第9話 雪の覇者 後編 下

 雪化粧をした森をひたすら歩く。

 示された方向をまっすぐ歩いているつもりだけれど、だんだん自信がなくなってくる。

 そもそも常若の国はどこにあるのか。

 おとぎ話では、人にはいけない場所にあると言う。

 森に朝日が差し込んできた。

 雪がキラキラと光を反射させて眩しい。

 めまいを起こしそうで、思わず目を閉じかける。


「止まって!」


 反射的に立ち止まる。

 ぱしゃんと音がして、目を見開く。

 靴の先が崖になっていて、大人の背丈くらいの段差の下を川が流れている。

 ちゃんと受け身を取れば落ちても大した怪我にはならないだろう。

 しかし、水を被ったら凍えてしまう。

 冷や汗が背を伝った。

 そこで思い至って、声の主を探す。

 こんな森の奥でいったい誰が助けてくれたのか。

 辺りを見回してみるが人影どころか動物の影すらない。

 何だろうと思っていると、視線を感じた。

 そちらに目をやると、他とは違った煌めき方をしている場所がある。

 じっと見つめると、そこから声がした。


「そんなに見つめないでくれる?」

「そこにいるのは誰だ?」


 よく見えなくて目を細める。


「ああ、そっか。確かにこの場所ではちょっと見えにくいわね。仕方がないからもう少し寄ってあげる」


 光が近づいてきて、ようやく形がわかった。

 真っ白な翼を持つ女の子の姿をした小さきもの。

 全体的に白くてキラキラしている。

 雪を背景にしては見えにくいわけだ。


「ええっと、君が止めてくれたんだね?」

「そうよ、勇者さん」

「ありがとう、助かったよ」


 言いつつ、引っ掛かりを覚える。


「勇者さん?誰が?」

「私の前にいるのは、あなたしかいないと思うけど」

「いや、そうだけど。何で?」

「その剣を持っているからよ」


 肩に担いでいた剣を見る。


「これ?」

「そう、それ」

「え。何で?」


 小さきものが呆れ顔になる。


「その剣の事、知らないの?」

「いや、この剣にまつわる昔話は聞いているけど」

「じゃあ、知っているじゃない」

「シロさんも選ばれたとか言っていたけど、あの話は本当なのか?そもそも、君は何者?」


 呆れ顔をさらに深くして小さきものが言う。


「私は妖精。あなた達の昔話がどう伝えられているか知らないけれど、それが竜の鱗からできている事も、それを与えられた者が街を襲った人喰い魔物を倒した事も本当よ。だから、持つことを許された者は勇者なの。って、こんな話してていいの?」


 妖精が腰に手を当てて叱りつけるように言う。

 そうだった。

 辛くも危険を回避したが、動揺までは避けられなかったらしい。

 だが、行く手は崖に遮られてしまった。


「そうだ。君は常若の国への行き方を知ってるかい?」


 待ってましたとばかりに胸を反らす。


「もちろん。何なら途中まで案内するわよ。勇者の手助けができたなんて、妖精の間でも自慢になるもの」


 こっちよ、と少年の返事も待たずに背を向ける。

 いっそ場違いなほど意気揚々と妖精は飛んでいく。

 そのあとを急いで追いかける。

 時々雪の深い場所で足を取られながら、必死についていく。

 暫くして、森の中の開けた場所に出た。

 大きな岩が二つ、支え合うように並んでいる。

 その隙間に向かって妖精は飛ぶ。


「ここがあちらへの通路の入り口。この先は心を強く持たないと帰って来られなくなる。覚悟はいい?」

「もちろん」

「うん、良い返事!行くわよ」


 妖精が穴に飛び込む。

 少年は四つん這いになって岩の隙間を潜る。

 数歩進んだだけで先が見えないくらい真っ暗になった。

 妖精のものと思われる光点だけを頼りに進む。

 待っていてくれたのか妖精に追いついた。


「もう立っても大丈夫よ」


 恐る恐る立ち上がる。

 ついでに両腕を左右に伸ばしてみる。

 何も触らない。

 上はひんやりとした石の感触があった。


「この真っ暗な場所はあともう少しよ。さあ、急ぎましょう」


 前進を再開する。

 足元が雪でなくなった分、真っ暗でも進みが速い。

 程なく、出口らしい四角い光が見えた。

 妖精が光の中へと吸い込まれる。

 少年も光の中へと踏み出した。

 出た先も森だった。

 ただし、この世のものとは思われない。

 黒々とした葉のない木々は今にも動き出しそうに妖しく。

 雪はないが寒々しい。

 先ほど抜けてきた場所よりは明るいが、黄昏時のように薄暗い。


「人を連れてくるとこうなるのね」


 妖精が小さく呟いて少年を振り返る。


「ここから先は障壁の森。常若の国が人を阻むためのもの。これを越えて常若の国へ至ろうとすれば、その身に災厄が降りかかる」


 真っ直ぐな瞳で妖精は少年を見つめる。


「私に案内できるのはここまで。あなた一人で行くのよ」


 覚悟はできているかともう一度問われているような眼差し。

 正直、足が竦んで動けなくなってしまいそうだった。

 このおどろおどろしい森で一体何が待ち受けているのか。

 でも、行かなければならない。

 彼女を取り戻すために。


「わかった。ここまでありがとう、妖精さん」


 すいっと妖精が近づいて、その小さな手のひらを少年の胸に当てる。


「あなたの手がその心に決めた事へ届きますように」


 陽だまりに出た時のような暖かさが胸から全身へ広がったような気がした。


「うん、大丈夫。あなた達の帰りを待っている人達がいることを忘れないで」


 あなた達。

 その何気ない言葉が背中を押す。

 決意を固くする。

 妖精に力強く頷いて、一歩を踏み出す。

 少年は振り返らない。

 真っ直ぐ前を見つめている。

 妖精は見えなくなるまで少年の背を見送っていた。


     *


 道と言うよりは森が来た者を奥へと誘い惑わすために通路を作っていると言われた方がしっくりくる。

 そんな木々の間を用心しながら進む。

 剣も鞘から出してこそいないが、反射的に使えるように手に持っている。

 黒い影のような枝が今にも襲い掛かってきそうだ。

 視界の端で違和感があった。

 まさに通り過ぎようとしていた傍の木に目を向ける。

 木の幹から何かが突き出ていた。

 いや、何かが幹から出てきていた。

 まるでパンの種を一つから二つに手で分ける時みたいに、伸びてブツッと千切れる。

 千切れたものは地面の上で伸び上がり人形になった。

 真っ黒な人形はなぜか見覚えがある気がした。

 理由はすぐにわかった。

 立ち上がった人形ひとがたが構えを取り、向かってくる。

 その構えが格闘技を得意とする自警団の先輩と同じで、その先輩と同じ体格をしていたのだ。

 自警団の若手のリーダー格。

 少年が苦手とする先輩の一人。

 がさつで自信満々で、でもあっさりしているから嫌う人は少ない。

 気を回し過ぎのきらいがある少年とは正反対。

 少年は時々ついていけないと思うけれど、先輩は気にしてないのでガンガン接してくる。

 これもまたリーダーの資質なのだろうと思う。

 なんとか最初の拳を躱して、自分も態勢を整える。

 躱された人形も構え直し、次の攻撃へと出る。

 その動きもそっくり同じで、まるで手合わせをしているようだ。

 ただし、この人形に手加減をする気はないらしい。

 本気で叩かないとこっちがやられる。

 顔もないのに殺気にも似た気配を感じる。

 体格が良くて手足の長い相手には、小回りの良さで対応するのが定石だ。

 攻撃をギリギリで躱して間合いを詰める。

 拳が上着を掠めると布が裂けた。

 避け様にこっちからも拳を入れる。

 影を殴ったように手応えがない。

 相手の拳が自分に効くのに、自分の拳は効かない。

 不公平だと思わず心の中で叫ぶ。

 こんなのにどうやったら勝てると言うのか。

 生身の先輩にさえ、本気を出されては勝てないのに。

 足を後ろに引きかける。


 逃げたら、二度と会えない。


 ぎゅっと手を握り込む。

 利き手の反対の掌に固い感触が返った。

 竜鱗の剣。

 白猫が決して手放してはならないと言っていた。

 鞘を払う。

 剣を知り合いに向けるような嫌な気分が胸に広がる。

 しかし、迷っている暇は無い。

 歯をくいしばり、間合いを図る。

 影の蹴りを躱し、空いた背に剣で切り込む。

 水袋を叩いたような感触が返り、次の瞬間、弾けた。

 塵になって、風に飛ばされるみたいに霧散する。

 少年はほっと一息ついた。

 竜鱗の剣が効いた。

 手応えが本物の人の手応えと違っていたことに安堵した。

 本当に人を斬ったことはないけれど。

 剣で斬りつけたはずなのに、叩いたようになったのは気になる。

 それでも、何とか前に進めそうだ。

 顔を上げ、前を見る。

 魔物のような森はまだまだ続いている。

 剣を手に下げたまま、一歩踏み出す。

 十歩も行かない内に次が現れた。

 次も自警団の先輩の影だった。

 剣術に秀でた大先輩。

 父より年上の人だ。

 体力では二十歳前後の若手に劣るが、技術と経験で負け無し。

 少年の剣術の師匠でもある。

 正攻法ではとても勝てない。

 迂回できないか試みる。

 距離を取りつつ、視線を外さず、ジリジリと横を通り抜けようとする。

 真横に差し掛かろうという時、影とは反対方向から何かが飛んできた。

 鋭く頰を掠める。

 慌てて飛び退いて視線を走らせる。

 鞭のようにしなる木の枝が見えた。

 叩きつけるように迫ってきた枝を剣で弾き返す。

 本当は切り落とそうと思ったのだが、弾くだけになった。

 竜鱗の剣は切ろうと思ったものだけを切ると言う。

 少年はまだ剣で何かを切ったことはない。

 それが躊躇いとして現れているのだろうか。

 影を気にしながら道のように見える領域へと後退する。

 木から距離を取ると、枝は動きを止めた。

 脇に逸れようとすると、木が直接攻撃を仕掛けてくるという事か。

 影がゆっくりと近づいてくる。

 道のように見える場所から外れて逃げ切ろうとしたならどうなるだろう。

 木々が行く手を阻み、後ろから影が迫り来る。

 八方塞がりの状況しか思い浮かばない。

 悪足掻きは諦めて、こちらから影に近づく。

 影とは言え、その人の分身みたいなものだ。

 体力的にはこちらに分があると思いたいが、どちらにしろ持久戦は避けたい。

 長引けばボロが出るのはこちらだ。

 何よりタイムリミットがある。

 地面の感触を確認しながら一気にあと五歩程度まで間合いを詰める。

 移動の勢いも使って土を蹴り上げる。

 土は影の目鼻のない顔面を襲ってすり抜けた。

 影は人のように腕で顔を庇った。

 決定的な隙。

 これを逃せば勝機はない。

 素早く力任せに相手の剣を持つ手を斬りつける。

 取り落すまでは至らなかった相手の剣を追撃してはたき落とす。

 その勢いのまま影を下から斬りあげる。

 少しだけ刃の通ったような感覚と同時に影が弾けた。

 はあ、はあと荒い息を吐く。

 けれど、もう少しも休ませてくれないらしい。

 行く手の傍の木から次の影が生まれている。

 近い木だけではない。

 奥に見える木々もだ。

 見ているだけで心が折れてしまいそうになる。

 不意に耳元で声が蘇った。


「うん、大丈夫」


 もう気の遠くなるほど前のように、懐かしくさえ感じてしまう。

 さっき別れたばかりの妖精の声。

 剣を持たない手を胸に当てる。

 妖精が触れた場所に光が宿っている。

 そんな風に思える。

 気のせいかもしれない。

 それでも、前に進むための灯火にはなる。

 頰を伝う血を手の甲で拭う。

 深呼吸をする。

 精一杯の虚勢を張って、先を睨む。

 心身を研ぎ澄ませ、走り出す。

 試練に打ち勝つために。

 影は皆、少年がどこかに苦手意識を持つ相手の姿をしていた。

 父がいた。

 憧れの先輩もいた。

 さらに自警団の先輩ばかりではなくて。

 最後に待ち受けていたのは少女が思いを寄せるあの人だった。

 武術の類は修めていないが、喧嘩は強いと聞いていた。

 型などないただ相手を叩き伏せるだけの技。

 卑怯も何もない。

 めちゃくちゃなだけに難しい。

 足払いを避けて、距離を取り。

 拳と見せかけて、蹴りとか。

 考え事をしている余裕はないなずなのに、ふと思う。

 今の彼はこうではないと。

 一番最近見かけたあの人はどことなく雰囲気が柔らかくなっていた。

 きっと彼女の姉の存在がそうしたのだろう。

 いや、本当は彼女自身も影響しているはずだ。

 ずっと双子揃って世話を焼いていたことを少年は知っている。

 だから、彼はもう無闇に人を傷つけない。

 そう変われた事を羨ましく思っていた。

 影は少年の恐れの表れ。

 憧れと表裏一体の妬み。

 彼らに届かないという諦めと、絶望。

 少年が抱える闇の姿。


 ああ、だから試練なのか。


 自分が目を逸らしていたモノと向かい合わされる。

 耐えられない人が多いだろう。

 人はそれほど強くはない。

 見ないことが自分を守ることだという事もあるのだ。

 それを無理矢理見せられるなら、妖精が言っていたように災厄とも呼べるだろう。

 人を寄せ付けない常若の国。

 これほど効果的な人の追い返し方はあるまい。

 追い返される訳にはいかない。

 自分の弱さなんかに構っていられない。

 どうしても伝えたい事がある。

 急に心が凪いだ。

 視界が晴れたようにも思えた。

 相手の動きが良く見える。

 頭で考えるまでもなく体が動く。

 剣が綺麗な軌跡を描く。

 刃が通る確かな手ごたえ。

 ぱんっと派手な音が鳴る。

 今までと違って弾けると同時に強烈な光が放たれた。

 思わず目を閉じる。

 冷んやりとした空気に包まれた感覚で目を開く。

 雪景色の中にいた。

 一瞬戻ってしまったのかと思ったが、すぐに違うとわかった。

 何百年と年を経ていそうな針葉樹の森。

 空を覆う程の枝の隙間をすり抜けて、はらり、はらりと雪が舞う。

 枝が殆どの雪を遮っているのか地面は薄っすらと積もっている程度。

 空気が仄かに発光しているような。

 美しく神秘的な光景。

 まさに人ならざるものの領域。

 暫し放心してしまう。

 どこからか蹄の音が聞こえる。

 少年は我に返って音がする方角を探す。

 ここはもう常若の国の手前だ。

 ここで追いつけなければお終いだと直感が告げている。

 蹄の音が精霊王のものとは限らないと頭では考えているが、少年は確信していた。

 耳を澄まし、歩き出す。

 歩調はだんだん速くなり、いつしか駆けている。

 蹄の音は緩やかに一定のリズムを刻み続ける。

 姿を捉えた。

 黒馬に乗る二人組。

 髪も纏う衣服も真っ白な、人と同じ形をしたモノ。

 手綱を握るそのモノの前に少女がいる。

 精霊王に身を預けているのが見てとれる。

 ひやりとしたものが胸の中に落ちた。

 それでも。


「待って」


 叫ぶ。

 名を呼ぶ。

 手を伸ばす。

 こっちを見ろと。

 祈るように。

 はっと、少年は立ち止まる。

 馬が歩みを止めたのだ。

 精霊王が何かを少女に囁き、馬を降りる。

 少年に向かい合った。


「よくぞここまで追ってきた。たが、ここまでだ。あの娘に帰る意思はない」


 立っているだけで精霊王の周りの白さが増す。

 それなのに王の圧倒的な存在感は損なわれない。

 むしろずっと強くなる。

 周りの雪が王に傅く家臣のように思われる。

 これが冬の精霊王。

 雪を統べるモノ。

 跪いてしまいそうだった。

 頭を垂れ、許しを請いたいという衝動さえ湧いてくる。

 地を踏みしめて立っているのがやっと。


「それでも、連れ帰る」


 胸を張り、声に力を込めて。

 宣言する。

 彼女にも聞こえるように。

 精霊王が剣を抜く。


「よく言った。ならば、力尽くで取り戻すが良い」


 少年は剣を握り直す。


「はあぁ」


 気合いと共に打ち込む。

 一瞬の鍔迫り合い。

 往なされ、隙を攻められる。

 体を捻って回避、そのまま距離を取る。

 が、すぐに距離を詰められて振り下ろされた剣を竜鱗の剣で受け止める。

 重い剣だった。

 ジリジリと押し込まれる。

 力を込めてほんの少し押し戻す。

 その一瞬に体をずらし、相手の力を流す。

 体勢が崩れる前に王が元の位置に退がる。


「さすが竜鱗の剣に認められた者よ。いや、こうでなければなぁ」


 精霊王は愉快げに笑う。

 応えるように雪が乱舞する。

 明らかに精霊王は手練れだった。

 少年の師匠よりもずっと格上の剣の使い手。

 勝機なんて全く見えない。

 それならば勝たなくてもいい。

 少女の手を掴んで逃げられれば少年の勝ちだ。

 精霊王が少女を隠すように立ち塞がる。


「良い判断だ。そなたの目的は私に勝つ事ではなく、この娘を取り戻す事。だが、それも容易くはないぞ」


 今度は精霊王の方から動く。

 真正面から受け止めないようにして、王を抜ける隙を探す。

 しかし、回り込まれて行く手を阻まれる。

 打ち合いを凌ぎ、また距離を取り。

 確実に追い詰められている。

 体が重い。

 限界はとっくに超えている。

 気を抜くと立っていることさえ難しい。

 気力だけで王の動きについていっている。

 それにさえ限界はあって。

 些細な地面の凹凸でバランスを崩す。

 振り下ろされた剣をぎりぎりで受け止めて。

 勢いを殺し切れず片膝をつく。

 重い。

 押し返して逃れる力が残っていない。


 だからって。


「ほう。ここに至っても諦めないか」


 王が目を細める。


「ならば、その心を賞してそなたも常若の国に招いてやろう。さすれば、この娘とも別れずに済む。目的は達するであろう?」


 まるで悪魔の囁きのよう。

 萎えかけている気力に追い打ちをかける。

 精霊王越しに少女を見る。

 ぼんやりと立ち尽くしている。

 帰る場所を見失って途方に暮れているようにも見えて。

 今すぐ駆け寄って抱きしめたい。

 熱い衝動が込み上げる。

 呼応するように、竜鱗の剣が強い光を放つ。


「む。これは」


 精霊王が唸る。

 数歩後退って、目元に手をかざす。

 少年は渾身の力を脚に込める。


「みんなが待ってる。帰る場所があるんだ!」


 低い姿勢のまま、精霊王の横を駆け抜けて。

 手を伸ばす。

 少女を片腕でしっかりと捕まえる。

 剣の光が更に強くなって、前が見えなくなる。


「良くやった」


 遠ざかる精霊王の声が聞こえた。


     *


 気がついたら、雪の中に横たわっていた。

 冷たいなぁと、ぼんやりとした意識で思う。

 仰向けの状態から見上げる空は群青色だ。

 雪を被った木の枝の隙間から淡い星の瞬きが見える。


「はあ」


 溜息が溢れた。

 雪は冷たいけれど、直ぐには動けそうにない。


 まあ、いいか。

 もう少し休んでから起きよう。


 胸の上から震える声が聞こえた。


「どうして?」


 少し怒っているような声音。


「どうして、はないよ」


 溜息混じりに返す。


「あなただって、帰れなくなったかもしれないのに」


 少年が黙っていると、堪え切れないように少女が言い募る。


「精霊王は教えてくれた。


 白猫がそなたを探している。

 妖精達が手引きしたようだ。

 障壁の森に入った。

 森を抜けた。

 もうすぐそこだ。

 やはり追いついただろう?


 私は聞きたくなかったのに」


 少年は驚く。

 これではまるで違う。

 人を連れて行くと言う精霊王が彼女をこちらに繋ぎ止めてくれていたなんて。


 良き隣人になろう。


 時計職人の昔語りが思い出された。

 彼等の方でも同じように思っていてくれているのだろうか?

 だとしたら、なんて。


「ははははは」


 言葉にならなくて笑った。


「なんで笑っているの?」


 少女の声が明確な怒り口調になっている。

 ずっと握ったままだった剣を離して、そちらの腕も少女の背に回す。

 優しく包み込むように。

 離さないように。

 それはとても貴重で幸運なことで、大切にしなければならない。

 お陰で取り戻せたのだから。


「うん。本当に色々なものに助けられたんだなぁって。これはもう、絶対に約束を破る訳にはいかない」

「何言ってるの?」

「こっちの話。それよりも、君に言いたかった事があるんだ。今更もう遅いかもしれないけれど」


 少年は空を見上げる。


「星祭の時、君と一緒に星を見たい」


 厳かな楽器の音色が幽かに届いている。

 清めの花を摘みに行く一団が森の中へと入ったのだろう。

 木の枝の間を星が一筋駆けていく。


「ねえ。空を見て」


   *


 それより、ではない。

 大怪我こそしていないようだが、こんなにもボロボロになって。


「この体勢では、空は見れません」

「あ、ごめん」


 少年が慌てて体を起こす。

 でも、少女を包む腕は解かない。

 少年が自然に空を見上げる。

 釣られて少女も空を見る。

 二つ、星が流れた。


 ずるいな。

 私も。

 この人も。 


 少女は返事をしていない。

 少年もはっきりとは言っていない。

 けれど、二人で流星を見た。

 それは、約束を交わしたことと同じ。

 でも、いいやと思う。

 投げやりな気持ちではなく。

 少年は言葉足らずで、時々はっきり言ったらいいのにと思うけれど。

 今はそれに救われている。

 はっきりと言われていたら、拒絶してしまったに違いない。

 こんなにも懸命に追ってきてくれたのにそんな結果はあんまりだ。

 それに、少女は少年のことが嫌いではない。

 

 どちらかと言えば。


 少年の温もりが凍えた心まで温めてくれるようで。

 離れ難いと思ってしまう。

 唐突に気がついた。

 悲しかったのではなく。

 自分は寂しかったのだと。

 半身と言ってもいい双子の姉が離れて行くように思われて。

 本当はそんなことはなくて。

 ただ一心同体みたいだったのが、別々の人間になる、それだけのこと。

 違うだけで、離れるわけではない。

 とっくにわかっていたつもりだった。

 頭では理解しても、心はわかっていなかった。

 平気なつもりだったのに。

 全然だめだったなんて。

 格好悪いなと思う。

 なかなか気づかない姉の背を押すことだって出来たのに。

 自分のことが見えてなかったのは自分も同じだった。

 ひょっとしたら少年には見えていたのかもしれない。

 買い物の帰りに街中で会った時の彼は優しかった。

 別れ際につい手を伸ばしかけてしまった。

 その理由を今はちゃんと見つめられる。

 涙が滲んできた。


 今になって、涙が出てくるなんて。


 少年の手に自分の手を重ねる。


「ごめんね。ありがとう」


 少年が困惑している気配がする。

 どういう意味かと訝っている。

 当然だ。

 色々と言いたいことを省略して、一番言わなければいけないことだけを言ったのだから。

 でも、もう少し付け足さないと。

 誤解させてはいけない。


「きっと、すぐに元通りにはなれない。思うよりずっと引きずるかもしれない。それでも、私に付き合ってくれる?」


 答えはわかっているようなもの。

 でも、言わなければ伝わらないこともある。

 だからきっと、一番大切なことは言葉でも伝えるべきなのだ。

 たとえ、言葉にするのが難しくても。

 下から覗き込むように少年の顔を見る。

 少し泣いていることに気づかれてしまうけれど、それでいいのだと思う。

 少年は生真面目な顔で頷いた。


「もちろん。いくらでも付き合うよ」


 少女は心からの笑みを浮かべる。


「ありがとう。まずは玉砕からね」


 えっと少年の目が丸くなる。


「姉さんには悪いけど、やっぱりこう言うのはきっちり振られておいた方がいいと思うの」


 少年が苦笑を浮かべる。


「君は強いなぁ」


 少女は首を横に振る。


「逆よ。強くないから、前に進むためのけじめが必要なのよ」

「だとしても、そうできなくて、いつまでもぐずぐずしていたりするものだよ。僕のようにね」

「それもそうね。あなたは私を星祭に誘うのもぐずぐずしていたくらいだし」

「ええ!そんなあっさり頷かなくても」


 落ち込む少年を見てくすりと笑う。

 そうして、もう一つ気がつく。

 心が軽くなっていることに。

 吹雪の前の雲のように冷たく重くのしかかっていたものが溶けて消えていた。

 だから、大丈夫だとわかる。

 家に帰ってあの二人のそばに居ても。

 もう逃げ出したいとは思わない。

 少年が隣にいてくれるなら、平気でいられる。

 これからのことを言葉にして約束することは、まだできないけれど。

 星の降るこの夜を綺麗だと思えたから。

 少年の冷え切った手を握って笑いかける。


「帰ろう」


 少年が真っ直ぐに少女の顔を見る。

 自分で連れ戻したくせに、その目は本当にいいのかと聞いている。

 それには直接答えずに。


「あなたも私も冷え切ってる。早く温まらないと風邪を引いてしまうわ。年始から寝込むなんて嫌じゃない?」


 もう少しこのまま居たいのはやまやまだけど。

 そっと耳打ちをする。

 少年が顔を赤らめる。

 またくすくす笑いながら、こういうのも悪くないと思う。

 少年は剣を拾い無言で立ち上がる。

 自然な動作で少女に手を差し伸べる。

 鼓動が一つ大きく跳ねる。

 剣を帯びた少年が勇者のように格好良く見える。

 そんな自分に戸惑いつつ、おずおずと手を預ける。

 引き立たされて。

 繋いだ手はそのままで。


「帰ろう」


 目を合わせずに言った少年の横顔はまだ赤かった。

 森を抜けると、白猫がいた。


「おかえり」

「ただいま。心配かけてごめんなさい、シロさん」


 万感の思いを込めて白猫を抱きしめる。


「気になさんな。ちゃんと二人で無事に帰ってきたんだ」


 白猫が少年にも聞こえるようにしゃべっているのに気がつく。

 問い質そうと口を開きかけた時。


「あっ!本当にいた」


 驚く子供の声と松明の明かり。

 この声はあの人の弟だろう。


「おーい。いたよー。兄さーん!」


 呼んだ方角から松明一つと二つの人影が現れる。

 人影の片方が真っ直ぐ走ってきた。

 シロさんごと抱きしめられる。


「どこ行ってたのよ」

「ごめんなさい」


 姉の声は涙声だった。

 当たり前だ。

 逆だったら、自分だって泣きながら探し回る。

 涙が零れ落ちた。


「ごめんね。あの人との約束、ダメにさせちゃった」


 姉が目を丸くする。


「どうして」

「うん。そんなつもりはなかったんだけど、納屋で話してるの聞いちゃった」

「そんなこと、気にしなくていいの」


 姉が珍しく強い口調で言い切る。

 戻って来れてよかったと心の底から思えた。

 急に頭に重みがかかる。

 驚いて手をやると、ふわりとした感触がした。

 それから顔を出すと、ほっとした顔のあの人が目に入った。


「寒かっただろう。それ、被ってろ」


 毛布を頭から被せられたらしかった。

 お礼を言って包まる。

 でも、さっき見た時は毛布を持っているように見えなかった。

 疑問に思いつつ、少年を振り返る。

 少年も毛布を掛けられ、労いの言葉を掛けられていた。

 確か、あの人と因縁のある自警団の青年。

 後から来たこの青年が毛布を持ってきてくれたのだろうか。

 そう言えば、いつの間にかあの人の弟の姿もない。

 青年が少年の背を押しながらやってくる。


「さあ、いつまでもこんな所にいないで暖かい場所へ行こう」


 皆で家に向かって歩き出す。

 家の明かりが見えた時、熱いものが胸の内に込み上げた。

 離れていたのはたった一日なのに、堪らなく懐かしい。

 捨てられるはずのない場所だった。

 玄関の扉が開いて両親が飛び出してくる。

 道の方から複数の明かりが近づいてくる。

 自警団の団長と団員の一部だろう。

 伝言に走ったのか、あの人の弟も一緒にいた。

 少女は両親に抱きしめられる。

 少年は団長によくやったと肩を叩かれている。

 その場にいた自警団員は他の団員に伝えるために再び散っていく。

 あの人と弟も姉に声をかけて、帰っていく。

 少年と団長も毛布は後日返すと両親に伝えて踵を返した。

 両親も後日改めて御礼に伺うと返して、娘達を家の中へと促す。

 少女は振り返る。

 少年も歩きながらこちらを振り返っていた。


「また明日!」


 少年が手をあげて大声で叫ぶ。

 叫ばないと届かない距離が二人の間にあった。

 前なら少女に対してそんなことはしなかっただろう。

 こんな些細なことが嬉しい。

 だから、手を振り返す。


「また明日!」


 ささやかな約束。

 掛け替えのない約束。

 明日に向かって今を大切に生きるため。

 交わした言葉は煌めく輪になり明日へと繋ぐ。

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おとぎばなし 名無葉 @oneleaf

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