あいつのように優しくできたらと思うのに。

 けれど妖精はまた来ると言ってくれたから、ほっとした。

 歌の後は激しく落ち込んでしまうけれど妖精は歌わない時もあって、

 ただ葉の上で何も言わずに気持ちよさそうに日光を浴びていることもあって、

 青年には話しかけずに小鳥たちと話していることもあって、

 でも、そうやって近くにいるだけで少し満たされた気持ちになる。

 焦りや苛立ちが鳴りを潜め、穏やかな気持ちになれる。

 だから、今はまだいなくならないで欲しかった。


 あと三日。

 無意識のうちにカウントダウンをしている。

 ゼロの日が来たら、きっともう失ったものは失ったままになる。

 わかっているのに動けない臆病者の自分が腹立たしい。

 腹立たしいけれど、やっぱり動けないままで。

 同じ思いが堂々巡りを続けている。


「あー!また手が止まってる!」


 甲高い声が頭に刺さる。

 双子の妹の方の声だ。

 首を巡らせると、木の下に双子がいた。

 姉の方が籐のバスケットを手に提げている。


「差し入れを持ってきました」


 姉の方がバスケットを持ち上げて微笑む。


「いいよ、姉さん。一番忙しい時期が終わったのに自主的に手伝いに来てくれて感心していたけれど、手が止まっているならいないのと一緒だもの。差し入れなんていらないよ」


 妹が手厳しく姉に進言する。


「まあまあ。お腹が空いて、思わず手が止まっちゃったのかもしれないし」

「え~。そうは思えないけれど」


 双子は青年より三つ年下だ。

 穏やかな姉は年上ということで青年に敬語を使うが、気の強い妹は気にせず同い年の子と話すように話しかけてくる。

 農園に来ると何かと寄ってくるので、多分懐かれているのだろう。

 青年は七年くらい前まで友達と散々悪さをして回ったので町の人たちには未だに煙たがられている。

 農園の手伝いに駆り出されるようになって少しずつ落ち着いて行ったが、町人のその感情は簡単に消えることはない。

 仕方がない。

 それほどのことをしたのだから。

 壁に落書きをし、猫や鳩に石を投げ、道の真ん中にゴミをぶちまけ、鉢植えを割り。

 主に町の中央付近で悪さをしていたが、町の端にも悪ガキの評判は届いていただろう。

 しかし、農園の管理人の一家はまだ少年だった青年をごく普通に受け入れた。

 初めは反発を覚えたが、両親の手前おとなしくしていた。

 特に双子にはあの子の二の舞にしないように、近寄らないようにしていた。

 けれど、双子はなぜか少年を構いたがった。

 しばらくしてある日突然、それがどんなに有難いことかわかった。

 ちょっと刃物で指を切っただけで、たまたま近くにいた双子が大騒ぎしたのだ。

 心配でどうしたらいいかわからないという感じで。

 騒ぎを聞きつけた大人たちが駆けつけて、怪我を見ると「なんだ」と安堵した表情を浮かべた。

 救急箱を持ってきて、消毒をして止血のために包帯を巻いた。

 その横で大騒ぎしすぎだと双子は怒られていた。

 しばらくはことあるごとに「痛くない?」と聞いてきた。

 鬱陶うっとうしいと初めは思った。

 同時にそんな風に心配してくれることを自分がどれだけ嬉しく感じていたか。

 少年は少し後になって気がついた。

 気がついたからと言ってすぐに態度を変えられはしなかった。

 それでもちょっとずつ攻撃的にならずに済むようになった。

 味方を得たのだと思った時、あの子とあの子のそばに居続けた憎い少年にどんな思いを味わわせたのかを悟った。

 味方だと思える人がいないことの、悲しさと辛さ。

 味方だと思える人ができて、それまで自分がそのような悲しさや辛さを抱えていたことに気づかされた。

 無意識に同じ思いをさせようとしていたのだと理解した。

 そして、自分が願った通り二人に、特に少年に同じ辛さを味わわせた。

 彼は一晩行方不明になった。

 当時それをきっかけに攻撃をやめたのは、友達がやめた方がいいと言ったからだ。

 これ以上は大人が出張ってくるほどの大事になってしまう。

 それは避けた方がいいと。

 腰抜けめと陰で悪態をついたものだが、友達の判断は正しかった。

 少年は再び少女と一緒にいるようになったが、自分の姿を見るだけでびくりと肩を揺らすようになっていた。

 いい気味だという思いと苛立ちが半々。

 けれど、気づいたら目をそらすのは自分の方だった。

 近寄り難く感じているのは自分もだった。

 そう思った理由も、大人になった青年にはわかっている。

 眩しかったのだ。

 あんなに怯えているくせに決してその手を離さないという決意。

 友達に裏切られたはずなのに、疑心暗鬼にならずに澄んだままの瞳。

 恐れてはいても憎しみのない心。

 綺麗すぎてまっすぐに見返すことができなかった。

 自分は母と兄が弟の方へ行ってしまっただけで怒りに満たされてしまったのに。

 原因である弟に怒りをぶつけられなくて、他の誰かにそれをぶつけずにはいられなかったのに。

 なんて小さくて、弱くて、醜い。

 それを知られるのが怖くて、つい自分を強く見せようとして他人を脅すような格好になる。

 双子に対しても同じだったはずだ。

 実際初めの頃は少し怖がっていたと思う。

 いつの間にか根負けして態度を改めさせられたのは自分の方だった。

 少しずつでも前進できているのはきっとこの双子のおかげなのだろう。


「ありがとう」


 礼を言いながら差し入れのバスケットを受け取る。

 姉の方が嬉しそうににっこりと笑う。


「今日は甘さ控えめのスコーンを焼いてみました。甘いの、苦手でしょう?」

「そうだが、言ったことあったか?」

「いいえ。でも、この前みんなで休憩していた時、甘いジャムのクッキーを難しい顔しながら食べていましたよ」

「う、見られていたのか。悪いな」

「気にしないでください。というか言ってくれれば甘くないのも用意したのに」

「いや、親父も兄貴もあれで甘党だからさ」

「あなたに遠慮は似合わないと思います」


 おとなしい顔をして意外と言うんだよな。


 木の下に座ってスコーンを頬張る。

 いい具合に甘くなくて青年の好みに合っていた。


「うん、うまい。俺はこれぐらいが好きだ」

「よかった」


 少し頬を赤くして姉が呟く。


「て、あれ?」


 キョロキョロと周囲を見回す。

 青年もいつの間にか妹の方がいなくなっていることに気がつく。


「もう!置いていったわね」


 バスケットは帰りに収穫した果物と一緒に持ってきてくれればいいからと言い残して双子の姉も戻っていった。

 熱い紅茶をゆっくりと口に含む。


 双子に、特に姉の方と話すように、あの少女と話せたら。


 林檎の木の間から見える高い青空を見上げた。


 あと二日。

 考えないようにしながら、収穫作業に没頭しようとする。

 すると、いつものようにキラキラと光るものが視界の隅をかすめる。


「こんにちは」

「こんにちは」


 挨拶だけ返してそれきり黙り込む。

 初めてほんの少し会話をした時以来、まともに話していない。

 妖精は毎日来ていて、青年の近くで気ままに歌ったり踊ってみたりしている。

 怒っている様子はないのだが、自分から声を掛ける気にはなれない。

 また、八つ当たりをしてしまいそうで。

 なんとなく、妖精はそんな青年の気持ちに気づいている気がする。

 けれど、何も言ってこない。

 言ってくれない。

 待っているのに、なんて感情も見て見ぬ振りで作業に集中する。

 そのうちに妖精がふわりと飛び立つのが目の端に映る。

 はっとして、作業を中断し思わず手を伸ばす。


「待てよ。なんで何も言ってくれないんだ」


 なんて情けない声なんだと思わずにはいられない。

 まるで迷子の子供のようだ。

 空中で停止した妖精がゆっくりと振り返る。


「あなたが何も言わないからよ」


 突き放すように言いながら妖精は今までで一番近い距離、伸ばした手の上に降り立った。

 手の先は木陰の中で、陰の中なのに妖精は陽だまりの中にいるのと変わらずキラキラと光っている。

 ずっと太陽の光を受けて光っているのだと思っていたが、本当は妖精自身が光を振りまいていたのだと知った。

 手のひらに乗った妖精はまるで重さが感じられず、触れている感覚さえない。

 ただ、日向にいるような温かさだけが伝わってくる。

 気がつくと、涙があふれていた。

 わけがわからないと思いながらも、涙は止めどなく流れていく。

 片手で涙を拭う。

 今までずっと胸の奥に封じ込めていた言葉が溢れる。


「どうしたらいいかわからないんだ。大切にしたかったのにひどい八つ当たりをして傷つけた。それに気づいたのは傷つけた何年も後で、俺を見て怯える彼女に今更なんて言って謝ればいい?謝れず、近づくこともできないのにどうしてこの気持ちを伝えることができる?!」


「こんなに醜い俺がどうして綺麗な彼女に手を伸ばせる?傷ついても綺麗なままのあいつと一緒にいるのが彼女の幸せだとわかってしまっているのに!」


 妖精は手のひらの上で黙って聞いていた。

 青年が溜め込んでいた思いを全部吐き出すのを待っているようだった。

 かつて抱いていた不満、劣等感、そして後悔。

 まるで神に懺悔するように。


「どうして俺はこんな、どうしようもない人間なんだ」


 妖精が一瞬目を閉じ、開いた瞳で青年をまっすぐに見つめる。


「自分でどうしようもない人間だなんて言える人は、どうしようもない人間なんかじゃないわ。本当に救いようのない人は自分がダメだとは絶対に思わない人だもの」


 青年は目を見開く。


「だから、あなたは大丈夫。その図体に似合わず臆病なだけ。不器用なだけ」


 妖精が優しく微笑む。


「それでも、願いがあるなら自分で手を伸ばさなきゃ。だって、あなたの本当の願いを知るのはあなただけ。誰かに話したところで細かいところまでちゃんと伝えることなどできない。誰かに自分の願いを正しく叶えてもらうことは不可能なの」


 だから、と陽だまりのような優しい声で言う。


「何かを変えたかったら、逃げちゃダメよ」


 いつしか涙は止まっていて、

 それを見て取った妖精はふわりと手の中から飛び立つ。


「さようなら」


 今まで言ったことのない別れの挨拶を残して妖精は去って行った。


 何も手につかなくて、ぶらぶらとそこら中を歩き回る。

 できるだけ人気のない場所を選んでいるのは、今は誰にも声をかけられたくないから。

 今朝、急に父から休みを言い渡された。

 曰く、総出の収穫から十日以上毎日農園に通って働きすぎだと。

 農園でもずっと動きっぱなしではないから大丈夫だと言ったが却下された。

 おかげで一日ぽっかりと空いてしまった。

 何をしようかと考えて、休みだからずっと部屋で寝ていようかとしばらくはベッドでゴロゴロしていた。

 どうしても落ち着かなくてとりあえず家を出た。

 弟たちの相手をしてやることや町の図書館に行って書物を読みふけることも考えたが、いまいち気が乗らない。

 そもそも仕事以外のことが手につくはずがないのだ。

 なぜなら、タイムリミットはもう明日なのだから。

 いつの間にか、町を抜けて東の大川の河原を歩いていた。

 魚が上がってくる季節ではないので釣り人の姿はなく、子供らが川遊びに興じる季節でもない。

 水の音だけが静かに響く。

 川にせり出すように生えている大木が見えてきた。

 青年がまだ子供だった頃、お気に入りだった場所。

 無意識にそこに足が向いたようだった。

 久しぶりに行ってみるのもいいかと、そのまま歩いていく。

 突然足が止まった。

 木の幹に寄りかかって川を眺める人影に気づいたのだ。

 それも、今一番会いたいような、会いたくないような気がする人だった。

 片足を引きかける。

 向こうが気づかないうちに踵を返して去ってしまいたい衝動にかられる。

 その時、妖精の声が頭にこだました。


「何かを変えたかったら、逃げちゃダメよ」


 陽だまりのように優しい声なのに、とても厳しい言葉。

 その声が青年の背中を押す。


「どうしてこんなところにいるんだ?」


 少女が水面から顔を上げる。

 驚いた表情、それから微笑。


「さあ、なんとなく。あなたこそ、どうしてここに?」

「俺は……、急に休みをもらって。やることがなくて適当に歩いていたら、小さい頃の気に入りの場所にたどり着いたというか……」


 目を合わせられずしどろもどろに答える。


「小さい頃のお気に入りの場所?この木が?」

「ああ」

「それなら、邪魔してしまいましたね。今、どきますから」

「いやいい、そのままいていいから」


 少女が首を傾げる。

 その仕草が可愛くて鼓動が早くなる。


「どうしたんですか?」

「いや、その。ちょっとそのまま待ってくれ」


 少女に背中を向けて深呼吸する。

 変に思われていも構わない。

 もともと関係は良好ではないのだから。

 最悪の時は過ぎているのだから。


 妖精、お前の光を少しだけ分けてくれ。

 この心が迷うことなくまっすぐ言葉になるように。

 彼女の心にまっすぐに届くように。


 妖精が乗った手のひらにささやかな熱を感じた。

 まるで妖精に「大丈夫」と言われたよう。

 青年は振り返り少女を正面から見つめた。


「あの時のことをずっと謝りたかったんだ。すまなかった」


 深く頭を下げたので少女が今どんな表情をしているのかわからない。

 ただ息を飲む気配だけを感じた。

 とても長い一呼吸を置いて、少女の囁くような声が聞こえた。


「顔を、上げてください」


 恐る恐る顔を上げると、少女の表情のない顔が目に映った。

 当然だ。

 彼女にとっては思い出したくもないことを掘り返しているのだから。

 許して欲しいと全く思っていないと言えば嘘になるが、

 それよりも伝えなければならないと思っていた。

 過去はやり直せないけれど、未来のために必要なことだと思うから。

 少女が大きく息を吸う。

 罵倒されるのかと身構えるが、少女は黙って数歩の距離を詰めて片手を上げた。

 パアァン。

 小気味良い音が響いて、左の頬が熱くなる。

 青年はあまりの意外さに驚き硬直していた。

 少女は平手打ちした右手を左手で包んで、青年をまっすぐに見た。


「これでチャラにしてあげます。だって、あれは私の弱さが招いたことでもあるんですから」


 にこりと微笑みを浮かべて少女は付け足す。


「だから、これはあの人を傷つけたことへの報復です」


 あっけにとられていた青年も苦笑のような笑みを浮かべる。


「そうか」

「でも、このことはあの人には内緒にしておいてください。きっとあの人は報復なんて望まないですから」

「そうだな。あいつはそういう奴だ」

「はい。とても綺麗で、強くて。でも、本当は脆いところもある。だから、私があの人を守りたい」


 青年は目を丸くする。


「脆い?あいつが?」


 少女は優しく頷く。


「はい。あなただって本当は知っているはずです」


 少女が何を指しているのか気がついた。

 同時になぜそれほどまでに彼を憎らしいと思っていたかを理解した。

 純粋な強者だったら、幼い少年は憧れ追いかけようとするだろう。

 そうではなかったから、幼い自分は苛立ち憎んだ。

 弱い部分があるにも関わらず逃げずにいたから、その勇敢さがうらやましかったから。

 彼も逃げ出さずにはいられないところまで追い込んで、清々したと思った。

 わかったから頷いて、宣言する。


「でも、あいつには謝らないぞ」

「え、どうして?私には謝ってくれたのに?」

「あいつは俺が大切にしたかったものをさらっていったからな」

「大切にしたかったもの?」


 少女が疑問符を浮かべる。

 それはそうだろうと青年は思う。

 逆だったら、自分だって驚くに決まっている。


「あんたが好きだ」


 少女は理解できなかったように一瞬眉を寄せ、続いて目を見開き、頰を紅潮させた。


「あの時、本当はあんたと仲良くなりたかったんだ。ただ、弟が生まれたり色々あって鬱憤がたまっていて、八つ当たりしちまった。これが俺の本当だ」


 そう、と消え入りそうな声で少女が答える。


「ありがとう。私はあなたの手は取れないけれど、あなたに私よりも素敵な人が現れますように」


 ああ、十分だ。


 青年は心から笑った。

 思いは届いた。


「ありがとう。あんたも幸せになってくれ。ついでにあいつも」


 少女はくすりと笑った。


「明日の式に、来てくれますか?」

「おう。弟たちも連れて祝いに行ってやる」

「ありがとうございます。それじゃあ、私そろそろ行かないと」


 また明日と少女は帰って行った。

 清々しい気分と一抹の切なさとともに少女を見送る。


「さて、俺も行くか」


 川原を後にして町に戻り、南へと向きを変える。


「あれ?今日はお休みだって聞きましたけど」


 農園に着いて初めに顔を合わせたのは双子の姉だった。


「ああ、仕事に来たんじゃない。ちょっと、頼みたいことがあって」


 双子の姉に頼み事の内容を伝える。


「できるだろうか?」


 彼女はとても優しく微笑んだ。

 こんなに綺麗だっただろうかと目を見張るほど。


「ええ、大丈夫だと思います。父に相談に行きましょう」


 二人で農園管理者の元へ行く。

 事情を話すと双子の父は快く頼みを聞き入れてくれた。

 そのまま段取りを決めて、お礼に少し手伝ってから帰るというと固く断られた。


「お前の父親に、もし今日来たら追い返すようにと言われているからな」


 農園管理者は快活に笑った。

 青年は肩を竦めて、「それなら明後日来ます」と言うとそれには嬉しそうに頷いた。

 帰路に着く前に、林檎園に立ち寄る。

 ゆっくりと歩きながら妖精が出てこないかと期待する。

 一周しても妖精は気配も感じられなかった。

 明後日には会えるだろうと思い直し、青年は家路に着いた。


 その日は一段と青空が高く明るく澄み渡っていた。

 大切な人の門出を祝うには最高の日和。

 町中が朝からそわそわと何かを待ち受けているような落ち着かない空気を漂わせていた。

 太陽が一番高い位置に差し掛かった頃、町でたった一つの小さな聖堂の前に少なくない数の人々が集まっていた。

 聖堂の鐘が厳かに鳴り響く。

 聖堂の扉がゆっくりと開いて、一組の男女が現れる。

 集まっていた人々が割れんばかりの拍手を二人に浴びせる。

 二人は顔を見合わせ、人々に向かって深々と頭を下げ、

 手をつなぎ合わせてゆっくりと聖堂から出てくる。

 歩く二人の上に黄色い雨が降り注ぐ。

 驚いた二人がそれを手に受ける。

 それは甘い香りを漂わせる小さな黄色い花だった。

 花の少ないこの季節に咲く、数少ない花の中でも一番香りが良く一番小さい花。

 さぞ集めるのは大変だったろうにと礼を言うべく二人は花を降らせる主を探す。

 見つけた。

 二人のよく知る青年とその弟妹、その隣によく似た顔の少女が二人。

 人垣の後ろにいる彼らに直接声をかけに行くのは難しそうだったので、二人は笑顔で手を振った。


「よかったね」


 弟が手を振り返しながら青年に言う。


「何が?」


 とぼけつつ青年も片手を上げて二人に応える。


「本当によかったんですか?」


 青年が振り向くと、双子の姉が少し怒っているような顔をしている。

 実に珍しいことだ。

 何か怒らせるようなことをしただろうかと考えてみるが思い当たる節はない。

 どうやら自分の気持ちに気づいていたらしい問いかけに答える。


「いいんだ。俺も今、すごく嬉しいから。まあ、ちょっと複雑な気持ちもあるけど問題ない」

「それならいいですが」


 昨日は笑ってくれたのにどうしたことだろうと困っていると、双子の妹がニヤニヤ笑いを浮かべた。


「気にしなくていいよ。ただヤキモチを焼いているだけだから」

「なっ!違います。もう、帰るよ。父さんたちを手伝わなくちゃ!」


 顔を真っ赤にして妹の背をぐいぐい押す。


「それじゃあ、またあしたぁ」


 妹が言って一歩前に踏み出すと、姉が前につんのめった。

 青年がこけないように腕を掴んで支える。

 一瞬固くなって、小さな声で「ありがとうございます」と言うとそそくさと行ってしまった。

 なんなんだと青年が首をひねっていると、弟がわけ知り顔で頷いた。


「兄さんの次の春はすぐ近くかもね」


 翌日、約束通り農園に手伝いに行った。

 いつも出迎えてくれる双子はなぜか現れず、首を傾げながら林檎園に向かう。

 一人で作業をする。

 さわりと木の葉が鳴るたびに妖精が来たのではないかと振り向く。

 何度も何度も振り向いて、その度に期待が外れてがっかりする。

 青年はお礼を言いたかったのだ。

 ギリギリ間に合ったのは妖精が背中を押してくれたからだと思うから。

 何回目かの落胆の後、妖精はもう自分のところには来ないのだと急に悟った。

 最後に初めて言った「さようなら」はそういう意味なのだと。

 寂しさと、お礼くらい言わせろという小さな怒りを感じ、

 それ以上の大きな感謝を胸に抱いて空に向かって囁く。


「ありがとう、妖精」


 ここから自分にとっても新しい、きっと昔の自分が見たら輝いて見える毎日が始まる。

 そう信じられる。

 妖精がくれた光が手のひらに感じられるから。

 ふと虫の知らせのようなものに突き動かされて木の下に目をやる。

 双子の姉が一人で籐籠を持って立っている。

 俯きどう声をかけようか迷っている様子で、こちらが気づいたことに気づいていない。

 青年は胸が温かくなるのを感じた。

 思わず笑みがこぼれる。

 青年は気づかれないようにそっと木を降りて行った。

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