第3話 俺、今、女子通院付き添い中
三週間後の体育祭に向かっての不安はまったく解消しないまま時は流れ、いつのまにかの土曜日。
電車の窓から見える土曜の午前中の駅前の風景は、なんとも弛緩した感じでこっちまでぼおっとしてしまいそうな様子だったが——気がつけば発車のベルが鳴り、そのなんの変哲もない郊外の街の景色はゆっくりと動き始めるのだった。俺は、その流れる景色を見ているとなんだかさらにぼんやりとしてしまって、そのまま寝てしまいそうなくらいだったが、
「お姉さんもついてくるんですか?」
柿生くんが言った言葉に我にかえるのだった。彼は、この電車に喜多見美亜が同乗していることにびっくりしているようだった。
「あれ、私もついていくって言ったの信じてくれてなかったの?」
「ええ……いえ、まさか本気だったと思ってなくて」
確かに、柿生くんは電車が発車するまでは半信半疑といった様子だった。
でも、
「いえ本気よ——と言っても大げさに考えてもらわなくても良いのだけれど……今日はちょっと暇してたの。だからちょっと気晴らしにどこかに出かけられないかなって……」
今、喜多見美亜の中にいるのは麻生百合、百合ちゃんだ。足に障害がある車椅子の弟、柿生くんのことを心底心配して大事に思っている彼女のことだ、自分が「麻生百合」ではなくなったからその世話は人任せとなるわけは無い。弟の行くところならどこにでもついていくのだった。
しかし、そんな入れ替わり現象のことなど知らない柿生くんからすれば、何で赤の他人の喜多見美亜が自分の定期通院などという極々プラーベートなものについてくるのかと不思議を通り越して不審な感じがするに違い無い。
「病院なんて面白いところとは思えないですけど?」
だから、柿生くんの言葉は若干警戒している様な声色であった。
なので、
「いえ、柿生、この喜多見美亜さんはね。バカは病気しないの見本なので——ろくに行ったことの無い病院と言うところ見てみたいのよ」
俺は柿生くんの疑問を解消してやろうとフォローを入れるのだったが、
「そんな! 向ヶ丘くんひどい……」
「『向ヶ丘』?」
つい素に戻って「俺」の名前を出してしまった百合ちゃんの言葉に柿生くんの顔が疑問符だらけになってしまい、
「ああ『向ヶ丘』くんはひどいわよね——向ヶ丘勇って言うのは美亜さんと私の知り合いで、そんな暴言をついつい吐いてしまうような
俺が慌ててフォローをすると、
「……ああそういうことですか?」
と柿生くんは意味深な様子の顔で首肯しながら、
「でも今の二人の雰囲気だとその男の人のことを憎からぬ思っているような雰囲気だと思いますが?」
「「えっ?」」
ちょっと予想外の方向の詮索をするのだった。
「なんとなくですが、その人って美亜お姉さんの彼氏ですか?」
「はああ!」
「…………!」
思わず声を出してしまったのは俺——俺が入った百合ちゃんであった。
「柿生、そんなわけは無いわよ。この喜多見美亜さんはね……」
百合ちゃんも動転して、今自分が喜多見美亜なのに「喜多見美亜さん」とか言い出している。
あまりに唐突で意外な発言に俺たちは虚を突かれてうろたえているが、
「——まあ良いですよ。その人が彼氏でも、中の良い友達でも、その間でも……お姉さんたちの後ろに男の影ありですね……面白くなりそうです」
なんだか不思議なくらい楽しそうな柿生くんなのであった。
*
今日の電車の旅は長くは無い。柿生くんの問題発言にどぎまぎして、あわてて二人で取り繕う様な(なぜ?)会話していたらもう目的の駅についていて、気づかずに乗り過ごしてしまいそうな……
で、発車ベルの鳴る中、ぎりぎり電車を降りると俺らはそのまま改札を抜け、駅前の通りを歩き、住宅街を横目に丘を登る。すると、十分弱ほどで、
「着きましたね」
今日の目的地——柿生くんのかかりつけの病院へと到着するのだった。それは、事前に聞かされていた通り、大きく立派な建物であった。個人運営の病院だとは言うのだが、一瞬どこかの大学病院なのかと思ってしまうほどの施設の規模であった。俺は、予想よりもずっと仰々しい感じだった病院にびっくりしながら、枝振りの良い桜の並木の間のエントランスを歩き建物の中に入るのだった。しかし、入り口に入ったその瞬間、
「あっ、これだめ……」
「……?」
思わず口から漏れた俺の言葉に、不思議そうな顔の柿生くんだった。
なんと言うか、病院のこの消毒薬っぽい匂い。いる人たち全員が緊張してると言うか、最後には生死がかかっている事態がここで起きているのだと思わせる切迫した雰囲気。どうにも——俺はこの病院という物が苦手なのだった。
自分が小さい頃は、風邪引いた熱出したで、家の近くの、おじいさんがやってるかかりつけの小さな医院に行ってた記憶がある(そういやあのおじいさん先生今どうしてるのかな)が、小学校高学年頃からは、風邪引いても家で寝てれば治ってしまうと言うか、そもそもあまり病気もしない様な丈夫な体に生まれた俺は、病院にほとんど行ったことが無い。だから、
なので、なんだか、もう死んでしまいそうな気分である。自分は今日は付き添いなだけなのに、ここに入ったら死んでしまう。死んでしまう様な時しかここにはくることはない。自分でも馬鹿らしいと思うのだが——そんな気持ちが沸き起こってしまうのだった。で、入り口で
「百合さん、じゃあ受付するところとか一緒に見せてね」
「あっ……はい」
本気で手に汗かいて固まってしまっていた俺に、喜多見美亜の体の中にいる百合ちゃんが声をかけてくれ——歩き出す俺ら。
今、俺は麻生百合なんだから、この病院には柿生くんをつれて何度も通っていてこんなところで立ち尽くすはずはない——立ち尽くしていてはいけない。そんなことはじゅじゅう承知だった。だが、どうにも思う様にはいかない。俺は恐る恐る受付と書かれたカウンターに歩行くと、バックのなかから取り出した柿生くんの診察券をぎこちなく受付のお姉さんに差し出すのだった。
と言っても——緊張の割に——何事が起こるわけでも無い。診察券を差し出した時に合言葉を要求されるわけでも、お姉さんがあくどい笑みを浮かべてここが異世界に変わってしまうわけでもない。
「麻生さんこんにちわ。柿生くんは相変わらず可愛らしいですね」
「……(ニコッ)」
どうやら顔見知りらしい受付のお姉さんに、俺はどう言葉を返せば良いのか分からずに無言で首肯する。でも、確かに柿生くんは百合ちゃんに似て可愛いよなと思えば顔は自然ににっこりとなる。
すると、
「ふふ。その笑顔心の中でシャッター切りました。相変わらずの美形
少しロリショタ趣味なのかお姉さんは嬉しそうにニタニタとするのだが、
「あれ、そちらの方は?」
俺(麻生百合)の横にいる喜多見美亜(麻生百合)の方を見て一瞬ハッとした表情になる。
「私は、喜多見美亜と言いまして百合さんの友だちで、今日は社会勉強で病院に一緒に来させてもらっています」
「あっ……そうよね?」
「『そう』?」
「いえ——いやおかしい話なんで……」
おかしい?
「なんというか、そっちのお友達の方を百合さんかと一瞬——ふと思っちゃって……」
「「…………!」」
「——いえ、忘れてね。なんでそんなこと思ったか自分でもさっぱり……」
と言っててなんとなく釈然としない感じの受付のお姉さんであった。やはり、百合ちゃんは百合ちゃんであり、体が入れ替わったくらいではどうしようもないくらい百合ちゃんなんだろう。それが、肉親でも無い、このお姉さんにもわかるのだろう。人の体なんて心の入れ物に過ぎず、それが入れ替われば心の持ち主に人は替わるのだろう。俺はこのやりとりで、そんな風におもうのだった。
でも
なんだろ、
そんなことを考えながら振り向いて、俺は柿生くんの車椅子を押そうと、そのハンドルに無意識に手をかけるのだったが、
「百合っぺ! こんにちわ!」
「はっ?」
俺の、というか百合ちゃんの顔の目前、もうちょっと動いたらキスしてしまって、(また入れ替わりなんて起きたら)事態がさらにややこしいことになりそうな危険をはらむほどに近くにいた元気いっぱいと言った感じのショートカット美少女が満面の笑みで語りかけてくるのだった。
「柿生くんもこんにちわ!」
「あれ、
柿生くんも顔みしりらしいその沙月と言う名前の少女は、ハイテンションなままハイタッチをしてきて——俺は呆然とした顔でそれを受ける。
「うわっ、百合っぺ。会えたの久しぶりだね! 前に来た時、私は女子サッカー部の遠征行ってたし。その前は私の高校の登校日だったしね」
「そ、そうね……」
「んんっ? あれ——?」
「…………?」
「やーい! ひっかかった! 前の前の時は私が寝坊してる間に百合っぺ帰っちゃってたのでした。てへっ!」
「…………」
あくまでも明るくほがらかに一方的に喋られて、またハイタッチ。なんとも、反論をゆるさないようなすごい勢いであった。たぶん俺(百合ちゃん)の顔はだいぶ引きつっていたことと思われるが、そんな事は全く気にせずに次々に好意をぶつけてくるこの人。善意の塊の様な美少女。なんだろ、この人? 百合ちゃんとどんな関係?
俺はニコニコとしながら俺を見つめるこの少女を、どう扱って良いものか分からずに無言で愛想笑いを返すくらいしかできないままとなってしまっていたが、
「——で! なんだけど!」
目線をちょとずらして、(百合ちゃんが入った)喜多見美亜のことをチラ見しながらこの沙月と言う少女は言うと、
「この人って誰?」
「この人は……」
「百合さんの友だちの喜多見美亜といいます。はじめまして沙月さん」
ちょっと冷たい感じの百合ちゃん(喜多見美亜)の口調。
なんだろ、百合ちゃん、少し緊張している? 随分親しそうな様子だったから、やっぱり入れ替わっていて不審に思われるのを警戒してるんだろうか?
「へええ……」
そんな百合ちゃんというか喜多見美亜の周りを沙月と言う少女はくるくる回りながら、検分する様にじっと見つめ、
「うわ、スタイルいいなっておもったら肌も綺麗。くんくん、ああ、いい匂い。くんくん……ふごっ! うわ思わず焦って嗅いで喉つまっちゃたわ」
なんだこいつ?
「——そしてこの顔! なにこれ可愛い。完璧美少女。百合っぺ、何この人? すごい人と友達になったのね?」
舐めんばかりに近づいて、喜多見美亜の肩とかすりすりし始めた様子に、あっけにとられていると、沙月と言う少女は一度ちらっと俺(麻生百合)の方を見てから、
「うわっ! よくもまあこんな美人と……ちょいちょい、ちょいちょい!」
さらに喜多見美亜をつんつんしながらこびをうるのだが、
「でも良いの百合っぺ?」
じたばたと回るそのうちに、たまたま俺(麻生百合)にだけ見える様な角度で目があうと、
「こんな可愛い子連れてきて、兄さんが目移りしちゃったらどうする気かしら?」
ひどく冷たい目で言うのだった。
*
病院の入り口での受付後、勝手知ったる様子で進む(百合ちゃんが中にいる)喜多見美亜におどおどと柿生くんの車椅子を押す(俺が中にいる)百合ちゃんが付いてくと言う不自然な行動に、柿生くんの目がまた?になっているのには気づいていたが、心がいっぱいいっぱいになってる俺はフォローもできずにただ無言でついていくだけしかできなかったのだった。百合ちゃんも喜多見美亜の顔をむっとさせて無言ですたすた歩いていく。
俺は、あの沙月という女の子——この病院の院長の娘で王禅寺沙月と言うとのことだったが——が最後に言った言葉が気にかかってしょうがない。『兄さんが目移り』その言葉が何回も心の中に浮かんでは消えて、その度に胸の奥が苦しくイライラとしてしまう。
もしかして? やっぱり? 違うかも? でも?
そんな気持ちが繰り返し、繰り返し俺の頭の中で渦巻く。
ああ、もやもやとする。
答えの出ない質問を俺は自分の心の中でいつまでもしてしまう。
だからって……
あえて百合ちゃんに聞いてみるなんてそんな恐ろしいことはできなかったけど——でも、考えれば聞くまでも無く答えの出ている話であった。俺はそれを直視したく無いだけであった。
百合ちゃんに誰か好きな人がいる。それは柿生くんの発言なんかからなんとなく分かっていた話であったが、さっきの言葉でそれは決定的になったのだった。
今ふたりがどんな関係なのかまでは分からない。でも、少なくとも、百合ちゃんが好きな相手というのはさっきの女の子の兄、この病院の院長の息子に間違い無いのだった。
それを考えるだけで俺の腹は重くなり、足元がふらふらとしてしまう。
なんというか——苦しい。
とても苦しい。
それしか言えなかった。
失恋ってこう言うものなんだろうか。経験無いから良くわからないけど、自分ではどうにも制御できないどんよりした気持ちが心の中を覆っていく。
恋なんて言うめんどくさいものかかわらずに、好きなのは二次元嫁だけにしておくオタ充ライフを送っていた俺が、自分が女になってしまったことで気軽に近づいて行ってしまった女の子。それは自分の中でうっかりと、これ以上無く大事なものになってしまっていて、そしてそれが失われる時……
「ではお姉さんは一度外でお待ち下さい」
「は、はい!」
柿生くんの今日のMRI検査の説明を気もそぞろにぼんやりと受けてしまっていた俺であった。
看護師に不審に思われながらも百合ちゃんが中に入った喜多見美亜も同席で説明を受けたので、必要な事項を聞き漏らしたりしない。と言うか、もともと、俺が聞いても今までの治療の流れとかあるのでチンプンカンプンだとうと言うことで百合ちゃんが同席したのだから、俺が真面目に聞いていようが、ぼんやりしていようがあまり体制に影響は無いのだが——俺は今は麻生百合なのだ。その弟が大事な検査を受ける時に、自分のモヤモヤのせいでちゃんと聞いていることさえできない。そんなことで良いわけがなかった。
俺には資格が無かった。自分の弱い気持ちのせいで、こんなこともろくにできない奴が、好きになるえたのだのにも、好かれるのもあって良いわけはなかった。俺はそう思い——自己嫌悪にさいなまれ、暗い顔で下を向いたまま病室を出て、無言で廊下の待合のソファーに座った。
その横に百合ちゃんが同じ様に無言で座るけど、顔をあわせることもできなかった。向こうもなんと無く気まずい様だった。そりゃ自分の好きな人のことを同じクラスの男子(今は女子の体の中にいるとはいえ)に知られたのだ。そりゃ気まずいだろう。俺はずっとうなだれているし、声もうかつにかけれない雰囲気なんだろう。
だから、
「よければ私、何か飲みもの買ってくるけど……」
と言って百合ちゃんが席を立ってくれて、ほっとしてしまったのだった。
一瞬、一緒について行こうかと思ってちょっと浮かんだ腰は、いつもの何倍増しに強力な重力によって瞬く間にまたソファーに深く沈み込み、
「じゃあ、缶コーヒーでも」
「ブラック?」
首肯。
すると百合ちゃんは振り向いて歩き出し、そのまま廊下の突き当たりにある売店の中に入る。
「はあああ……」
それを見て緊張が溶けて深い嘆息をする俺。
すると……
「あらら、お疲れみたいね」
振り向けばいつの間にかそこに立っていたのは、さっきのハイテンション女——この病院の院長の娘——沙月であった。彼女は先ほどとは打って変わった暗く、底意地の悪そうな表情で俺を見下ろしていた。
「ふん、あんた見たいなのが無理してああいうクラスのお姫様みたいなのと付き合おうとするからそんな疲れるのよ」
ん? なんだこいつ? さっきの天真爛漫の愛されキャラみたいな様子は微塵も無くなって、ひどく残酷な表情、酷薄でバカにした様な目を俺に——麻生百合に向けるのだった。
「しかし——あきれた! もう忘れたのかしらね? どうやってあんな人とあなたみたいな根暗女が仲良くなったのか知らないけれど、あなたがいくら友達作ったり、同級生と仲良くなろうって思ったってそれは叶わないのよ」
なんだ? 何をいってるんだこいつ。
いや、もしかして?
「……分かるでしょ。あなたがいくら幸せになろうとしたって——この私が許さないわ。あなたはみじめにクラスの隅でナメクジみたいにみたいにジメジメしてれば良いのよ。いえ——そうなるのよ。いえ、私が——また昔の様にあなたのことをめちゃくちゃにしてあげる!」
俺は、どうも犯人を見つけたようだった。中学校時代の百合ちゃんを陥れ、孤立させた犯人が、今目の目の間でゲスな笑みを浮かべながら、おもしろうそうに俺を見下ろしているのだった。
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