第6話 冬の露払い

冬の露払い


「さようなら」


 いつもと同じ別れの挨拶。

 けれど、いつもと違う音。

 いつもは言葉にせずとも含まれているものが、今は含まれていない。

 それだけで同じ言葉がこんなにも切なく響くこともあるのだと、初めて知った。


   *


 カーテンの隙間からそっと朝日が差し込む。

 ベッドの中の少女が光の気配に身じろぎをする。

 少女の瞼がゆっくりと上がり、数回瞬き。

 上体を起こして伸びをする。

 ベッドを降りて、カーテンを開ける。

 何気ない一日の始まり。

 いつもと同じ朝。

 でも、いつも同じではない朝。


「あ!」


 少女は皆が見落とす細やかなものを見落とさない。

 今日もささやかな驚きを見つけた。

 窓から一番近い木の枝に小鳥が止まっている。

 こんなに近くに来るのは珍しい。

 小鳥は少女に「おはよう」と言うように一声鳴いて飛び去った。

 それだけで今日は良い一日になりそうだと思う。

 小鳥を見送って澄み渡った青空を見上げたまま深呼吸し、身を翻す。

 身支度を整えて、部屋を出る。

 階下からタン、タンと規則正しい音が聞こえる。

 パンの生地をこねる音だ。

 少女も音に合わせて跳ねるように階段を降りて、キッチンの入り口から顔を覗かせる。

 すると、パンをこねていた女性が顔を上げた。


「おはよう」

「おはよう、お母さん」


 朝一番に母の優しい笑顔を見るのが少女は好きだ。

 母は必ず少女が来たことに気づいてほんのひと時でも手を止めてくれる。

 それがとても嬉しい。


「今日は何のパン、作ってるの?」

「あなたの好きな干しぶどうのパンよ」

「やったぁ!」


 今日はいい日だ。


「お皿とか準備するね」

「ありがとう。助かるわ」


 食器棚から皿やカップを取り出す。

 キッチンと続き間になっているダイニングのテーブルへと順番に運んで行く。

 その途中で視界の端に映ったものに少女は目を向ける。

 窓際の花瓶。

 花が枯れている。


「お花、枯れちゃったね」


 母がパンの整形をしながら答える。


「ええ、後で新しい花を摘んで来ないとね」

「わたし、行って来るよ」


 出した食器をさっと並べて玄関へ向かう。

 庭に出ると、花に朝露が降りていた。


「わあ、きれい」


 うっとりと眺めながら、花を選ぶ。

 咲いているものは随分と少なくなって来た。

 秋の花も終わりが近いことを知らせている。

 その時、何かが光ったような気がした。

 庭の端から続く森の奥の方からだ。

 花から手を離し、目を凝らす。

 確かめたくなって、何も考えずに森の中へと分け入る。

 足を踏み出す度にサクサクと音を立てる落ち葉。

 その軽やかな音に耳を傾ける。

 また木々の隙間から光が見えた。

 光を追いかけるように走り出す。

 急に目の前が開けて、眩しさに立ち止まる。

 何度か瞬きして、目が光に慣れるのを待つ。

 そうして、目に映ったのは。


「!!!」


 声が出ない。

 まだ枯れきっていないほんのり黄金色の草の葉に玉の露が乗っている。

 木々の隙間のその場所いっぱいに。

 優しい朝の光が降り注いで、まるで雫が日中の灯りのようだ。

 明るくなって照らす必要のなくなったランプの、朝が来てよかったねと言ってくれているような優しい光に似ている。

 溜息が出る。


「なんて美しい」


 言い慣れない言葉が思わず飛び出す。

 でも、それが一番ふさわしいと思った。

 ふと何かの気配を感じた。

 誰も何も見えない草地の真ん中あたりから。

 息を飲んだような、そんな気配。

 少女はことりと首を傾げる。

 疑うことなく、口を開く。


「そこにいるのはだあれ?姿を見せて」


 戸惑っているような少しの間を置いて、それは雨上がりの虹のように静かに現れた。

 少年だった。

 見た目は少女と同じ十二、三歳程。

 ただし、体が透けて向こうの景色が見える。

 見たこともない裾の長い衣服を纏っている。

 少女はちょっと目を見張り、にこりと笑った。


「おはようございます。素敵な朝ですね」


 なんとなく丁寧な言葉遣いになる。

 少年は更に戸惑いを深くしたようだ。


「おかしな娘だ。僕を見てその程度しか驚かないのか?」


 少し口を噤んで言い足す。


「いや、まあ。呼び出したのはそっちなんだけどさ」


 呼びかけに応えておきながら、まごついている様子がおかしい。

 少女がくすくす笑うと、相手は気分を害したようだった。


「くそっ。僕らのことを見てそんなふうに感動してくれる人間は珍しいから、つい驚いて姿まで見せてしまったが。失敗だった」


「あっ」


 気がつくと、少年の姿が消えてしまっていた。

 でも、また会える気がするので気にしない。


「さようなら。またね」


   *


 サクサクと落ち葉を踏み鳴らし、少女は色づく森の中を歩いている。

 鼻歌を歌いながらずんずん奥へと入っていく。

 迷って帰れなくなる心配はない。

 勝手知ったるお隣さんの森だ。

 お隣さんと言っても畑やら果樹園やらを抱えていて、とにかく土地は広い。

 お隣さんの家に行くだけでいい散歩になるくらいだ。


「今日は何をしようかなぁ」


 森の中はとても落ち着く。

 自分の言動を見て眉をひそめる大人がいないから。

 少女の言動は同じ年頃の子供と比べて幼いらしい。

 少女からすれば、皆の方が大人っぽいのだ。

 本当に小さい頃は同じだったはずなのに、いつ頃からか差ができていた。

 周りの子らがどんどん大人に近くなっていく中で、自分だけが変わらない。

 同じようにしようとしても、どうしてもできない。

 両親は気にしていない。

 それが少女の個性なのだろうと思っている。

 両親と仲の良いお隣の家族と農園で働く人たちも少女をそういうものとして普通に接してくれる。

 けれど、それ以外の街の大人たち、同年以上の子たちは悪いことをしているみたいな目で見るのだ。

 だから、森の中で一人でいるのが気楽だった。

 街の中はたくさんいても、一人ぼっちで。

 森の中は一人でも、一人ぼっちではない。

 座るのにちょうど良さそうな切り株を見つけて座ってみる。

 なんとなく気分が良くなって歌い出す。

 心の赴くままに、言葉を旋律に乗せる。

 そうしていると、小鳥たちがやってくる。

 少女の頭や肩に乗って一緒に歌ってくれる。

 リスやキツネなんかも集まって、足元で気持ちよさそうに聞いてくれたりする。

 一度クマが聞きに来たこともあった。

 少し怖かったけれど、クマが少女に危害を加えることはなかった。

 それどころか、お礼と言うように蜜をたっぷり含んだ花を少女の手に乗せて帰っていった。

 歌い終わると、肩に乗っていた小鳥がちょんちょんと頰を突いた。

 ねえねえ、と話しかけるように。

 そして、飛び立つ。

 目で追うと、近くの梢にとまってこちらをじっと見つめている。


「わかった!ついてきてほしいのね」


 少女は立ち上がって後を追う。

 小鳥は少女が見失わないように上手に間合いを取りながら飛んでいく。

 しばらく歩き、何度目かに枝に止まった小鳥が美しく囀った。


「到着?」


 小鳥が止まる木の向こうは拓けているのか明るい。

 そっと木の横に立つ。


「わあ…」


 キラキラと光が踊っていた。

 森の中にぽっかりと拓けた場所だ。

 小さな泉を真ん中に、子供部屋よりも小さな空間が広がる。

 緑から黄色に変わりつつある草達と、赤や黄色の落ち葉達に雫が宿っている。


「これを見せるために連れて来てくれたのね。ありがとう、小鳥さん!」


 少女が小鳥を見上げると、小鳥は一声囀って飛んで行った。

 少女は草地に目を戻す。

 足を踏み入れることも考えつかずに、ただその場所から見入る。


「……本当に、なんて美しいんだろう」


 朝露が降りることは珍しことではない。

 家の庭や畑で見ることができる。

 それはそれでとても綺麗だと思っていたけれど、これは特別だった。

 この小さな空間に別の世界がある。

 清らかな何かが住まう、人には普通見ることもできないような世界が。

 そんなふうに思えてしまうほど、心奪われる光景だった。

 でも、最近こんな風景を見たような気がする。


「ああ、そっか」


 家から続く、お隣さんとは別方向の森で見つけた場所に似ている。

 もしかして、と思った。


「ねぇ、いるの?」


 いたらいいなぁと呼びかけてみる。

 少し待ってみるが、気配はない。

 がっかりして、でも綺麗なものを見れたからいいかと機嫌を直して踵を返す。


「全く、なんなんだお前は」


 立ち止まって振り返る。

 あの少年が立っていた。

 なんだか嬉しくなる。


「おはようございます。また会えましたね」


 憮然とした表情のまま、それでも挨拶を返してくれる。


「おはよう。何か用か?」


 用事はないと言ったらすぐに姿を消してしまいそうな様子だ。

 少女は急いで考える。


「ええと、そう。聞きたい事があったの」


 今考えたのがバレバレだと少年の顔には書いてある。

 けれど、何も言わずに続きを促す。


「あのね。あなたは妖精ですか?」


 少年の眉間に皺が寄る。


「なぜ、そう思う?」


 険しい声音。

 違ったみたいだ。

 失敗したかなと思いつつ、理由を答える。


「人に姿を見せないとか、見たこともない格好をしているところ。あと、急に出てきたり、見えなくなったりできるから」


 少年は眉間に皺を寄せたまま唸るように呟く。


「その辺りは確かに同じだが、あんな気まぐれで好き勝手している奴らと一緒にするな」


 ああ、やっぱり失敗だった。

 もう少し話したかったなと思いつつ、少年が消えてしまうのを覚悟する。

 けれど、そうはならなかった。

 少年は盛大に溜息を吐いただけだった。


「しかし、人間にとって目に見えないものの認識なんてそんなものか。仕方ない。教えてやる」


 偉そうな態度だが、そんなことよりも言葉の内容に目を丸くする。


「本当!ありがとう!」


 少女が身を乗り出して喜ぶので、少年は少し怯んだようだった。

 咳払いで仕切り直して、口を開く。


「僕は妖精ではなく、精霊だ。露の精霊。精霊は妖精と違い、皆それぞれに役割を持っている。僕の場合は、冬将軍の先触れ、露払いだ。冬将軍が来ることを予告し、将軍の通り道を清めている」


 誇らしげな口振り。

 与えられた役割に誇りを持っていることがよくわかる。


「じゃあ、仕事を持っているのが精霊で、ないのが妖精ということ?」


 少年は肩を竦める。


「本当はもっと違うところがあるけど、言ってもわからないだろうさ」

「ふ~ん」


 そんなものかなと首を傾ける。

 それよりも会話が途切れてしまう。

 急いで次を探す。

 口を開きかけた時、少年がすいっと遠くへ視線を投げた。


「誰かが近づいて来る」


 目を細めて耳をすませるようにしている。

 少女も少年に倣うが、何も聞こえない。

 精霊は耳がいいのだなと考えつつ、耳を澄ませ続ける。

 しばらくして、声が聞こえた。

 名前を呼ぶ声。

 呼ばれている名前は自分のもの。

 声もとても聞き慣れたものだ。


「お兄ちゃんだ!」


 少女はパッと顔を輝かす。


「兄?お前の?」

「そう。探しに来てくれたみたい」

「お前、黙って家を出て来たのか?」


 少女は首を傾げる。


「行って来ますは言ったよ」

「行き先は言わなかったのか」

「ちょっと遊びに行くくらいで言わないでしょう?お母さん、わかっていると思うし」

「帰る時間は?」

「いつも決めてないけど、ご飯の時間には帰るから平気」


 自由奔放。

 それが常識の枠から外れていることを少女は知らない。

 少年は溜息を吐く。


「随分と探し回っているようだぞ。さっさと行ってやれ」

「うん、そうする」


 踵を返して、忘れたとばかりに少女は振り返る。


「さようなら」

「はいはい、さようなら」


 少年がさっさと行けとばかりに手で払う。

 そんなぞんざいな仕草を見せても、消えずに見送ってくれる。

 それが嬉しくて、少女は手を振って走り出す。

 声の主に追いつくのは簡単だった。


「お兄ちゃん!」


 驚いた少年が振り返る。

 少女よりずっと大人に近いが、年の違いは六つほど。

 生まれた時から何かと世話を焼いてくれているらしい。

 と言っても、少女と兄は本当の兄妹ではない。

 近所で最も年の近い子供が彼だったという話。

 兄の家は農園を持つお隣さんよりも近い。

 兄は珍しい一人っ子で、少女も一人っ子。

 そのことが二人を余計に兄妹らしくした。

 母は心配していないのに、勝手に探して迎えに来るくらい。


「また一人でこんな森の奥まで入って!」


 いきなり小言が飛んで来る。

 少女は頬を膨らませる。


「平気だよ。お隣さん家だもん」

「あんまり奥まで行くと、お隣さんの森じゃなくなるくらい知っているだろ」


 痛いところを突かれて、むぅと押し黙る。

 喧嘩したくないし、自分が悪いので仕方なく謝ることにする。


「ごめんなさい」


 少女の顔に反省の色を見て取って、少年は息を吐く。


「よし。じゃあ帰ろう」

「うん!」


 少女は兄の手を取り、ブンブン振りながら歩き出す。

 兄は仕事をしているので、いつも迎えに来るわけではない。

 仕事が早く終わった日限定だ。

 昔は毎日、一人遊びに出ている自分を迎えに来てくれていた。

 ほっといてくれていいのにと煩わしく思うこともよくあった。

 珍しい出来事となった今では、遊びを中断させられても、お迎えは嬉しい。

 繋いだ手が嬉しくて、歌を歌う。

 楽しい気分は森を出てすぐに壊されてしまった。


「あ、不思議ちゃんと『お兄ちゃん』だ」

「相変わらず仲の良いことだな」

「そのまま結婚式でも挙げたらどうだ?」

「末永くお幸せにってね」


 街の意地の悪い男の子たちだ。

 少女のことを「不思議ちゃん」と呼んで、何かとちょっかいをかけてくる。

 普段は知らんぷりを決め込んで相手にしない。

 だけど、兄までもからかいの対象にするのは許せない。

 拳を振り上げて追いかけようと一歩踏み出す。

 察した少年たちは笑いながら走り出す。

 二、三言追加で投げつけられた言葉でカッと頭に血が上る。


「黙れぇ!」


 叫んで今度こそ走り出す。

 その腕を取られて、急制動をかけられた。

 文句を言おうと振り返ると、兄が苦々しい笑みを浮かべて首を振った。


「言わせておけ。ああ言うことを言いたい年頃なんだ。乗ってやる方が馬鹿馬鹿しい」

「でも……」

「大丈夫だ。気にするな」


 頭を撫でられて、笑顔で言われたらもう従うしかない。

 それでも、少女は心の中で思う。


 人の気持ちも知らないで。


 自分を怒らせるために投げた言葉が、兄の心も傷つけている。

 少女は兄に好きな人がいることを知っている。

 誰が好きなのか、知っている。

 だから、自分とそんな風に言われるのは本当は嫌なのだ。

 けれど、少女が生まれた時に少女の母親からお願いされたことを律儀に守っている。

 少女が一人で歩けるようになってから、ずっとそばにいてくれている。

 危険に合わないように、一人で困ったことにならないように。

 もう大丈夫だよと言っているのに、本当の兄のように心配性で。

 自分も兄が好きで一緒に居られるのは嬉しい。

 けれど、そう言う『好き』ではないから。

 兄があの人とうまくいくには、自分は邪魔かもしれないと思うこともある。

 でも、どうしようもない。

 自分はここにいるのだから。


「さあ、あんな奴らほっといて帰ろう」


 深呼吸して、気持ちを鎮める。


「うん、帰ろう!」


 明るく言って、もう一度兄の手を取る。


   *


 今日の散歩コースはお隣さんの果樹園だ。

 収穫の時期は終わっているので、木の状態は少し寂しい。

 それでも一本の木に四、五個は果実が残っている。

 わざと少し残してあるのだ。

 自然の土地を借りて人の食べ物を作っているから、借地料を払わなければならないのだと農園の管理人は笑って言っていた。

 具体的にはそこに住む生き物たちが生きていけるだけの果物を残しておく。

 彼らがそこに居て、自然の循環を維持してくれているから私たちも日々の糧を得られる。

 そのことを忘れないように。

 数年前には難しかった言葉が今は理解できる。

 よく熟れた林檎を小鳥がつついている。

 あの鳥は花の頃には蜜を吸う。

 蜜を吸う時、小鳥は頭に花粉をつけて次へと飛び立つ。

 鳥に運ばれた花粉は次の花の雌しべに付く。

 そうやって実は結ばれる。

 ミツバチや蝶なども同じだ。

 人はその恩恵に預かっている。

 人もその循環の中の一つなのだ。

 家を作り、田畑を耕し、羊などを飼って、さも自分達だけで生きている気になっているけれど。

 そこには人が目を止めることもない自然からの働きかけが無数にあって。

 だから、それらを堰き止めた場所で人はきっと生きられない。

 そんな場所なんて想像もできないけれど。

 

「ん?この辺りはまだなんだ」


 まだ枝にたくさんの林檎がなっている。

 同じ林檎でもいくつか種類があって収穫時期も少し違うと聞いたことがある。

 この辺りは収穫時期が少し遅い種類なのかもしれない。

 と言うことは、誰かいるだろうか。

 今の時期に農園にいるのは、農園の管理人の家族か日頃からいるお手伝いさんで、少女はどちらとも仲良しだった。

 仕事を邪魔するわけにはいかないが、休憩中だったら少しお話ししたいなと思う。

 耳を澄ませながら歩いていく。

 話し声と笑い声が聞こえてきた。

 ひとまず見つからないように近づいていく。

 声の主は農園の双子の姉の方のお姉さんと、その幼馴染のお兄さんだった。

 バスケットを間においてお茶をしながら楽しそうに笑い合っている。


 仲直りしたんだ。


 思わず少女も嬉しくなる。

 一昨日、農園の林の中でお姉さんと会った。

 その時お姉さんは泣いていた。

 優しくしたい人に怒ってしまったと言って。

 誰とは聞かなかったけれど、きっとあのお兄さんのことだと思った。

 少女は農園の双子とお兄さんの関係はどこか特別なものに感じていた。

 お姉さんが泣いていた日の午前中に結婚式を挙げた二人に近い在り方。

 お話のお姉さんと自警団のお兄さん。

 この街で二人ほど多くの人々に好かれている人はいないだろう。

 少女も二人が好きで、兄と一緒にお祝いに行った。

 街の中でもその二人といる時だけは、周りを気にしなくて済んだ。

 その二人とあのお兄さんも何かあるんだろうなと思わせる不思議な関係を感じていて。

 お姉さんの言葉でほんの少し理由がわかった。

 そして、そんなにお姉さんはお兄さんのことが好きなんだなあと思って少女はそのまま言葉にした。

 お姉さんは驚いた顔をしていた。

 気づいていなかったのかなって不思議に思った。

 そのあともお姉さんは泣いていて。

 でも、さっきまでと違う泣き方のように思えたから少女はそっと家に帰った。

 今、お姉さんはとても幸せそうだ。

 自分も混ざりたくなって、木の影から出て行こうと身を乗り出す。

 突然後ろから肩を抑えられた。

 悲鳴は口元を覆った繊細な手によって防がれた。


「驚かしてごめんね」


 口を覆う手を伝って見上げると、双子の妹の方のお姉さんだった。


「でも、せっかくいい雰囲気だから二人っきりにしておいてあげてほしいのよ」


 お茶をしている二人に目を戻す。

 なんとなく二人の周りは陽だまりの中のようにキラキラして見える。

 自分があの中に入って行ったらそれがなくなってしまうかもしれないと言うのはわかる気がする。

 少女は素直に頷いて、その場に留まった。


「ありがとう」


 優しく頭を撫でられて嬉しくなる。


「ところで、お姉さんは何してるの?」

「うん?えーっと、そうね。やっぱり心配だから様子見?」


 ちょっと困った顔で答える。

 双子のお姉さんたちは仲良しだ。

 見た目はそっくりでも姉はおっとりしてて、妹は活動的。

 少女にはどちらもしっかり者に見えていたけれど、妹から見ると姉には心配なところがあるらしい。

 今は少女もちょっと心配だ。

 目の前の妹の方が。

 二人を優しく見守るその瞳は、とても寂しそうであり。

 胸が張り裂けそうなくらい切なそうであり。

 何か言わなければと思うのに言葉が出てこない。


「やっぱり、あなたは鋭いわね」


 お姉さんが肩を竦める。


「いいのよ。大切な二人が幸せになるなら、私にとってもこれほど幸せなことはない。それはどうしようもなく本当のことなの」


 そうかもしれないけれど。


「ああ、なんであなたが泣きそうな顔になっているの。大丈夫だから泣かないで」


 抱きしめられて、そっと背中をさすられる。

 それで涙は必死に堪えた。

 ここで自分が泣くのは違うと思うから。

 お姉さんが少女の顔を覗き込む。

 泣いてないのを確かめてほっとしたようだった。


「あ、まずい。用事があったんだった。またね」


 お姉さんが駆け去っていく。

 その横顔は今にも涙が溢れそうだった。


   *


「どうして、こう上手くいかないのだろうねえ」


 少女は露の精霊の少年に数日前のことを話している。

 森の中の特別な露が降りた空き地。

 少しずつ移動して、もう森の端にほど近い。

 同じように季節も進んだようだ。

 初めて露の精霊に会った時はまだ普通の長袖でも平気だった。

 今は少し厚手の上着が欲しい。


「ああ、そうだな」


 少年はどこかぼんやりと応える。

 いつもと違う様子に心配になる。


「精霊でも風邪とか引いたりするの?」


 話はちゃんと聞いていたようだ。

 突然話題が変わって、目を瞬かせている。


「人間みたいな病は精霊にはない。あるのは、力を使い過ぎて疲れることくらいだな」

「じゃあ、お仕事か何かで疲れているの?」

「なぜ、そう思う?」

「なんか、元気がないよ」


 少年は黙ってしまった。

 どこか遠くに目をやる。

 相変わらず少年は空き地の真ん中で、少女は空き地の外。

 時々この距離がもどかしい。

 いや、空き地に入るなと言われなことはない。

 ただ、せっかく綺麗な露を踏みつけてしまうのがもったいなくて入れなかった。

 それにこの距離が正しい距離のように感じていた。

 何がどう正しいのかはわからないのだけど。

 少女は枯葉を払って立ち上がった。

 スカートの裾を持ち上げ、意を決して空き地に踏み込む。

 なるべく露を壊さないようにそろりそろりと歩く。

 少年の前に来てしゃがみ込む。

 少年の顔を覗き込む。


「ねえ、どうしたの?」

「!」


 少年は仰け反って、顔を赤くする。

 少女は不思議そうに首を傾げる。

 少女の瞳は真っ直ぐに少年を見ていた。

 真摯で、誠実で。

 二人を囲む朝露のように透明な光を湛えて。

 とても綺麗だった。

 目を外らせなくなってしまうほどに。

 少年は溜息を吐いた。


「お前もわかっているだろう。僕とお前は今日でお別れだ」


 少女は悲しいことを思い出したように眉を寄せる。


「そうだね。私が来られるのはこの森まで。その先までは遠くて追いかけられない」


 でも、とにっこり笑う。


「また、会えるでしょう?冬将軍が北へ帰る時か、季節が一巡りしたら」


 少年が首を横に振る。


「会えない」


 少女の瞳が大きく見開かれ、見る間に潤んでいく。


「どうして?」


 少年は静かな表情で言った。


「冬将軍のような力の強い精霊は役目を終えると精霊の常若の国へと帰り、次の役目の時を待つ。けれど、僕らのような弱い精霊は役目を終えたら大気に溶けるんだ。そして、役目が生じたらまた大気から生まれる。それは露の精霊ではあるけれど、僕であって僕ではない精霊だ」


 少女はよくわからないと言うように首を振る。

 少年は息を吸う。


「つまり、僕は役目を終えたら一旦消える。死ぬと言ってもいい。そして、次の季節にまた生まれる。見た目や能力は同じかもしれない。でも、今のこの僕と同じものではない。君と会った記憶を持たない露の精霊だと言うことだ」


 少女が涙を零しながら問う。


「じゃあ、季節が終わるごとに死んじゃうの?」

「そうだ」

「それって、悲しくない?」

「それが普通だから、なんとも思わなかった」

「……思わなかった?」


 少年がもう一度深く息を吸う。

 そうしないと言葉が出せないとでも言うように。


「失くすのが惜しいと思ってしまったんだ」


 少年の顔が歪む。


「君のせいだ」


 一瞬で涙が止まる。


「私のせい?」

「そうだ。君が僕を見つけて、話に来るから。……それがとても楽しかったから」


 少年は泣きたいのに涙が出ないかのようだった。


「君と二度と会えなくなるのが辛い」


 そんなの少女だって辛い。

 できるなら、消えないでほしい。

 でも、少女は精霊のことを何も知らない。

 すがるような思いで尋ねる。


「どうしても、どうにもならないことなの?」


 少年は言うか言わまいか迷って、結局口を開く。


「一つだけ方法がある」


 少女は顔を輝かす。

 けれど、少年の表情は暗いままだ。

 少女は気付かず続きを促す。


「どうすればいいの?手伝えることがあれば手伝うよ」

「伴侶を得て、役目を外れる。そして、常若の国へ移住する。そうすれば力の弱い精霊も消えずにいられる」


 少女は難しい言葉に首を傾げる。


「はんりょ?」

「結婚相手のことだ」

「じゃあ、結婚相手を見つけて、露払いの役目を降りて、精霊の国へ行けばいいんだね」


 少女は嬉しそうに言う。

 少年は首を横に振る。


「そう単純な話ではない。それはあくまで消えないでいられる方法だ。それを達成できても、君と二度と会えないことには変わりない」

「なぜ?」

「常若の国へ移住したら、基本的に人間の世界には来られないからだよ。行き来できるのは特別な役目を与えられたごく一部の大精霊だけだ。でもー」


 少年が少女の目を覗き込むように見つめる。


「君が一緒に来てくれるなら、別れはなくなる」


 少女は一瞬何を言われたのかわからなかった。

 瞬きを繰り返して、言葉の意味を頭に浸透させる。


「私があなたと精霊の国へ行く?」

「そうだ」

「人が精霊の仲間になる?」

「可能だ。過去に例がある」

「でも、精霊の仲間になって精霊の国へ行ってしまったら……」

「そう、二度と人間の世界には戻って来られない」


 だけど、と露の精霊は続ける。


「この人間の世界は君にとって生きづらいだろう?」


 その通りだ。

 自分を正しく理解してくれない人が大勢いて。

 時々息ができなくなりそうな時もあって。

 止まっていた涙が一雫、頰を流れた。


「それでも、私はあなたと一緒に行けない」


 胸がずきずきと痛む。


「生きづらい世界であっても、私のことを助けてくれる人や守ろうとしてくれる人たちがいるから」


 歯を食い縛るように言葉を紡ぐ。


「その人たちの笑顔が私も好きだから」


 少女は泣き笑いを浮かべる。


「私はここで生きていかなくちゃ」


 露の精霊は少しの間俯いて、顔を上げた。

 少女と同じ、泣きそうな笑顔を浮かべて。


「うん。知っていた。君がそう言うだろうことくらい、わかっていたよ。短い付き合いでもわかるくらい君は真っ直ぐな人だから」


 何を考えているのかわからないと言われることはあっても、わかりやすいと言われたことはなかった。

 そんな風に言ってくれる相手を突き放す。

 そのことが自分自身も傷つける。

 それは聖なるものを傷つけた罰なのか。

 少年が束の間、目を閉じる。

 再び現れた瞳にはもう静かな光を湛えていて。


「僕は今まで通り役目を終えて消える。そして、生まれ変わる」


 少年は静かに微笑んで続ける。


「君に出会わなかったことにする。それでも、今回の役目を終えて消えるまではこの思い出を大切に持っていよう」


 少年が少女に手を伸ばす。

 その腕に少女を包み込む。

 触れられないと思っていたのに、本当は触れようと思えば触れられたのだとようやく知る。


「ありがとう。楽しかったよ。だから、君の幸せを祈ろう」


 抱擁は一瞬で、少年は少女から距離を取る。


「さようなら」


 いつもと同じ別れの挨拶。

 けれど、いつもと違う音。

 いつもは言葉にせずとも含まれているものが、今は含まれていない。

 それだけで同じ言葉がこんなにも切なく響くこともあるのだと、初めて知った。


「さようなら」


 少女も精一杯の笑顔で別れを告げる。

 露の精霊は眩しいものでも見るように目を細めて背を向ける。

 次の瞬間には、森の空き地に少女一人きり。

 少女の周りで、朝露が変わらずにキラキラと光っている。

 それももうしばらくすれば消えて行くのだろう。

 少女は目を閉じる。


「私は、なかったことにしないよ。ずっとずっとあなたのことを覚えている」


 楽しく話したことも怒られたことも、傷つけてしまったことも。

 少女は全部抱えて、ここで生きて行く。

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