第8話 雪の覇者 後編 上

「待って」


 叫ぶ。

 名を呼ぶ。

 手を伸ばす。

 こっちを見ろと。

 祈るように。


 *


「はぁ」


 こっそりと溜息を吐く 。


 今日こそはと思っていたのに。


 少年は自警団の先輩達の後を追い、最後尾につく。

 さっきまで一緒に歩いていた少女のことを思う。

 元気がなく見えたのはきっと気のせいではない。

 それに持っていた籠は思ったよりも重くて、もう少し運んであげたかった。

 会話が途切れるのが怖くてどうでもいいことを喋り続けて、肝心なことが言えていない。

 ダメなやつだと自身を思う。


「溜息なんかついちゃって、良い雰囲気の所を邪魔して悪かったな?」


 一番後ろを歩いていた先輩が歩みを緩めて隣に並ぶ。

 こっそりのつもりが気づかれていた。

 そんなことよりも、良い雰囲気と言われてうろたえる。


「そ、そんなんじゃありません!」

「じゃあ、どんな関係だぁ?」


 別の先輩までが絡んできた。

 そう言えば、と少年は思う。

 先輩達に彼女と一緒にいるところを見られたことは今までなかった。

 自分も彼女も街の外れに住んでいて、彼女が街の真ん中に来るのは何か用事がある時だけだ。

 話をすることなんて、小さい頃と違って、妹を探しに行って会った時くらい。

 それは決まって彼女の家の敷地の中で。

 彼女の家は農園を管理している。

 その広い敷地には畑や果樹園などがあり、子供が冒険するにはもってこいなのだ。


「幼馴染み、みたいなものです」


 ついぼかした言い方になってしまう。

 近所ではあるが、畑や果樹園のために家はさほど近くとは言えない。

 そのために毎日顔を合わせていたと言うほどは一緒に遊んでもいない。

 毎日顔を合わせていると言うなら、あの人の方が余程幼馴染みと言えるだろう。

 思い出して、少し胸が塞ぐ。


「ふ~ん」


 間違いなく違う解釈をしている。

 先輩達はニヤニヤしながら何かを勝手に納得している。

 思わず反論が口をつく。


「だ、だから、違いますって」

「何が?」

「!!!」


 先輩達は具体的な事を何も言ってない。

 ここで自分が言ったら、結局認める事になる。

 自分がさっきまで一緒に歩いていた少女を好きだということを。

 いや、間違っていないのだけど。

 他人に対してそれを認めるかはまた別の話だ。

 先輩達の勝手な想像はかなり合っているような気がする。

 だからより問題があると言うか。

 どちらにしろ、墓穴を掘ったようなものだ。

 頰が熱くなって、口はパクパクと開閉するばかりで言葉も出ない。


「こらこら。後輩いじめはやめなさい」


 前の方を話しながら歩いていた先輩が振り返って助けてくれる。

 笑いを含んだ言い方ではあったけれど。

 柔らかな笑顔を浮かべるこの先輩は街の女の子達の憧れの的だった。

 だったと言うのは、この秋めでたく結婚をしたから。

 陰で彼を王子様のように噂していた少女達の嘆きようと言ったらない。

 それを見た年頃の男達もまた深い溜息を吐いたものだ。

 当の先輩本人はそんなことを知らない。

 誰にでも優しい彼はずっとたった一人の少女しか見ていなかった。

 だから、周りは嫌味の一つも言えない。

 同性から見ても本当に気の良いやつなのだ。

 憧れこそすれ憎めるものではない。

 少年にとってもこうなれたらと思ってやまない、そんな存在。

 だからなぜ、自分なのだろうと思う。

 自警団の次の長のことだ。

 少年は現在の自警団長の息子だ。

 決して世襲制なわけではない。

 けれど、代々少年の家が引き継いでいる。

 理由は家宝の剣にある。

 家の中で一番立派な来客用の部屋に、恭しく飾られている。

 竜鱗の剣。

 街に受け継がれる昔話の主人公の持ち物だと伝えられている。

 昔話の主人公は好奇心は強いけれど、臆病だった少年。

 勇気を手に入れる方法を尋ねるため、竜を訪ねて険しい山を登った。

 竜はその勇気の証に己の鱗から作った剣を少年に与えた。

 後に主人公は街を襲った人食い魔物をその剣で打ち倒し、初代の自警団長になった。

 その主人公の家系が少年の家だと言う。

 はっきり言って信じられない。

 ただのおとぎ話としか思えない。

 街の人々がどこまで信じているかはわからない。

 でも、それが理由になっている。

 特に問題が無ければ、自然に少年の家から長が選ばれてきた。

 少年も当たり前のようにそうなるものだと思っていた。

 自警団の仲間入りを果たすまでは。

 誰よりも優しい、あの先輩に出会うまでは。

 二つ年上の彼にはちょっとした武勇伝がある。

 十年程前、街に新しく家族が引っ越してきた。

 新入りの家族には同い年の女の子がいて、引っ込み思案の大人しい子だった。

 その子が年上のタチの悪いいたずらをする少年達に目をつけられてしまった。

 大人達は気づかず、周りの子供達は見て見ぬふり。

 たった一人、女の子の手を取り離さなかったのが彼だった。

 自分が友達から仲間外れにされてまで、挙句に一晩失踪することになってまで。

 一人の女の子を守った小さな英雄。

 人から聞いた話だ。

 当時の少年の行動範囲は年相応に狭く、自分の家を中心とした街の端っこだった。

 彼が失踪した時は自警団が総動員で街中を探し回ったのだが、少年には何を大騒ぎしているのだろうと言う程度の認識でしかなかった。

 彼の行方を知らないか聞かれもしたけど、顔を知っているだけの関係だったから何があったのか聞こうと言う考えも浮かばなかった。

 幼かった少年にとって、どこか知らない場所で起きて終わった出来事だった。

 少年が知るきっかけとなったのは、行動範囲が広がり、彼を見かける機会が増えたこと。

 もう一つ、少女の家に通うようになっていた年上の少年と知り合ったことだ。

 知り合ったと言っても、幼馴染みの家に遊びに言ったら目つきの悪い年上の少年がいて睨まれたと言う話だ。

 あとで少女といつも一緒の双子の姉がすまなそうな顔をして事情を説明してくれた。

 その時はまだ事件の事は知らなかった。

 少女らが話してくれた事情には含まれていなかった。

 暫くして街中で彼と例の女の子が一緒に歩いているのを見かけた。

 その時隣にいた新しい友達が事件の詳細を教えてくれた。

 それでもそんなことがあったのか程度だった。

 自警団に入って、彼と直接関わるようになって初めて実感した。

 おそらく若い世代の中では彼が最も街の人々に信頼されている。

 裏表がなく、真っ直ぐな性格。

 騙されやすいわけではないけれどとても素直で、純粋と言っても良い程。

 力自慢ではないけれど、身のこなし方が上手くて武術に秀でている。

 誰にでも優しく、噂話や陰口の類は取り合わない。

 決して目立つ人ではない。

 でも、誰からも頼られる。

 彼は若手のリーダー格な訳でもないが、少年にはこういう人がリーダーにふさわしいのではないかと思えた。

 自分を省みて、何も持っていないと思ってしまうほどに。

 今だって少年のことを気遣ってくれる彼のことを眩しく感じてしまう。


「悪いお兄さん達は置いていこうか」


 爽やかな笑顔でそんなことを言って、少年の肩に手を置く。

 そのまま他の先輩たちを置き去りにして、すたすたと歩き出す。


「あ、ずりいぞ。ちゃっかり自分の株、挙げやがって!」


 悪いお兄さん呼ばわりされた先輩達が彼を小突きに追いかけてくる。

 それをひらりと躱して、笑っている。

 小突くのに失敗した先輩達も笑っている。

 釣られて少年も笑った。

 話題は別のものに移って、そうこうしているうちに目的地に着いた。

 街の中心にある古い時計塔。

 塔と言っても、尖った屋根の先端を入れて三階分くらいという高さだ。

 周辺は一階建ての建物が多いけれど、街全体として見ればはっきり言って埋もれている。

 それでも、この時計塔が街の歴史そのものであり、この街がこの街である証だった。

 だから、年の瀬の点検整備を兼ねた大掃除は大切な行事だ。

 すでに時計職人と大工の師弟が塔の前で待っていた。

 大掃除を取り仕切るのは整備を請け負う時計職人と大工の親方だ。


「よし、集まったな。それじゃ、三、四人集会所に行って掃除道具を借りてこい。ありったけ持ってくるんだぞ。バケツに水を汲んでくるのも忘れるな」


 逞しい大工の親方がまず指示を飛ばす。

 時計職人の親方が大きな鍵を扉に差し込む。

 ガシャンと重厚な音が鳴る。

 分厚い木製の扉が軋みの音ひとつ立てず滑らかに開く。

 毎年きちんと手入れをしている成果だ。

 時計職人を先頭にゆっくりと開いた扉の中へと入って行く。

 思ったより埃っぽくない。

 ほとんど人の出入りがなく、建物自体に隙間が少ないせいだろうか。

 見上げると吹き抜けの天井は高く、屋根の裏側は闇に霞んでいる。

 巨大な歯車が規則正しく時を刻んで動いている。

 その音を聞いているうちに、この時計塔が街の歴史そのものだと言う年寄り達の言葉が実感できた。

 時計塔の中に街の経てきた時間が込められている。

 掃除道具を取りに行っていた先輩達が賑やかに戻ってくる。


「よーし、班分けするぞ。まず、お前と」


 大工の親方が真っ先に憧れの先輩を指名する。


「他に器用な奴は?」


 少年に視線が集まる。

 隣の力自慢の先輩がガシッと肩を掴む。


「こいつは器用ですよ。細かい加減の必要な仕事にはぴったりです」


 親方が頷く。


「じゃあ、お前も時計の補佐だ。それから、うん、去年のがいるな。そこの三人は俺の補佐な。あとは掃除担当。まずは点検をするから掃除担当は指示があるまで待機!」


 大工の親方が時計職人の親方に目をやる。

 時計職人は無言で頷きを返す。


「それじゃあ、作業を始める」


 始めると言われても初めて参加する少年にはどうしたらいいかわからない。

 時計職人の補佐なのだからその指示に従えば良いのだろうけど。

 今の時計職人の親方は無口で気難しいと評判に聞いたことがある。

 うまくやれるか心配だった。

 突然、ポンと肩を叩かれる。

 真っ先に時計職人の補佐に指名された先輩が笑顔で言った。


「そんな緊張しなくても大丈夫だよ。時計の親方は気難しいと言われるけれど、実際はそんなことないんだ。無口で決して愛想の良い人ではないから、誤解されやすいだけでね。お弟子さんには自分で技を盗めって厳しいらしいけど、僕らのような手伝いには的確に指示してくれるよ」


 背中を押されて時計職人の元へと行く。

 親方は無愛想にじっとこちらを見て、弟子は対象的に微笑みを浮かべて迎えてくれる。


「今回もよろしくお願いします」


 弟子が先輩、次に自分を見て頭を下げる。

 今回も、と言うことは先輩は去年も彼らと一緒に作業をしたと言うことか。


「こちらこそよろしくお願いします」


 先輩に合わせて少年も頭を下げる。


「よろしくお願いします」


 親方が一つ頷く。


「うむ。よろしく頼む。では、ついてきなさい」


 失礼ながら唖然としてしまう。

 よろしく頼むとか言われるとは思わなかった。


「ね。意外と平気そうでしょう?」


 先輩が小声で言う。

 聞こえたらしい弟子が振り返って苦笑する。


「あんたがいるから余計だけどね。去年の仕事ぶりで親方、あんたのことが気に入ったみたいだからな。あんたがいなかったら、よろしくなんて言わないと思うよ」

「余計なこと、言わんでよし」


 親方が肩越しに弟子を睨む。


「げ。聞こえてた」


 弟子が先輩の後ろに隠れる。

 親方は一つ鼻を鳴らして前を向く。

 先輩がくすくす笑う。


「なんだかんだ言っても、仲良し師弟だよね」

「これを仲良しって言えるあんたは大物だと思うよ?俺は」


 思わず吹き出してしまった。


「おいおい、笑い事じゃないんだぞ。なんとか言ってやってくれよ」

「無理です。こう言う人なんで」

「あー。苦労すんな、お前も」

「ちょっと君達、失礼なこと考えてない?」


 そんなやりとりをしながら時計の裏へと階段を上がる。

 大人が両手を広げてやっと両端に手が届くような大きさの歯車がゆっくりと動いている。

 それより小さな歯車がいくつも重なりあって動力を伝えている。

 くすんだ金属が微かな光を弾く。

 巡る幾何学模様が時の魔法を紡いでいるような、不思議な威厳がその絡繰りにあった。

 少年は我知らず背筋を伸ばす。


「よしっ。やりますか」


 弟子が傍にある金属の梯子を登る。

 親方は身を屈め、下から歯車を覗き込む。

 梯子の天辺に着いた弟子が上から、親方と同じように歯車を見ていく。

 時々、発光石のライトで奥を照らしながら。


「時計は止めないんですね」


 まるで儀式のようにも感じられる二人の作業を見守りながら、呟きが溢れる。


「掃除の時には止めるけどね。動きや音を見ることで些細な異常も見逃さないようにしているんだって」


 先輩が彼らに尊敬の眼差しを向けている。


「僕達にはわからない何かを捉えて仕事をする。魔法使いみたいだなって時々思うよ」


 うっかり口を滑らせたと言う顔をして、先輩が照れ臭そうに笑う。


 ああ、本当にずるい人だ。

 いつまでも幼い子供みたいに綺麗な心のままで。

 まるで、憎しみや嫉妬心とは無縁のように。


「親方!上からは問題なしです」

「うむ、下も異常はなかった。では、手入れに移るぞ」

「了解です」


 点検が終わって弟子が梯子を降りる。

 そのまま階下へと駆けていく。


「何しに行ったのでしょう?」

「時計を止めに行ったんだよ」

「時計を止めに?」

「うん、詳しくは知らないけれど、地下に川から引いた水が流れていて、それが時計を動かす動力になっているらしいよ。だから、時計を止めるには、地下の水流を止めないといけないんだ」


 弟子の背中を目で追うと、一階の隅の床の蓋を上げて更に下に降りていく。

 冒険心がくすぐられる。

 覗きに行こうかと足を向けかけるが、弟子はもう床上に顔を出した。

 軽快な足取りで戻ってきて、ポケットから時計を取り出す。


「完全に止まるまで五分くらいかかるから、もう少し待ってな」


 弟子が時間を確認して補佐の二人に言う。

 それ切り弟子も親方もじっとして動かない。

 精神統一をしているのか、時計が止まる音を聞いているのか。

 階下のざわめきが遠のくような短くて長い時間。

 釣られるように時計の音に耳を澄ませていた。

 ギィと音が鳴って、最後の制動がかかる。


「では、取りかかろう」


 親方が指示を出す。

 弟子が応える。

 少年は弟子に手招きで呼ばれる。


「ここ、支えてくれ」


 言われるまま、歯車に手を添える。

 弟子の手が離れる。

 ずっしりと重みが来た。

 でも、思ったより重くない。


「意外と軽いだろう?」


 弟子がその歯車を軸から外しにかかりながら言う。


「合金と言って数種類の金属を混ぜた金属を使ってあるんだ。合金は使う金属の配合によって性質が変わる。これは強度と軽さを重視しつつ、錆びにくいようになっている。すごいだろう?」

「おまえが偉そうにするな。ご先祖様の偉業だ」

「わかってますよ。だから、誇らしいんじゃないですか!」


 ふんと鼻を鳴らして時計職人の親方は昔語りを始めた。


 ここからずっと南の海辺に街があった。

 今もあるかもしれないし、或いは滅んでしまったかもしれない。

 確かめに行くには遠いし、誰もその必要性を感じなかった。

 だが、その街が我らの故郷だ。

 その街は大きな港を抱えていて、海路と陸路を繋ぐ拠点として栄えていた。

 裕福な街だった。

 だが、街に住む者全てがその恩恵に与れていたわけではない。

 街を支配していたのは、港を管理する役所の者と交易を行う商人達だった。

 それ以外は飢えこそしないが、重い税を課せられ身分も細かく分けられ縛られていた。

 例えば住む場所だ。

 富豪と役人は街の高台に、その周りに彼らと取り引きのある商人や職人。

 その外側に普通の市民や職人。

 街の外壁に貼り付くように暮らすのが日雇いの労働者など、市民として数えられているかも怪しい人々だ。

 それぞれ決められた場所で、決められた仕事をして日々を営む。

 自由にして良いのは高台の住人だけ。

 職人の場合は、使う材料や技術、完成品の販売先まで決められていた。

 日々を暮らすのに支障はない。

 だが、そこからは新しいものが生まれない。

 新しい技術を探求し、より良いものを生み出す意欲のある者には窮屈だ。

 特に気力溢れる若者達には。

 ある時、身分と分野を超えて意欲のある若い職人達が集まって親方衆に談判を持ちかけた。

 役人達にも直訴状を送った。

 だが、その結果は関わった全ての者の長期謹慎処分。

 きちんと手順を踏んだにも関わらず、親方衆も役人も全く聞く耳を持たなかったのだ。

 それで半分は諦めてしまった。

 残り半分は街に未来はないと見切りをつけた。

 街を見限った若者達は人目を盗んで街を出た。

 恋人や妻を伴って出た者もあり、二十人ほどの集団となった。

 金工、木工、大工など各分野から一人か二人ずつ。

 この顔触れなら新たに街を築くこともできるだろう。

 ならば、良い土地を探して街を築こうとなった。

 自分達の考える、自由で活気ある街を。

 あの街の近くでは見つかって潰されてしまう。

 役人や親方が追って来られないくらい離れた場所であることが必須だ。

 街を出た若い職人達全員にとって良いと思える場所を探す旅が始まった。

 海岸に沿って歩き、大きな川に出会った。

 綺麗で豊かな水も必要なものの一つだ。

 川を遡って行けば、まずその条件に適った土地に会えるだろう。

 その川を周辺の木々や土の様子を見ながら進んで行った。

 途中で大きな村を見つけてその辺りの土地のことを聞いた。

 彼らはさらに上流へ向かい、川が分岐している所で支流へと入った。

 支流をさらに遡ってこの土地を見つけた。

 彼らが遡って来た川はこの街の東を流れる大川だ。

 綺麗な水があり、木があり土があり、金属を手に入れるのも難しくない。

 全ての職人がここでならと思える土地だった。

 皆が生活できる程度の小屋を最初に建てた。

 その小屋を改装したのが集会所だ。

 そこから順番にそれぞれの工房と家を皆で力を合わせて造り始めた。

 木を切り、土地をならし。

 切った木を使って建物を建てた。

 その頃に彼らは不思議なモノに出会った。

 海辺の故郷で見ることはなかった不思議な力を持ったモノ。

 それらは住処を壊される危険を感じたようで、職人達を追い払おうとした。

 職人達もそれらを追い払おうとした。

 すぐにそれは間違いだとわかった。

 追い払うために、それらに注意を払っているうちに知ったのだ。

 それらが土地を豊かなものにしている。

 それらの力がなくなればこの土地は衰えてしまうだろう。

 職人達は不思議なモノ達に呼びかけた。

 この土地を壊さないように大切にする。

 木を切り過ぎない。

 川に汚れた水を流さない。

 土を掘り過ぎない。

 他にも土地を汚すようなことはしない。

 良き隣人になろうと。

 誓約の証に持てる技術を全て注ぎ込んで時計塔を建てた。

 時計塔と共にこの誓約を次代へと受け継ぐ。

 時計塔が時を刻み続けている限り誓約が破れることはない。

 不思議なモノ達もそのうちに納得してくれたようで何もして来なくなった。

 そして約束を守りつつ街を広げて、今の形になった。 


 過去の情景が脳裏に浮かぶ。

 まるで時を遡ってしまったかのようだった。

 我に返り、目を瞬く。

 いつの間にか作業は終盤を迎えている。

 弟子が歯車の横の扉から出てきた。


「文字盤も針も異常なし。ピカピカにしてきましたよ」

「うむ、ご苦労さん」


 扉に鍵をかけた弟子が少年の手元を覗き込む。


「うん、上出来だ」


 本来の光沢を取り戻した歯車が黒くなった布の上に乗っていた。

 それをひょいと持ち上げて、親方にも見せる。


「ふむ。よく出来ている。来年もお前さんが来ていたら、指名させてもらうとしよう」


 呆然として、それから胸が熱くなる。

 こんなに真っ直ぐに褒められるとは思ってもみなかった。

 親方と弟子が順序良く歯車を軸に戻していく。

 先輩も手渡したり、支えたりしてどんどん仕上がっていく。

 慌てて立ち上がって、手伝いを再開する。

 最後の歯車が元の場所に収まった頃、階段をどすどす上がってくる音がした。


「時計の塩梅はどうだ?」


 大工の親方が進捗の確認に来たのだ。


「丁度終わったところだ」


 時計の親方が答える。

 大工の親方がニヤリと笑う。


「こっちも大方終わった。じゃあ、後片付けが終わったのから集会所でいいな?」

「構わん」


 よしっと今度は階下に向けて大声を張る。


「担当場所が終わった者から、集会所に行ってよし。温かい汁物を用意してくれているから、用意してくれた女性陣に感謝しろよ。もちろん、借りて来た掃除道具を綺麗にして返すんだぞ」


 大工の親方が時計の親方を振り返る。


「じゃあ、後でな」

「おう!」


 にやりと笑みを交わし、大工の親方が戻って行く。

 親方には最後の仕上げとかもう少しやることがあるのだろう。

 そのあとで酒盛りの約束でもしているのかもしれない。

 時計の親方がこちらを向いた。


「お前さん達もご苦労さん。集会所で汁物をもらって、一息着いてから帰るといい」

「でも、後片付けがまだです」


 思わず言うと、ちょっと物珍しいそうな顔をされた気がした。

 弟子が小気味良い笑い声を立てる。


「ははは。片付けはいいよ。と言うか、薬剤を使用して汚れたものだから、洗うにも専用の薬剤が必要なんだ。加減が難しいから素人にやらせるわけにはいかない。あんた達は自分の手を綺麗に洗うだけでいい。ああ、普通の石鹸で落ちないようなら、手洗い用の洗剤を貸すから言ってよ」


 それにしても、と感心している様子で弟子が続ける。


「えらいなぁ。自分だったら、片付けなんて気にせずやったぁって行っちゃうな。面倒見がいい?よく気がつく方だろう?」

「そんなことは」


 ない、と言おうとした。

 けど、先輩が被せて逆にする。


「ある、よ」

「いえ、なーー」

「やっぱりな」


 弟子も先輩の言葉の方に頷く。


「それはそうだよ。不思議ちゃんのお兄さん役で、未来の団長なんだから」

「将来有望の好青年て奴だな」


 背中をバシッと叩かれて、時計塔の外に送りだされた。


「なんだか機嫌が悪そうだね?」


 集会所で一休みした後。

 帰り道を歩きながら先輩が少し困った顔で言う。

 無視するのも感じ悪いので、重々しく口を開く。

 我ながら口調が刺々しい。


「…なんであんなこと、言ったんですか?」

「あんなことって?」


 先輩が本気でわからなさそうな顔をしている。

 当たり前だ。

 こんなの、他人にわかる訳がない。


「…未来の団長とか」


 やっぱり意外そうな顔になる。


「オレは、自分が団長にふさわしいとは思えない。先輩の方がずっと相応しい」

「そんなことはないよって、言っても駄目なんだろうね」


 先輩がう~んと考える。


「じゃあ、ちょっと寄り道しない?」


 先輩が一歩前に出て歩き出す。

 ついて行く必要性は感じなかった。

 けれど、先輩をこれ以上困らせたいとも思わなかったので後を追う。

 街の中心部に程近い空き地に着いた。


「小さい頃、ここでよく遊んだなぁ」


 先輩が懐かしそうに呟く。

 数本の木と、ベンチのような丸太が一本転がっている。

 それ以外は何もない。

 鬼ごっことか走り回って遊ぶには丁度良い広さだ。

 今は日が傾いてきたせいか、掃除の手伝いに忙しいのか子供たちの姿はない。

 二人で丸太に腰掛ける。

 黙って空を見上げる。


「綺麗だね」


 家の屋根の上に広がる空は昼間の明るい青から深い青へと変化しつつある。

 確かにそれはとても綺麗で。

 でも、素直に同意を口にすることはできなかった。


「さて、まずは謝らないといけないね。ごめん」


 なんでこの人はこんなにあっさりと謝ったりできるのだろう。

 先輩には悪気がなかっただろうし、普通はどう考えても褒め言葉だ。

 それを否定するのは、自分の事情で。

 それをわかっていても自分は、いいですよ、なんて言えない。


「先輩にオレの気持ちなんて、わからないです」

「うん。そうだね。僕には君の気持ちはわからない」


 一拍置いて、大事な事を告白するようにそっと先輩は続ける。


「きっと他の誰の気持ちも、大切な人の気持ちでさえ、僕にはわからない」


 一体何を言い出すのかと訝しむ。

 先輩は寂しそうに笑う。


「僕はね、誰かと共感することが難しいんだ」

「え?」


 言われた事を頭の中で繰り返す。

 理解出来ないという事ではない。

 信じられない。

 自分が妹として世話を焼いている女の子ならわかる。

 あの子はなぜか年齢よりも幼い言動を取るし、独特の感覚を持っている。

 けど、先輩はとても普通に見える。


「どう言えばいいかな…。例えば、隣街に行った帰り道、道のりを丁度半分くらい来た辺りで見たこともない綺麗な花が一輪咲いているのを見つけたとしよう。君はどうしたいと思う?」

「ええっと」


 唐突な質問に頭がついていかない。


「ごめんね。ちょっと唐突過ぎたかな?」

「いえ、そうですね…」


 綺麗な花を見つけたら…。

 思い浮かぶ顔がある。


「…見せたい、と思います」


 先輩が優しく微笑む。


「うん。僕もそう思う。では、そのためにどう行動する?」


 少し考える。


「見せたい人をその場所まで連れて来ます」

「摘んで持ち帰った方が早くないかい?」


 その通りだ。

 隣街までは普通、馬を使って丸一日かかる。


「それでも摘まないです。他にもその花を見たい人がいるかもしれないから」

「…君はやっぱりとても優しいね。僕も摘まない。君とは理由が違うけど。でも、多くの人はきっと摘んで持ち帰るんだよ。他の存在の事なんて考えもしないで、さも当然のように」


 他の人ではなく、存在と言った事に意図を感じて尋ねる。


「先輩の摘まない理由は?」

「その花のためだよ」

「花のため」

「そう。咲いているのは一輪だと言ったよね。つまりその一輪を摘んでしまったら花がなくなる。花がなくなってしまったら、その植物は子孫を残せないだろう?」


 言われてみれば、その通りだ。


 そうなのだけど…。


 肩を竦めて先輩は続ける。


「もしかしたら、また花をつけるかもしれないし、その株で何年も生きられる種類のものかもしれない。残したところで、実をつけられず枯れてしまうこともあるだろう。でも、そんなのわからないから摘まないでおく。その花が実をつけ、種をこぼし、それが成長してまた花をつける。そうやって小さくていいから、花畑ができたらいい」


 先輩が空から自分へと視線を移す。


「でも、そんな風に思う人は殆どいない。摘まないと答える人の理由はまず君と同じだろう」


 周りの土ごと持ち帰ればと口を開きかけるけど、問題はそんな事ではなくて。

 言葉に詰まった。


「そう言う事。十年前の事件の事も同じなんだ。今だに僕を英雄のように言う人がいるみたいだけれど」


 先輩の瞳はどこまでも優しい。


「僕はただ明らかに嘘とわかる噂をみんながなぜ信じるのかわからなかった。嘘の話に従う事なんて出来なかった。引っ越して来たばかりで右も左もわからないのにひとりぼっちにさせられるあの子を黙って見ている事が出来なくて、彼女に友達ができるまで自分が友達でいようと思っただけなんだ」


 きっぱりとした口調で先輩が言う。


「英雄になりたかったわけじゃない」


 少年が考えもしなかった小さな英雄の真実。


「今ならわかるよ。噂が嘘か本当かなんて関係なかった。いじめっ子らの次の標的にされないように避けていただけだった。僕はそんな事もわからない頑なな子供だっただけ。そんなだから、消えてしまいたくなるような悲しさを知る事になった」


 女の子を守り通した彼が一晩失踪した理由。


「それでも、理由はわかっても同意する事はできない。今でもね」


 どうしようもない頑固者だよね、と苦笑を浮かべる。

 少年は何か言わなければと思う。


「ええと、その。考え方が全く同じ人なんていないんですから、みんな本当には他人の気持ちがわからない、と思います」


 なんてぎこちない言葉だろう。

 でもたった今、実感した事だ。

 先輩も他人にはわからないものを抱えていた。

 本当は皆が大なり小なりそう言うものを抱えているのかもしれない。

 それなのに、当たり前のように自分と同じだと考えてしまう。

 だから、思いがすれ違う。

 意図せず傷つけたり、傷つけられたりしてしまう。

 それでも、いや、だからこそ。

 全て完璧に、は無理でもわかり合いたい。

 知りたい、知ってもらいたいと願う。


「きっとそうだね。だけど、僕のは、上に立って人々をまとめる役には致命的だ。補佐役には丁度良いかもしれないけれど。考え方が違い過ぎて誰も付いて来ないよ」

「でも、先輩は誰よりも信頼されています」


 反論を試みるけど、一蹴される。


「個人に向ける信頼と、上に立つ者に向ける信頼は別物だよ。だからね、少なくとも僕よりは君の方が自警団の長に相応しいんだよ」


 もうそんな事はないと言えなかった。


「自信を持って。君は他人の気持ちをちゃんと想像できる人だから。今は年の差の分もあって僕の方が優れて見えるかもしれないけれど、その内に君の方が頼りにされるようになる」


 自信を持って言い切られる。

 どうしようもなく泣きたい気分になって。

 空を見上げて深呼吸する。

 いつの間にか星が瞬き出していた。


     *


 明日は今年最後の日、星祭。

 思い浮かべる顔がある。

 結局、誘えないまま今日も終わろうとしていた。

 家の大掃除や新年の準備で忙しかったのは事実だけれど。

 言い訳だ。

 いつでも会いに行ける距離に家はあるのだから。

 午後から雲が多くなってきて、夜には雪が降りそうだ。

 それだって理由にならない。

 今からだって会いに行ける。

 自分がその気にさえなれば。

 何度となく、同じ方角に目をやる。

 部屋の中から外を見る。

 木々を隔てた先に彼女の家がある。


「はぁ」


 溜息をつく。

 片付け中の手元に目を落とす。


 意気地なし。


 自分で自分を罵ってみても何も変わらない。

 勇気が出ないのは彼女の気持ちをぼんやりとだが知っているから。

 でも、だからこそ本当は誘うべきなのだとも思う。

 傷心の彼女につけ込むような形になってしまうが。

 少しでも気を紛らせてあげられるならそれがいい。


 でも、冴えない自分に誘われても嬉しくないかもしれないし。


 煮え切らないまま、動けないまま夕食の時間になった。

 いつもより少し質素なメニューが並ぶ。

 年明けの準備で出費が多かった分を節約しているのだろう。

 両親と祖父母と自分。

 この街の平均的な家族の人数より少ない構成。

 幼い頃は兄弟がいないことを不満に思っていたけれど。

 十分満ち足りている。

 穏やかで暖かい食卓。


 ドン、ドン。


 玄関のドアをノックする音が聞こえる。

 荒い響きに家族が顔を見合わせる。

 何かあったのだろうか。

 街で事件が起これば、まず自警団の長である父の元に連絡が来る。

 父が席を立って応対に出た。

 少年もすぐに動けるようにと食事を急いで終わらせる。

 席を立って玄関へ向かう。

 切迫した声音が廊下に響く。


「わかりました。すぐに団員を動かしますので、そちらも捜索を続けて下さい」

「お願いします」


 聞こえてくる声から予想はしていた。

 玄関扉を閉じる背中は農園管理者のものだった。

 つまり、少女の父親が来ていたのだ。

 何となく嫌な予感を覚える。


「父さん、何が…」

「双子の妹の方の行方がわからないらしい」


 息を詰めたのは一瞬で、思考は自動的に次へと向かう。


「じゃあ、みんな総動員の捜索になるね」

「ああ。天候も悪いし、じきに真っ暗になる。すぐ見つかればいいが…」


 廊下を歩きながら話す。

 父は母達の元へ状況を話しに戻る。

 自分は部屋へ直行し、防寒着を羽織る。

 焦燥感を押し殺して、まずすべき事を頭の中で確認する。

 台所を覗いて声を掛ける。


「父さん、オレは南から声を掛けて行くよ」

「わかった。俺は逆から行く。そっちは頼んだぞ」


 一足先に外へ飛び出す。

 農園の横を走り抜ける。

 少女の名前を呼ぶ声がいくつも聞こえる。

 自警団員の家の扉を叩いてまわる。

 状況を説明して、探す場所を割り振る。

 報告先を指定することも忘れない。

 そのうちに反対回りをしていた父と行き合った。

 先に出た自分より多く家を回っている父に改めて尊敬の念を抱く。

 一方で、もう抑えられない焦りが全身を巡っていた。


「父さん、オレはあの子が行きそうな所を見てくる」


 言うだけ言って、駆け出した。

 すでに家族が見て回ったであろうことは百も承知だ。

 でも、見落としやひょっとしたら自分にしか思い当たらない場所があるかもしれない。

 自分だって、彼女を双子の姉と間違えたことはないのだから。

 彼女は気づかなかったかもしれないけれど。

 少年は他の誰でもない少女のことをずっと見ていた。

 だから、悔しい。


 どうして、気付かなかった?

 そんなにも思い詰めていたなんて。


 先輩は言っていた。

 失踪した時、消えてしまいたくなるほどの悲しみを味わったのだと。

 少女もそうなのだろうか?

 悲しそうと言うか、寂しそうと言うか。

 そんな気持ちを抱いていたことは知っていた。

 彼女の姉が農園経営者の次男と恋仲になったために。

 姉と同じくらい近くにいて、同じように思いを寄せて。

 けれど、あの人が選んだのは姉の方で。

 妹の彼女もそれを望んでいたようで。

 望みは叶ったけれど、思いが簡単には消えてくれず。

 ただの想像だ。

 間違っているかもしれない。

 けれど、全く的外れということもないと思う。


「どこにいるんだ?」


 息が切れても走り続ける。

 見つからないまま、夜が近づいてくる。

 いつしか雪もちらつき始めていた。

 明かり無しで探すのが難しくなって家に戻る。

 もしかしたら、もう見つかっているかもしれないと考えてみる。

 家の前に人だかりができていた。

 探しに出た自警団員が報告に集まっている。

 その様子だけで見つかってないことがわかってしまう。

 中心に団長がいた。

 団長が少年を見つけて声をかける。


「お疲れ様。その様子だと見つかってないようだな」


 無言で頷く。

 父が肩を叩く。


「雪も強くなってきた。今夜の捜査は打ち切る。明日、雪が止んでいたらまた朝から始めるからそのつもりで。では、解散!」


 皆が散り散りに帰っていく。

 その間も雪は勢いを増していく。

 まるで彼女の足跡を消そうとするかのように。

 じっと雪の彼方を見つめる。

 父が隣に立って、少年の頭に積もった雪を払う。


「さあ、中へ入ろう。風邪でも引いたら明日、探せないぞ」


 背中を押されるがまま、家の中へ戻る。

 母が暖炉の前に席を作って、暖かい飲み物も用意してくれていた。

 暖炉の火に当たる。

 冷え切った指先がじんとして、少し痛い。


 今頃、どこで何をしているだろう?

 凍えていないだろうか?


 心は雪の彼方へ向いたまま。

 ベッドに入っても、その事ばかりが頭をチラついてなかなか眠れなかった。

 翌朝、まだ暗い内から起き出す。

 窓の外を窺うと雪は止んでいた。

 街人が起き出す時間には早いが、待ち切れない。

 家族を起こさないようにそっと家の中を移動する。

 ふと呼ばれた気がした。

 振り向いて目に入ったのは応接間の扉。

 無視してはいけないような気がして扉を開ける。

 あの剣に視線が吸い寄せられる。

 暗い部屋の中で不思議な存在感を放っている。

 手に取る。

 不思議と自分のために誂えられたかのように手に馴染む。

 剣帯を出して鞘に着け、肩にかけるように持つ。

 何かの役に立つとか考えたわけではない。

 ただ持って行くべきだと何かが囁いたような気がした。

 家を出て、真っ直ぐ農園へ。

 雪を被った表札に砂埃はない。

 昨日、彼女が最後に掃除した場所だと言う。

 外の掃除の仕上げに出たきり帰って来なかった。

 納屋には掃除道具が綺麗に片付けられていた。

 掃除を終えて家の前までは戻ってきていた。

 その時、何が起こったのか。

 真っ新な雪に足跡をつけて家の前まで来る。

 納屋の方へ足を向けつつ考える。

 彼女が何を思ったのか。

 母屋の窓の前を通り過ぎかけて足を止めた。

 この窓の向こうは確か居間だ。


 もし、窓越しに姉とあの人が見えたら…。


 昨日は朝からあの人が大掃除を手伝いに来ていたのだと聞いた。

 二人の幸せそうな姿を見て、何も思わずにはいられなかったはずだ。

 奥歯を噛み締める。

 再び歩き出しながら、思う。

 なぜ、近くにいられなかったのだと。

 納屋の前に猫がいた。

 雪に紛れるような真っ白な毛の猫。

 シロさんと呼ばれていた猫だろうか。

 目を閉じて上を向いて、じっとしている。

 耳だけ動かして、何かを捉えようとしているかのようだ。

 白猫が目を開けて森の方を見る。

 険しい目に感じられた。

 その目がついっと少年に向けられる。


「ほう、それに選ばれた者をこの目で見るとは」


 猫が感心したように呟く。

 それとは竜鱗の剣のことか。

 それよりも猫が喋った事にもっと驚いていいはずだった。

 実際には当たり前のことのように受け入れている。

 そんなことよりも大事なことがある。


「良い目つきをしているな」


 猫が一瞬目を閉じる。

 再び開いた瞳をひたと少年に据える。


「あの子を追うならお急ぎ!じきに手の届かない領域へと入ってしまうよ」


 少年は驚く。

 猫は彼女がどこにいるのかわかるのか。


「それはどう言う事?」


 もどかしげに猫が言う。


「時間がない。手短に言うよ。あの子は精霊の王の一人に出会ってしまった。冬の王にね。精霊の王は常若の国へと人をいざなう。人の世から消えたいと望んだ者の前に現れて連れて行くんだよ。行ってしまったら最後、こちらへは戻って来られない。十年前は精霊王を引き寄せる前に世界樹の手引きを受けられたから良かったが、今回は本当に連れて行かれてしまうかもしれないよ」


 まだ伝えていないのに。

 二度と会えないなんて。


「そんなの嫌だ」


 猫が頷く。


「なら、急ぎなさい。ただし、その剣を決して手放してはいけないよ。もうかなりあちらに入り込んでいる。辿り着くには試練を越えなければいけない。心して行くんだよ」

「わかった。ありがとう、シロさん」


 猫が示した方向、森の中へと分け入る。

 後ろから「頼んだよ」と聞こえた気がした。

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