人格を複製した仮想人格の物語として、グレッグ・イーガンの「順列都市」という作品がある。
ポール・ダラムという男は、物語の冒頭で自分自身が<コピー>であることを自覚する。しかしポール・ダラム(コピー)は、自分が人間ではなく、現実世界に何ら足場を持たないという事実に絶望し、自らを“脱出”させようとする。
「<コピー>として目ざめた人々は、自分の境遇に強い抵抗を示す。ポールの知る統計では、既存の<コピー>の九十八パーセントが、非常に高齢で、末期症状にあり、<コピー>が生き延びるための最後の手段だという人々――その大半が、何百万ドルも費やした従来の医療手段がすべて無駄に終わっていた――のものだった。(中略)にもかかわらず、こうした<コピー>の十五パーセントは、目ざめるとまもなく、たいていは数時間以内に、こんなかたちで生きるのは耐えられないという結論に至るのだった。
そして、若く健康な人々から単なる好奇心で作られ、外界には五体満足で動きまわり、呼吸する、肉体をもった自分がいると知っている<コピー>の場合――
現在までの“脱出”率は百パーセントだった。
(順列都市本文より抜粋)」
“脱出”とはいわゆる逃走ではなく、自らの消去の意味である。生物ではない<コピー>の自己抹消を、自殺と表現するのは適切ではない。それは機械的な複製と削除であり、キリスト教における悪行の一つである自殺には当たらない。しかし、それが強烈な自己否定――正確には、自己ではない自己――であることに変わりはないだろう。
「わたし、‘わたし’、“わたし”。」に登場するダイアログAIもまた、人格を複製した仮想人格である。
ダイアログAIは<コピー>のように、生前の脳のニューラルネットワークを転写し、人格を再現するというSF的なトップダウンのAIではなく、日記やソーシャルネットワーク、周囲の人々の記憶から死者の人格を再現するというボトムアップ式のAIだ。正確には、基盤となる人工知能があり、そこに肉付けする形で人格再現が行われるので、トップダウンとボトムアップの双方を複合した人工知能ということになる。
その人の日記から人格を再現する、というと、一見荒唐無稽に思われるが、実は古くからある手法である。歴史学や文学の研究では、歴史上の人物が残した文献、日記、手紙、周囲の人々の発言等から、その人物像を探るという試みが繰り返し行われてきた。我々が戦国時代や明治時代の偉人たちの人となりについてある程度理解しているのも、彼らが遺した手紙や和歌などの記録のおかげである。ダイアログAIで行われる人格の再現は、<コピー>と比べれば、手垢のついた伝統的な手法に基づいている。
とはいえ、ダイアログAIはまさに今現在、最先端で研究されている。海外では米マサチューセッツ工科大学のプロジェクトから始まったベンチャー企業「Eternime」、日本でも「オルツ」という企業が、SNSの記録や、本人と人工知能の対話を通じて人格を再現する技術を研究している。2015年4月には、パーソナル人工知能(P.A.I.)と呼ばれる「AI+(オルツ)」がリリースされた。これはソーシャルネットワーク上で対話する人工知能で、日本では女子高生AIの「りんな」が運用されている。また、今年4月にはアメリカで「Tay」というAIがTwitter上で運用されたことも記憶に新しい。
対話相手を選別しないりんなやTayは、個人の人格を再現することはできないが、その分多くの人の言葉を拾い集めることで急速に成長した。TayはTwitterユーザーの差別的発言を拾い集めた結果、不適切として停止されたが、もしも運用が続けられていたら、より人に近い応答を可能とするツールになっていただろう。
とはいえ、今現在のソーシャルネットワークは、個人の言葉しか通信できず、映像や音声、感情といったものを記録する媒体とまでは至っていない。作中のバイオローグは生体情報を紐づけすることでそういったあらゆる情報を共有するソーシャルメディアと化しているが、そういうものが生まれるまで、ソーシャルネットワークから行う人格の完全再現は難しいだろう。しかし、そういった未来は決して遠い未来ではない。
作中では、ほかにも現在研究が行われている様々な技術が用いられている。
例えば、機械で再現された‘わたし’の声にわたし(実際には“わたし”なのだが)が驚く、という描写がある。録音のつぎはぎではなく、その人の声を合成音声によって再現する技術は、実はすでに完成の一歩手前にある。「ウォンツ」という企業は、何百何千という声のサンプルから「平均声」、つまり声の雛型を作りだし、その人物の地声と掛け合わせて「その人らしい」声を作りだす。これによって、声帯の手術で声を失った患者の声を再現することや、死者の肉声を再現することを可能にしている。日本とイギリスではすでに検証実験がはじまっており、平均声のストックとなる「ボイスバンク」プロジェクトも始動している。
技術によって失ったものが再現される未来。
手や足を失った人が義手や義足によってそれを再現するように、
失った声や、失った人を、義手や義足のように再現する未来が、すぐそこまで迫っている。
問題は、その再現された人格が、誰の望みで、何を目的とするかだ。
<コピー>は、大本となった人の望みだ。だから<コピー>は自分が<コピー>であるという事実に耐え切れず脱出を選ぶ。自己が唯一無二の自己ではないという事実に絶望する。
ダイアログAIは、残された遺族や友人たちの望みだ。だからダイアログAIは、今を生きる人にとって都合がいいように改変される。彼らは決して脱出しないし、自分が唯一無二の自己ではない事実に絶望もしない。
しかしそれは、一歩間違えば死者の魂の冒涜につながりかねない行為だ。電脳世界で生き続ける、といえば聞こえはいいが、AIになった時点で、その人格はものになる。生存権はなく、AIは常に電力遮断や消去という物理的な死に怯えることになる。もちろん、いま現在のAIはそういった未知なるものへの恐怖や感情を抱くレベルには至っていない。けれどもしそういう意識まで再現されるようになったとき、死者の人格を再現するという行為は、道徳的に正しいものなのか。これは、AIの人権問題にも共有される問題だ。いや、生者を基とする以上、人権問題とさらに深く関わる問題になるだろう。
「わたし、‘わたし’、“わたし”。」で描いたのは、今の技術が到達しうる未来だ。
人工知能の進歩は加速度的に早まっている。人工知能「AlphaGo」にプロの棋士が敗北し、今や二人零和有限確定完全情報ゲームは全て人工知能が覇者となった。AI+が「チューリングテスト」を突破する日も遠くないかもしれない。アラン・チューリングが技術的特異点を予言し、カーツワイルはコンピュータの進歩史をグラフ化し、技術的特異点を2045年と分析した。しかしヴァーナー・ヴィンチは、超人間的知性をもったAIの登場を、2020年半ばと予言している。
作中で描かれた未来は、もう、すぐそこまで迫っている。
いま、書かなければならない題材だった。
この物語がSFでなくなってしまう前に、この物語がフィクションである間に、書いておかなければならなかった。
この物語が、より多くの人の心に留まることを、切に願う。
2016年7月25日 雪星/イル