天秤

桜枝 巧

天秤

 毎日決まった時間に流れる、少しひび割れた音楽が今日もまた閉園時間を知らせた。空の青と赤の境界線、その白はどこまでも澄んでおり、どことなくじれったさを感じさせる。

 無駄に広い敷地。電気代節約のため人が来ないと電源すら入れてもらえない観覧車。時を止められたメリーゴーランド。以前は開園直後には駐車場が満車になっているくらい人気の場所であったというのに、今ではその面影さえ見えない。その寂しげな様子に一つ、溜息をついた。幸せが逃げるというが、出るものは出てしまう。

 熊の着ぐるみの頭を両手で抱えて脱ぐ。すぐに涼しい風が頬をなで始めた。着ぐるみの中は熱がこもるため、もう木枯らしが吹くかという季節なのに暑い。

管理室に到着すると「戸締りよろしく 管理人」と書かれたメモ用紙が、テーブルの上で管理室の鍵を重石に己を主張していた。

「大学生のバイトに戸締りを任せるなよ……」

熊の頭を近くに置く。首から下はまだ熊のままだがそのままソファに寝転がる。まぶたが降りてくるのを止める者は誰もいなかった。


 気づいたときには外が真っ暗になっていた。寝ぼけ眼のままでリュックを背負い、熊の着ぐるみは脱いで仕舞う。外に出て戸締りをした。

 バイクをとりに、遊園地と駐車場をつなぐ一本坂を駆け下りる。久しぶりに全力疾走をしたくなったのは何となく、だ。身体が速度を増していく心地よい感覚が、僕を満たした。

 ふと運動場を駆け回っていた日々のことを思い出す。小学生時代、僕は徒競争で負けたことが無かった。

 五年生の時だけ一人僕と同じくらいの速さの女子がいたが、その子にも負けたことは無い。白い肌を持つ、普段の生活の上でも人気者だった彼女には負けたくなかったのだ。憧れと言われるものもあったかもしれない。

 黒髪が風に美しく揺れる彼女。少し悔しそうにしながらも絶えず笑いかけてくれたあの少女は、僕の中で他の誰よりも輝いていた。

 いわゆる初恋、だった。

 席替えで隣同士になった際は逆に恥ずかしくてずっと下を向いたまま過ごしていたものである。

「結局何も言えずに卒業したけどなっ……」

 息が切れる。走る速度は緩めない。小学生ならではの淡い恋が敗れ去るのは当たり前だ。卒業後、彼女は県立の中高一貫校に入った。彼女とはそれきりである。走る事をやめてしまったのはただ何となく、だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 駐車場につく。ゆっくりと速度を落とし、さすがに乱れた息を整える。髪の長い女性とすれ違った以外には、誰とも逢わなかった。圧倒的な一人だ。風は冷たく、急激に浮き出た汗の粒達を乾かしていく。そこで僕はあることに気づいてふと足を止めた。

 ……女性?

 今来た道を見る。ここから先は頂上の遊園地にしか続いていない。

「道に迷ったのか……仕方がない、道案内するか。うん、何となく」

 出た、口癖「何となく」。性格が性格であるから仕方が無いが、どうにかしたいものだ。それも何となくではあるが。

 バイクのエンジンをかけ、いななくような音と共に駆け下りてきた道を戻る。何かを考える暇も無く、遊園地のゲートが見えてきた。近くにバイクを停めるとライトが消え、ふいに闇が訪れた。

 寝静まった園のゲートの前に人影があった。最近導入したセンサー式街灯が作動したらしく、その人影を映し出す。驚いたのか、一瞬影の動きが止まった。女性と僕との間にはまだ距離があり、表情はうかがえない。

しかし顔を認識できぬまま僕が見たのは、入り口の柵を今まさに乗り越えようとしている女性の姿だった。

「……え」

 もともとそのつもりだったのか、デニムにT‐シャツという簡素な服装の彼女はすぐ向こう側に着地した。柵に触れてもブザーが鳴ることは無い。街灯を買ったせいでそこまで手が回らなかったのだ。

彼女は受付でなにやら立ち止まっていたが、そのうちアトラクションの方に歩き出した。街灯が消え、辺りは再び暗闇に包まれる。

「ちょ、ちょっと!」

常識を逸した彼女の行動に僕は思わず声を出した。声に反応は無かった。とりあえずこの場を何とかしなければならない。

 警察に連絡? 騒ぎでこれ以上人が来なくなっても困る。

 管理人を呼ぶ? 僕は彼の携帯の番号を知らない。

 こうなってくると方法は一つしかなかった。ゲートに向かって走り出す。柵を女性と同じように乗り越えた。

 管理室へ行って、柵を開けるための鍵を取っている時間は無い。ふと先ほどまで女性がいた受付の台を見る。……数枚の紙幣と硬貨があった。一人分の入場料が支払われている。

 しかし、今は閉園時間だ。思い切り不法侵入である。

「ちょっと待ってくださいお客さん」

 お客さん、ではないかもしれないが何となくそう呼びかける。僕の声がやっと届いたらしく、女性が振り向いた。暗くてよく見えないが、驚いた顔をしているに違いなかった。人影は数歩後ろに下がり逃走を図ろうとする。

 しかしその時、街灯が人と感知したらしい、まるでスポットライトのように彼女を照らし出した。首に下がっている天秤の飾りのついたネックレスが一瞬輝きを見せる。

 そこで僕の思考が停止した。

 立っていたのは、白い肌を持つ可憐な女性だった。年は僕と同じくらいである。長いまつげに守られた漆黒の瞳が僕を見つめていた。腰まである黒髪を夜風が静かに揺らす。それは、僕の憧れていた女の子だった。いつか再会したいと思っていた、あの少女であった。

 初恋の相手が、そこにいた。

 

「ごめんなさい。明日の朝にはまた飛行機で東京に戻らなければならなくて。どうしても来たかったんです」

 話を聞けば単純明快、彼女は生まれ故郷の思い出である遊園地を一目見たかったそうである。上京後、戻ってくる気は無いらしい。

「えっと、許して下さる、かな?」

 許すも何も不法侵入なのだが。しかし、彼女は料金を払っている。管理人は鬼畜ではない。僕に彼女を通報する勇気はない……。結局自分だけでは判断できず、何となく曖昧に微笑んでみた。許可を得たと思ったのだろうか、花が咲いたような笑顔を浮かべる彼女。あの頃のようだ。それでいて、真っ赤な顔でたどたどしく応答する僕を見つめるかつての静かな笑顔とは、また一味違うものであった。

 何も僕らの関係について尋ねてこない。同じ微笑だけがここに存在していた。おそらく彼女は、僕が元クラスメイトだったということにすら気がついていないのだ。

 分かっていたことではあった。クラスメイトであったのは一年間だけ、小学生の頃の話だ。覚えているわけが無かった。心の中に、薄く灰色の霧が立ち込めていく。しかしそこで僕はそれを無理矢理振り払った。彼女は事実ここにいる。では、僕はその偶然をありがたく受け入れるべきなのではなかろうか。

 彼女の首元で光るネックレスの天秤が揺れ動いているのが分かる。一体何が皿の上に乗っかっているのかはよく分からなかった。簡単な選択であるように見えて、何かが違う気がした。やがてそれは片方に傾いた。

「ちょっと待ってて下さい!」

 再び首をかしげる彼女を置いて管理室へ戻る。受付の机から二十枚つづりのアトラクションチケットを手に取り、料金を支払った。

部屋を出ようとして立ち止まる。ひやりとしたドアノブを掴んだ右手を伝って、あの天秤の皿の中の何かが漏れ出したかのようだ。

目線はあの熊の着ぐるみにあった。何となく手に取り、首から下の部分をはき、頭の部分をかぶる。近くにあった鏡には遊園地キャラクターの姿が映った。チケットを握り、再びドアノブを掴んだ。

……所詮彼女にとって僕は知らない人。しかも僕自身はスタッフだ。好意を抱いていたのは昔の話。何を勘違いしていたのだろう。

 再び彼女の元へ走る。上を見上げれば、無数の星達が僕を見つめていた。応援してくれているのか、憐れみの目を向けているのかは分からない。顔を前に向けると彼女が目を丸くしているのが見えた。

「えっと、その格好は……?」

「もともとの役目がこれなんです、僕」

 たまらず彼女がふきだした。女性に向かって、口を開く。

「スタッフがいてよかったですね。はいこれ」

「え、これって」 

もこもこした手で買ってきたチケットを差し出した。

「思い出巡るなら、実際に乗ったほうが良いでしょう?」

 しばし彼女の動きが止まる。熊の頭とチケットを見比べて、結局チケットを手に取った。薄いピンクのリップが塗られた唇が動く。

「ありがとう」

 顔が発熱していくのが分かる。席が隣同士だったあの日に戻った気がした。初めて感じた頬の熱さを、卒業式の悔しさと共に思い出す。着ぐるみの中の温度が上昇していく。天秤の片方の皿に何かが次々に上乗せされていく――否、と首を振った。今ここにいる僕は、彼女に思いを伝えられなかったことを後悔しているだけなのだ。何を考えている。しかし彼女に魅せられていることも確かである……。

 そこで僕は思考を止めた。天秤の想像すら止めた。普段の何となく、で良いのだ。移動しましょうと言いつつ軽い気持ちで質問する。

「東京の生活って、どんな感じなんですか?」

「うーん、普通かな。あたしは今××大学に通っているんだけれど、普通に大変で、普通に楽しいよ」

 ――その瞬間、僕の身体は雷に打たれたかのように硬直した。

 ××大学知ってる? と彼女は再度有名な国公立の大学の名を挙げた。僕と同じく軽い調子で、彼女は言ったのだった。そこで多くの人が受験し、多くの人が、例えば高校時代勉強しかしてこなかった僕が、不合格通知をもらったことを知らないというかのように。

ただ微笑んで、無邪気に僕と彼女の圧倒的な差を宣言した。

 彼女は有名な外資系の会社の内々定をすでに取っており、将来は世界を相手にするそうだ。彼女は嬉しそうに僕との溝を深くしていく。小学生の頃隣に彼女の机があったという思い出さえ、今の僕を惨めにするだけであった。いつの間にか彼女と僕との「普通」はこんなにも離れていてしまったのだ。彼女はそこにあったはずの天秤を無視し、ただ僕だけを切り刻んでいった。夜風が染みて、痛い。

「これ、乗りたいな」

 遠くを行く元少女は、僕の隣でメリーゴーランドを指差した。彼女を木馬へと案内する。電源を入れるとひび割れた音楽が鳴り出し、ゆっくりと回りだした。あふれんばかりの笑顔が浮かぶ。木馬はのんびりと上下に動きながら彼女を運んだ。少しでも長く彼女と一緒にいたいと思った。また逆に、早くこの時間が終わってほしくもあった。着ぐるみの中だというのになぜか体が震えだす。

「楽しかった! 夜の遊園地って、不思議な雰囲気で素敵ね」

 そんな感想を漏らした彼女は、次はあれ、今度はあれ、と楽しそうに園内を回っていく。だんだんチケットが減っていく。幸福と寂しさをまぜこぜにした時間が減っていく。

 最後の一枚を使う時、果たして僕はどんな気持ちになるのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、コーヒーカップに乗っている彼女を眺めていた。


 それは突然のことだった。彼女を観覧車に乗せたところで、急に管理室にある電話のけたたましい呼び出し音が聞こえてきたのだ。

 あわてて管理室まで走り鍵を開け、受話器をとるとそこから流れてきたのは苦情の嵐。簡潔に言うなれば近所迷惑だからやめてくれ、だった。ひとまず相手に向かって謝罪の言葉を述べた。

 管理室を出て彼女の元へと急ぐ。チケットはまだ、余っていた。

 賢い女性が状況を理解するのに時間はかからなかった。

「あ、そうだよね。さすがに騒音被害出るよね。じゃあ帰ろうかな」

 納得後の少し寂しそうな表情を見て、後悔の念がうずいた。

ありがとう、と彼女はもう一度僕に言い、そのまま何も言わず歩き出した。すぐに背を向けたあたり、あまり長い時間は無理だと分かっていたのかもしれない。後ろ髪を引かれているそぶりも見せず、坂を下りていった。所詮、僕らは他人同士だったのだ。

 見送りは僕と、明かりのともったアトラクション達。そして彼女と同じように輝く無数の星達である。

 彼女は彼女の「普通」へと帰って行った。

 あれほどにぎやかだった遊園地が、今は空っぽに見える。残ったのはまだ何枚か余っているチケットのつづり。軽く握り締めると音をたててつぶれた。近くのゴミ箱に捨て、熊の頭をはずし、管理室へと歩く。首から下の部分も脱ぎ去り頭と一緒に抱えた。

 夜風が冷たい。頬に突き刺さるようだ。僕は空を見上げ手を目一杯伸ばそうとするが、短すぎて輝いている星達には届かなかった。

もしかすると小学生時代の彼女に対する想いもただ彼女という星空に憧れていただけで、恋ではなかったのかもしれなかった。脳内の天秤は、彼女がいたときとは逆の方向に大きく傾いている。

空っぽの心を風がすり抜けていった。自然と視線が下に向かう。何かが視界の端に映った。それは彼女がしていたネックレスであった。僕は恋だと勘違いしていた女性の忘れ物を、拾って握り締める。

 ――違う。それは違う。

 自分の中で誰かが否定の声をあげた。あの天秤の、最初に傾いていた方の皿であった。あの頃の熱い想いは本物であったはずだ。あれは、初恋だったはずだ。僕をそう責め立てた。心がもう一度夢を見たいと駄々をこね始めた。しかしそれと同時に冷たい夜風が僕の中へと滑り込んできた。小学生の恋なんて戯れの塊だ。そう言った。

 天秤はしばし大きく揺れ動き、とうとう大きな音を立てて横倒しになった。皿の中に入っていた二つの物質が心の中で交りあう。

 その瞬間、僕の中から何かがあふれ出した。

 何年も前の感情がよみがえってくるような気がした。否、それは小学生時代に抱え込んでいた感情ではなかった。燃え盛る炎が僕の心を焦がすが、正反対の何かがそれを次々に静めていく。夜空の星達が輝きを増したように見えた。あの頃に戻ったようで、それとは全く違う気がした。そうだ、この感情は。

「好きだった」

僕はまだ彼女と終われていないことに今更ながら気がついた。一人で恋をして、一人で諦めただけだったのである。彼女との時間はずっと「何となく」一時停止したままであったのだ。いつから僕はこんなに子供っぽく、そして大人になってしまったのだろう。

 歩が早まっていく。明かりのともるアトラクションたちがまだ間に合う、と僕を追い立てている。管理室の扉を強引に開け、着ぐるみセットをソファへと放り投げる。鍵だけはしっかりとかけた。

 告白なんてするつもりはなかった。明日から彼女はまた、僕の知らない都会で大きく羽ばたき始めるのであろう。彼女の幸せを汚すつもりはない。僕はただ、これからも今の僕の「普通」を過ごすために必要なことをしようとしているだけなのだ。

 一つ、溜息をつく。僕の想いは幸せ一つと共に吐き出された。顔を上げる。掌の中の天秤は横倒しになったまま、僕の行動を見守っている。駄々をこねていた心は、何かを覚悟したかのように静かになった。その代償とでも言うように目から流れ出た一粒はきっと気のせいだ。

 満天の星空の下、僕は走り出す。冷たい夜風が気持ち良い。柵を乗り越える。バイクの場所は闇にまぎれて見えなかったが、別にそれはそれで良かった。小学生の頃の俊足を生かすだけである。

 僕はただ、少し縁が無かっただけの星空に別れの言葉を届けたいだけなのだ。大声で思い切り叫べば、きっと声くらいは届くだろう。

 きちんと終われなければ次が始められない。残されたネックレスが、僕の手のひらの中でそう言ったような気がした。

 忘れ物を届けにいこう。今までずっと引きずってきた幕を、完全に下ろし切ろう。そしてまた、新しい何かを天秤に乗せることにしよう。

 リズムのよい足音が、闇にこだましていく。

 明かりのともったアトラクションと、光り輝く無数の星達。彼女が去ったときと同じ者達が、僕を見送った。

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