第11話 神楽坂

 小人たちを蒼いサーカス団に安い値段で売り飛ばし、俺は「普通の人間」に会いに行った。

「うちの子は普通の子と違うから」

 以前、自閉症の子供を持つ母親は俺にそう話しかけた。お前の子供じゃないのかよ、お前が愛してやらないと誰が愛してやるんだ、クソったれ。俺がそう言い放つとその女は閉口した。俺は「普通」という言葉が大嫌いだ。「普通」って何だよ、俺は今までの人生で「普通の人間」に会った事なんてないぞ。俺の周りにいるのはどこかイカレて個性的な人間ばかりだ。そういう仲間たちに囲まれている事に感謝したい。

 だけど今日会う「普通の人間」は明らかに電話口での様子が違っていた。

「ええ、私は年収も背格好も見た眼も性格も含めて、すべてが『普通』ですよ、あらゆるものすべてが『普通』なんです」

 待ち合わせの神楽坂の公園に定刻の5分前に俺は到着した。犬ぞりの遊具がある公園だ。犬ぞりの遊具は全体的に煤けており風雨に晒され朽ちていたが、眼の部分は塗り直した形跡があり黒々としており凛々しい、その凛々しさに吸い込まれていきそうなくらいの凛々しさ。歌舞伎役者にも似た凛々しさ。俺はセブンスターに火を点けて紫の煙を吐いて男の到着を待った。


 しばらくすると男は現れた。確かに「普通の人間」のように見えた。カチっとした黒のフォーマル・スーツに身を包み綺麗に七三に整髪された頭、アタッシュケース、セイコーのクロノグラフの腕時計。

「あなたが『普通の人間』なのでしょうか?」

「ええ、そうです。私が『普通の人間』ですよ」

 男は薄っぺらい紙切れを俺に見せつけた。紙切れには「国際普通人間認定証」と書かれていた。俺はその紙切れのつるつるとした感触を指で確かめながら口を開いた。

「申し訳ありません、俺にはあなたの魅力が感じられないのです」

 でも男はこう続けた。

「普通の人間は人生がラクなのですよ」


 不気味な笑みを浮かべた男が帰った後も、俺はベンチに座りセブンスターを燻らせた。俺は自分の過去を振り返った。ろくでもない人生だったかも知れない。なんの取り柄もなかったかも知れない。だけど何も恥じるような生き方はしていないはずだ。繰り返される過ち。俺は靴裏でセブンスターの火を消した。過去の過ちも煙草の火みたいに簡単に消せたらラクだろうな。だけど時計の針が逆に進む事なんてない。空を見上げると積み上げられた参考書のような分厚い雲が覆っている。俺は大きく息を吐いた。雨垂れと草の匂いが入り混じる濡れた大地の上に立ち上がった。ラクな人生なんかねーわ。


 家に帰ってからも俺は今日の出来事をずっと頭の中で反芻していた。俺は多分、気まぐれな性格だと思う。薄汚い川のほとりで貧しい暮らしをしていた9歳の頃から感じていた孤独感は消え去る事はなく、今なお誰かを救済できるわけでもなかった。心の底から楽しいと思える時期もあった事に感謝したい。ただ、今、眼の前に山積みになっている問題が多く、それをひとつひとつクリアしていく事を優先させたいと思うようになった。人生は果てしなく長く続く道のりだ。書かれた作品はエピタフのように何十年も残っていくのだろう。そろそろ俺も自由になっていい頃だろう?

 赤いカーテンを開けてベランダに出た。そよ風は冷たく俺の髪を柔らかく揺らした。夏の星座が空を彩っていた。ひとつひとつの点と点が結ばれて線となって連鎖していき蜘蛛の巣のように網眼状に繋がっていく。俺の眼には一筋の涙、零れ落ちて蝶となった。透き通るような白い息を吹きかけるとそれは羽ばたいた。羽ばたいた蝶は漆黒の夜空に吸い込まれて蜘蛛の巣に捕らわれた。俺は蜘蛛の巣が張った夜空に祈りを捧げた。この夜空の切れ端のどこかで繋がっている君に捧げたい。自分自身を愛して欲しい。他と違っていたっていい。何も恥じる事なんてない、それが君の個性だ。普通の人間なんていない。ラクな人生なんてないよ。もしも、そんなものがあるとしたら、それは「くだらない人生」だ。

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羅生門 川上 神楽 @KAKUYA

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