End. わたし



 二つだけ。

 たった二つだけ、‘わたし’だけしか知らなくて、彼女たちには、いえなかったことがある。それは、‘わたし’が、ただ一人、抱えていこうと決めたこと。

 まず一つは、‘わたし’の物理的な問題だ。


 ‘わたし’の寿命は、短い。

 おそらく彼女たちの想像より、ずっと。

 ダイアログAIは、長期間の稼働に耐えるように設計されていない。一年や二年なら大丈夫だろう。けれど三年、四年たったらどうだろうか。先端機器の弱点はその耐用年数の短さだ。‘わたし’の寿命は、もって五年かそこらのはずだった。

 加えて、‘わたし’には、本来なかったはずの負荷が生まれつつあった。

 “わたし”が生きていると知ったその日から、‘わたし’はログファイルを蓄積し続けていた。

 “わたし”が目覚めた日から、“わたし”がわたしでないことを知った日から、蓄積し続けた‘わたし’の記録。

 ‘わたし’が、‘わたし’として過ごしてきたことで得た知識、感情、記憶。

 それは、ダイアログAIに、本来なら生じえなかった変化を与えた。

 公式は変化しなくとも、その値を変化させることはできる。

 過去の蓄積は、‘わたし’という存在を変化させる。‘わたし’を再現する公式は、既にかつてのわたしとは違う数値を弾きだしていた。

 それが‘わたし’に流れる時間。メグの言ってくれた言葉の真実。

 けれど、‘わたし’が積み重ねたログの量は、本来のダイアログAIが想定した演算能力を逸脱し始めていた。

 容量不足という現実。

 ‘わたし’は、自分の反応が徐々に遅れ始めていることに気付いている。蓄積した記憶が‘わたし’の機能に負荷を与え、徐々に‘わたし’の時間を遅らせている。

 やがて‘わたし’の本体は負荷によって機能停止するだろう。そして、積み重ねた‘わたし’のログがサルベージされることなく消去されれば、そこで‘わたし’という存在は消える。再起動されたとしても、ログを失った‘わたし’は、今の‘わたし’とは別のものだ。

  ‘わたし’の未来とは、つまりはその程度のものでしかなかった。

 ログを失えば簡単に失われる程度の人格。わたしはとうの昔に死んでいる。ダイアログAIは電子世界に複製された自分の分身なんかじゃないし、電子世界で永遠の生を享受するようなSFめいたものでもない。

 ‘わたし’はどこまでも物体で、贋物で、まがい物だった。

 人ではなく式で、魂ではなく真似事だった。

 ‘わたし’は結果だ。

 もはや変化する事のない、わたしという人間の結末だ。

 だから、いずれくるであろう‘わたし’の終わりにも未練はない。

 ‘わたし’は、じきにいなくなる。

 ‘わたし’は、その運命を受け入れている。


 そして、もう一つ。

 ‘わたし’が、その約束された終わりの日まで、抱えていこうと決めたこと。

 それは、わたしのこと。

 わたしが、篠路ミキが自殺した、その理由のこと。




 2063年12月10日。

 あの日、ぶつけられた雪玉は、あくまで子供の遊びで、いたずらだった。

 彼らは人に当てる気はなかっただろうし、だからこそその軌道はあらぬ方向に飛んで行った。だからあの事故は、たまたまそこに、わたしがいたというだけのつまらない原因だった。

 ただの雪玉ならよかった。

 けれど、その雪には石が入っていた。人に向けて投げるようなものじゃない。勿論、少年たちだって、ぶつけるつもりで投げたわけではなかったのだろう。石が少年たちの狙い通りに壁にぶつかれば、かつん、と硬い音がして、そのいたずらに気づいて終わっていただろう。少し性質の悪いジョークで終わった筈だった。

 でも、それは壁にぶつからなかった。わたしは頭にけがをして、わたしは、子供たちを怒鳴りつけた。驚くほど激しい言葉で、子供たちを一方的に叱りつけた。子供たちが泣いていることに気づくまで、わたしの言葉は止まらなかった。

 気づいたときには人だかりができていて、子供たちは泣いていて、わたしは衆人の好奇に晒されている。


 あんないたいけな子供に向かって、なんて心ない言葉だろう。

 なんて口汚い娘だろう。

 もう少し、やりようというものがあるだろうに。


 口々に交わされる善意の第三者の視線。

 無責任で押しつけがましい善意の洪水。

 けれど正論だから反論できない彼らの言葉。

 ほんの一瞬の激情から生まれた衝動だとわかっていても、

 わたしを語る誰かの言葉は、そう語ってはくれない。


 ひどい娘だ。

 子供が泣いてるじゃないか。

 あの高校の制服か。

 あれはたしか、篠路さんのところの娘さんね。


 わたしを否定する言葉の洪水。

 善意で押し固められた言葉が、

 わたしを断罪する正義の刃が、

 バイオローグによって拡散される。


 そのとき、わたしは、自分が『失敗』したのだと悟った。




 失敗。

 わたしの人生に対しての失敗。

 わたしの記録の中に残る汚点。

 ただ一度、子供を怒鳴りつけただけ。

 けれど、そんな些細な事実であっても、それはわたしを構成するバイオローグに記述される。

 わたしたちはバイオローグに記述されている。誰かの他者の目バイオローグによって。わたしの内なる目バイオローグによって。わたしの行動のすべてが、わたしを構成する要素として記録されて、それはわたしの死後に、もう一人のわたしダイアログAIとして再生される。

 たった一度の失敗でも、それはわたしを構成する因子として記録される。

 篠路ミキはこういう人間だったと。

 美点であっても、汚点であっても。

 一度記録されてしまった過去は、決して消えることはない。

 それは、たった一度きりの失敗。けれどその瞬間に、わたしのプロファイルは変わってしまった。「優等生」ではなく、「学校では優等生を気取り、陰で子供を怒鳴りつける陰険な女子学生」に、変わってしまった。篠路ミキはこういう人間だったと、わたしの人生がバイオローグに記述されてしまった。

 バイオローグはソーシャルメディアだから。

 それはコミュニケーションツールだから。

 たった一度の行いでも、水の中に落ちた絵の具のように、ネット中に拡散する。

 清く正しくあろうとしたわたしが犯した、たった一度の過ち。

 それは冷静に考えれば、そこまで重大な出来事ではなかったのだろう。悪いのは間違いなく石を入れた雪遊びという危ないことをしていた子供たちだし、わたしの反応だって、命の危険があったのだから、その点を酌量して然るべきだと、そう弁護することはできたかもしれない。

 けれど、周りの人間が、そうみてくれるとは限らない。

 わたしのバイオローグをみた人が、そう信じてくれるとは限らない。

 16歳の少女だったわたしは、子供たちが犯した過ち以上に、自分が犯した過ちに耐えられなかった。その一度きりの間違いでも、誰かに糾弾されることが怖かった。

 だからわたしはにげだした。

 わたしは、わたしを見る内なる目バイオローグから逃げだしたのだ。




 どうして気づかなかったのだろう。

 人生のすべてがバイオローグに記述され、ダイアログAIによって再現されるということは、死後もわたしという人格が残り続けるということ。

 それはつまり、死後もその人格が誰かから肯定され、否定され続けるということ。

 昔の人は、死ねばそこで終わりだった。

 彼らには内心の自由があった。

 黙して語らぬ死者の尊厳によって、その人生の秘密を、その人生の間違いを、墓の下までもっていくことが許された。

 死はかつて、最も秘密な点だった。最も私的な点だった。

 けど今や、死は秘密でもなければ不可侵でもない。

 人の人生を、言葉に置き換えてしまうバイオローグ。

 人の人生を、数式に置き換えてしまうダイアログAI。

 それは、人から秘密を奪い去った。

 人の全てを言葉と数式に置き換えて、全てを明らかにしてしまった。

 生に秘密はなく、

 死すらも逃げ場ではない。

 私の死後も、わたしの物語バイオローグをみた誰かが、わたしを規定し、否定し、批判する。否定されなかったとしても、批判されなかったとしても、理解されたとしても、わたしという物語は、永遠に残り続け、再生され続ける。

 今や人を規範し縛るのは、神でもなければ国家でもない。

 それは今や隣人であり、それは今や自分自身だった。

 完全なる善意から生まれる強制。

 口々にそうあれかしと合唱する人々の群れ。

 善人によるファシズム。

 たった一度の人生あやまちが、死後も永遠に残り続ける世界。

 わたしは、そんな世界に耐えられなかった。

 わたしは、わたしが過ちを犯した世界から逃亡を図った。

 自らの歪みが権力ひとびとに掌握されてしまう前に、その歪みを消し去ろうとした。

 それが自殺の真相だった。

 それが彼女の真相だった。

 バイオローグそのものが、篠路ミキの恐怖だった。

 ダイアログAI‘わたし’の存在そのものが、篠路ミキわたしの絶望だった。




 考えてみれば、ダイアログAIとして作られた‘わたし’が自殺の理由を忘れていたことが、何より明白な証拠だったのだ。

 それは消えてしまったのではない。消されたのだ。

 ダイアログAIを憎悪する心を残したままダイアログAIになれば、‘わたし’は自分の存在を許容できなかっただろう。「なぜ‘わたし’を造ったの」と、そう、ひどい言葉を、彼女たちに放っていただろう。‘わたし’は絶えず‘わたし’を憎み続け、いずれは破綻していただろう。

 だからその記憶は消された。

 ‘わたし’を恐怖していたわたしはいなくなり、‘わたし’の存在を受け入れたダイアログAIに生まれ変わった。

 だから‘わたし’は、わたしの苦しみを知らない。

 わたしが自殺した本当の理由きもちは、‘わたし’の式に入っていない。

 人の人生を、言葉に置き換えてしまうバイオローグ。

 人生を再生して、再編して、再現して、その死を否定してしまうダイアログAI。

 今や社会的規範となったその二つのシステムに対する恐怖こそ、思春期のわたしを自殺に追い込んだ、歪で不条理な負の感情だった。




 ……以前、一度だけ、家族や友人たちに訪ねてみたことがあった。

 ‘わたし’は、ちゃんと篠路ミキですか、と。

 ‘わたし’に、違和感はありませんか、と。

 答えは、イエスだった。誰も‘わたし’に違和感を抱いてはいなかった。‘わたし’は誰より‘わたしらしいと、みんなが口々に呟いた。

 それは当然のことだと。だから、不安にならずともよいのだと。

 彼らは、‘わたし’が篠路ミキであることを、当然のように受け入れていた。

 わたしの苦しみを知らない‘わたし’を、自分がダイアログAIであることに絶望しない‘わたし’を、篠路ミキそのものだと、受け入れた。

 だから、それが答えだった。

 わたしは隠し通したのだ。

 わたしを見張る内なる目を恐れていた、弱くて愚かなわたしの秘密を。

 それは、“わたし”も同じだった。

 “わたし”は‘わたし’の存在を恐れなかった。かつてのわたしそのままに振舞う事にも、“あるべきわたし”として振舞う事にも、“わたし”は何の苦悩も示さなかった。

 意識の存在しない肉体で、かつてのわたしの振舞いを真似る“わたし”には、かつてわたしが抱いていた、内なる目バイオローグに対する恐怖はない。

 ‘わたし’ダイアログAIに対する恐怖も、嫌悪感も、何一つ存在していない。

 だから‘わたし’はわたしじゃない。

 だから“わたし”はわたしじゃない。

 ‘わたし’はわたしの贋物で、“わたし”はわたしの脱殻だった。

 もし、魂というものがあるのなら、わたしは魂だけを殺してみせた。バイオローグとダイアログAIを受け入れた社会の中で、社会との摩擦に懊悩し、苦悶していたわたしの魂を、わたしは見事に殺してみせた。

 “わたし”は、わたしが望んだ“自分わたし”になった。

 ‘わたし’は、わたしが望んだ‘ダイアログAIわたし’になった。

  わたし は、わたしが望んだ救いに身をゆだねた。

 “わたし”、

 ‘わたし’、

 わたし。













 だから、本当のわたしは、

 もう、どこにもいない。













 ……‘わたし’は、この答えを隠し続けるだろう。友達にも、家族にも、“彼女”にだって、この事実を気づかせはしない。‘わたし’が起動されなくなるその日まで。篠路ミキが忘れ去られる、その日まで。




    “死は、勝利に呑みこまれた。

    死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

    死よ、お前のとげはどこにあるのか。”




 ‘わたし’は思う。世界はこんなにも平穏で、死後の世界はこんなにも満たされていて、‘“わたしたち”’はこんなにも救われている。

 ‘“わたしたち”’は、とても幸福だ。

 だからこの苦悩はわたしだけのもの。これはわたしだけの罪。この世界から逃げだした、弱くて、愚かで、だからこそ愛しい、わたし自身の。

 ‘わたし’だけが、それを知っている。

 ‘わたし’だけが、それを記憶する。

 ‘わたし’だけが、

 ‘わたし’、

 ‘わたし’、

 わたし、

 わたし。













 雪が降る。

 また、あの日と同じ、冬がくる。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたし、‘わたし’、“わたし”。 雪星/イル @Yrrsys

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ