二章

ラブホテル街で出会った笑うお婆さん

 今回は若かりしころの体験を語らせていただこうと思います。


  ※  ※  ※


 私には、一九歳から二七歳まで交際をしていた恋人がおりました。名前を、仮に、Aとしておきます。

 Aも私も実家ぐらしだったため、デートのときは、お互いの家で過ごすというより、外に出ていくことが多かったのです。

 Aの家は、私と同じ愛知県の中央部にある、岡崎市という場所にありました。そのため、私たちの遊興は、もっぱら、その近辺に限られていました。岡崎城、三ヶ根山さんがねさん蒲郡市がまごおりしの温泉街、新城市しんしろしの山中をドライブ、等々。

 そんなことを重ねていた、ある日のことです。


 その日が何年だったのか、また、季節はいつだったのかは、すでに思いだせません。

 時刻は午後三時ごろだったと思います。


 私とAは、どこかに遊びに行った帰りに、ホテルに寄ることにしました。

 Aの住む岡崎市には、国道一号線という大きな幹線が通っています。そして、その幹線を豊川市方面へ走ると、岡崎市と豊川市の境界あたりで、四七三号線という国道に枝わかれしていきます。ここは、通称『新箱根』と呼ばれる、地元では有名なラブホテルの集合地区。


 新箱根は、名前の由来が『箱根のようにくねくねとした山道の両脇にホテルが林立している場所だから(諸説あり)』というとおり、センターラインはかろうじてもうけられていますが、二台の車がすれ違うのに気を使うほどの、細い、そして、悪路です。

 お時間のある方には、ぜひ、ストリートビューで検索してみてほしいのですが、場所によっては、木立にさえぎられた、手入れの行きとどいていない道路は、ちょっと、どきっとするような、おどろおどろしさをかもしだしています。

 とちゅうにあるトンネルでは、バイクに乗った若者の幽霊が出るとの噂もありました。実際、Aの出身校は地元では有名な荒れた高校でしたので、Aの同級生の中にも、この山道で、バイク事故を起こして亡くなった人がいたそうです。


 そんな道を、慎重を心がけながらも、ある程度の慣れもあったAの運転は、徐々にスピードを上げていきます。

 別れた恋人の悪口を言うのはなんですが、Aは、あまり『事故を起こす可能性』について、敏感ではありませんでした。だから、油断すると、すぐに、コントロールが難しいほどのスピードを出してしまうのです。

 そんなわけで、いつものように、助手席ではらはらしながら、私は、

「もうちょっとスピード落としてよ」

と、苦言をくりかえしていました。それに対して、生返事をしながら、Aの運転はさらに乱暴なものになっていきます。


 そんな折。


 急なカーブを曲がった瞬間、目の前に、濃紺のうこん色をしたセダンタイプの自動車が現れたのです。


 どうやら、それは、スピード超過の運転をしていたAが追いついてしまった、前方車両のようでした。

 ゆっくりとしたペースで山道を走るその車に、私は(これについていればAの暴走を止められる)と、内心で歓迎したのですが、A自身は、かなり不満のようでした。イライラとした口調で、

「おせーなあ」

と悪態をつき、さらには、あおるように、セダンに対して車間距離を詰めはじめたのです。


 距離がちぢまったせいで、セダンの車内が、私の目にも、はっきりと見えるようになりました。

 余裕のある運転をするセダンは、その性質が物語るとおり、ある程度、歳の行ったカップルが乗っているようでした。運転席の男性の顔の上半分が、バックミラーに映っています。その風体は、四〇歳に届いている感じです。

 一方で、助手席の女性は、だいぶ若い印象を受けました。彼女の容姿は、助手席の座席からはみだした部分で判断するしかなかったのですが、綺麗きれいに染めた栗色の髪と、はっきりとしたがらの派手な上着を着ているところから予想すると、三〇代、しかも、水商売の人のようなイメージを抱きました。

 その日は平日。私は大学が休みの日、社会人のAは有休を取ってのデートだったので、セダンの二人のとりあわせには、だいぶ違和感を覚えました。

「……前の車に乗ってるの、おじさんだよね? 今日って仕事じゃないんだ?」

男性のほうの格好は、うしろからでも、はっきりとわかる、スーツ姿です。

「え? 俺と同じく有休じゃないの?」

と、あまり興味がなさそうなAは、そっけなく答えました。それに食いさがって、さらに、私は、

「休暇でスーツ着るの? それに、助手席の女の人って、ホステスさんだよね? 不倫とかかな」

と畳みかけました。けれど、Aの返事はあいかわらず、

「そんなん、見えないし」

と、すっとぼけるばかり。


 前方の車に乗っているのは、不倫カップルかもしれない。

 ちょうど、場所がラブホテル群に向かう道路だったこともあり、私は、非常に、いごこちの悪いものを感じはじめました。このままだと、不倫カップルが不倫の現場となるホテルに入っていくところを、目撃してしまう。

 気にしなければいいことなのですが、自分自身がラブホテルを探していることに後ろめたさを覚えていた私は、とうぜん、前のセダンの人たちもそう思っているのだろうと察していました。そのセダンに対して、無神経に追走するAの行為。これって、ちょっと思いやりのないやり方じゃないですか?


 そんなわけで、私は、Aに、

「気まずいから、ちょっと距離を開けようよ」

と提案しました。

 Aは、なぜ自分がそんな遠慮をしなくてはならないのかという面持ちでしたが、煽っても、まったくスピードを上げる気配のないセダンに、もう諦めていたこともあり、

「そーだねー」

と、アクセルをゆるめてくれました。


 だんだんと離れていく、セダンとの距離。

 でも、カーブの先にセダンの姿が完全に消えてしまうと、Aは、条件反射のように、スピードを加速します。そして、すぐに、また、セダンに追いついてしまう。

 そんなことを、何回、くりかえしたでしょうか。

 いよいよ、道の脇に、ラブホテルの看板が目立つようになってきたころ。


 私たちは、三人めの乗員が、そのセダンに乗っていることに、初めて気づいたのです。


 それは、総白髪のおばあさんでした。

「あれ? うしろの席に、ばあちゃん、乗ってねえ?」

最初に口にしたのは、Aです。そのまま、確かめるように、セダンにせまります。

 セダンのリアガラスには、濃く、スモークフィルムが貼ってありました。山中が暗かったこともあり、その黒いフィルムは、思いのほか、視界をさえぎっていました。

 でも、よく見ると、たしかに、うしろの席のまんなかに、おばあさんが座っているのです。天然とは思えないほどの光沢を放った白髪には、全体に、きついパーマが、かかっています。頭の大きなおばあさんでした。前座席の二人とくらべると、二倍近い面積に見えます。

 歳は、そこまで行っていない感じ。にこやかな表情のせいもあるのでしょう。シワは深いですが、表情筋の豊かさから、六五歳前後の面差しに思えました。


 ……いま、みなさんは、なぜ、前を走る車の乗員の顔が私たちに見えたのか、不思議に感じませんでしたか……?


 そうなんです。

 そのおばあさんは、どういうわけだか、うしろ、つまり、私たちのほうにふりかえった状態で、座席に座っているのです。

 そして、手を振ってくるのじゃないかと思うぐらい、満面の親しげな笑顔を向けているのです。


「……あの婆ちゃん、こっち、見てるよな?」

確認するAの声には、不審半分、とまどい半分という響きが読みとれました。

「うん。見てる。すっごく笑ってる」

私も、頭の中が???だらけだったこともあり、Aの問いを肯定するだけで、せいいっぱいでした。


 たまたま同じ道を走る車の中から、見ず知らずの老婆が、笑顔を向けてくる。

 これって、どう説明がつく事象でしょうか。


「……ぼけちゃってるのかな……」

と、まず推察を口にしたのは、私です。

 あまりにも屈託のない、子どものような表情を見せる、老婆。

 その、ある意味、天使のような笑顔は、正常な大人の作れるものではない感じが、私には、しました。だから、……もし違っていれば失礼なことだし、悲しいことでもあるのですが……、すでに、彼女は、常識の外に離脱してしまった人なのではないかと考えたのです。

 Aも、なかば、うなずきました。けれど、すぐに反論しました。

「ぼけた婆ちゃんって、もっと……こう、なんていうか、精気のない顔になるんじゃないの?」

 当時、私たちの身内で、痴呆症をわずらった人は、いませんでした。だから、この理屈に決着をつける知識が不足していたのです。

「んー……そうなのかな……。でも、私には、ふつうの人間じゃないように見えるんだけど」

Aの感覚に賛同を覚えながらも、でも、私は、自分の意見を固持しました。

 だって、ぼけているのでないとすれば、この老婆の行動は、ますます説明がつかないものになってしまうのですから。


 ところで、この四七三号線という国道は、悪路のわりには交通量があるのです。今日は平日のために、ほぼ無人ですが、土日ともなれば、四トントラックが入りこんでくることもあるほど、地元の人には愛用されています。

 その理由は、ここが、岡崎市と蒲郡市を結ぶ抜け道になっていること。この近辺の道路は、国道一号線を始めとして、休日になると、観光客の車で混雑します。その渋滞じゅうたいを避けたい商用車が、こちらの山道に、ときには列を並べるほどの数になって、押しよせてくるのです。


 私とAにとって、前方車両の老婆の存在は、じつは、その笑顔の意味だけではなく、もう一つの謎を持っていました。

 それは、カップルらしい男女がラブホテル街を走っているのに、その後部座席に、おばあさんを乗せるだろうか、ということ。


「あのおばあさんって、運転してる人の身内か何かなのかなあ。でも、お母さんを連れてのデートって、ふつう、しないよね」

 運転手の男性の年齢は、推定で四〇歳前後です。老婆が六五歳前後に見えるので、年代の開きとしては、母子を想像するのが自然でした。

 そんな私の疑問に、

「デートとは限らねえじゃん。蒲郡に抜ける車かもしれんし」

と、今度は、まっとうな意見を返すA。

「ああ、そっか。お母さんを連れてどっかに行った帰り、なのかな」

納得しつつも、いまだ残る笑顔の謎に、まだ、すっきりできない私。


 そうこうしているうちに、前方の道の端に、薄ぼんやりと光る看板が見えてきました。『ホテル シルクロード』。

 この新箱根のラブホテル郡の中で、もっとも人気の高い物件でした。他のホテルと違って、公道からは、まったく見えない位置にあるのも、客を集める要素の一つだったのでしょう。四七三号線から脇道をたどって上っていく立地。記憶の中では、かなり、山の奥にまで入った気がします。入り口から一キロぐらいあったのかな。

 そして、そこは、当日の私たちの目的地でもありました。


 Aがウィンカーを出しました。

 シルクロードへの道程は、ホテルで行きどまりになっています。つまり、ここを曲がるのは、シルクロードに向かうお客さんだけです。

 前に他人の車がいる状態で、あきらかにラブホテルに向かうと意思表示をするのは恥ずかしかったのですが、前のセダンは、どうせ通りぬけの車。私たちのような若いカップルの行動など、記憶に留めることはないでしょう。

 セダンは、シルクロードの入り口がちょうどカーブの入り口に当たったからか、いままでになく、停まりそうなスピードまで減速しました。

 そして。


「え? あの車もラブホに行くの?」


 私が面食らったように、なんと、セダンも、ホテルに続く道に、車の鼻先を向けたのです。


 おばあさん……母親と見られる老婆……を乗せたまま、シルクロードへの細い道を進んでいってしまった、濃紺のセダン。

 Aが、国道のどまんなかで、車を停めました。

「……どうする? 俺たちも行く?」

そう聞かれても、私にも判断がつきません。

「別のホテルにする? うーん……。でも、なんか諦めつかないよね」

苦笑いしながら、そう答えたのは、別に、シルクロードに未練があったからではありません。老婆の存在の意味がわからないまま、あのセダンに別れを告げるのが心残りだったのです。

「とりあえず、俺たちも、行くだけ行ってみるか」

そう返しながら、Aは、すでに、車を脇道に入れていました。

「そうだね。避けなきゃいけない理由もないもんね」

私も賛同します。


 シルクロードまでの専用道路は、それまでの四七三号線より、さらに過酷な様相を呈していました。

 幅は、大型の乗用車が通るのに、ぎりぎりのせまさ。両側からは、伸びほうだいのヤブが侵食しています。

 アスファルトの状態もひどく、木の根が入りこんだのか、ところどころ、ヒビ割れて、盛りあがっています

 そんな中でも、Aの運転は暴走気味です。連続する小さなカーブを、ほぼ減速なしで乗りまわします。、振動に弱い私は、すぐに車酔いの症状を覚えて、

「もうちょっと、ゆっくり……」

と、何度も注意を口にしました。


 そんな最中。

 いきなり、Aが大声を上げたのです。

「いた!」


 濃紺のセダンが、すぐ目の前にいました。最初に見つけたときと同じぐらい、唐突な再会でした。

 老婆は、やはり、いました。しかも、先ほどと、まったく変わらない笑顔を、まったく同じ姿勢で、私たちに投げかけていました。


 Aが、ぴたりとセダンに張りつきます。

 ちょっと恐怖を覚えるほどの接近具合でした。もし、セダンが、急でなくてもブレーキを踏めば、そのまま追突してしまうでしょう。

 セダンの運転手がこちらを気にしているふうは、どういうわけだか、ありません。先刻と同じく、一定のスピードを保って、まっすぐに前を見て、運転しています。

 老婆の顔は、目の前でした。その距離だったからわかったのですが、スモークフィルム越しでさえ認識できるほど、老婆の肌は真っ白でした。笑顔を形づくるシワは、まるで、白い紙に書いたボールペンの模様のようです。


 私は、怖くなって、Aにどなりました。

「ちょっと離れて!」

 でも、Aは、それには答えず、なぜか鼻歌を歌いはじめました。

 そして。


 なんと、Aは、その不安定な運転のまっさいちゅうに、片手をハンドルから離して、老婆に向かって振りだしたのです。


「な……なにやってんの……?」

と、ドン引きする私に対して、Aは、老婆にそっくりな、突きぬけた笑顔を向けました。

「いや、なんか楽しくなっちゃってさあ」

私のほうに、よそ見をしたまま、アクセルを踏みつづけるA。


 そこで、私は、やっと理解しました。というより、やっと想像がつきました。

 笑顔の老婆。その、赤ん坊のような邪気のない雰囲気で、一見は優しい人柄を彷彿ほうふつとさせる、田舎のおばあちゃんのように親しい存在。

 でも、それは、見た目に反して。

 いいモノじゃない。


「ブレーキを踏んで!」

という私の言葉を無視して、Aは手を振りつづけます。

 なので、私は、……いま思えば、なんであんなに冷静に対処できたんだろうと不思議ですが……、サイドブレーキに手をかけました。そして、再度、Aに向かって言いました。

「停まらないと、サイドブレーキを引くよ。この道で車がスリップしたら、横のヤブの中に突っこむからね」


 Aは、暴走をするわりには、自分の車に対する愛着が強いのです。傷がついた程度で大騒ぎするのを、私は、ふだんから辟易へきえきした目で見ていました。

 だから、この脅しは、効果が高いと踏んだのです。


 狙いどおり、Aは、すぐにブレーキを踏みました。

 そして、車が停まるのを待たず、私に向かって、

「ふざけんなよ!」

と暴言を吐きます。


 その間にも、セダンは、なにごともなかったかのように、離れていきました。


 ほっとしたのと、Aの馬鹿さかげんに嫌気が差したのとが相まって、私は、言葉少なに、

「帰ろ」

と、つぶやきました。もし、ここが街中まちなかなら、無言で車を降りていたところです。

 Aは驚いたように、

「え? 帰るの?」

と反論しかけましたが、私の静かな怒りを察して、

「……じゃあ、Uターンする……」

と、しぶしぶ同意しました。

 とはいえ、ここは、車同士がすれ違うこともできない、せまい道。Uターンする場所などありません。

 小さな声で、もうしわけなさそうに、

「ごめん。シルクロードまでは行ってもいい? 駐車場で向き変えるから」

と謝罪するAに、私は、思わず、吹きだしました。

「別に、ごめん、じゃないじゃん」

一変した私の態度に、Aも、苦笑いしながら、

「じゃあ、帰るか!」

と積極的になりました。


 ゆっくりと進みはじめた、Aの車。

 いまの停車していた時間は、たぶん、三分ぐらいのものだったでしょう。とはいえ、先に行ったセダンと離れるには、充分なものだったと思います。

 カーブを二つほど折れ、急な上り坂を、エンジンを吹かしぎみに、クリアする。

 すると、すぐに、ホテルの駐車場が現れます。


 シルクロードの駐車場は、ああいうホテルを使ったことのある方には、なじみの形態だと思うのですが、駐車スペースから、即、部屋に入れるタイプのものになっています。つまり、車を降りてから、最短距離で、人目につかない個室まで到達できるように配慮されているんですね。

 そのため、客は、駐車スペースに車を入れる前に、その区画が、どんな部屋につながっているのかを、確認しなくてはなりません。部屋の内装は、駐車スペースの奥にしつらえた画像によって、判断できるようになっています。

 個々の駐車スペースは、真ん中に大きく開けた共用のスペースを移動しながら、選択する方式になっていました。


 私たちは、いくぶんか緊張しながら、その共用スペースに車を乗りいれました。もしかしたら、まだ、さっきのセダンが、そのあたりを、うろついているのかもしれないと思ったからです。

 でも、幸いなことに、共有スペースには、他の車はありませんでした。セダンは、すでに個別のスペースに駐車をすましているのでしょう。


 大型のAの車は、共有スペースを、大きく回りこんで、向きを変えました。

 個別のスペースには、平日のためでしょう、ほとんどが空室になっている中、三台ほどの車が入っているのが見えました。

「……あのおばあさん、カップルと一緒に部屋に行ったのかな……。それとも、一人で車に残ってるのかな……」

思わず、そんなことを、つぶやいたのは、少し時間が経って、老婆の禍々まがまがしさが緩和されたからでした。先刻は、まちがいなく悪霊がAに憑依ひょういしたのだと確信しましたが、冷静になって考えると、まっ昼間から、あんなに、はっきりとした幽霊が出るのは、奇妙です。

「車に残ってるとしたら、また会っちゃうな」

Aが運転の速度を落とします。どうやら、駐車スペースに入っている車種をチェックしているよう。

「今度は手を振らないでよ」

くぎを刺すと、

「わからん」

との返事。本当に馬鹿なやつです。


 私は小学生のころから幽霊というものを見てきましたが、Aとつきあっていたころは、どういうわけだか、そういうものと縁遠くなっていました。

 だから、ひさしぶりの、この不可思議体験に、正直、内心で震えあがっていました。また老婆に遭遇するなどと考えるだけで、心臓が、ばくばくと跳ねたのです。

 そんなわけで、鈍感で無頓着むとんちゃくなAが濃紺のセダンを探しているあいだ、私自身は、下を向いて、それを見ないようにしていました。性格の悪いAは、そんな私の様子がおもしろかったらしく、ますます、

「あれかな~? 色が違うか~?」

と、思わせぶりな嫌がらせを頻発ひんぱつしていました。


 が、やがて。


「……いない」

急に、まじめな声を発したA。

 見ると、ここまで、ほとんど怖いという感情を見せなかったAが、目を泳がせて、動揺しています。

「何が?」

と聞くと、

「あの車。どこにも停まってなかった」

と答えます。


 シルクロードは、前述したように、ここから先に、どこかに行くことは、できません。

 では、あの濃紺のセダンは、いったい、どこに消えてしまったのでしょうか。


 あわててホテルの敷地から車を出したAは、両脇から侵食しているヤブに車体がこすれるのも、かまわずに、かなりのスピードで、悪路を下っていきます。

 あの気味の悪い老婆にすら、それほどの恐怖を抱いた様子のなかったAが、ここまでとり乱すのが不思議で、私は、暴走の苦痛を抑えこみながら、聞いてみました。

「もしかしたら、裏道とかあったのかもしれないじゃん。なんで、そんなに、急いで逃げようとするわけ?」

すると、彼は、ちょっとびっくりするような返事を返してきました。

「だって、おまえ、あの車を最初に見たときに、変なこと言ってたじゃんか。運転席と助手席に不倫カップルがいるとか。あの真っ黒なスモークが貼ってある車の中が、そんなにはっきり見えるわけないだろ。だから、俺、おまえがどうかしたんだと思って、気をまぎらわすために、ばあちゃんの話しか、しなかったんだよ」


 このできごとは、こうやって書いていても、うまく説明ができません。あのとき、実際にこの世にいなかったのは、おばあさんだけだったのか、それとも、私が不倫と思ったカップルも同じく、だったのか。

 四七三号線、通称『新箱根』には、バイクの幽霊が出るとの噂があります。

 でも、本当は、男女の秘めごとのつどう、あのエリアには、もっと多くの強い情念が、うずまいているのかもしれない。


 あれから、二五年近く、経ちました。

 新箱根のホテル群も、老朽化ろうきゅうかして、ほとんどは、廃墟か、とり壊しになっています。

 形のあるものがなくなったとき、そこに執着していた魂たちは、いったい、どうなるのでしょうね。

 あの濃紺のセダンに乗っていた不倫らしきカップルは、もし死んでいるのなら、その死に場所はシルクロードだったのかな。そして、あの老婆は、そんな情愛の深い魂に好んでとり憑く、妖怪みたいなものだったのかな。

 いまは、ただ、なくなったシルクロードとともに、彼らの霊魂が浄化されていることを、願うばかりです。

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