☆☆☆心霊スポット探訪《京都の心霊マンション》3

 八月三一日より始まった、メ○ボ広沢関連の怪異。

 ただ、前回にご紹介したものは、私には現実であったけれど、客観的には認知しようがない現象ばかりでした。

 なので、時間が経つにつれて、私自身も、

「あれは本当だったのかなあ」

という疑いを濃くしておりました。詳細を家族に黙っていたのは『怖がらせないため』というより『自分の妄想かもしれないから大仰にしたくない』という意識の現れだったんです。

 だから、もし白い女があれ以上なにもしかけてこなかったのなら、私はこの話を文章化はしなかったでしょう。だって、はためから見たら、この体験は『特A級の心霊スポットに突撃した馬鹿なオバサンがファビョってなにか見たって騒いでる』程度の痛い話になってしまいますから。


 でも、ありがたいことに、白い彼女は、もう少し、しつこい性格のようでした。

 続きが起こったのは、前回から約一週間後の九月六日。明け方のことです。


  ※  ※  ※


 この日、私は夜ふかしをしていました。

 もともと夜型で、深夜まで起きていることは珍しくありません。ただ、ここ数年は、子どもたちの世話に手がかかることもあり、深夜二時以降の活動は控えていたのです。

 ところが、この日、なにが理由だったのかは覚えていませんが、軽い興奮状態だった私は、早朝四時まで、居間でパソコンに向かっていました。おそらく、書き物をしていたんじゃないかな。別のサイトで掲載している旅行エッセイが、後日、ほそぼそとながら、更新されていたので。


 九月の朝四時は、うっすらと空が白んでくる時刻でした。

 うちは、居間が、全居室の中で、一番、北側に位置します。マンションは建物の北側に共用廊下が通っている造りなので、居間の腰高窓の外は、住人が行き来する、その廊下なんですね。

 ピークをすぎたとはいえ、まだまだ残暑の厳しい季節。そのときも、私は腰高窓を全開に開けておりました。網戸ごしに見える共用廊下は、午前三時に常夜灯が消されてしまうので、自然なほの青い闇につつまれています。

 パソコンは腰高窓に面して設置されていました。つまり、そのときの私は、窓の外のその薄闇を、つねに視界に入れている状態だったのです。


 本格的な朝まで、あと二時間を切った、暁闇ぎょうあんの時間。

 このまま徹夜してしまうことも考えたのですが、一段落ついたこともあり、私は、パソコンの電源を落として、寝ることにしました。

 最後に大きなモーター音を響かせたあと、パソコンは、モニターの画面をブラックアウトさせました。

 あたりは、明け方まで起きていたことがひさびさだったこともあり、ちょっと違和感を覚えるほど、静寂に満ちていました。

 椅子から立ちあがった瞬間に「ぎし」ときしむ音がしました。思いのほか大きく響く、何気ない生活音。


 そして、部屋を空にするので窓を閉めようと手を伸ばした、まさにその瞬間。


 窓の外を男性が通ったのです。


 男性との距離は、ほんの五〇センチほどでした。網戸ごしの対面。

 ……いえ。正確に言えば『対面』ではありません。男性は、私のほうには見むきもせず、まっすぐに前だけを見て、通りすぎていったからです。

 背のそこそこに高い人でした。一七五センチほどだったでしょうか。中肉中背。暗いため、服装や顔などはわからなかったのですが、背筋を伸ばしたシルエットからは若い印象を受けました。


 一瞬で右から左へと現れて消えていった彼。

 ただ、たとえ時刻が人の出入りの絶える朝の四時だったとしても、共用廊下を他人が歩くこと自体は、おかしなことでもなんでもありません。他の号室の住人が、たまたま夜遊びをして、その時間に帰ってきただけと思えます。

 けれど、実は、決定的に奇妙な要素が、このシチュエーションには含まれているのです。


 前回のエピソードで、私は、自宅の説明を『三階建てマンションの最上階に位置する部屋で、両隣には、それぞれ二軒ずつのお宅が軒を連ねている』と書きました。つまり、マンションの三階には五室の号室があり、我が家はそのまんなかの部屋だということです。

 仮に我が家の部屋の名前を『三三号室』としておきます。となると、男性が向かったのは『三四号室』か『三五号室』ということになります。うちの前を通るのは、うちよりも奥にお宅がある住人に限られるので。

 三四号室の住人、三五号室の住人のことはよく知っています。このマンションに住みはじめて、私はすでに八年になる古参ですから。

 三四号室、三五号室の住人は。


 ……両方とも、二年以上前に退去しているのです……。


 三階に住んでいるのは、三一号室と我が家だけでした。三一号室の方は、三〇代ぐらいのご夫婦で、とても静かで、まちがっても用もない共用廊下を深夜に徘徊するような人物ではありません。また、シルエットもまったく違います。


 しばらく呆けたまま、いまの男性について想像をめぐらせた私。

 そして、三〇秒ほどで思いあたりました。

「あ、ポスティングか」

 チラシなどを無作為に配る業者の人。それならば、空き家に向かったことも説明がつきます。住人がいなくても、ポストさえあれば、彼らは仕事をこなせるので。

 ポスティングなら、三五号室まで行ったあと、男性は折りかえして帰ってくるはずです。うちのマンションは三一号室側にしか階段がない造りですから。

「…………」

 二分、待ちました。そのままの姿勢で。

 その間、耳をそばだてていましたが、三五号室の玄関ドアのノブをひねる音が聞こえたのを最後に、まったくの無音状態が続きました。


 ……やっぱり、おかしくないですか、これ?


 男性が住人でないことは、前述したとおりです。

 でも、じゃあ外の人間だとしたら、どんなパターンが考えられますか?

 新聞配達? 空き家に新聞は入れませんよね。

 泥棒? ただ、私の部屋からは明かりが漏れていました。近くまでくれば、窓が開いていたこともわかったはず。姿を見られることを承知で、それでも侵入しようとするものでしょうか。

 じゃあ、やっぱり、ポスティングしか……。

 でも、男性は、正味、三〇秒ほどで行き来できる三五号室までの往来を、二分経ったいまでも果たしていません。

 それに、音。ポスティングの業者がドアノブを回すことってあるでしょうか? あと、思いかえしてみれば、我が家のドアポストには何かを投函された形跡はありませんでした。


 そして、さらに不思議なことが。

 パソコンを落としてからこちら、私のまわりは静寂に満ちていたんです。それこそ、椅子のきしみ音が大きく響くほど。

 それなのに。

 彼の足音は、いまのいままで、いっさい聞こえていないんです。まるで、コンクリートの床に靴底をつけることなく移動したように。


 二分後。

 私は、玄関から、傘を握って、共用廊下に出てみました。

 もし彼が犯罪がらみでこのマンションを訪れたのなら、いまのうちに処置しておかなければなりません。あと二時間もすれば、なにも知らない正規の住人たちが活動を始めます。うちの家族も含めて、まちがっても、犯罪の巻き添えを食うような事態にしてはいけませんから。

 けれど、……というか、やはり、というか、廊下には誰もいませんでした。

 念のため、三五号室の前まで、なるべく足音を殺して近づいてもみました。もしあの男がなんらかの方法で室内にもぐりこんだのなら、なにかの痕跡があるかもと思ったんです。でも、もちろん室内から明かりがもれていることもないし、ドアには鍵がかかったままです。


 いまでも、私は、あの彼が幽霊だったのか人間だったのか、確信が持てません。

 ただ、こじつけるなら、視覚的にも、人間としておかしな点が、一つだけあったかも。

 彼の現れた朝四時は、うっすらと闇が明けかけていた時間でした。だから、もし本物の人間が通ったのなら、服の色や髪のグラデーションなどは、なんとなく見えた気がするのです。でも、私は、それらにいっさい記憶がありません。なぜなら。

 彼は完全にシルエットと化していて、全身が真っ黒だったから。

 ほの青い空気の中で(なんだか影絵みたいな人が通ったな)と思ったことを覚えています。立体感があまり感じられず、また、目の部分が、切りぬかれたように、向こうがわの外の景色を映していました。

 あれ? そうやってみると、けっこう奇妙な外見をしていましたね、彼。

 ただ、あのときは、驚いて余裕をなくしていたこともあり、

「不思議だ」

とか、

「気味が悪い」

とかは、まったく思わずにいられたのですけど。


 そんな不可思議現象に出くわした九月六日の午前四時。

 そこからひと寝入りした私は、九時ごろに目を覚まして、活動を始めました。この日は日曜日だったので、家族は全員、朝寝を決めこんでいました。そのため、早起きをする必要がなかったのです。

 だらだらと食事の支度をし、朝食だか昼食だかわからない時間に家族を起こして、粗飯そはんを済まさせました。

 午後も深くなり、前夜の睡眠不足がたたってきたころ、眠気覚ましにと散歩に出たマンションの敷地外で、ある人とすれちがいます。

「あ、ねえねえ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

と私から声をかけたその人は、以前、三五号室に住んでいたご家族のお母さんでした。


 三五号室の前住人は、じつは、向かいにあるマンションに引っ越しているのです。

 というのも、このご家族、息子さんが少しヤンチャな性質で、現在二〇歳ぐらいになるのですが、見た目も行動も、もろにヤ○キーなんですね。で、うちのマンションで少し問題を起こしまして、やむなく出ていく羽目になったのです。

 お母さんは私と同年代。一見では、ヤ○キー息子を育てたとは思えない、人なつっこく愛嬌あいきょうのある美人です。もっとも、私は、彼女がキレて他人に喧嘩けんかをふっかけるところをいくどか見ているので、そういう評価はしませんが。


 そのお母さんと道でばったりと会った瞬間、反射的に声をかけてしまったのは、いま思えば、深夜の男の正体を、私は、自分が自覚する以上に気にしていたのでしょう。誰かにあの体験を共有してほしかったのです。

 お母さんのほうは、ふだんから親しくしていることもあり、私の呼びかけに、すぐに足を止めてくれました。

「なあに? 今日は暑いね~」

のんびりとした口調に、急いではいない雰囲気を感じとった私は、自らも少し口調をゆるめて、会話を進めることにしました。

「そうだね~。なかなか涼しくならないよね~。今朝も朝四時まで起きてたんだけど、窓を開けてないと暑くってさ~」

「え~? そんな時間までなにやってんの~? 一人で~?」

「うん。一人~。でさ~、ちょっと聞きたいんだけど、三五号室って新しい人入ったのかな~? 知ってる~?」


 じつは、私、深夜の男の正体を、内心で(ここの息子の友だちとかではないかな)と疑っておりました。

 というのも、三五号室は、この家族が出ていってから、ずっと空き家だったんです。つまり、ここのご家族なら、鍵を持っている可能性があるのですね。

 息子さん本人でないことはわかっています。私は、彼ら家族全員の顔形を見知っていますから。息子さんは一八〇センチを超えるスリムなモデル体型。たとえシルエットだけでも、その凡庸ぼんようでない容姿をまちがうはずがないのです。

 だから、息子さんでないとすれば、息子さんから鍵を借りうけた誰かのしわざを疑ったの。


 けれど、私から早朝の訪問者の説明を聞いたお母さんは、声を荒げながら反論しました。

「やだっ! なにそれ! 怖すぎだってば! うちじゃないよ。鍵も持ってないし。それに三五号室も、まだ空き家のはずだよ」

と。

 なぜそんなふうに断定できるのか詳しく聞いてみると、こういうことのようです。

 三五号室の元住人のこのご家族は、車の保有台数が多いんですね。いま住んでいる向かいのマンションであてがわれた駐車場だけでは、とうてい足りない。

 そこで、お母さんは、以前のマンションの管理人さんに、

「駐車場だけでも継続して貸してもらえないか」

と交渉したというのです。そして、管理人さんからは、

「じゃあ、新しい人が入ってくるまでなら、いいよ」

と返事をもらった、と。

 いま現在、ご家族はまだその以前の駐車場を、なんの催促もなく借りています。だから、三五号室は空き家のままのはずなんです。


 三五号室は空き家。

 その確証をもらった私は、お母さんに礼を言って、うちに戻りました。

 自宅にたどりつくまでに通った共用廊下。北側に位置するそれは、夏の午後の太陽が作りだす濃い影に沈んでいます。

 今朝、ここを歩いたものはなんだったのか。

 私の頭の中には、とうぜんのように、メ○ボ広沢の心霊現象の一端ではないか、という疑問がうずまいていました。

 でも、やっぱりしっくり来ない。

 メ○ボ広沢は女の幽霊で有名なところです。実際、一週間前に現れたのは女性でした。なら、なぜ、今回は男性なのか?


 私がその答えを得たのは、そう時を置かずして現れた次の現象においてでした。

 翌、九月七日のカレンダーには、こんなメモ書きが残っています。『午前四時、歌声が聞こえた』と。


 それは、前日と同じく明け方のことでした。

 前夜にあまり寝ていなかった私は、それでも、また三時近くまではパソコンに向かっていました。

 書き物をしたかった、という理由はもちろんあります。でもそれ以上に、なぜか、ひどく(今日も四時まで起きていないと)とせっぱつまったものを感じたのです。

 けれど。

「……だめだ。眠い……」

三時の時報を聞く直前、限界が来ました。

 椅子から転がりおちて居間の床に倒れこみ、目覚ましがわりにアラームをセットしてあるスマホをたぐりよせて、そのまま寝入ることにしました。

 なにせ私は、元来、だらしのない人間です。寝る場所なぞにはこだわりませんし、お化けが出る可能性がある緊張感の中でも、眠ければそっちを優先します。

「今日はもう朝まで起きないからね。とちゅうでなにかしても気づかないよ」

一応、今日も出てきてくれる予定だったかもしれない心霊現象にそう断ってはみました。が、特段、返事もないようだったので、遠慮なく、即効で夢の中に飛びこみます。


 アラームのセット時間は六時三〇分。

 寝おきの悪い私は、波の音と優雅なボサノバを奏でるそのアラーム音に、すぐに反応することはありません。たいていは、スヌーズ機能をフルに使ったあとの六時五〇分ごろに、あわてて強引な覚醒をします。

 だから、このときも、まず体を起こしたんです。「歌が聞こえるから起きなきゃ!」って。

 でも、ぼうっとする頭に活を入れて目を覚ましていくとちゅうに、気づいたのです。

「あれ? これ、アラームの音じゃなくね?」

と。


 外はまだ暗いよう。

 焦点の合わない視点をスマホの画面に向けると、案の定、時刻表示は四時を示していました。

 歌はまだ聞こえていました。ボサノバではありません。波の効果音もありません。そんなみやびな音楽ではなく、……メロディははっきりと聞きとれないのですが……、どうも古い歌謡曲のよう。

 そして、その歌は、どう聞いても、年配のおじさんが自ら歌っているようにしか思えないのです。


 腰高窓を見あげると、鍵をかけ忘れたのでしょう、開きっぱなしにした細いすきまから、昨日と同じほの青い闇がのぞいています。

 耳を澄ますと、歌の主は、二階から三階に続く階段を、ゆっくりと上ってきているみたいでした。けっこうな音量のごきげんな鼻歌と、ふらついて重そうな足を引きずる音が、騒音レベルで廊下にこだましています。

「……酔っぱらいかな」

と、いったんは思いました。

 ただ、ここに住んで八年、私はいままで、この手の迷惑行為を体験したことがありません。基本的に、このマンションの住人は、深夜に行動する習慣はないのです。

 それに、ここは、比較的、若い世帯が多いので、年配の方の入居者はめだちます。私の記憶では、歌声の主に当たるようなオジサマは、二階の一番奥に住んでいる老夫婦のご主人だけです。もちろん、深夜徘徊の趣味はありません。


 泥酔しているような六〇代ぐらいの男性の様子。彼は、なぜ、自分の部屋があるわけでもないこの三階に上ってきているのか。

 目が覚めるにつれて、私は、ある可能性に思いいたって、徐々じょじょに緊張していきました。


 オーナーの娘さんが飛びおり自殺をしたメ○ボ広沢は、現在、自殺の名所として有名になってしまっています。

 娘さんのあとを追うようにメ○ボ広沢で投身をするのは、おもに男性。それも住人ではない人たちです。

 そして、彼らが今生の別れを覚悟する場所は、娘さんが飛びおりたと言われる、最上階の共用廊下なのです。

 死を覚悟してメ○ボ広沢を訪れた自殺志願者たち。

 そんな彼らの中には、もしかしたら、年老いた方もいたのかもしれない。

 死にには来たけれど、でも死ぬのが怖くて、酒で恐怖をまぎらわせたかもしれない。


 だから、いま、階段を上ってきているのは、メ○ボ広沢からやってきた死人なのかもしれない。


 自殺者の霊魂は悲しいです。自分で自分を否定したまま死んでいるので、救われることがないんです。

 叔母の幽霊とずっとつきあってきている私は、自殺者の成仏が非常に難しいことを知っています。

 もし、外を歩いているおじさんがそのたぐいのものだとしたら、彼もまた、延々と、自分が死んだときの行為を、無為にくりかえしてしまうのでしょう。


 彼がうちに来たのは、おそらく、彼の意思ではなく、白い女に引きずられたのだと思います。だって、彼からは、私と話したいという意識は読みとれませんでしたから。

 でも、縁あって、こうやって接触をした。

 だから、私は、彼と会うべきなのですよ。いま、この状況で、彼を認識し、彼に同情をし、さらに、彼のような御霊との出会いを求めているのは、私だけなのですから。

 そんなわけで、スマホのカメラを起動し、足音を殺しながら、玄関を出てみました。

 真っ暗な共用廊下に顔を突きだし、階段の方向に視線を向けます。

 歌声は、玄関扉を開けた瞬間に、止まりました。それでも、彼がいただろう場所に向かって、まずシャッターを切ります。そして、歩いて近づいてみました。

 けれど、歌声の主の姿はどこにも……。


 ………………。

 ………………。

 いや、正直に言います。というより、懺悔ざんげします。

 私はこのとき、ちょービビってました。


 おっちゃん、出現のしかたがこえーよ!


 幽霊の気配を感じること自体は、すでに、私にとって恐怖なできごとではありません。実際、いまこうして夜中に心霊エッセイをしたためている瞬間も、ばりばりに細かい現象は起きています。左側からのぞきこんでいるお嬢さん、書くの、邪魔しないでくれる?

 でも、このおじさんは、自分が死んだときの行動にとらわれているのです。要するに、死んだあとに訪れるだろう解放感とか諦念の情みたいな、ある種のプラスの感情を、いまだにまったく持っていないというわけ。負の情念のかたまりのような存在に陥ってしまっているのですね。

 こういう人が姿を現した場合、遺体の状態をそのまま維持していることが、ままあります。川で入水しただろう叔母は、水びたしの髪をしていました。他にも、岩場から飛びおりて腕が折れ曲がってしまった男性などを見た経験もあります。

 メ○ボ広沢は八階建てのコンクリート造りのマンション。その最上階から飛びおりればどんな姿になるのかは、推して知るべし、なのですよ。

 そして、心霊が得意な私は、どういうわけだか、大量の血にまみれる映像が大の苦手なんだよね。


 そんな理由で、深夜の共用廊下に出るまではなんとか勇気をふるった私ですが、それ以降は、内心で(見たくない。死体とかぜったい見たくないぞ。もうどっか行ってくれよ、おっちゃん)とくりかえしておりました。

 だから、そんなビビリの前に、幽霊だって出られないよね、うん。

 ………………。

 ………………。

 ……タイヘンモウシワケアリマセンデシタ。


 このおじさんが、もし、本当にメ○ボ広沢での自殺者だとしたら、前日の男性もその可能性があります。口を半開きにしたまま、脇見もせず、ひたすら一点を見つめて歩いていた姿は、そういえば、自殺者の特徴にも当てはまる気がする。

 そして、昨日今日の彼らがうちに現れた理由は、まあ……あの白い女が原因ですよね。彼女が『自覚せずに連れてきてしまった』のか『私を怖がらせるためにあえて呼んだのか』は判然としませんが。

 昨日の彼に恐怖はいだきませんでした。生者か死者かの迷いは生じたけれど、たとえ死人だと断定できたとしても、

「ああ、こんなふうに出現する幽霊もいるんだな」

ぐらいの感想で済んだでしょう。

 でも今日のおじさんはダメでしたね。白い女との勝敗で言うなら、完敗です。


 自ら心霊体験を求めながら、せっかく出てきてくれた御霊を拒否して、遠ざけてしまったこと。

 それから、単純に、性悪メ○ボ広沢女に負けて悔しかったこと。

 その二つから、若干じゃっかん、意気消沈した私は、歌声の消えうせた階段をあとにして、自宅の玄関先に戻りました。

 そして、四時という時間帯を考慮しながら、そうっと扉を開けました。

 そうしたら。


 なぜか、ムスッとした顔をしながら立っている、寝間着姿の長男と遭遇しました。


「……なにやってんの?」

この質問は、私と長男の両方から同時に発したものです。

「え、いや。寝つけないから、ちょっと散歩」

と答えたのは私。一方で長男は、

「トイレ」

と一言。

 そのまま、玄関脇にあるトイレに入っていった、彼。一方で、寝なおすために居間に戻った、私。


 でも、たぶん、長男は、私が散歩に出たのではないことを知っていたでしょうね。

 そして、私も、彼がトイレに起きたのではないことをわかっていました。

 だって、長男はとっても寝ぎたないのです。いったん寝たら、それが一二時間に及ぼうとも、けっして、とちゅうで起きることはないのです。


 それに。


 トイレから出た長男は、私がちゃんと布団に入っていることを確認したあと、

「おやすみ。ちゃんと寝ろよ」

と釘を刺していきました。

 それに対して、

「へーい」

とおざなりな返事を返しながら、私は長男のうしろ姿を見おくりました。


 そこには、長男につれそうように歩く、叔母の背中もあったんです。

 ちらりとふりかえった彼女は、先ほどの長男と同じように、ムスッとした、怒っているような、いさめているような表情をしていました。

 きっと、長男を起こして連れてきてくれたのは、彼女ですね。


 意地になると正しい方向を見失う、私の性格。そのせいで壊してきたものも、多々、あります。

 でも、私自身も知っているのです。そのまちがいを止める方法。それは、好意から発される他人の忠言。

 連日に起こる怪奇現象で、知らず、私は意地になっていたようでした。あきらかな寝不足を補おうともせずに重ねる夜ふかし。自分の限界値を無視して強がる虚勢きょせい行為。


 三日めの夜。〇時を少し回ったころには、私は、居間ではなく、寝室に寝ころがっていました。

 今日は、もう、メ○ボ広沢の連中は相手にしません。

 私が大事にしたいのは、コミュニケーションが取れる霊たちです。コケオドすだけの関係は、続けてもしょうがありませんから。


 そして四時。

 なにも起きませんでした。

 熟睡していて気づかなかったのか、それとも、共用廊下に面していないこの部屋では、白い女も手の出しようがなかったのか。

 遮光カーテンのすきまから漏れる白い光に、とっくに朝が来たことを知った私は、まだアラームが鳴らない時間であることを確かめて、再度、枕に頭を下ろしました。

 六時三〇分まで、あと一〇分。


 そのとき。

 ピピピピピピピピピ!

 との大音響が。


 寝起きの悪い私が、布団の中で音の正体に想像を巡らせているあいだに、次男がとび起きて、玄関に走っていきました。

 そのさいに、

「なんで防犯ベルが?」

とつぶやく彼の言葉を聞き、私も、ようやく、なにが起きたのかを理解しました。


 次男は、全体がルーズな我が家には珍しく、几帳面きちょうめんな性格です。

 今年から中学生になりましたが、当時は小学六年生。そのため、ランドセルを愛用していたのです。

 前夜のうちに翌日の課題をランドセルに詰め、それを玄関先に持っていって、万全の準備をするのが、彼の日課。そして、そのランドセルには、学校から支給された防犯ベルがぶらさがっています。

 その防犯ベルが、いま、無人の玄関で鳴っているのです。


 次男が止めたのでしょう。音が鳴りやみました。

 私も、不承不承ふしょうぶしょう、布団から起きだしました。もし、この音が心霊によるものなら、別の現象が続くかもしれません。そんな場に次男を一人で残すのは心配だったのです。

 玄関先にかがんで、防犯ベルをいじくりまわしている次男。

 ベルが鳴るためには、付随しているひもをひっぱるか、表面に大きく設置されたボタンを押しこまなければなりません。逆に、音を消すためには、伸びきったひもを本体に戻すか、再度ボタンを押すという方法を取ります。


 ボタンは、曲面を描く防犯ベルの最頂部に、非常に押しやすい形で作られています。

 私は、次男の手元をのぞきこみながら、たずねました。

「不安定な形に置いたランドセルが倒れて、防犯ベルのボタンの上に乗っちゃったんじゃないの?」


 どこからともなく音が鳴るという心霊現象は多いですが、物理的にボタンを押さないと発動しないこのベルの音は、幽霊のしわざというには、少し違和感を覚えます。質量を感じさせない幽霊という存在が、はたして、物理現象を起こせるものでしょうか。


 私は疑問を投げかけながら、ついで、ここ二日ばかりのできごとを、次男に話して聞かせました。

「なんか、どれもお化けって断定するには、あやふやだよね。本当の人間だったようにも思えるし、逆に幽霊だったんなら、ちょっとはっきりしすぎてる気もするし」

と、つけくわえて。

 すると、ふだんは、私の心霊体験を、

「ママにしか見えないなら信じない。オレに見えたら信じてもいい」

と否定する次男は。

 にやっと笑って。

「この防犯ベルが鳴ったの、ひもをひっぱられたからだった」

と答えました。

「偶然に鳴ることは、ぜったいにないよ」

と、つけくわえて。


 深夜の共用廊下を行く、住人ではないシルエットや歌声。

 いないはずの誰かにいたずらをされた、玄関先の防犯ベル。

 昨年の九月にこれらを体験した私は、それからもさまざまな心霊現象を目の当たりにするにつれて、いまでは、幽霊のしわざだということを疑わなくなりました。

 でも、当時は、新しい発見の連続で、とまどってばかりいましたね。

 幽霊はあれほどはっきりと生者に擬態するんだ、とか。

 ポルターガイストと類する物理念動の現象は実在するんだ、とか。


 みなさんの中にも『無人の家の中から物音がする』とか『電灯を消したあとの闇の中に人の気配がする』とかの経験をされた方が、いるのではないでしょうか。

 それは、耳で聞いているかぎり、感覚に訴えているかぎりは、ただの『霊感』です。『思いこみ』で片づけられるレベルの現象です。

 では、もう少し、その音に、その気配に、心を寄りそってみたらどうでしょう。

 もしかしたら、その音とともに『無人の家を徘徊はいかいする不幸な亡くなり方をした老婆』が見えるようになるかもしれません。また、その気配とともに『甘えたい盛りで無情にも死んでしまった幼い子ども』が現れるかもしれません。

 表面化した怪奇現象は、その奥にある『強い想いをのこす人の情念』に触れるための、入り口、だと、私は考えています。

 だから、できれば、……恐ろしくはあるけれど、これからも『幽霊の正体』を見きわめるところまで、心霊とつきあっていけたらいいなと、思っています。

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