☆☆☆心霊スポット探訪《京都の心霊マンション》2

 二〇一五年八月三一日。

 私は自分と家族のスケジュールをカレンダーで管理しています。そして、このカレンダーには、たまに簡易日記ともいうべきメモも書きこんでいます。

 京都の旅行から帰った翌日のこの日の欄には、こんな文が残っていました。


 一四時。昼食を作ってるときに、隣室で、真っ白なワンピース、長い黒髪の150センチぐらいの小柄な女を見た。うつむいて微動だにしなかった。


 あの日、旅行疲れのかったるさにグダグダとしながらも、私は遅めの昼食の支度にとりかかっていました。

 月曜日なので、旦那は会社で不在です。息子たちは、夏休み最後の日を、私と同じく怠惰たいだに過ごしていました。

 我が家はマンション。三階建ての建物の最上階に位置する部屋で、両隣には、それぞれ二軒ずつのお宅が軒を連ねています。そのため、キッチンには窓がありません。昼間でも電灯は必須ですし、風が通らないので、夏場は熱中症になったことも。

 キッチンの隣は旦那の寝室です。キッチンとのあいだをへだてる開き戸は、寝るとき以外はいつも全開にしているので、そのときも室内の様子はよく見えました。きちんと畳まれた布団。すみに置かれたハンガーラック。そして大きなきだし窓。

 息子たちの部屋は、その旦那の寝室を抜けた先にあります。一部屋を区切って長男次男のスペースを分けているのですが、キッチンからは、その両方ともの様子は見えません。


 残暑のだるさに、包丁を持つ手が重く感じたのを覚えています。なにを作っていたのかは、すでに失念しましたが、たぶん、そんなに手間のかかる料理ではありません。もともと私は炊事が嫌いですし。

 昨日までの旅行の道程を反芻はんすうしながら、私は無意識に手を動かしつづけました。換気扇の音のみが響く昼下がり。息子たちも静かなものです。


「あれ?」

ふと見ると、右手が震えていました。包丁の刃先が小きざみに揺れています。

 じんわりと右ひじがしびれているのを感じました。えっと……ああ、あれです。ひじの少し上をぶつけると、電気が走ったようになりませんか? あれは皮膚の近くに表面化している尺骨神経をさわってしまうからなのですが、そのときの私は、別にどこにぶつけたわけでもないのに、その症状が、軽くとはいえ、現れたのです。

 しびれは見る間にひどくなっていきました。状態自体はそれほど脅威ではないのですが、持っている包丁をコントロールできないのが、少々、不安でした。腕が勝手に、体のほうにそれを引きよせるのです。


 ただ。

 私は本当にお気楽な人間だと痛感します。

 いままで経験したこともない、それらの症状。たんなる疲れから来る症例なのか、それとも、脳梗塞のうこうそくでも起こしている重大な病状なのか。

 もし、いますぐに重篤じゅうとくな結果が現れる病気になっているのなら……。

「ねえ、見て見……っ」

 ……そう。私は、自分の奇妙な行動を、息子たちに勉強させようと思ったのです。

 四〇歳を超えている私は、実際にこの手の病理を発症して、ぽっくり逝くことがないとは限りません。そんなときに息子たちが動揺しないように、こういう機会にしっかりと関わらせておこうと考えたのでした。


 ところが。

 私の言葉は尻すぼみになりました。


 息子たちに呼びかけた際、私は、とうぜんのように、彼らの部屋のほうに顔を向けました。それは旦那の寝室から続くドアの向こうにあります。

 ドアの前の空間は、八月の午後の陽光によって、赤っぽい色に染まっていました。

 そこに……。

 その女は立っていたのです。

 息子たちの部屋のほうに体を向け、こちらにはやや猫背に丸めた体側を見せていました。だらりと伸ばした両腕。ひざ下丈の白いシンプルなフレアーワンピース。髪は腰まで伸ばした黒のストレート。背は、一五八センチの私より少し低い、一五〇センチ前後に見えました。


 彼女を見た瞬間、私は、思わず。

 ……笑いました。

 だって、あまりにも幽霊のテンプレートじゃないですか。ちまたにあふれる怪談の中にこの手のモノが登場したら、一気に興ざめするレベルですよね。


 そんなわけで、私は最初、この女が『実在する幽霊(というのもおかしな表現ですが)』とは信じませんでした。昨日の心霊スポット探訪、旅行疲れなどから、それらに関連する幻覚を自ら創りだしたのだと思ったんです。


 けれど。

「痛っ!」

とつぜんの激痛に、私は包丁をとり落としました。先ほどからしびれていた右ひじに、今度は急に、骨折したかのような衝撃を受けたんです。

 右腕は、まるで別の神経に支配されているように、大きく揺れて、言うことを利きません。動かないでほしいのですが、勝手にまな板の上をいまわります。

 そして……。

 腕全体の力が入らないにもかかわらず、右手がまっすぐに握りにいったのは、包丁だったんです。

「やばやばっ」

慌てて反対の手で包丁をもぎとり、シンクに放りすてました。

 悶絶しながらも、再度、白い女の所在を確かめると、彼女はさっきと同じ姿勢のまま、そこに立っています。

 ただ、なにかちょっと違う。

 顔がわずかにこちらを向いていたんですね。髪がかぶさっているので表情は見えませんが、とても剣呑な意識は受けとりました。あえて言葉にするなら「興味本位で人んちのぞきにくるんじゃねーよ」的な。


 結局、五分ほど痛みと格闘したあと、右腕は復活しました。回復と比例して、女の姿も薄くなっていきました。

 やっぱり、これは彼女の所業だったみたい。


 幽霊というのは、こちらがかまうと、向こうもちょっかいを出してくる。そういう話をよく聞きませんか? だから、テレビ等で怪談特集をしたり、スポットに肝試しに行ったりしたさいには、

「とり憑かれる可能性があるから、お祓いのできる人を常駐させよう」

って話になるんですよね。

 でも、これって、考えてみたら非常にずるいことじゃないですか? こちらからは幽霊になにも心がまえをさせずに突撃しているのに、幽霊が逆襲してきたら、迎え討つ準備は万端だってことでしょう?

 思うに、ああいう番組を作って面白半分に大騒ぎをする人たちは、幽霊のことを『亡くなった人間』だとは考えていませんよね。珍獣、それも駆逐の対象みたいに思っているんじゃないでしょうか。だから、平気で、ひっそりと暮らしている御霊みたまの元に無礼に踏みこんだり、もしくはいいかげんな鑑定でその霊魂のプロフィールを決めつけたりできるんですよね。

 そういう連中を軽蔑している私としては、心霊スポット探訪という行為を『コミュニケーションを取りにいく』といったスタンスにしたいのです。幽霊に出てきてもらえれば御の字。怖がるなんて失礼なまねは厳禁。お祓いなんか冗談じゃないです。せっかく近づいてきてくれた相手をおどして遠ざけてどうするんですか。


 そんなわけで、このときの白い女性も、いい出会い方ではないけれど、私にとっては貴重な友人の一人になりました。こんなに直接的に接してくれる相手も珍しいですし。

 ただ、この彼女、よっぽど業が深いのか、ここからもいろいろな『コケオドシ』を見せてくれます。

 以下、それをご紹介しますね。


 これはカレンダーに記載がなかったので、時期がいまいちはっきりしませんが、たぶん、彼女と初遭遇してそれほど経っていないころのことだと思います。

 それは、高校から帰宅した長男が、疲れから、夕食も食べずに寝入った晩のことでした。おそらく二二時を回ったぐらいの時刻です。

 すでに寝支度に入っていた旦那と次男は、それぞれの寝室で、思い思いのくつろぎ方をしていました。私は、風呂に入ろうと、旦那の寝室にある自分の着がえを取りに行ったんです。

 九月初旬のその日、すでに、三階の我が家では、厳しい残暑は退しりぞいていました。そのため、クーラーではなく、旦那の寝室の掃きだし窓、そして、息子たちの部屋にも同じく設置された同型の窓からの自然風に、熱気の処理を任せていたのです。


 着がえを持ち、風呂に向かおうとした私は、ふと、子どもたちに声をかけておかないといけない気がして、隣の子ども部屋に入りました。うちにはプライバシーなどありません。

 まず、タブレットで動画鑑賞をしている次男に、

「一〇時回ったよ」

と声をかけました。

 そして次に、前後不覚にベッドで転がっている長男のわきにも近づきます。

 そのとき。

 妙なイメージがひらめいたんです。

 長男のベッドのすぐ横には、夜風を運んでくる全開の掃きだし窓があります。その窓の向こうにはベランダ。そして、ベランダの向こうは、コンクリート打ちの駐車場が広がる地面まで、なんの障害もなく落ちてしまう構造になっています。


 私の頭の中には、その地面に長男の体が打ちつけられて粉砕するさまが、何度も描かれるのです。


 高所恐怖症の気がある私は、息子たちに対しても、その手の妄想をすることは珍しくありません。過剰な心配の一種ですね。

 けれどこれは、そういうたぐいのものとは違うようでした。なぜかと言うと、いつもの妄想とは別の方向性を示していたからです。

 落下していく体がとらえる視界は、何階分もの共用廊下を通りすぎました。自分の死を誰かに見せようとしていた気がします。だから、なるべく無様な死に様を残そうとするのです。願いどおり、コンクリートの地面に頭から打ちつけられた肉体は、頭蓋骨の陥没した感触を、背中に走る悪寒とともに伝えました。死ねて嬉しかった、という満足感はありません。ひたすらに悔しい感情。関係者に自分と同じ目に遭ってもらわなければ、この恨みの感情は晴れないだろうと、確信しています。

 イメージの中で投身したのは長男のはずでした。でも、私が『同化した』のは長男ではなく、落下の最中に長い黒髪をなびかせていた人物でした。けれど、最後にその遺体を俯瞰ふかんで見たかぎり、それは長男なのです。

 すごくわかりにくい説明ですみません。たぶん、私は、メ○ボ広沢で自殺した女性の末期の景色を見たのだと思います。

 そして、それが長男にすりかわった理由は。

 ……おそらく、彼女が長男を連れて行きたがったのでしょうね。


 妄想から覚め、周囲を見まわすと、部屋に黒いもやがかかっていました。それは、どういうわけだか、長男のまわりだけを残して、子ども部屋全体を覆っています。

 いまだ動画鑑賞中の次男は、その靄のまっただ中にあっても、まったく意に介さずに笑い声を立てています。どうやら、当時は小学生だった次男は、彼女がお気に召すには、まだ早すぎたよう。

 それでも、念のため、私は次男に、

「今日は、自分のベッドじゃなくて、パパと一緒に寝て」

と言いました。不思議そうな顔をした彼でしたが、ふだんから、気まぐれに旦那や私の寝室に来ては枕を並べる習慣があったので、そのときも、素直に、

「はーい」

と答えてくれました。

 となれば、あとは長男です。

 私の部屋に連れていくことを、まず考えましたが、長男の寝ぎたなさは折り紙つき。揺すったぐらいでは起きません。

 私が彼の部屋で寝ることも考えましたが、私自身が睡眠不足で体力をがれると、彼女に対抗することが難しくなります。それに、このうちの中で、ゆいいつ、彼女の存在に気づいている私がそばにいると、逆に彼女に存在意義を与えてしまいます。見えないものはいないものとして無視できますが、見えているものを存在しないと思いこむことは、ちょっと難しいのです。

 しかたなく、私は、物理的手段に出ることにしました。

 全開だった窓を閉め、しっかりとロックをかけました。そしてカーテンを完全に引き、外の景色を遮断しました。こうすることで「飛びおりたい」という誘惑を和らげることができると踏んだのです。

 それから、クーラーをかけ、ほとんど反応のない長男のそばに、そのリモコンを置きました。

「今日は窓はぜったいに開けたらダメだよ。暑くなったら、ここにリモコンがあるから、これで調節して。窓はぜったいに開けない。わかった?」

返事があるまでくりかえすと、長男は、やっと、というタイミングで、

「……わかった」

と生返事を返しました。

「窓を開けたら、すぐに飛んでくるからね」

と、再度、いましめたのは、長男に対してというより、元凶の彼女に対してです。

 じつは、この時点で、すでにかなりぶちキレていたワタクシ。もしお祓いの能力があったら、勢いで祈祷しちゃってたでしょうね。


 余談ですが、私は、心霊スポットに行くたびに撮りためた写真たちに対して、毎日、お水を供えています。亡くなった人というのは、不思議なことに、肉体もないのに、みな水を欲しがるんですね。

 で、そういうことを、数ヶ月、続けてみて感じたのですが、渇水の苦しさから解放されると、御霊の負の感情が和らぐようなのです。これは感覚的なものなので証明はできませんが、撮影して日が浅いうちにはひんぱんに起こっていた嫌がらせ行為が、供養の回数を重ねるにつれて、目に見えて減少していくのを、目の当たりにはしています。

 まあ、そんな『心霊との良いつきあい方』を体得しつつある私。

 でも、メ○ボ広沢の写真だけは、いまだにお供えをしたことがありません。それはなぜか。

 ……うん、まあ、そういうことなんですよ。

「人の子どもにちょっかいかけんじゃねーよ! そんな奴に誰が優しくしてやるか!」

……ってね。

 人は、悪いことをしたら、報復を受けなければなりません。それは生きていようが死んでいようが同じ。

 メ○ボ広沢が、もし、噂どおり『生者をあの世へとひっぱるスポット』だったのなら、彼女の罪は軽くないでしょう。いくら自身が不幸のどん底で亡くなったとしても、

「じゃあしょうがないね」

と言ってやれるレベルの話ではないのです。

 だから、私は、あえて彼女に救済は与えない。彼女自身が、自分が地獄に落ちるに値する人間だということを認めるまでは。

 いまのメ○ボ広沢は、どんな様子なのかなあ。もう人死が出ていないといいですね。


  ※  ※  ※


 本当は、このまま話を続けていきたいのですが、文字数が一〇〇〇〇を超えてしまいそうなので、いったん、ここで区切って、アップさせていただきます。

 残りのエピソードは三つ。この遭遇から一週間後のことになります。

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