第5話 秘密の友達

「大丈夫。あんたはちゃんと前進しているよ」


 その言葉をお守りのように胸の内で握りしめる。



 心地よい秋の昼下がり。

 日差しがふんだんに入る明るい台所で少女は作業をしている。

 秤に小ぶりのボールを乗せ、振れる針をじっと見つめる。

 手に持った紙袋をそろそろと傾けて中身をボールの中へと注ぐ。

 小麦粉を計り、器を変えて砂糖を計り。

 バターにベーキングパウダー、牛乳。

 用意された器が次々と埋まっていく。

 いつもは母と双子の妹と三人で台所に立つが、今回は一人だけだ。

 たくさん作る必要がない、そもそも作る予定もなかったから。

 少女の家は農園の管理を担っている。

 収穫の時期には農園の経営者一家や他にもたくさんの人が手伝いに来る。

 そんな時に、母はお菓子をたくさん焼く。

 小さい頃から自分と双子の妹もそれを手伝っていた。

 今では一人でも大抵の焼き菓子を作れるようになっている。

 今年の収穫期は、母と分担して数種類のお菓子を焼いた日もある。

 そんな今年の収穫期はもう終わった。

 いつもの人数で人出が足りるようになっている。

 けれど、一人だけ手伝いに来てくれる人がいる。

 農園経営者の次男で、三つ年上の青年。

 今日も手伝いに来てくれた彼に差し入れをしようと思い立ったのだ。

 彼が自主的に手伝いに来るのは今までになかったことだ。

 彼の中で、何かが少し変わった。

 少女が最初にそう感じたのは季節外れの雷雨の次の日だった。

 雷が鳴り土砂降りの雨が降ったその日。

 雨が降り始めて早々に、農園の作業は中止された。

 経営者夫婦は片付けに残って、青年は先に帰って行った。

 弟の具合が悪いようだと言っていた。

 だけど、すぐに戻ってきた。

 弟と妹がいなくなったと言って、血相を変えて。

 いつも仏頂面をしている彼にはとても珍しい。

 それだけ弟妹のことが大切なのだとわかる。

 兄弟が大切なのは当たり前だ。

 自分だって、妹がいなくなってしまったら必死で探すだろう。

 すぐにやってしまわなければならない作業をしている者だけ残して、みんなで探しに出た。

 雷雨が止んですぐに二人は見つかった。

 街の中央にある時計塔の中で雨宿りをしていたらしい。

 彼らの父親が探しに出てくれた者に見つかったことと、お礼を伝えて回った。

 見つけたのは青年で、弟妹を連れて帰り世話を焼いていると聞いた。

 ちょっと想像できなくて、妹と二人で笑った。

 次の日、いつも通り収穫に来てくれた青年は少し雰囲気が柔らかくなっているように思われた。

 気のせいかとも思ったけれど、次の日もその次の日もその感じは続いて。

 きっと何かあったのだろうと思った。

 何かとても良いこと。

 冷え切った青年の心をほんのり温かくするくらいの。

 気になるけど、聞けない。

 強がっているけれど、本当は傷つきやすいことを知っている。

 溜息をついて、少女は意識を切り替える。

 ここからは集中しないと失敗してしまう。

 小麦粉などを大きいボールに移して、少しずつ牛乳を足しながら混ぜる。

 玉になってしまわないように細心の注意を払いつつ手を動かす。

 大方まとまったところで、ローストされたクルミを細かく砕いて入れる。

 ムラなく混ぜたら、小麦粉をふってくっつかないようにしたまな板の上で平らに伸ばす。

 金属の型で切り取って、鉄板の上に並べていく。

 できたらオーブンの中に入れて、火とにらめっこだ。

 強くなりすぎて焦げないように、弱くなって生焼けにならないように。

 この加減が少女は上手いらしく、母の自慢だった。


「お、やってるね。今日はなぁに?」


 妹がひょっこり顔を出す。


「今日はクルミのスコーンだよ」


 途端に妹の顔にニヤニヤ笑いが浮かぶ。


「あっまいジャムのクッキー、しかめ面で食べてたもんね。甘さ控えめのクルミのスコーンならきっと喜ぶよ」


 誰も甘さ控えめだとは言っていないのにバレてしまっている。


「別にそういうつもりじゃ」

「隠したって無駄だって。双子なんだからわかっちゃうのよ。いや、姉さんのは双子でなくてもわかるかな」


 反論しようと口を開きかけるが、切っ先を制された。


「あ、ほらほら。オーブン見ないと、焦げちゃうよ」


 言われて火から目を離してしまっていたことに気づいて、慌ててオーブンの中を見る。

 幸い焦げてはいないようだ。

 オーブンの中の熱が高いように感じて、少し火力を落とす。

 そうして振り返ると、妹はもういない。


「もう、言うだけ言って!」


 双子だけど、妹と自分は随分と違う。

 見た目は間違えられるほど似ているけれど、性格は正反対ではないかと思う。

 自分はいわゆるおとなしい子で、妹は活発な子。

 小さい頃は二人ともおとなしいと活発の中間で大差なかった。

 考えていることも感じていることも同じで、一心同体だった。

 いつからだろう。

 違ってきてしまったのは。

 何かしようと思う時、ためらっていつも一歩引いてしまう自分。

 物怖じしない妹が羨ましい。


「よし、もういいかな」


 火を消して、少し冷めるのを待って取り出す。

 香ばしい香りが台所いっぱいに広がる。

 焼け色もきれいについていて美味しそうだ。

 一つ、つまみあげる。

 息を吹きかけて冷まし、ひと口かじる。

 サクッと軽い食感、時々あるクルミの歯応えと香ばしさ。

 上出来と言えた。


「いい匂いだね。アタシにもくれないかい?」


 低い位置から声がかかる。

 少女は驚いてむせた。


「大丈夫かい?」


 どこか不思議そうな表情を見せるのは白猫だ。

 猫が人の言葉を話している。


「驚かさないでよ。シロさん、足音がしないんだもの」


 抗議すると、澄まし顔で答える。


「そりゃ、すまなかったね」


 全然反省の色がないと思いつつ、スコーンを一つ取ってやる。


「これ、まだ熱いのかい?」

「はいはい」


 しっかりと冷ましてから、口の前に差し出す。

 はむっと咥えて、床の近くで歯を立てたようだ。

 スコーンが砕けて、床に散らばる。

 猫はそのまま口の中のを咀嚼そしゃくしてから、落ちた欠片を拾う。

 スコーンをきれいに片付けて言った。


「うん、うまい。彼もきっと喜ぶよ」


 猫相手にと思いつつも、頬が熱くなる。


「あなたまで、それを言うの?」

「他に言うことがあるのかい?もう一つおくれ」


 だいぶ冷めてきたのでそのまま渡す。

 今度はこの場では食べない。


「ふごふご」

「どういたしまして」


 それじゃ、と言わんばかりに尻尾を振って帰っていく。

 この気ままさは人の言葉をしゃべってもやっぱり猫だ。


「って、あれ?いつ帰ったの?」


 声をかけるが、もう聞こえる位置にはいないようだった。


 寝床、たぶん変わってないよね。


 後で話を聞きに行こうと決めて、スコーンを皿に移し始める。

 しゃべる白猫との出会いは十年近く前になる。

 まだ少年だった青年が強制的に農園に通うことになる前の話。

 妹と二人で農園を探検して遊んでいた時だ。

 誰もいない畑で声を聞いた。

 二人の腰の高さほどの、まだ花も咲かない麦畑で。

 大人の女性の声だが、この麦畑で大人が隠れられるはずがない。

 怖いもの知らずだった双子は声の主を探した。


「あ~あ、興が乗ったからってこんなところまで追いかけるんじゃなかった」


 愚痴をこぼしながら白い猫が歩いていた。

 風が強くて葉ずれの音がひっきりなしにしていたせいか、猫は双子に気づかない。

 二人は飛び出して猫を捕まえようとした。

 が、さすがにそれには気づいて猫は飛び退る。

 取り逃がしても二人はめげずに話しかける。


「「猫さん。私たちとお話ししましょう!」」


 猫は大きく目を見開いた。


「にゃあお」


 何の事と、とぼけるように鳴いてみせる。

 双子はそれに抗議する。


「ええ~。何でしゃべらないの」

「しゃべってよ」


 猫は人間臭い溜息をついた。


「やれやれ、聞かれてしまうとは。油断したなあ」


 そんなことを言って、後ろ足で首元を掻く。


「あんたたち、この農園の子だね。大人には黙っておくんだよ。でないと、アタシはひどい目にあうかもしれないからね。まあ、その前にここを去るけど」


 双子は顔を見合わせる。


「いなくなっちゃいやだ」

「大人にはぜったい、ぜったい言わないからここにいて」


 生真面目な顔の二人を見やって、猫もしかつめらしく言う。


「うむ。秘密を守るなら、まあ、たまには相手をしてやろう」


 双子はくすくす笑った。


「秘密」

「秘密」


 その言葉にわくわくした。


「そうだ。いいこと思いついた。アタシを抱えてこの麦畑を出てくれないかい」


 ネズミを追ってここまで来たが、麦の葉の密度が高くて歩きづらく辟易していたらしい。

 双子は猫を抱っこできると喜んだが、抱えて歩くのは大変だった。

 大人の猫は、幼い子供には十分重い。

 途中で交代しながら麦畑を歩く。

 麦畑を抜けて猫を下ろした時は、二人ともへとへとだった。

 そのあと、ご褒美だと言って白猫は寝床にしている場所を教えてくれた。

 そこは双子の家のすぐ裏にある納屋だった。

 納屋も双子にとっては遊び場の一つだったので驚いた。

 いつの間にか猫が住み着いていたとは知らなかった。

 納屋の物陰で猫とおしゃべりをする。

 子供にとってこれほどワクワクすることはない。

 猫と喋れるのが不思議だった。

 大人たちに秘密なのが楽しかった。

 時々、猫の気が向いたら開かれる白猫と双子の秘密の会合は何年も続いた。

 その間に色々なことがあった。

 当時の青年を含む悪ガキ達が、街の中心部付近で人々を困らせたこと。

 小さな家族が街に引っ越してきたこと。

 悪ガキ達の標的にされた少女を守ろうとした少年が一晩行方不明になったこと。

 悪ガキ達からも孤立して農園に連れてこられた少年と出会ったこと。

 当たり前のように数え切れないほどのことを経験して、双子は大きくなった。

 白猫は変化のないままに。

 他の猫に接したことのない双子は気がつかなかった。

 それがどれほどの異常か知らなかった。

 白猫が突然いとまを告げるまでは。


「今日は、あんた達にお別れを言わなければいけない」


 神妙な顔で白猫が切り出した。

 双子は当然首を傾げた。


「「どういうこと?」」


 白猫は珍しく丁寧に説明してくれた。


「あんた達もアタシが普通の猫じゃないというのはわかっているだろう?」

「シロさん以外の猫を見たことがないからわからないけれど、動物は普通しゃべらないよね。猫もそうなんでしょう?」


 白猫は満足そうに頷いた。


「そうだ。普通、猫は人間の言葉を話さないし、二十年生きずに死ぬものなんだ。だが、二十年を超えて生きることができたら特別な力を得ることができる。例えば、こんなふうに人間と話すことができるような。それから、少しだけ若返って、老いなくなる。つまり、年を取って死ぬということがなくなる」


 双子は目を丸くした。


「それって死なないってこと?」

「病気や事故に遭わない限りは。まあ、アタシの知らない例外もあるかもしれないがね」


 双子は顔を見合わせた。


「それってすごい」

「でも、それとお別れしなければならないのと、どういう関係があるの?」


 成長したと言っても双子はまだまだ子供だ。

 大人ならすぐにわかることに思い至らない。


「想像してごらんよ。あんたたちと同い年に見える子が、何年経っても見た目が変わらなかったら。自分たちは成長して大人っぽくなっていくのに、その子だけいつまでも子供のままだったら」


 双子は眉間にしわを寄せて、一生懸命想像している。

 その様子が可愛らしくて笑いをかみ殺しながら白猫は続ける。


「おかしいだろう。それでも子供は気にしないかもしれないが、大人はそうはいかない。何かが取り憑いているんじゃないかとか、その子の正体は魔物の類なのではとか色々考えて恐る。そして、その子を街から追い出そうとするだろう。最悪の場合、奇襲をかけて殺そうとするかもしれない。それと同じだよ」


 白猫は溜息のようにほぅっと息を吐き出す。


「アタシは猫だから気づかれにくいだろうが、人間の大人たちにバレてしまったら同じような目に遭うかもしれない。それがあんたたちにアタシがしゃべることは秘密だと言った理由さ。幸い、そっちの秘密はバレなかったから今までここにいられた。でも、同じ場所にずっとはいられない。長くひと所にいれば、喋ることがバレなくてもアタシのことをおかしいと感じる者が現れるだろう。そうなる前に居場所を移すのさ。面倒はごめんだからね」


 双子はしょんぼりとした顔で言った。


「それなら仕方ないね」

「大丈夫だって言っても、大人はきっと信じてくれないものね」


 すでに大人の疑り深さ、何かの膜を通して見ているようなものの見方は知っている。

 全ての大人がそうではないともわかっているけれど、そういう大人が少なくないというのもわかっている。


「そう気を落としなさんな。アタシはまたここに戻って来るのもいいかと思っているんだから」


 えっと双子は揃って猫の顔を見つめる。


「そうさね。あんたたちの数えで五年くらい経てば、同じ猫が戻ってきたとは普通の大人は思うまい」


 二つの同じ顔にぱぁっと笑顔が広がる。


「五年。五年ね!」

「五年経ったら帰ってきてくれるのね」


 はしゃぐ双子に白猫は苦笑する。


「五年って言っても、きっちり五年というわけじゃないよ。早くなることはないだろうが六年とかもっと長くなるかもしれない。あんたたちがアタシのこと忘れた頃になるかもしれないよ」


 応えは即答だった。


「忘れないよ。絶対に忘れない」

「だから、絶対に戻ってきてね」



 スコーンと紅茶のポットをとうのバスケットに入れて外に出る。

 妹を探して家の前を見回す。

 妹は日当たりの良いところで母と葡萄ぶどうを干す作業をしていた。

 と、向こうも気づいてこっちにやって来た。


「今から行くの?」

「うん」

「付いてってあげるから、一個ちょうだい」

「付いて来てもらわなくても結構です」

「ええ、そんなこと言わずに~」


 そんなことを言いながらバスケットの蓋をあげて、一個つまみ出している。

 やれやれという風を装っているが、本心では付いて来てくれてほっとしている。

 別に彼が怖いということではない。

 ただいつも二人一緒だから、どこかに行く時や家族以外の人と会う時は一人だと落ち着かないだけだ。

 多くの場合それは真実で、この場合も同じだと思っている。

 彼は幼馴染のようなものだけど、一対一には慣れていないから。

 それはきっと妹も同じだろう。

 だから、何も言わなくても他所に行く時は一緒にいることが今も多い。

 家にいる時は、別々でいることが多くなっているけれど。

 林檎園に入って、青年を探す。

 しばらくうろうろしていると、まだ青い葉がたくさん落ちている木を見つけた。

 収穫作業の時に引っ掛けて落ちたものだ。

 それを目印に歩いて行くと、程なく青年も見つかった。

 幹に脚立を立てかけ、自身は籠を背負い太い枝に跨っている。

 その手は止まっていて、ぼんやりとしていた。

 何日か前からよく見かけるようになったその姿は、彼らしからぬものだ。

 それなりに話はするのだが、何が原因なのかはわからない。

 自分から悩みを打ち明けてくれる人でもない。

 心配なのだが、なんとなく迂闊うかつに触れてはいけないような気がしている。

 以前の青年は上手くいかないことがあるとすぐイライラした様子を見せていた。

 イライラするのではなく、物思いに沈み込んでいるように見える今。

 イライラしている青年への対処法はわかっているが、思い悩む彼にかけるべき言葉は知らない。

 でも、妹の方はすでに態度を決めていたようだ。


「あー!また手が止まってる!」


 ことさらおおげさに叫び上げる。

 彼がこちらを見る。


「差し入れを持ってきました」


 便乗するように何気ない風に声をかける。


「いいよ、姉さん。一番忙しい時期が終わったのに自主的に手伝いに来てくれて感心していたけれど、手が止まっているならいないのと一緒だもの。差し入れなんていらないよ」

「まあまあ。お腹が空いて、思わず手が止まっちゃったのかもしれないし」

「え~。そうは思えないけれど」


 彼が悩んでいるのには気づかないふりで勝手に会話を弾ませる。

 その間に青年は木を降りてきた。


「ありがとう」


 そう言って微笑んでバスケットを受け取る。

 いつからそんな風に優しく笑えるようになったんだろう。

 父親に引きずられるように農園に連れてこられた当初の彼は、とても攻撃的だった。

 差し伸べられた手に唾を吐くどころか爪を立てて傷つけるような。

 周り全部を疑っているというよりは、敵とみなしているような。

 自分も妹もそんな彼が怖かった。

 けれど、双子の父が双子に言った。

 彼は手負いの獣のようなものだと。

 深く傷ついて、これ以上傷つけられないように誰も近寄らせない。

 でも、そのままでは傷は治らないままだ。

 彼は傷を治すためにここに連れてこられた。

 傷を治す第一歩をあげられるのはきっと君たちだ。

 だから、君たちだけは彼の近くにいてあげてくれ。

 双子は納得した。

 農園では鶏も飼っていて、双子は怪我してうずくまる鶏を手当てしようとしたことがある。

 威嚇いかくされ、それでも頑張って触れたら手を突かれて血が出た。

 それでも辛抱強く接して、二人掛かりで怪我した足に包帯を巻いてあげた。

 最初は暴れていた鶏は、手当てが終わる頃には大人しくなっていた。

 そういうことなら自分たちが治してあげようと決めた。

 ちょっと怪我をすることになっても双子は彼のそばにいることにした。

 だから、誰よりも彼のことを知っている。

 だけど、それでもまだ知らないことがある。


「今日は甘さ控えめのスコーンを焼いてみました。甘いの、苦手でしょう?」


 内容を披露するついでに、確認してみる。

 青年が驚いた顔になる。

 続けて仏頂面以外の顔を見られて嬉しく思う。


「そうだが、言ったことあったか?」

「いいえ。でも、この前みんなで休憩していた時、甘いジャムのクッキーを難しい顔しながら食べていましたよ」

「う、見られていたのか。悪いな」

「気にしないでください。というか言ってくれれば甘くないのも用意したのに」

「いや、親父も兄貴もあれで甘党だからさ」

「あなたに遠慮は似合わないと思います」


 青年が苦笑を浮かべる。

 ちょっと言い過ぎたかなと心配になる。

 青年は木の下に座ってバスケットを開く。

 スコーンを取り出して一口かじって、モグモグと口を動かしている。

 祈るような気持ちでそれを見つめる。


「うん、うまい。俺はこれぐらいが好きだ」

「よかった」


 頬が、熱くなる。

 自分でも予想外の自分の反応に困って、傍の妹を見る。


「て、あれ?」


 キョロキョロと周囲を見回す。

 青年もいつの間にか妹がいなくなっていることに気がつく。


「もう!置いていったわね」


 バスケットは帰りに収穫した果物と一緒に持ってきてくれればいいからと言い置いて、パタパタとその場を走って離れる。

 いつから二人きりになっていたのだろう。

 逃げたように見えてないだろうか。

 そんなことばかり気にかかった。


 次の日も青年は手伝いにやってきた。

 でも、今日はお菓子を焼かない。

 今日は仕事が多いので他にも数人手伝いの人が来ているから、母が何か用意するだろう。

 自分がわざわざ用意して何か思われるのは、なんとなく避けたい。

 それに妹が母を手伝うつもりのようだったから、自分まで手伝う必要はないだろう。

 空いた時間で、珍しく一人で白猫を訪ねた。


「ああ、それは近々開かれる結婚式のせいだろうよ」


 寝床の近くで日向ぼっこをしていた白猫は少女の疑問にあっさりと答えを与えた。


「えっ、結婚式?」


 思わず聞き返す。

 猫が首を傾げる。


「ああ、あるの知らなかったかい?」

「…二日後にあることは知っているよ。街中に案内が出されているもの」


 少女の住む街はそれほど大きくはない。

 頻繁に関わる人数こそ限られるものの、住人全員がほぼ顔見知りだ。

 結婚式のような祝い事があると街中に知らされて、手の空いている者が自由に参加する。

 今回式を挙げる二人は特に人々に好かれている二人だから、きっとたくさんの人が駆けつけるだろう。

 その二人は昔、あの青年が追い詰めた二人でもある。

 そう思い当たって、少女は溜息をついた。


「もう十年くらいになるかい?未だに引きずっているとはねえ」


 猫は毛づくろいをしながら言う。


「あの人は、そういう人よ」


 少女にとって式を挙げる二人は何かの折に少し遊んでもらったことがあるだけの関係だが、結婚式には憧れがある。

 当然、妹と二人で見に行こうと思っていた。

 確かに彼がふさいで見えるようになったのは、結婚式の知らせが届いた頃だった。

 気づかずに浮かれていたことが悔やまれる。

 悔やまれるけれど、気づいたところで自分に何ができただろうとも思う。

 慰めや同情を嫌う人だ。

 そんな気持ちで接したらきっと嫌われてしまう。

 それでも力になれたらと思わずにはいられない。


「こればかりはどうしようもないさ。自分で折り合いをつけるしかないよ」


 心を読んだような猫の言葉にどきりとする。

 詰めていた息を吐いて頷く。


「そう、だよね」


 すると、心外というように猫が顔を上げた。


「こらこら、あんたまで暗くなってどうする。ああいう奴に一番いいのは言ってくるまで気づかないふりで、いつも通りに笑っていてやることだよ。特にあんたのはよく効くだろうさ」


 少女は首を傾げる。


「私のはよく効くって、どういう意味?」

「それは、あんたが自分で気づかないとね」


 猫が意地悪く笑ったような気がした。


 結婚式の前日。

 今日、青年は来ない。

 昨日、青年の父親が少女の父親に彼の様子を尋ねに来た。

 その時にさすがに働き過ぎだから今日は無理にでも休ませようということに決めたらしい。

 農園の管理人は娘たちにも、彼が来たら追い返すようにと言い渡した。

 少女はなんとなく手持ち無沙汰で農園の中をひとりでぶらぶら歩いている。


 今頃、どうしているだろう。


 理由を知った今、青年がずっと農園に通っていた理由もわかる気がする。

 きっと、動いて気を紛らわさずにはいられなかったのだ。

 もう前のように、子供のように暴れることはできない。

 かと言って、他にすることもない。

 だから、仕事に打ち込もうとした。

 収穫は意外と繊細な作業だ。

 街の人は少しの傷など気にしないが、傷はない方が見栄えがいいし日持ちもしやすい。

 集中して作業をしていれば、余計なことは考えずに済む。

 父たちは彼の様子に気がついていないのだろうか。

 いや、気がついているだろう。

 それでもあえて、休ませた。


 苦しんでいるだろうな。


 気を紛らわせる手段を取り上げられたら、自分の心と向き合うしかない。

 そうか、と少女は思い至る。

 それが父たちの導きなのだ。

 逃げてばかりいないで、ちゃんと自分の心と向き合えと。

 なぜか自分の心にも刺さるように響いた。

 自分にも向き合っていない心があるのだろうか。


 それよりも今は……。


 農園の果樹林の中、青年のために祈る。

 彼がこの苦難を乗り越えられるようにと。

 祈りは通じたようだった。

 昼前に、青年が農園に現れた。

 農園の入り口でばったり会った少女は、努めて何気ない口振りで言う。


「あれ?今日はお休みだって聞きましたけど」


 青年はすっきりとした表情で笑みさえ浮かべている。


「ああ、仕事に来たんじゃない。ちょっと、頼みたいことがあって」


 青年は明日の結婚式のために、ちょうど今咲いている小さくて黄色い甘い匂いの花を集めたいのだと言う。

 聖堂から出て来た二人の上に花を振らせて祝福してやりたいのだと。

 農園の敷地内には、その花の木がポツポツと自生している。

 それを摘ませてほしいと言うことらしい。


「できるだろうか?」


 少女はなんだかとても嬉しくなった。

 青年がその微笑みに目を丸くしているのにも気づかずに少女は頷いた。


「ええ、大丈夫だと思います。父に相談に行きましょう」


 父も嬉しそうにその頼みを聞き入れてくれた。

 今から摘むとしおれてしまうから、明日の朝早くに摘むことになった。

 一本の木だけでは足りないかもしれないから四、五本の木から集めようと父が提案し、父も手伝うと言ってくれた。

 途中から話を聞いていた妹も、もちろん自分も手伝うと名乗りをあげる。

 彼が笑って照れ臭そうに礼を言う。

 胸が高鳴った。


 結婚式当日。

 空は一段と高く青く澄み渡り、祝いには最高の日和となった。

 籠の中の摘みたての花は瑞々しく、甘やかな香りは薄れてしまわないように布で蓋をしてもなお漂ってくる。

 青年の弟妹も一緒に聖堂に着くと、もう人だかりができていた。

 今、聖堂の中では厳かに式が進行しているのだろう。

 集まった人々はそわそわしながら、式を終えた二人が出てくるのを待っている。

 太陽が一番高い位置に差し掛かった頃、聖堂の鐘が澄んだ音を街中に鳴り響かせた。

 扉が開かれる。

 正装をした二人が出て来た。

 人々が割れんばかりの拍手を送る。

 二人は幸せそうに顔を見合わせ、人々に頭を下げる。

 二人が歩き出した。

 花を降らせたいがこの距離では届きそうにない。


「こっちだ」


 青年が袖を引く。

 ついて行った先は、植え込みの関係で周りより少し高くなっている場所だった。


「ここから思い切り投げれば、なんとか届くだろう」


 花を掴み、思い切り高く遠くへ投げる。

 少女は妹と顔を見合わせ、青年に倣い花を思い切り投げる。

 花は二人の上に降り落ちた。

 こちらに気がついて、笑顔で手を振る。

 皆で手を振り返して、まだ籠の中にある花を降らせる。

 少女は何気なく青年の横顔を見て、息を飲んだ。

 笑っているのに、なんて切なそうな目をしているのだろうと思った。

 不意に気がついた。

 彼はあの花嫁のことが好きだったのだ。

 多分、追い詰めてしまったあの頃からずっと。

 けれど彼女にはその頃から隣にあの人がいて、どうしたらいいかわからなくて。

 心と行動が離れて、イライラして。

 ついに二人が結ばれると知って、焦って。

 なんとか折り合いをつけて、今、笑顔を彼らに向けている。

 心のうちに哀しみを隠して。


「よかったね」


 彼の弟が青年に嬉しそうに言った。


「何が?」


 青年はとぼけた返事をする。


「本当によかったんですか?」


 思わず口を出してしまう。

 なぜだか急に腹が立ってどうしようもなくなった。

 振り返った青年が首を傾げる。

 困った顔で答える。


「いいんだ。俺も今、すごく嬉しいから。まあ、ちょっと複雑な気持ちもあるが問題ない」


 本当に!!


 激しく揺らぐ自分の気持ちを無理やり抑えるが、語気が刺々しいのを自覚する。


「それならいいですが」


 どうしようとうつむくと、妹の声が耳に入った。


「気にしなくていいよ。ただヤキモチを焼いているだけだから」


 がばっと顔を上げると、ひとりでに言葉が出てくる。


「なっ!違います。もう、帰るよ。父さんたちを手伝わなくちゃ!」


 花籠を彼の妹に渡して、妹の背中をぐいぐい押す。


「それじゃあ、またあしたぁ」


 わざとらしい声に続き、ふっと腕に手応えがなくなる。

 あっと思った時にはもう体勢を崩していて前のめりになっている。

 倒れるかもしれないと緊張した体が倒れ込むことはなかった。

 青年が腕を掴んで支えてくれていた。

 びりっと電流が走ったような気がして、反射的に彼から少し距離を取る。


「ありがとうございます」


 思ったより声量が出ていなかったが、構っていられなかった。

 小走りに妹を追う。

 頬が熱くて、訳がわからなくて。

 なんだか泣きたい気分だった。


 家に帰って何食わぬ顔で昼食をとった後、昨日みたいに一人で農園をそぞろ歩いた。

 歩いて歩いて。

 歩き回って。

 ついに疲れて足が動かなくなって、近くにあった丸太に座り込む。


 なんであんな態度、とってしまったのだろう。

 嫌われたかな。

 明日、顔を合わせられない。


 目尻に熱いものが込み上げる。


「どうして泣いているの?」


 驚いて顔を上げると、下から覗き込む顔を見つけた。

 慌てて目元を拭う。


「どっか痛いの?」


 女の子が心配そうに眉根を寄せる。


「大丈夫だよ。なんでもないよ」

「そうは見えなーい」


 迂闊だった。

 農園の林の中なら一人になれると思ってしまった。

 女の子は近所に住む子で、実際の年齢より幼い言動をする不思議な子だった。

 よく農園を遊び場にしていて、農園で働く人たちとも親しい。

 女の子の両親は農園にいるならいいととがめないが、世話を任されている隣の家の少年はしょっちゅう探しに来て大変そうだ。

 女の子が少し考えて口を開く。


「お兄ちゃんが言ってたよ。簡単に泣いちゃダメだけど、本当に泣きたい時は思い切り泣くべきだって」


 不意打ちの優しさに、また涙がにじむ。


「あのね、優しくしたい人に怒っちゃったの」


 この子に打ち明けたところで何もならないのにと思いつつ言葉が溢れる。


「その人の大好きな人が他の人のお嫁さんになってしまって、とても切なそうな目をしているのに笑っているから」


 隣にいれば今どんな気持ちかわかる。


「嬉しいって言っていたけど、本当は泣きたかったくせに」


 泣いたら慰めてあげられるのに、泣かないからそれもできない。

 自分の前でくらい強がらなくてもいいのにと思う。

 もう十年も近くにいるんだから、頼ってくれていいのにと思う。

 だけど、うまく人に頼れない人だということも知っていて。

 手を差し伸べてあげたいのに、どうしたらいいかわからない。


「お姉ちゃんは、その人のことが好きなんだねぇ」


 隣に座って足をぶらぶらさせていた女の子が出し抜けに言った。


「えっ」


 驚いて女の子を見ると、女の子はにぱっと笑った。


「だってそうでしょ。その人が泣かないから、お姉ちゃんが代わりに泣いてあげているの。その人のことが好きだから」

「……そう、だね」


 無意識に詰めていた息を言葉と共に吐き出す。

 指摘されて初めて違っていたことに気がついた。

 言われるまでもなく少女は青年のことが好きだった。

 好きだと知っていた。

 けれど、その好きは友達や兄弟の好きだったはずだ。

 違う好きになっていたことに気がつかなかった。

 いや、気がつかないふりをしていたのかもしれない。

 多分、今のままでいいと思っていたから。

 気づいてしまったから、もう今のままではいられない。

 新たな涙が溢れてきた。

 これは何のための涙だろうと思いつつ、溢れるままに泣き続けた。

 いつの間にか女の子は帰って行って、辺りは暗くなった。

 なかなか帰る気になれなくて、いつまでもそこに座っていた。


「こんなところにいたのかい?」


 サクサクと枯葉を踏みしめる音とともにそんな声が聞こえた。


「……シロさん」

「あんたの妹に頼まれて迎えにきたよ」

「……何でわざわざシロさんに?」


 白猫は肩を竦めた。


「さあ?まあ、察したんじゃないのかね」


 そうかもしれないと思った。

 いつも双子の片割れを迎えに行くのはもう片方の役目だけど、今回は違う方が良いだろうと。

 白猫が来たことでさっきまで泣いていた理由がわかった。

 妹のことを思ったのだ。

 いつからかいろんなことが違って来ていたけれど、今も好きなものは同じ。

 だから、自分が彼をそういう風に好きなら、彼女も多分同じだろう。

 今ならわかる。

 妹はもうとっくに気がついていた。

 自分の気持ちも、妹自身の気持ちも。

 それでいて、ああいう言動を取っていた。

 まるで、自分を応援するような。

 自身は何でもないというような。


「ねえ、シロさん。私、どうしたらいいのかな?」


 白猫は生真面目そうにちゃんと座って聞いている。


「下手に動いたら全部壊れてしまいそうで、怖い。だけど、気づいてしまった以上もう元のようにできる自信はないよ」


 白猫はついと目を細める。


「あんたが思うように」


 白猫が正面から少女を見つめる。


「あんたの心に素直に動けばいいんだよ。なあに、失敗しそうになったって大丈夫さ。あんたはあんたが思っているほど不器用じゃないし、腰抜けでもない。ずっとあんた達を見て来たアタシが言うんだから間違いない。まぁ、五年ほど空きはあるけどさ」


 白猫がはぐらかすことなく、まっすぐ言葉を紡ぐ。


「大丈夫。あんたはちゃんと前進しているよ」


 欲しかった言葉だった。

 何に対しても一歩引いてしまう自分は、そうでなかった幼い自分よりも後退しているような気がしていた。

 涙で白猫の姿がぼやけた。


「さあ、帰るよ。もう夜は冷えるからね」

「うん」


 涙を拭いて歩き出した。

 空を見上げる。

 日没直後の深い青の中に瞬く星を見つけた。

 家に帰ると妹は何事もなかったように「おかえり」と言った。


 翌朝、早くから少女は台所を占拠した。

 少し冷たくて清々しい朝の空気の中で調理を始める。

 日が十分に高くなった頃にお菓子は焼きあがっていた。

 味見のために一切れ手に取る。

 ビターチョコのパウンドケーキ。

 甘いケーキに、時々口の中に現れるビターチョコの欠片のほろ苦さ。

 なんだか今の自分の心のようだ。

 紅茶も用意して、いつものバスケットに詰めて外へ出る。

 家の裏手の方から妹がやってきて、隣を歩き始める。


「今日もいい天気だね」

「そうだね」


 他愛もない会話をしながら歩いていく。


「来ているよね」

「さあ。厩舎の方にいたから知らない。父さんにそう言っていたし、来てるんじゃない」


 林檎園の入り口で妹は立ち止まった。

 振り返って、妹を見つめる。


「今日は、ついていくのはここまで」

「うん」


 深呼吸をして口を開く。

 まずは妹に言わなければ。


「私、あの人のことが好き。兄弟とか友達としてではなく、特別な気持ちで」

「うん、知っていたよ。あなたより先にね」


 妹の口調はとても静かだ。


「あなたも、でしょ」


 妹は答えないで笑った。

 普段の彼女からは想像できないような、静かで綺麗な微笑みで。


「ここでは、もうずっと前からあの人はあなたのことを見ているよ。だから、大丈夫」


 諭すように言葉をつなぐ。


「私たちは双子で二人で一つだったけれど、もうそうじゃない。私は私、あなたはあなた。誰よりも近くて誰よりもわかるのは変わらないけれど、別々の道を行くんだよ、きっと」


 妹の瞳の中に小さな痛みを見たような気がした。

 それでも背中を押してくれる。


「さあ、一歩踏み出して。私は見たいんだから」


 何をとは言わない。

 でも、伝わる。


「うん、行ってくるね」


 明るい笑顔を作って背を向ける。

 再び歩き出す。

 振り返らない。

 妹もきっとそれを望まない。

 いつものように作業の跡を追って彼を見つける。

 高い場所で作業をしている。


 どう声をかけよう……。


 いつもどう声をかけていたっけと考えてしまう。

 今まで何気なくやっていたことが心の向け方が変わっただけでこんなに難しくなるなんて。

 視線が下を向いて、戸惑っていると目の前で枯葉が鳴った。

 驚いて視線を上げる。


「おはよう」


 明るい笑顔を前に、胸がいっぱいになってしまう。


「いい匂いだな。これ作っていたから、来た時見なかったのか」


 気にしてくれた?


 それだけで嬉しい気持ちが込み上げてくる。

 本当はどういう顔をしていればいいのかわからないから朝から作っていたのだけど。


「今日は、パウンドケーキです」


 顔がまともに見れなくて、バスケットを押し付けるように渡す。

 青年は首を傾げながらも素直に受け取って、いつものように木の下に腰を下ろす。


「たまには付き合わないか」


 青年が隣を指差して言う。

 一瞬ドキッとして、そのことに恥ずかしくなる。

 逃げてしまいたい衝動にかられる。

 でも、せっかくもらったきっかけを棒に振るわけにはいかない。

 少し間を空けて青年の隣に座る。

 その隙間に青年はバスケットを置いた。

 青年は中からパウンドケーキを一切れ取り出して頬張る。


「これは、甘いけどうまいな。チョコレートの苦味がいい具合だ」


 返事がなくて、青年が横目で少女の様子を伺う。

 少女は何か考え込んでいる。

 何か言ってやるべきだろうかと青年が思案し始めた時だった。


「あなたのことが好きです」


 なんの脈絡もなく言ってしまったことに少女は焦る。

 とはいえ、言ってしまった言葉は引っ込めることができない。


「大丈夫。あんたはちゃんと前進しているよ」


 その言葉をお守りのように胸の内で握りしめる。

 一拍おいて、青年が盛大にむせた。

 驚いた少女は反射的に青年の背中をさする。


「ご、ごめんなさい」


 思わず謝罪の言葉が口をつく。


「いや、すまん。大丈夫だ」


 まだ少しむせながら青年は言う。

 次いで小さな声で「あいつめ」とぼそりと呟く。

 青年は差し出された紅茶を一口飲み息をつく。

 一度咳払いをして、考えるように少しの間沈黙する。

 前を向いたまま青年は口を開く。


「その、俺なんかでいいのか」


 少女は何を問われているのかわからない。

 そんなの既に決まっている。


「あなたがいいんです。私はあの人にはなれないけれど」


 青年が苦笑する。


「ならなくていい。そうなったら俺があいつにならなくちゃならないからな。そんなの絶対に無理だし、ごめんだ」


 少し考えて青年はもう一度問う。


「自分で言うのもなんだが、俺は格好悪いぞ。弱いし、ひねくれている」


 今度は少女が苦笑する番だった。


「そんなこと。私たちはずっと見ていたんですよ。今更です。それでもあなたがいいと思ったんですから」


 そうかと青年は小さく呟いた。


「昨日は問題ないと言ったが、こう言う場合は問題だな。きっと俺はなんだかんだとあいつらのことを引きずるだろう。それでもいいのか?」


 少女は決意を固めるように、行儀よく膝の上で重ねた手を強く握る。


「それも、わかっていますから大丈夫です」


 少女には長い瞬く間の後、青年は頷いた。


「わかった。俺もあんたが隣にいてくれるのは嬉しいから」


 青年は何かをためらった後、少女の手を取った。

 その手の甲に彼の唇が一瞬触れる。

 まるでおとぎ話の姫と騎士のように。

 青年の心を捉えるあの二人のように。

 手を離した彼は、猛然とパウンドケーキを食べ始める。

 耳が赤くて、照れ隠しなのは明らかだ。

 彼のことを冷静に見つめながらも、頭の中はぼんやりしている。

 と、突然青年の動きが止まった。

 どうやら喉を詰まらせたらしい。


 もう、そんなに慌てて食べるから。


 笑いが込み上げてきて、温かい気持ちが胸に溢れた。


「ほら、飲んでください」


 紅茶をカップに注いで渡してあげる。

 涙目になりながらカップを受け取り、青年は喉の詰まりを解消する。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 顔を見合わせて、どちらともなく笑い出す。

 そよ風に木漏れ日が踊る。


 こんな穏やかな時間が、これから何度でもありますように。


 少女はささやかな未来を澄んだ空に願った。

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