二回戦第二典礼『Other Noel/カルティ=ヴァ止揚性結晶』
二回戦 第二典礼
罪状:変異血脈根絶法違反、大量殺人、貴族殺人、傷害罪、および貴族への傷害罪、強盗罪
対
罪状:不明
参列した数千の群衆は、どこか潜在的に恐慌していた。
ざわざわと囁きをかわし、己の中の意味不明な恐怖から目をそらそうとするも、完全に意識から追い出すことができた者など一人もいなかった。
なぜ自分がここまで怖れの感情を抱いているのか、自分で理解不能だった。そのことが余計に不安を煽る。
壇上には、二人の男。
着流しの上に栗梅色の羽織をひっかけた、小柄な老爺。
屍衣めいた外套を纏い、顔や手足を薄汚れた包帯で覆い尽くした怪人。
両者は五歩の間合いを取り、悠然とお互いを見やっていた。
特に何かをしていたわけではない。だが、そこにこの二人が立っているという事実そのものに、参列者は恐怖していた。
何よりも、その恐懼の理由が自分にもわからないという事実に、混乱していた。
「おや、確かに斬ったはずでございますが、はてこれはいかなる仕儀か。まぁ、よろしい。長く生きていればそういうこともありましょうて」
老爺は、福福と笑む。
黒い墓標のごとき男は、何の反応も返さない。
やがて、非人間的なまでに正確な足音が、その場に響き渡る。
紅い仮面を付けた僧形の秩序が、その場に現れていた。
参列者は、ごく一部の例外を除き、息を呑んだ。まるで自らの死刑執行が今まさに始まろうとしているかのような緊張が、彼ら全員を縛っていた。
「これより、八鱗覇濤が二回戦、第二典礼を執り行う」
その淡々とした深い声は、まるで世界の終焉までの刻限を無慈悲に読み上げているようでもあった。
止めなければならない。
意味不明な確信が、その場のほとんどの者の〈魂魄〉を駆り立てた。強迫観念めいた強い衝動。この典礼を行わせてはならない。とても、とてもまずいことが起こる。その絶望的な確信。
「双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」
だが――誰一人動けなかった。それは、餓天法師らによる処刑が恐ろしいからではなく、典礼は妨害してはならないのだという彼らの血に刻まれた義務感ゆえであった。
これからこの場で起こることをあらかじめ知る者がいれば、彼らの恐怖と強迫観念こそが正しかったと判断もできただろうが、参列者の中に未来の出来事を知りえる者はいなかった。
「螺導・ソーンドリス、並びに夜翅・アウスフォレス。
餓天法師が、腕を天に差し上げる。
その事実に、何人かが気死した。
「――始め」
腕が、振り下ろされる。
また幾人かが、不意の心臓麻痺を引き起こした。
だが。
両雄、動かず。構えもせず。拷問具を凝固させもしなかった。
およそいかなる戦闘行動もとらず、ただ悠然とお互いを見合っている。螺導に至っては、ある種の寛ぎすら見て取れた。この状況に、興じている。
一回戦第三典礼の顛末から、この老爺が先天的全盲であり、じゃんけんの霊威を決して受け付けない人物であることはすでに周知の事実であった。
ゆえに決着は純然たる剣技において成されるであろうと思われたが、しかし二人に間合いを詰めようとする気配はなく、それどころか相手を警戒するそぶりすら一切なかった。
「夜翅・アウスフォレスどの、」
ゆっくりと、矍鑠と、螺導が語り掛け始めた瞬間。
無造作に、夜翅は足を前に踏み出した。それは間違っても武術の型に沿った歩法などではなく、ただただ単純に歩みを進めたとしか言いようがないほど、動作が野放図で、気負いなく、何の警戒もなかった。
老爺は首をかしげる。
見たところ、墓標のごとき男は何の武具も有してはいない。当然、拷問具も実体化していない。そしてじゃんけんも通用しないであろうことは彼もわかっているはず。
「はてさて」
こつ、こつ、と、あまりにも何の工夫もなく歩み寄ってくる夜翅を前に、螺導は愉快気に眉を上げる。
「その動きは、あなたが〈深淵〉とは繋がっていないことと何か関係があるのですかな?」
本人以外には何ら意味の通じぬ言葉。
だが、夜翅は歩みを止めぬまま、かすかに目を細めた。この男が人前に現れてから、実に初めて、感情とおぼしきものを発露した瞬間であった。
やがて――夜翅は無造作に彼我の間合いを踏破し、螺導の斬間に足を踏み入れた。
瞬間。
ふわり、と。
空気の流れだけを、参列者たちはまず知覚した。
一瞬遅れて、両者の位置関係が入れ替わっていることに気づき始め、にわかにざわめきが至聖祭壇を満たす。
夜翅と螺導は、背中合わせに佇んでいた。
ちん、と涼やかな鍔鳴り。老爺はそのまま歩み去ってゆく。
一拍置いて、夜翅の長身から勢いよく黒い粘液が吹き上がり、やがて斜めに両断された上半身がずり落ち、ぐちゃりと石畳に倒れ伏した。
二、三度の痙攣を最後に、夜翅は永遠に動かなくなった。
そのさまを振り返って確認することすらなく、螺導は歩み続ける。もうここに用はないからだ。
その一部始終を目撃したすべての人間が、実際に刃が振るわれた瞬間を認識できなかった。
見る者の注意がほんの一瞬逸れる機を見抜いているか――あるいはそのような機を意図して作り上げたか。いずれにせよ、これが頂点の剣腕かと、周囲の参列者を大いに唸らせた。
理由の分からない恐怖の空気は、いつの間にやら胡散霧消していた。
「典礼、かく成就せり! 勝者、螺導・ソーンドリス! ますらおに誉れあれかし!」
「誉れあれかし!」
「誉れあれかし!」
歓呼の声に対して簡素に一礼し、老剣鬼はゆっくりと至聖祭壇から降りていった。
●
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「!しかれあれ誉」
「!しかれあれ誉」
「!しかれあれ誉におらすま !スリドンーソ・導螺、者勝 !りせ就成くか、礼典」
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「め始――」
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「よせ戦臨機心、り取をい合間の歩五、方双」
●
「双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」
だが――誰一人動けなかった。それは、餓天法師らによる処刑が恐ろしいからではなく、典礼は妨害してはならないのだという彼らの血に刻まれた義務感ゆえであった。
これからこの場で起こることをあらかじめ知る者がいれば、彼らの恐怖と強迫観念こそが正しかったと判断もできただろうが、参列者の中に未来の出来事を知りえる者はいなかった。
「螺導・ソーンドリス、並びに夜翅・アウスフォレス。
餓天法師が、腕を天に差し上げる。
その事実に、何人かが気死した。
「――始め」
腕が、振り下ろされる。
また幾人かが、不意の心臓麻痺を引き起こした。
だが。
両雄、動かず。構えもせず。拷問具を凝固させもしなかった。
およそいかなる戦闘行動もとらず、ただ悠然とお互いを見合っている。螺導に至っては、ある種の寛ぎすら見て取れた。この状況に、興じている。
一回戦第三典礼の顛末から、この老爺が先天的全盲であり、じゃんけんの霊威を決して受け付けない人物であることはすでに周知の事実であった。
ゆえに決着は純然たる剣技において成されるであろうと思われたが、しかし二人に間合いを詰めようとする気配はなく、それどころか相手を警戒するそぶりすら一切なかった。
「夜翅・アウスフォレスどの、」
ゆっくりと、矍鑠と、螺導が語り掛け始めた瞬間。
「〈統合〉の八鱗よ。宿命の闇をまとい、凝固せよ――」
夜翅の掌から黒い粘液が噴出し、直後にぎゅっと収縮。長大にして狂猛なる野太刀の形状を取る。
そのまま無造作に歩みを進め――螺導・ソーンドリスの斬間に足を踏み入れ――
しん、と。
かすかな大気の震えだけがあった。刃鳴りなどない。老剣鬼の剣速は、大気が何か反応するより前に斬撃動作を終わらせてしまう。
そして――かつて人類が
黒き切っ先が、くるくると回りながら放物線を描き、石畳に突き立った。
闇色の野太刀が、中ほどから切断されていたのだ。
――馬鹿な。
拷問具は傷つかない。拷問具は曲がらない。拷問具は損なわれない。人が創造できるいかなる業物よりも強靭で、鋭利。鋼と打ち合うことはあり得ても、一方的に切断されるなどということはあり得ない。
しかも、切断したのは特に何か変わった様子もない、アギュギテム産の伝統的な拵えをした打刀である。わざわざ老剣鬼が己の得物として持ち歩いているのだから、なまくらではないのだろうが、それにしてもこの結果はありえない。
武具としての根本的な存在の格の違いがあるのだ。
ゆえに、その差を埋め、凌駕すらしうるとしたら、それは
無論、人体を斬る時と、兜を両断する時では、適切な力加減は全く異なることは確かだ。ゆえに、拷問具を斬るのに最適な力加減なるものが存在している可能性は、絶対にないとは言い切れない。
だが、そのような機微を再現可能な技として会得するには無数の反復鍛錬は欠かせまい。どうやって拷問具を斬る修練など積んだと言うのか。
十重にも二十重にもあり得ない事態であった。
とはいえ――無意味な奇跡である。
拷問具は根本的には液体。いかに見事に切断しようとも、直後には癒着してしまう。老爺の成した不条理なる絶技は、しかし何ら戦況に影響を与えない――
――かに思われた。
ぐらり、と。
夜翅の長身が、傾いだ。
その眼はカッと見開かれていたが、眼球が裏返り、病んだ黄色の瞳は見えなくなっていた。
まるで酒に酔っているかのような不安定な足取りで一歩前に出たかと思えば、足を滑らせたのかそのまま無様に転倒。
いつの間にか間合いを詰めていた螺導が、下向きの斬弧を描いて強制介錯。完璧な半円形をなぞる斬撃だったが、床には一切接触せず、首だけを断つ精妙な太刀筋であった。
ころりと頭蓋が転がった。
血は噴き出さず、夜翅が今まで生きてきたことを示すいかなる飛沫も撒き散らされなかった。まるで、木乃伊のごとく、乾ききった骸がそこには転がっていた。
「典礼、かく成就せり! 勝者、螺導・ソーンドリス! ますらおに誉れあれかし!」
「誉れあれかし!」
「誉れあれかし!」
老爺は打刀を洗練された動きで鞘に戻し、悠然と、矍鑠と、歩み去っていった。
●
。たっいてっ去み歩、と鑠矍、と然悠、し戻に鞘でき動たれさ練洗を刀打は爺老
「!しかれあれ誉」
「!しかれあれ誉」
「!しかれあれ誉におらすま !スリドンーソ・導螺、者勝 !りせ就成くか、礼典」
。たいてっが転はにこそが骸たっきき乾、くとごの伊乃木、でるま。たっかなれさら散き撒も沫飛るなかいす示をとこたきてき生でま今が翅夜、ずさ出き噴は血
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。だのたいてれさ断切らかどほ中、が刀太野の色闇
。たっ立き突に畳石、き描を線物放らがなり回とるくるく、が先っ切き黒
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――れ入み踏を足に間斬のスリドンーソ・導螺――め進をみ歩に作造無ままのそ
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「――よせ固凝、いとまを闇の命宿。よ鱗八の〈合統〉」
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「、のどスレォフスウア・翅夜」
。たっかな切一らすりぶそるす戒警を手相かろこどれそ、くなは配気るすとうよめ詰をい合間に人二しかし、がたれわ思とうろあでるれさ成ていおに技剣るた然純は着決にえゆ
。たっあで実事の知周にですはとこるあで物人いなけ付け受てし決を威霊のんけんゃじ、りあで盲全的天先が爺老のこ、らか末顛の礼典三第戦回一
。るいてじ興、に況状のこ。たれ取て見らすぎ寛の種るあ、はてっ至に導螺。るいてっ合見をい互おと然悠だた、ずらとも動行闘戦るなかいそよお
。たっかなしもせさ固凝を具問拷。ずせもえ構。ずか動、雄両
。がだ
。たしこ起き引を痺麻臓心の意不、がか人幾たま
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「め始――」
。たし死気がか人何、に実事のそ
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「え問を格霊が己に
。たっかないは者るえり知を事来出の来未に中の者列参、がうろだたきでも断判とたっかし正がそこ念観迫強と怖恐のら彼、ばれいが者る知めじからあをとこるこ起で場のこらかれこ
。たっあでえゆ感務義たれま刻に血のら彼ういとだのいならなはてし害妨は礼典、くなはでらかいしろ恐が刑処るよにら師法天餓、はれそ。たっかなけ動人一誰――がだ
「よせ戦臨機心、り取をい合間の歩五、方双」
●
「双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」
だが――誰一人動けなかった。それは、餓天法師らによる処刑が恐ろしいからではなく、典礼は妨害してはならないのだという彼らの血に刻まれた義務感ゆえであった。
これからこの場で起こることをあらかじめ知る者がいれば、彼らの恐怖と強迫観念こそが正しかったと判断もできただろうが、参列者の中に未来の出来事を知りえる者はいなかった。
「螺導・ソーンドリス、並びに夜翅・アウスフォレス。
餓天法師が、腕を天に差し上げる。
その事実に、何人かが気死した。
「――始め」
腕が、振り下ろされる。
また幾人かが、不意の心臓麻痺を引き起こした。
だが。
両雄、動かず。構えもせず。拷問具を凝固させもしなかった。
およそいかなる戦闘行動もとらず、ただ悠然とお互いを見合っている。螺導に至っては、ある種の寛ぎすら見て取れた。この状況に、興じている。
一回戦第三典礼の顛末から、この老爺が先天的全盲であり、じゃんけんの霊威を決して受け付けない人物であることはすでに周知の事実であった。
ゆえに決着は純然たる剣技において成されるであろうと思われたが、しかし二人に間合いを詰めようとする気配はなく、それどころか相手を警戒するそぶりすら一切なかった。
「夜翅・アウスフォレスどの、」
ゆっくりと、矍鑠と、螺導が語り掛け始めた瞬間。
夜翅は、瞬時に間合いを詰めていた。
石畳が砕ける音が遅れて追随する。突進の勢いを乗せた黒き野太刀が振りかぶられ――大ぶりな斬撃動作に対して、螺導は悠々と後の先を取る。
それは、およそ人類には反応不可能な極限の見切りだ。
だが――それは誘いであった。
そのことを、両者ともに心得ていた。
どうあがいても対処するしかない攻撃によって相手の次の行動をある程度絞る用途の見せ札である。
老爺の後の先は、あらかじめ動作が開始されていた夜翅の膝蹴りを前に中止を余儀なくされる。夜翅を斬り捨てるより先に、膝頭が螺導の顔面を砕くであろうから。
ゆえに剣鬼は、松明の炎に追い散らされる夜闇を思わせる動きで、ぬるりと対手の股下をかいくぐった。
かいくぐりざま、地を転がる全身の動きと連動して一閃。
闇色の粘液が吹き上がり、夜翅の脚が宙を舞った。
二回転ほどしてから、湿った音と共に石畳に叩きつけられる。
夜翅は体の均衡を崩し、倒れ伏した。
「夜翅・アウスフォレスどの」
ゆっくりと立ち上がった老剣鬼は、天気の話でもするような気安さで声をかける。
「今、何度目でございますかな?」
参列者にはまるで意味の通じぬ言葉を。
夜翅は、暗黒の双眸を、細めた。
「いやいや、別段あなたのそれのからくりを看破したわけではございませぬ。ごく当然の推論と申すべきもの」
掌の中でくるりと柄を回して刀を一閃。放射状に粘液を散らす。何千、何万と繰り返してきたことをうかがわせる練達の所作で刀を鞘に納めた。
「あなたが、たとえば刃蘭・アイオリアどのほどの傑出した身体能力と知略を併せ持っておられるのならば、また別の展開もありえたのでございますが――夜翅どのにそれはありませんね。では確定なのですよ」
のんびりとした印象を与えるほどにゆったりと、歩みを進める。
「およそ剣理に則って動く者が、間合いに入って、たとえ一手だろうとやつがれの手管を凌ぐなどということはね、ありえないのでございますよ」
てらいもなく、言ってのける。
圧倒的な自負――ですらない。ただの事実であった。
螺導・ソーンドリスの絶対性を帯びた剣理は、およそ人間の枠に収まる限り、勝てないどころか最初の一手すら凌げない。
この事実を覆すには、ただただ圧倒的な質量の暴力をもって当たるよりほかにない。
――斬伐指定剣士とは、そのような高みを指す言葉である。
余人への継承が不可能なほどの魔剣に開眼せし至高の〈魂〉を、それでもどうにか継承させるために施行された制度。
至高ゆえに、そのような者は生涯不敗のまま無意味に自然死する恐れが大きく、是が非でも〈魂〉の継承の環の中に引き戻さなければならない。
ゆえに、斬伐指定。
かかる指定を受けたる者は、聖三約の縛りが二つ解除される。
「一対一にて致すべし」と「立会人を立てるべし」が消滅し、「双方が心機臨戦すべし」のみとなる。
すなわち、多勢をもって押し包み、切り刻んでもお咎めなしである。
螺導が用心棒として出入りしていた酒場で受けた狼藉には、そのような理由もあったのだ。
「で、あるからして、あなたの首がいまだに胴と繋がっている事態など本来はありえない。では何が起こったか? あなたが宿せし黒の一振りによるなにがしかの現象と考えるべきでしょうか? 何度か繰り返しましたね? そもそも我が剣理は瞬間ごとに無数の分岐を用意しておりますゆえに、未来予知のような権能では対処不可能でございます。であるならば、答えは一つ。この瞬間を何度か繰り返し、斬られ続けることで学習をしておられる。やつがれはそのように確信しておりまする」
歩み寄る。ことさら急ぐでもなく。
「どうぞ、お戻りなさい。幾度でも、幾万回でも、幾億回でも、好きなだけ繰り返されるがよろしい。やつがれ、そのすべてにお付き合いいたす所存。存分に味わわれよ。我が
慈愛に満ちた、莞爾とした声。
「それとも、命を刈り取られなくば過去には戻れませぬか? お気になさらず。介錯いたしまするゆえ」
一瞬だけ、不鮮明な光の弧が迸ったかに思われた直後、涼やかな鍔鳴りの音が響いた。ほろりと夜翅の首級が転がる。
「典礼、かく成就せり! 勝者、螺導・ソーンドリス! ますらおに誉れあれかし!」
「誉れあれかし!」
「誉れあれかし!」
しかし老爺はその場から去らない。顔を上向けながら、何かを待っている。
一呼吸が過ぎ、ふた呼吸が過ぎ――
百を数えても、これといって変化は起こらなかった。
「おや」
首をかしげる。
「諦めてしまわれたのでしょうか」
さらに待つ。何も起こらない。
かぶりを振る。
「なんと勿体なきことか。あなたとならば我が剣、さらなる高みへ至れたやも知れぬというに」
いささか肩を落とし、螺導・ソーンドリスは踵を返した。
それから螺導は、準決勝で当たった狼淵であり刃蘭である存在を一太刀のもとに斬り捨て、しかるのちに散悟・ガキュラカの大規模かつ周到な謀殺を前に重傷を負い、しかして深淵接続の事実を想定していなかった敵手へ肉薄することに成功。相討ちとなって果てることになった。
●
夜翅・アウスフォレスは。
そのような螺導・ソーンドリスの生涯を、俯瞰的な視座で認識していた。なぜなら彼はかつて螺導でもあったから。そしてこれから螺導になる場合もありうるから。そのどちらも究極的には同じ意味であるから。
時なき地平に、ひとり立ちながら。
だが、その表現もまた単なる比喩である。実際には地平などではない。そこは他のありとあらゆる場所に似ていなかったので、比喩で言い表すことも本当はできない。そもそも「場所」などという言葉が当てはまるようなものですらないのだ。
巨視的に見ると、そこはあまりにも巨大なひとつの環に見えた。脈打つ光を湛えながら、ゆっくりと回っている。恐らく、人が建てうるどのような構造物よりも圧倒的に至大であった。縮尺が違い過ぎて、それが具体的にどれほどの大きさで、夜翅の視点からどれほど離れているのかもわからないほどだ。
急速に、環へと接近する。近づけば近づくだけ、光の環を構成する複雑精妙な樹状組織が明らかになっていった。無数の光の線が、ねじくれ、曲がり、螺旋を描き、合流し、分離し、絡み合い、枝分かれしながら、まるで人体の毛細血管のようにひとつの環を構成しているのだ。
夜翅はそうして、光の線のひとつに降り立った。
否――そもそも彼は最初から飛翔などしていない。ずっとここにいたのだ。そして視点だけを高みにやり、ひととき「ここ」を俯瞰していたに過ぎない。矛盾する表現であったが、「ここ」においては位置関係という概念もまた人の感覚的理解を越えていた。
彼はおもむろに歩き、来た道を少し戻った。
そこで――気づく。
道が閉ざされているのだ。それ自体はいつものことである。来た道を戻れるのは、この世で彼だけであったが、しかし無制限に戻れるわけではない。
黒の拷問具――無謬刀アルビトリウム。
その権能によって、過去方角への移動行為を可能とする夜翅であったが、戻れる距離には制限があった。
ゆえに、戻る道が途中で閉ざされていることが問題なのではない。
行く道もまた、閉ざされているのである。
そんなことはあり得ない。
人間存在は、押しとどめがたく「行く道」を進んでいってしまうものである。このとき人々を抗えぬほどに強く牽引する引力を、「時間」と呼ぶ。
行く道を行けないということは、夜翅はもうじき死ぬということである。
いや、本当のところを言うと死もまた大した問題ではない。そもそも夜翅にとって死は、さんざん慣れ親しんで飽き果てた、既知の事象である。身をもって、数え切れないほどの死を経験してきたし、いまこの瞬間も経験しつづけているとも言える。
だが、行くことも戻ることもできなくなったのは、今が初めてであった。
夜翅は、自らの存在が大きく制限されていることを感じた。それは、余人には置き換えようもない感覚である。ひどく強引に喩えるならば、首を切断されて、頭部だけを生かされているような不快感を伴っていた。
不快感、などと。
本当に久方ぶりに感じる。かつて夜翅が別の名を持ち、こうではなかった頃以来だ。尋常ならざる事態と言えた。
戻れない理由と、行けない理由は、まったく別のものだ。夜翅には、行けない理由だけが不可解であった。
ゆえに夜翅は、己が拷問具の権能が許す限り戻った。
●
「螺導・ソーンドリス、並びに夜翅・アウスフォレス。
餓天法師が、腕を天に差し上げる。
その事実に、何人かが気死した。
「――始め」
腕が、振り下ろされる。
また幾人かが、不意の心臓麻痺を引き起こした。
同時に夜翅は黒刃を抜き放ち、正眼に構える。
「おや」
老爺は片眉を上げ、首を傾げた。
「何度目ですかな?」
夜翅は微動だにしない。だが、内心では不可解であった。戻る回数を重ねれば重ねるほどに感づかれる時期が早くなってゆくのはどういうわけか。
「初手から受けに回るとは、どうやらずいぶん手ひどくやられたようで、心中お察し申し上げまする」
螺導は苦笑する。
「が、残念ながら無駄でございますゆえ」
そして――老人は、その染みと皺の刻まれた手より、拷問具の奔流を噴出させた。即座に凝固し、掌中で武具を形成する。
だが。
それは、本来螺導を見初めた一振りではなかった。
黄褐の光輝を湛えたる
号して「帰納棍」。銘を「リガートゥル」。
かつて美貌の青年を見初めたる
螺導がどういうつもりで帰納棍など出したのか、不可解であった。
夜翅と螺導の間にこれまで接点などない。一度もない。この典礼で初めて顔を合わせた。ゆえに最低二回の事例を必要とする帰納棍リガートゥルの権能など発動のしようがない。
夜翅は正眼のまま、すり足でにじり寄る。
比喩でも何でもなく無数の戦闘経験がある。いかに相手が老齢とはいえ、こればかりは自分の方に軍配が上がる。導き出される撃刀哲理に従い、螺導との間合いを慎重に詰める。
基礎こそが奥義である。基礎を軽んずる者に勝利はない。
自分は相手よりも体格・体重において優っている。その強みをもっと強引に押し付けるべきであるか。
体重を乗せた大上段からの一撃。防ぐという選択肢はなかろう。かわしざまに胴抜きか、あるいは鎬を斜めに当てて受け流すか。いずれにせよ左右どちらかに移動せざるをえまい。後退した場合はさらに対処は楽だ。踏み込みの動作をそのまま突進に繋げ、組み付き、撲殺する。後退中であるという事実が、螺導の即座の迎撃を不可能にする。速度と体重の乗らぬ刃などさして警戒に値しない。
加えて、いま螺導の手にあるのは帰納棍リガートゥル。打撲武器だ。致死性の低下ぶりは刃物以上だろう。
では左右に身を振られた場合はどうするか。即座に反撃が飛んでくるであろうことは疑いようがない。これは無謬刀アルビトリウムを石畳に打ち付けた反動をもって剣力に変え、振り上げ気味の刺突を成す。夜翅にはその無茶が効く。確実な必殺は期せないが、まぁもう一度アルビトリウムの権能で戻ればいいだけだろう。命を賭け金に為される博打は、夜翅にとって常に有利となる。
肉の中で、己の重心を前に移動し、丹田に溜め込んだ気息の力を解放する――
しようとした、瞬間。
両腕に、抵抗を感じた。
ぬるりと間合いを踏み込んできた螺導が、アルビトリウムの柄頭をこともなげに片手で抑えている。馬鹿な。体重も腕力も夜翅が上回る。片手で動きが完全に止められるなど――
脇腹を、衝撃が貫いた。
存分に旋回し、速度と体重の乗った帰納棍が、大気を引き裂きながら叩き込まれたのだ。肋骨が砕け散り、切っ先が肺に刺さる。
「ほいっ」
黒き野太刀の柄を押さえた手が、陽炎のようにぶれたかと思った瞬間には手首を引かれ、捩じりあげられた。
肉体が均衡を崩した瞬間、こちらの腕を極めざまに舞うように旋回しながら背後に回り込んだ螺導の足払いで倒れ込む。
そのまま体重をかけて倒れ込み、肘関節を粉砕。
「なぜ何度繰り返してもまるで相手にならぬのか、お分かりですかな?」
体格において遥かに劣るはずの螺導に組み伏せられ、身動きが取れない。
「実のところ、技の巧拙という物差しにおいて、やつがれとあなたの間にそこまで極端な差はありません。ま、五回やれば一回は勝てると思われまする。まさしく人域の踏破者。あなたは八鱗覇濤に出場するに相応しいますらおでございます。ではなぜ? この惨状はなんなのか? 理由は二つ」
みしり、と全身が軋む。肺腑により深く骨が食い込む。気道が黒血で満たされる。
「第一に、あなたの実戦経験。少し刃を合わせただけでよくわかりました。途方もない数の殺し合いを経験しておられる。恐らくは人の身で経験すること能わざるほどの量を。ゆえに、あなたは凡夫との対決に慣れ過ぎてしまった。殺す相手をえり好みなさらなかった。取り込む〈魂〉の質に頓着されなかった。殺して生き残ればそれでよい――などという甘たれた姿勢で剣の道を進んでしまわれた」
ため息。
「大きな過ちでございました。人を斬るのと、修羅を斬るのは、まったく別の技術でございます。やつがれは存分にえり好みをしてまいりました。斬ったのは一人残らず修羅のみにございます。師より賜ったこの
夜翅の背の上で、老爺はあぐらをかいた。
「理由の第二は、より直截で簡潔な事情でございます。帰納棍リガートゥル。その権能はすでにご存じでございますね? 刃を交え、疑いを持ち、この神器の権能を呼び覚ましてみました。そして問題なく発動したという事実をもって、あなたの繰り返しを完全に確信した次第でございます。いかなる帰納を拷問具に希ったか? 『繰り返すと螺導に斬られる』。単純でございますね。あなたは今後何をどうあがこうと、やつがれに斬られる因果からは決して逃れられぬのでございます」
夜翅は来た道を戻った。
●
行き、戻り、行き、戻り、行き、戻り、行き、戻った。
どうやら帰納棍は、ありうべき可能性のすべてを数として累積させているようであった。
ゆえに二度、過去に戻った時点で詰んでいたのである。
●
もう餓天法師の合図など耳に入らない。
因果の袋小路に囚われてから、体感で数百年の歳月が流れようとしていた。
もっとも、その時間を認識できているのは夜翅だけだ。夜翅を手もなく斬り殺した無数の螺導たちは、それぞれ無数の結末を辿って行った。ある者は準決勝で倒れ、ある者は謀殺され、ある者は優勝を勝ち取って十数年のちに死した。
そのいずれの場合でも、夜翅が二回戦第二典礼で斬られて死ぬことは確定していた。
いや、確定しているはずがない。「戻る」たびに螺導の記憶は消える。毎回、夜翅の武技を初めて見、毎回、「繰り返しているのでは」という疑いを抱き、毎回、帰納棍リガートゥルの権能を行使しているだけだ。
問題は、その「毎回」がすでに兆を数える回数続いているということである。「瞬間ごとに無数の分岐を用意している」とは誇張でも何でもなく、その連結精度は人体の不随意運動すらも完全に制御化に置いた完全なる無謬を体現していた。こと剣理に関する限り、螺導・ソーンドリスは絶対に、何度繰り返そうと失敗をしない。絵空事にしか思えぬその現実を、しかし夜翅は受け入れざるを得なかった。
決して、「行く」ことはできないのだと。
ならば――処するべきはひとつのみ。
「〈統合〉の八鱗よ。宿命の闇をまとい、凝固せよ――」
掌より黒き粘液が噴き出し、ぎゅっと収縮。もはや見飽きた黒き野太刀を形成する。
そして、即座に権能を行使する。
深甚たる闇の刃が、奇怪な唸りを発する。
「――単独では、」
実にそれは、
「俺一人では、」
三万年ぶりのことであった。
「その速度には至れない」
夜翅・アウスフォレスが、必要ならざることを口にするのは。
「おや? いかなる意味でございますかな?」
答えず、黒き疾風と化す。伊達に兆を越える回数、螺導の技を体感してきたわけでもない。
より効率のいい体の動かし方。より誤差のない刃の振るい方。より気息の力を全身に伝達できる呼吸法。夜翅・アウスフォレスの無辺際なりし生涯の中で、今目の前にいるこの敵こそが間違いなく最初にして最後、唯一の師匠であった。
差はある。膨大な差が。決して埋められぬ差が。
しかし、ひとかけらも縮められないわけではない。
わずか数舜を無限に繰り返し、余人には積めぬ経験を積む。そうして夜翅は、非才の身で頂点の武人が集う八鱗覇濤に立った。
ならば次はより先へと。
黒刃が、鞘走る。関節の駆動に、微妙な揺らぎを与える。筋力ではなく、弾力を主な動力源として活用する。筋肉の収縮運動ではなく、人体の弾力の揺り戻しを同期させる。
肉はもちろん、靭帯や骨格、血管さえも弾力は保持している。この不随意な運動源を駆動させ、筋力はそれらの方向性を整流する補助的な役目に甘んじさせる。
晦冥の閃光が、条理を切り裂く。
だが、これだけでは足りない。
ついさっき自分で言った通り、一人では至れない。
音を置き去りにする剣速も、しかし夜翅の意図には届かない。
無謬刀アルビトリウムの権能――その発動条件。
刃を振るう速度に比例して「戻る」距離が決まる。
腕の力だけで適当に振れば一瞬前に。全身の関節可動を同期させて踏み込みと共にひねり出した斬撃ならば十数秒前に。
だが、そんな迅さでは追いつかない。
到底、時間と言う引力を振り切る速度には至らない。
ゆえに、完璧な剣閃では駄目だ。
速くある必要はあるが、しかし隙は残さなければならない。
螺導が後の先を取る隙は。
とはいえ、完璧を期したとしても、あるいは意図せぬ機を捉えられ、あるいは予想だにしない回避法で掻い潜られ、あるいは間合いを幻惑されて必殺の機を外され――結果として隙を晒すことになる。
幾兆回繰り返しても、老剣鬼の手腕を見切ることはできなかった。
ゆえに、対手の手妻を限定させる。
抜き打ちにしたのは、こちらの太刀筋を容易く見抜いてもらうため。鞘という枷ゆえに、その斬撃軌道は変幻自在からは程遠い。柄を握る手が前方に射出されるのと同時に、鞘を保持する方の手は後方へ撃ち出される。腕と鞘の質量分だけ反作用が発生し、剣速を後押しすると同時に動作軸のブレを最小限に補正する。
「その手は
知っている。
彼我の影がかすめ――交差。
二条の剣晄が絡み合い、すれ違う。
アルビトリウムは老爺にかすりもせず、そして老爺の打刀は夜翅の逆袈裟を存分に斬り裂いた。
左腕と、胴体が自らから離れてゆく。右腕だけが夜翅についてきた。そのまま宙を舞う。刀を振り抜いた螺導の残心姿。やがて石畳に激突し、ぐちゃりと倒れ込む。剣鬼は手の中で柄を二度旋回させて血ぶりを行い、洗練された所作で納刀。思わず息を止めて見入るような、森閑たる物腰。
だが。
――成った。
夜翅は、成功した。
そも、「速度」とは何か。
それは実体のない概念である。ある座標から別の座標へと移動するのにかかった時間で移動距離を割ると算出される数値――などというのは表面的な理解に過ぎない。
一般的に「速度」と称される概念は、すべて「相対速度」のことである。
絶対的な速度などというものはない。
人間が足場にしている大地そのものを含めた、ありとあらゆる物質が存在しない状況を想定する。そこにぽつんと自在に移動できる天使が現れたとして、彼はどのように動こうとも「速度」を得ることはできない。なぜなら速度とは他の物体との比較においてのみ現出しうるものだからだ。これはただ単に「速度を認識できない」というだけのことではない。いかなる意味においても「速度が存在していない」のだ。
速度とはすべて相対速度のことである。
ゆえに。
剣速に比例して「戻る」距離が定まる無謬刀アルビトリウムの権能もまた、この考え方がそのまま適応される。
黒刀の認識する速度とは、宿主の認識した他の物体との相対速度である。
普通は比較対象が雲や大地や建造物などの「周囲を取り巻く世界のすべて」となるため、宿主自身が叩き出せる剣速を越える距離を「戻る」ことはできない。これが、夜翅がすでに主観時間で数百年もここから逃れることができなかった理由のひとつである。
だが。
相対速度。
比較対象を「世界」ではなく「特定の物質」に変えれば。
音を置き去りにする速度で閃くアルビトリウムに、真っ向から高速で迫りくる物体を認識できれば。
螺導・ソーンドリスの魔剣を認識できれば。
彼我の剣速の合計が臨界値を越え、
定められた運命を覆す。
●
その赤子には、両目がなかった。
両親は、事実が露見するのを怖れ、赤子の頭に布を巻き、何も収まっていない眼窩を隠した。
目を離した隙に、鴉に啄まれ、両目を喪ったのだと、周囲には嘘をついて。
変異血脈根絶法が施行される〈
その事実を理解したとき、螺導の胸に生じたのは、両親への困惑であった。
事実が露呈すれば、家族全員ただでは済まなかったはずだというのに。
危険をおして、我が子を生き残らせる道を選んだ。
それは、どういう心境だったのだろう。両親は決して、心の箍が外れて恐怖を感じないような人間ではなかった。
勇気を、振り絞ったのだ。
世界を知れば知るほど、この愛が引き起こした自らの生が、どれほど奇跡的なことかが理解できた。
左右の手を両親に引かれながら、彼らに報いるにはどうすればいいのかをずっと考えていた。
――自分に、彼らと同じことが果たしてできるのか。
全盲の少年は、かぶりを振る。
到底、無理だ。
そんな自分を、嫌悪した。
――きっとぼくは、ヒカリを感受できず、美を知らず、ゆえに心が濁っている。
――だってほら、こんなに良くしてくれる父と母に、共感してやることがどうしてもできないのだから。
目が見えるとはどういうことなのか、螺導にはわからない。
明るいとは何なのか。暗いとはいかなる感覚なのか。まるで、わからなかった。
誰もが見えているものが見えていないという事実は、ありとあらゆる自分の至らなさを、全盲のせいにすることでしか、螺導に納得をもたらさなかった。
劣等感、と言うには入り組んでいた。
劣等感を利用して、責任転嫁を成していたのだ。
己を改善する努力を、放棄した。
ゆえに心を閉ざし、ひたすら己の裡にだけ意識を向けた。外界で、認められるとも、成果を残せるとも思えなかったから。
というより、天寿を全うすることすら不可能であろう、と。
いつしか、食事をまともに摂らなくなっていった。
痩せ衰え、起き上がれなくなった。
両親のすすり泣きだけが、螺導の感覚に捉えられるすべてだった。
世界は嘆きに満たされていた。
涙の宇宙の中に、螺導は浮遊していた。
自分はこのまま死んでゆくのだろうと思った。それで何も不都合はなかった。ただ、内へ内へと観想を深めていった。言語化はしづらいが、そこには何か途方もなく巨大で広大な何かがあるように思えた。
だが――ある日。
血の匂い、というものを、螺導は初めて嗅いだ。視覚がない分、他の感覚が極めて鋭敏に発達していたゆえに、そのわずかな変化に気づくことができた。
そして、悲鳴。
明らかに尋常ならざることが起きている。
だが、その頃にはもう、螺導の中に不安も恐怖もなかった。観想を深め、自らの内的世界を旅するうちに、螺導の日常の中で「外界」の占める割合は甚だ少なくなっていた。その、ほんのわずかな領域で何が起ころうと、正直なところ彼岸の火事としか思えなかった。
急に腕を掴まれた。父だった。強引に抱き上げられ、激しく揺れ始めた。荒い息使いが聞こえる。父はどうやら走っているようだ。
ゆえに、動かなかった。
意識の下にある〈渾沌〉の大海を観想し、探索を進めるのに忙しかったから。
すぐ近くの断末魔の絶叫も、父の腕から力が抜けて地面に叩きつけられたことも、螺導にとっては些事だった。
激しく肩を揺すられたときも、だから螺導は何の反応もしなかった。
「クソ、駄目だ。背教者どもめ、こんな子供に何をしたんだ……」
強引に抱え上げられた。
その手が
――真相は単純だ。
そもそも父と母だと思っていた人々は、螺導とは縁もゆかりもない他人であった。
螺導は知らなかった。自分の眼の事実は、周囲の人々に知れ渡っていたことを。
螺導は知らなかった。自分が装飾過多な長衣を着せられ、祭壇の上に座らされていたことを。
螺導は知らなかった。両親のすすり泣きと思えたものは、自らを崇め奉る法悦からの涙であったことを。
餓天宗の教理に反発し、ある寒村の奇形児をかどわかして本尊とした、新興宗教団体。
それが、螺導の家族であり、故郷であった者たちの正体だった。
自分は、記憶のある最初から、家族から引き離されていたのだ。
目的のために。
それが自分たちの利益にかなうと判断して。
愛の定義について何か言える立場にはない螺導だが、これはまぁ、自己犠牲とは言えないであろう。
この新事実は、全盲の少年に新鮮な驚きをもたらした。
眼球を持たぬ奇形の自分を救ったのは、愛ではなく打算だった。人は、己を犠牲にせずとも、無償の愛など抱かずとも、人を救うことができるのだ。
――あぁ。
螺導はこのときはじめて、「両親」らを身近に感じた。たとえ傍におらずとも、体温が感じ取れるような気がした。遠く理解しがたい存在と思っていたものは、なんのことはない、自分と同じくさもしい人間だった。
さもしい人間同士が、打算を通貨として関わり合い、結果として自分は生き永らえた。それは、無私の聖人に救われるよりもずっと奇跡的で、素晴らしいことのように思えた。
そうして、自分が今までずっと、何を問うていたのかをおぼろげに悟った。
――人は、幸福になれるのであろうか?
物質的な豊かさを得れば、不幸をある程度遠ざけることはできる。
だがそれは、決して幸福への距離が近くなったことを意味しない。
その程度のことはすでに理解できていたが、ではどうすれば幸福に近づけるのかという段階で、螺導の思考はいつも袋小路に陥った。
恐らく、幸福とは、何か特定の状態を指す言葉ではないのだ。
悪い状態から良い状態へ移行する過程、推移こそが幸福の本質なのであろう。
登り坂の途上に居る時のみ、人は幸福なのだ。
どれほどの貧乏人であろうとも今日より明日の方がいくぶんかマシであると信じられるなら、その者は幸福である。
どれほどの資産家であろうとも今日より明日の方が悪くなると思っているのなら、その者は不幸である。
現時点で何をどれだけ持っているかなど、人間の幸福とは関わりのないことなのだ。
そうであるならば、人間は人間らしく生きる限り、決して永続的幸福など掴めはしない。その生涯が常に登り坂しかないと信じられるような人間など現実的に存在しないのだから。
それは何故かと考えれば、この世界の物質的限界ゆえにとしか答えようがない。宇宙は有限であり、全人類の幸福を担保できるほどの容積を有していないのだ。
だがもしも、打算によって他者を救いうるのだとしたら。
自らを犠牲にして他者の幸福を優先させるのではなく、他者の幸福がそのまま自らの幸福に直結する関係性さえ構築できるのならば。
宇宙の物質的限界を、関係性の効率化を持って打破しうるのではないのか?
螺導は
商家に引き渡されたその日のうちに、螺導は地下室に監禁され、拷問まがいの虐待を受けた。
顔の形が変わるほどに殴られ、爪を剝がされた。どうやら商家の人々が求めていたのは、養子ではなく玩具だったようだ。
四肢を繋がれ、糞尿は垂れ流しの状態で飼われ続けた。
そして、思索した。彼らはなぜこのような行為に及んだのであろうか?
どこか離人症のような客観的な視点で、螺導は自らが虐待されるさまを観察していた。
だがそれは、虐げられた無力な子供が「ひどい目にあっているのは自分ではない」と思い込むために人格を分裂させる悲劇とは本質を異にしていた。
客観視は、現実に起こっていたのだ。
この奇妙な感覚が何を意味しているのか、螺導には長いことわからなかった。
先天的な全盲である螺導にとって、脳裏に映像が浮かんでくるということ自体が初めての経験であったから。
視覚によって紡がれる、図形と色彩の混交は、それまで聴覚や触覚によって認識されてきた世界を、異なる方式で捉えるものであることはすぐにわかった。
だが――吐いた。
おぞましかったから。
それはあまりにも不要な情報ばかりが多く、まるでひっきりなしに金切り声を聞かされているかのように神経を蝕む感覚であった。
そうでありながら、視覚はたった一つの視座からしか外界を認識できず、そこから伸びる直線上に物体が存在すると、それ以降の部分は認識できなくなってしまうという点において極めて不自由かつ独善的な感覚であると感じた。
そこには己の立場から世界を断じる傲慢さ以外の何も感じ取ることができなかった。
――なるほど。
こんなものに毒されていては、その生涯が迷いと不明に満ちたものになってしまうのも致し方のない話なのかもしれない。
「……恐れることはないのです」
暴行を加えてくる家人に、螺導は初めて語り掛けた。
「あなたは見えているから、見えないことが不安でしょうがない。見えない物事がわからないから、恐ろしくなってしまう。恐ろしいから、わからないものを支配しようとしてしまう」
怒鳴られ、さらなる打擲が振り下ろされた。
乳歯が砕け散り、飛散した。
「目で見ている限り、その不安からは逃れられないのです。いつまでたっても心は休まらず、人生は苦しみに満ちている。あなたはもう十分苦しんだはずだ。そろそろその不安と恐れという名の重荷を下ろし、ひと息ついても良い頃合いではないですか」
口答えをするな、というような意味合いの絶叫が上がった。
肩口に木材の何かが叩きつけられ、鎖骨にひびが入った。
「あなたは決して憎まれてなどいないのです。あなたも決して憎みたくなどなかったはずです。だけど、人の心は見えないから。皮膚と頭蓋と脳髄に阻まれて、感情を見ることが出来ないから、本当は憎まれてなどいないのに、憎まれているのではないかと不安でしょうがなく、だからこうして自分の優位を確認し続けなければ立っていられない」
螺導は、心から目の前の人物を憐れんだ。
それは裕福な商家の奥方とは思えないほど痩せた、年嵩の女であった。
「あなた自身を、許してあげてください。あなたはそこに居ていいのです。たとえ、男児を生むことができずに歳を重ね、もはや望めなくなったとしても、あなたはあなたであるというだけで生きてていいし、幸福を掴んで良いのです。たとえあなたの夫や、義理の父や母があなたを認めなかろうと、あなたはあなたを許してあげてください」
床に、硬い何かが落ちる音がした。
ついで、女が頽れ、その場で嗚咽を上げ始めた。目は見えなかったが、その程度のことは難なく感じ取れた。
「もう、何も……見たくない……」
絞り出すような言葉は、怯える子供の声そのものだった。
螺導は彼女に肩に血塗れの手を置き、万感を込めて頷いた。
「見なくてもよいのです。もう、見なくても良いのです」
すすり泣きの声が、静寂を満たした。それは、彼女が本当に長いこと抑圧してきた弱さの発露だった。
弱くていい。弱さこそが人の本質。強くなろうとするなど条理に反したことだ。
その日から、女と螺導の在り方は変わった。
他の家族からの暴行は相変わらずだったが、女だけは螺導の傷を手当てし、まともな食事を運んでくるようになった。
だが――それは女にさらなる孤立を招くことになる。
虐げる側と虐げられる側に流動や交流などあってはならない。少なくとも女の家族は秩序や伝統をそのような意味で理解しているらしかった。
螺導のもとを訪れるたびに、女は鬱血した打撲痕を増やしていった。
だが、反比例するように、女の表情は本来あったのであろう柔和さを取り戻していった。
肉体が傷つき、消耗してゆくにつれ、心が軽くなっているようだった。
「
「それがあなたの救いだというのなら、迷わず進まれるがよいでしょう」
実際、それは表情だけの変化ではない。この時点で螺導は他者の〈魂魄〉に接続ができるようになっていた。
離れた場所にいる者と繋がることはまだできなかったが、目の前にいる女が確かに救いを感じていることは断言できた。
「ですが、その求道の果ては、何なのでしょう?」
「それは……」
女は、かすかに顔を曇らせた。
「
その答えを聞くと、螺導は女と同じく顔を曇らせてしまった。
「では……僕は一人になってしまいますね」
だからその一言は、ひどく利己的なものであった。
そう言うことで、女がどのような気持ちになり、どうするのかを分かった上で、そう言ったのだ。
無意識下とは言え、螺導は確かに分かって言ったのだ。
「ならば、旅立ちません」
女は螺導の手を握り、微笑んだ。
手の温もりを感じながら、螺導は首を振る。
「それではあなたは救われません。僕も共に旅立ちます」
「旅立つのは私にとっての救いです。螺導、あなたにとっての救いではありません」
年老いた女は、螺導を抱きしめた。
「いずれ人は旅立つさだめ。焦ることはないわ。少しだけ待ちます。あなたがあなたの救いを見つけられるまでは」
人の慈悲と温もりに触れ、螺導はひとつの決意をした。
あるいはそれは、霊感とも言うべきものなのかもしれない。
人々の心に重大な革新をもたらしてきた預言者たちが感じたものが、それだったのかもしれない。
――この人に我慢を強いてはならない。
――この人は今すぐに救われなくてはならない。
ならばどうすればいいのか。
自分は既に知っているはずだったから。
かつて自分はそこにいたはずだったから。
――必要なのは通過儀礼である。
大きな困難と苦痛を伴っていなければならない。その二つがない通過儀礼など無意味である。
代償を支払うことで初めて、その後に得られる真理が価値ある意義深いものとなるのだ。
何の対価も要求されずに恵んでもらったものを、人は真正面から受け入れることができないし、価値を見出すこともできない。無償の慈悲はすぐに当たり前の前提へと堕し、もっとよこせと不平を洩らすようになる。
螺導はそのような人間心理を醜いとは思わないが、対策はすべき事象であると感じていた。
おもむろに、女の名を呼ぶ。
「――眼球を、お捨てなさい。そして僕に刃物をお委ねなさい」
「何を……?」
「死なずとも、救いには至れるのです」
女は、螺導の言葉に従った。
螺導は戒めから解き放たれると、包丁を片手に屋敷を歩き回っては出会った者すべての眼球を斬り潰し、全盲となさしめた。
何の武術も積んではおらぬ、密室に繋がれ衰え果てた子供が、しかし苦も無く大人たちの視覚を奪っていった。
わかっていたから。
目に見えずとも、伝わってくるものがあったから。
そこにいる人間が、何を恐れ、何に警戒し、ゆえにどこに隙を晒しているのか。
手に取るようにわかった。まるで自分が相手になったかのように、詳らかに理解できた。
もちろん、相手が誰一人まともな戦士としての鍛錬など積んでいない人物であったことも大きかった。
年嵩の女によって屋敷は閉鎖され、逃げ場もないまま螺導に怯え、赦しを乞い、最終的には絶叫しながら襲い掛かってきた。
とても、哀れだった。
目が見えているから、見えない事柄が恐ろしくてたまらないのだ。頭皮と頭蓋に阻まれて、螺導が何を考えているのかを見ることができないから。
もしも、全ての人々が視覚を捨て去り、己の内界を観想していれば。
わからぬことに恐怖するなどという無意味な情動から自由でいられたはずなのに。
飛び掛かり、眼窩に金属をこじ入れる。
絶叫とともに振り回される腕に打ち払われるも、握りしめた包丁の切っ先には眼球が実っていた。視神経が垂れ下がる。
螺導は根気よく、迷いと恐れを生ぜしめる器官を人々から取り去り続けた。
老いも若きも。男も女も。子供も赤ん坊も。
平等に。公平に。悉く。
そうして、荒れ果てた屋敷の中には啾々たる嗚咽と嘆きのみに満ちていた。
年嵩の女が、家人らすべてを一か所に集めた。
そして、螺導から包丁を受け取ると、躊躇なく自分の眼球を抉り出し、足元に捨てた。
踏み潰す。房水が飛び散る。
「皆さん」
螺導はぱちんと掌を打ち合わせた。
「恐れることはありません。今皆さんが恐れているような未来は、やって来ません」
自分たちをどうする気だ、とか、もう死ぬしかない、とか、なにもみえない、こわい、とか、そのような嘆きの一切を無視して、螺導は朗々と声を張り上げた。
「見ずに済む、という祝福を受け、慣れない感覚に戸惑うのは今のうちだけです。じきにあなたがたは、恐怖も、不安も、妬みも、憎しみも感じなくなります。あなたがたの人生を彩ってきた感情のほとんどを捨て去ることになるのです。ゆえに、別の何かを探さねばなりません」
螺導は歩き出す。ゆく先々の人々の目元に触れる。まるで涙を拭い去るように。
「僕はあなたがたに指図はしません。あなたがたが自らの生に何を見出すにせよ、それを応援していきます。しかし、これだけは忘れないでください。――触れた指先の温もりは、真実です」
そうして、迷い人たちと螺導との共同生活が始まった。
視覚を失い、まともに行動もできなくなった者たちに、事実上選択肢などなかったから。
もちろん、脱走しようとする者もいた。螺導は別に彼らを監禁していたわけでもないので、当然のことである。
だが――その全員がほどなくして戻ってきた。
螺導はまず彼らを抱きしめ、「また会えてうれしい」と伝えた。
外で受けた、彼らの苦痛と無念が、我がことのように感得できたから。
肩を震わせ、縋りついてくるその体を、螺導は力を込めて抱きしめ返した。
屋敷に残った者全員との抱擁を終え、その場の全員が、何らかの繋がりを感じていた。
その日以来、確かに何かが変わった。
見えずとも殴られぬということの意味。見えずとも虐げられぬということの意味。
「あなたたちはすでに代償を払いました。これ以上捧げる必要などないのです。見えないことに怯えるのはもうやめましょう。見えないことこそが当たり前なのです。見えてしまっていた頃の記憶が、あなたを苛んでいるのです。見えてしまうから、見えないということが恐ろしくなるのです」
「だけど、見えないと食事がどこにあるのかもわからないのだよ」
「だからこそ、助け合うのです。見えていると、人は自分ひとりで生きていけるなどという愚かな驕慢に囚われ、それが果たせぬ自分に失望するという苦しみが発生してしまいます。助け合い、支え合わねば人は生きてはいけないのです。見えていると、それが見えなくなる」
「言っていることは、なんとなくわからないわけじゃないんだ。確かに見えなくなってから、自分以外の物事にあまり心を動かされなくなった。お前の感じている安らぎを、片鱗だけでも味わえているのかもしれない。だが、では、俺たちが目の見える状態で過ごしてきた今までの人生は、何だったんだ? 無意味、だったのか?」
螺導は、そう問いかける男の手を握った。
ゆっくりと首を振る。
「いいえ。いいえ、それは違います。あなたが視覚という呪いを持って生を享け、苦しんできたのは、あなたと同じ苦しみを背負う人々の痛みを理解し、救いの手を差し伸べるためです。生まれながらに見えなかった僕では、どうしたってそれだけはしてあげられないのです」
握りしめるその手が、震えていた。
「僕とあなたは、役割が違うと言うだけのことなのです。あなたの助けがなくば、きっとこの悟りは僕やあなたを救うだけで終わってしまうことでしょう」
男の手を包み込み、螺導は額に当てた。
敬意と、感謝を込めて。
ささやかな盲人たちの共同体が、その瞬間に誕生した。
そして数日後、壊滅した。
盲人たちを襲った虐殺に、整合性のある因果などなにもなかった。
彼らは慎ましく、社会の片隅でひっそりと助け合い生きて行こうとしただけだった。
何の罪も犯さず、誰の恨みも買わなかった。
ゆえに、それは因果の外より襲来した。
「――なぜこの世界が紅いのか、考えたことはあるか?」
内部を黒々とした吹き溜まりが巡り続ける奇妙な血刀を下げたまま、それはぽつりとつぶやいた。
「なに、を」
むせ返るような血と腸と糞の臭い。
尻餅をついた手指に触れる感触は、粘ついている。
そして、自分の前に、何かがいる。
断じて人間ではない何かが。
重苦しい足音が近づいてくる。
螺導は〈深淵〉を通じて意識を伸ばし、眼球なき同志たちの様子を知ろうとした。だが、返ってきたのは冷たい虚無だけであった。
この付近に、生あるものは、一人もいない。
自分を除いて、ここは死の静寂に包まれていなければおかしい。
重苦しい足音が近づいてくる。
「我々を取り巻くこの色を、なぜ
無意味な問い。
そもそも螺導には光や闇すら理解の外にあるというのに。
重苦しい足音が近づいてくる。
「それに、理由など、あるのですか」
「ある。眼球が白いことに理由を求める者がいないように、枝葉が青々としていることに意味を探す者がいないように、万象ことごとくに因果を求めるのは愚かな迷妄と言うべきだろう。だが、これに関しては、ある」
大気が動く。自らの首に、硬く鋭いものが押し当てられるのを感じる。
それは触れただけで皮膚を裂くほどの鋭利さを持ちながら、断じて金属ではなかった。
滑らかで、清廉な、結晶質の刃。
しかしてその内部では、何か液体のようなものが循環し、人肌よりやや低い体温を持っていた。
「俺はその過ちを正さねばならない。かつて世界は紅昏に沈んでなどいなかった。その空を取り戻す」
余人にはあずかり知れぬ戦慄きが、螺導の喉を浅く傷つけた。
「……長かった。お前が剣の師と出会うより前の時点を捉えるには、この世界はあまりに広すぎた」
何を、言っているのか。
だが、その万感の思いが込もった言葉からは、自分に奇妙な刃を突き付けるこの存在が、長い長い遍歴の末にようやく螺導・ソーンドリスを探し当てたのだと言うことが自然と感得された。
「だがそれも、ここで終わる。お前が八鱗覇濤に出場することはない。少なくともこの周回だけは」
何を言っているのかわからない。
だが。
喉元に熱いものが走り、
気管に血が溢れ、
一瞬遅れて鋭い痛みが走った。
叫びたくとも、自らの血に溺れ、呼吸すらままならない。
死ぬのか。自分は。
なぜ殺されねばならないのかもわからぬまま。
ただ、愛しき人々を
喉元を抑え、声にならぬ血泡交じりの呻きを上げ、震える手で何かを掴む。
意識が闇に沈んでいった。
●
二回戦 第二典礼
螺導・ソーンドリス
罪状:変異血脈根絶法違反、大量殺人、貴族殺人、傷害罪、および貴族への傷害罪、強盗罪
対
夜翅・アウスフォレス
罪状:不明
「――な、ぜ」
夜翅・アウスフォレスは、愕然と目を見開いていた。
目の前には、小柄な老爺。
螺導・ソーンドリス。
数十年前、確かにこの手で喉を裂き、殺めたはず。
体は動かない。
体などすでにないから。鋭利な断面を残し、夜翅の首級は刈り取られていたから。
「そうですか……やはりあの時の「あれ」はあなたでございましたか」
螺導・ソーンドリスは哀しみを微笑に乗せる。
「やつがれは剣を執る気など最初からございませなんだ。ただ、罪深き暴力を体現せねば、せっかく真の救いにたどり着いた人々を守ることができませなんだ」
夜翅の首級の髪を掴み、語り掛けてくる。
その手に血刀を下げながら。
足元に夜翅の首なし死体を転がしながら。
「この身がいつ、どのような形で拷問具に選ばれたかご存じでしたかな? アギュギテムに来てから? いえいえまさか。外界にいた頃は一度も凝固などさせませなんだゆえに、誰もやつがれがいつから黒鱗に見初められていたのか正確な所を把握してはおらぬようで」
螺導は顔を上向け、喉元を晒す。遥か昔に治癒した後の傷跡があった。
そんな馬鹿な。
並外れて拷問具との相性が良いますらおならば、液状の神器を操って傷口を塞ぐことも可能かもしれない。
だがそれとてできるのは止血程度。気管や血管や神経を繋ぎ直すなど絵空事である。
そもそも、螺導・ソーンドリスの身に宿れるあれと相性の良い人間など存在するはずがない。
あれは憎悪の化身ゆえに。
「――まず伝わってきたのは共感。自らと同じ境遇にあるものへの同情心」
そのしゃがれた言葉が耳に入り、意味を理解した時、夜翅は自分が甚だまずい悪手を打ったことを知った。
●
見えているから、見えないものが恐ろしくなる。
それが、螺導・ソーンドリスの一貫した思想であった。
「やつがれは自らの中に入ってきたその熱く冷たい奔流を、必要以上に恐れることはありませなんだ」
夜翅の首級を丁重に床に置く。
「この存在はある瞬間まで、憎しみに凝り固まっておりました。もはや自分が何を憎んでいたかすら、憎悪の渦の中に溶けて判然とはしなくなっていた」
その前にこぢんまりと正座し、向かい合う。
「だが、あなたがやつがれの喉を裂いた瞬間、これは憎むべき対象を思い出した。夜翅・アウスフォレスという仇敵を。かつてあなたがいかなる存在で、なにを成したのかを」
夜翅の口は、そう、か、と動いた。
その黒濁した瞳から、意志の光が徐々に消えていった。
最期の瞬間、暗黒の舌が蠢き、ひとつながりの言葉を虚空に刻む。
りだり=り おまえだったのか
――汚水が煮え滾るような、痰の絡んだ喘鳴のような音があたりを満たす。
思わず眉をしかめたくなるような、生理的嫌悪を呼び覚ます異音。
参列者たちが、恐慌に満ちた叫びをあげる。嫌悪と恐怖が〈深淵〉を通じて螺導にも伝播してくる。
それらの感情の指向性は、一点に集中していた。
螺導は、それを直接認識したわけではない。同じ深淵接続者でも、狼淵とは接続の仕方が異なる。老剣鬼に他人の視界を簒奪することはできない。その力はすでに捨て去ったから。
読み取れるのは、感情の動きである。
そして、それぞれに微妙に感受性の異なる無数の人々の〈魂〉に同時に触れ、それぞれの恐怖と嫌悪を味わい、個々人の認識と言う歪んだ鏡の像を補正し、その存在を視覚よりも正確に把握した。
首を刈り取ったはずの夜翅・アウスフォレスが立ち上がり、こっちを見ている。
こっちを見ている。
両の、
その肩の間には、どういうわけか新たな首と頭蓋が生えていた。
黒い、黒い、夜よりも黒い粘液が、楕円形に蟠り、海草か炎のように触手を揺らめかせ、燃え立たせながら、顔、と呼ぶべきものを形成していた。
「――つまり、化生のたぐいにございましたか」
「ア……」
急造の発声器官では満足に音を彫刻できないのか、不明瞭な声で言葉を発し始めた。
「ラ……ドゥ……ソー……リス……」
ツカツカと歩き、足元に転がる自らの首級を拾い上げた。帽子でも被るように、粘液で形作られた頭部に押し当てる。
闇色の不定形は花開くように首級を飲み込み、蠢き、やがて内部へと吸収されていった。
元通りの夜翅・アウスフォレスが復活する。首の切断面に粘液を蟠らせながら。
暗黒の眼を見開き、口を開いた。
「俺はかつて、お前でもあった」
「おっしゃっている意味が少々わかりかねますが」
「お前を縛めから解き放ち、魂を繋ぎ、従い、お前の教えに帰依し、自ら眼球を捨てたその女は、お前が作った共同体への所属を後悔した。なぜ眼球のない子供の口車などに乗ってしまったのかと嘆きながら死んだ。その最期の瞬間、およそ幸福や敬意や誰かを思いやる気持ちなど、女の胸中にはひとかけらもなかった。本来の歴史でも、俺たちが今いる歴史でも、それは同じだった」
螺導は、首を傾げた。
「これはしたり。あなたは人生最後の瞬間に感じた物事だけが真実で、それ以前の想いはすべて虚構かなにかと考えておられる」
痛まし気に眉尻を下げた。
「もしそうであれば、生に意味などありますまい」
「ないのだ。生きる苦しみは、何かの罪に対する罰でも、何かを贖うための代償でもない。何の意味もない苦悶だ」
「安易な結論、と言うべきかと。あなたが何を期待し、何を見、何に絶望し、何に狂ったかは存じ上げませんが、全知ならざる人間が苦しみの是非を断じようなどと驕りという他ございません」
「全知ではないが、人知ではあった。お前が今相対しているのは全人類の代表面をしても許される存在なのだ」
沈黙が、降り積もる。
螺導は、大気の匂いの中にかすかな腐臭を感じた。
死が腐ってゆく匂い。
「あなたは自分自身が皇帝陛下と伍する存在であるとでも仰りたいのですかな?」
「奴は俺の敵だ。俺だけの」
闇の中に沈むように、泥の中で謡うように、夜翅は俯き、目元を険しく研ぎ上げた。
引き倒され、地面に押し付けられた奴隷が、それでも反抗の意志を失わぬまま見上げるような、視線。
饐えた甘い匂いの、憤怒。
初めて夜翅・アウスフォレスは感情を露わにした。
それは意外なほど、まっすぐとした感情だった。
入り組んではいない。まるで無垢な子供のような、極めて単純な心の動き。
●
――目的はただ一つ。それだけを考えて存在し続けてきた。
すくなくとも死という手段でそれが達成されないことだけはわかり切っていた。
塵劫の生を生き、那由他の死を死んだ。
すでに夜翅が体感した時間は、これまでに生きて死んだ全人類の総量を越えていた。
人間性が摩耗し、摩滅していたならば、あるいは夜翅は何も行動を起こさなかったかも知れない。
何も感じないならば、いかなる動機も持ちえず、ただ状況に流されるまま存在し続けていたかもしれない。
だがそんなことは許されなかった。
夜翅・アウスフォレスという意識は、原理上人間性を喪失しえない。
感じる心が、なくなったりはしない。
なぜなら夜翅はかつてあらゆる人間であったから。
狼淵であり、刃蘭であり、霊燼であり、螺導でもあったから。
栄華を極めた暴君であり、捨てられ飢えて死んだ赤子であり、亡国の醜い姫君であり、逃亡農奴の山賊の頭でもあった。
それぞれの生があり、それぞれの苦悶があった。
夜翅の〈魂〉は、彼らの〈魂魄〉に寄生する形で存り続けてきた。
主導権は夜翅にはなく、宿主たちの営みと思考を同じように味わうだけの存在であった。
そして、異なる人物の生と死を実体験し、比較した結果、ある結論を下した。
――幸福へと手を伸ばすありとあらゆる営みには、意味がない。
それらの行いが実際に幸福を招いた事例などひとつもない。
後天的な努力がその人物の幸福を増やさせたことなど人類史上一度もない。
富も、名誉も、愛も、正義も、信念も、覚悟も、絆も、憎悪も、嗜虐も、総じて意味がない。
あるのはただ、生まれつき幸福を感じやすい〈魂〉と、感じにくい〈魂〉だけである。
そしてそのふたつのいずれであろうとも、行きつく先は同じ。
「お前もまた、その瞬間になれば生まれてきたことを悔やむ」
歩み始める。
終わらせるために。終わるために。
「俺はそれをすでに知っている」
「たとえことごとくあなたのおっしゃる通りだったとしても――救いはありますよ。必ずね」
失笑するしかない。
たかが一個人が悟った真理など、全人類の絶望を前にすれば羽毛ほどの重みもない。これほど単純な足し算が理解できないと見える。
「なるほどお若い方、あなたは絶望に一家言お持ちのご様子。されど絶望に対して悟りに至ったのはあなた一人ではなく、あなたが最後でもないでしょう――」
螺導もまた、歩みを進める。
萎びた唇が、明確にその音を刻む。
すでに何度も出た単語を。
これからも人類の口に上り続けるであろう単語を。
言葉として発せられることで、多くの者を実際に破滅させてきた単語を。
「――〈絶望〉の八鱗よ」
さして大きな声だったわけではない。
むしろ囁くような声量しかなかった。
だが、その音列は至聖祭壇に詰めていた者すべての耳朶を戦慄させた。
「――虚無の濡れ羽を爪弾き――」
凍える炎のような手が、
末期の吐息のような歌が、
死にゆく太陽が大地に刻んだ夕闇のような狂乱が、
「――凝固せよ」
その場にいたすべての人類の〈魂魄〉を締めあげ、握り潰した。
老爺の掌より、ありとあらゆる色彩が溶け合った結果生まれた黒濁汁が爆発的に噴出した瞬間、参列者のうち何割かは血泡を吹いてこと切れた。
それを視界に入れているだけで。
それが泡立つ音を鼓膜に触れさせているだけで。
それから広がる病んだ血の芳香を嗅いでいるだけで。
ただそれだけのことに耐えることが出来ず、生き残った参列者たちは喉が裂けるほどの絶叫を上げた。
螺導の手に凝固したそれは、裏返るように形を変え、黒よりなお深い無限の濁淵となって太刀の形に安定した。
叫喚とともに無数の足音。
我先にと逃げ去る参列者たちは互いを押しのけ合う。転倒し踏み砕かれる者が続出する。
立って足を動かすことも出来ず、赤ん坊のように泣き叫ぶ者もいた。
腹腔が痙攣し、臓物を吐き出す者もいた。
秩序なき人の波は余裕や虚飾を奪い去り、そこかしこで惨劇を巻き起こす。
一刻も早くその場から離れようと。
螺導の手に現れたる存在を、一瞬たりとも視界に入れたくないばかりに。
その恐怖に合理的な理由は何もなかった。
拷問具を抜いてから、老爺はまだ何もしていない。
そもそも黒の二振りの権能を誰も知らない。
今のところなんら脅威にもなっていないその存在を、しかし人々は歯の根も噛み合わぬほどに恐れた。
もしかしたら、これまでの生涯で、最も。
「――見えぬことを
鯉口を切り、鍔を親指で押し上げる。
その拷問具は鞘と中身に分かれていた。鞘を帯に挿し込み、厳かに抜刀。ゆったりと、しかし力みも淀みもなく、まるで星々の運行を思わせる重厚な抜きつけ。
瞬間――見えざる鎖が、両者を縛った。
●
強烈な、引力。
夜翅・アウスフォレスの全身を縛っているのは、比喩ではなく真実の引力だった。
重心を低く踏ん張っていなければ、前につんのめって倒れてしまいそうなほどの。
迷妄刀メルギトゥルの権能かと思いかけて、胸中で否定する。
こんなものは普遍的な現象に過ぎない。
無謬刀アルビトリウムと、迷妄刀メルギトゥル。
かつてひとつの黒鱗であった頃の栄華を偲んでいるのか、同色の拷問具はひとつに溶け合おうとする。
超常的な引力の鎖で、両者は惹かれ合う。
そして――夜翅は身体の均衡を崩す。
体全体が、引き寄せられる。
「――なるほど」
ぬるり、と。
水銀が流れるがごとき無拍子の踏み込みによって、いつの間にか懐に入り込まれていた。
「あなたがアルビトリウムなのですね」
抜き放たれた黒い打刀が、闇色の野太刀に阻まれる。
本来ならば防御の成功などありえない。螺導は夜翅の呼吸を読み切っている。
夜翅が反応し、防いだのではなく、ただ双方の得物の引力に逆らわなかっただけだ。
噛み合う接触点で、二つの黒刀は融和しはじめている。
原初の一へと、戻り始めている。
かつて
魂の根本の部分で、夜翅もそれに焦がれた。どうしようもないほどに、憧れた。
自分は本来、そうであったから。
だが――駄目だ。
今ここに居る、いまにも擦り切れて消滅しそうなこの自分は、そうした出自の否定から始まった
ここで一つに戻るくらいならば、そもそも幾星霜もの時間を彷徨ったりはしなかったから。
濁った咆哮が、夜翅の喉を裂いた。
実に、主観時間で七兆年ぶりに、夜翅は声を張り上げた。
無謬刀を、引く。体重を後ろにかけ、力の限り。
もぎ離す。
癒着しかかった刃を。
そして老人の構えを崩す。
斬る。逆胴の軌道。だが刀同士の引力を利用され、太刀筋が歪む。
吹き上がる剣光。夜翅の右腕が切断され、宙を舞う。
そうして発生した間隙に老爺はぬるりと滑り込み、消失。
かちり、と背後で鍔鳴り。
直後、夜翅の五体はいくつかの大きな肉塊へと寸断される。
だが。
それぞれの切断面から闇色の粘液が噴出。分かたれた部品が石畳に落ちる前につなぎ合わされ、瞬時に接着している。
宙を舞っていたはずの夜翅の手が、老爺の頸に食らい付いた。
縊り、殺す。
「――迷妄とは」
老爺の声が耳朶を震わせた瞬間。
「過ちにございます」
瞬間、夜翅は自分が望まぬ正解を引き当ててしまったことを悟った。
●
――人は過つ生き物である。
どのような身分に生まれ、どのように生きようと、一度も道を違えることなく生涯を終えられる者などいない。
迷妄こそが前途にあるもののすべてであり、絶望へと人を至らしめる因果の引力である。
その猛威に人は抗う術を持たず、時に打ちのめされ、時に命を失った。
そうして、人々の〈魂〉の中に、ある信仰が芽生えた。
理屈で考えれば何の意味もない、噴飯物の迷信が。
得た者は、それゆえに、失う。
失った者は、それゆえに、得る。
禍と福に因果関係などない。禍が福を招いたりしないし、逆もまた然りだ。
にもかかわらず人は無意識のうちに禍福は
あいつは不当に利益を得ているから近いうちに破滅するだろう、とか。
かつての不幸があったからこそ自分は成功したのだ、とか。
幸福と不幸はおのずと均衡を保つだろうという無根拠な願望を抱きがちだ。
人類の目を曇らせる迷妄の、これは最大のものである。
世界はもっと遥かに理不尽で、人間に対し無関心である。
そのような現実に対し、一つだけ反逆する手段があった。
――迷妄刀メルギトゥル。
迷妄の霧に包まれてあれ。無慈悲な
苦痛に意味があったと信じたいなら。
悲哀に意味があったと信じたいなら。
その願いこそ人の証。
禍と福を因果と言う名の鎖でつなぎ止めよう。
成就と失策を不可分のものとしよう。
それらは対。比翼の鳥。決して分かたれることはない。
――其ガナンヂラノ救ヒナラバ、我ハサ振舞ハム。
その声を聞いた時、螺導は己の拷問具がなぜこの身に宿ったのかを悟った。
●
「糾える間隔が具体的にいつになるかは、やつがれの意志では定められませぬ。多くの場合、数拍以内に因果の揺り戻しが発生いたします。しかしより重要な性質として――」
ごきり、と。
頸椎が砕け折れる感触が夜翅の手に広がった。
老爺は舌を出して死んだ。
「――双方の禍福が矛盾する場合に限り、順番が極めて重要でございます。先に禍を取ることが肝要。なぜなら先に禍が来た場合、それによって生が終わる確率を事実上零にすることが可能となるのでございます」
禍で命が終わってしまえば、福が来ないことになってしまう。それでは禍福が糾えるとは到底言えない。そこで迷妄刀は、強引にでも己が法理を世界に押し付ける。
ゆえに。
「黒鱗はひとつに戻るべきかと、愚考致しまする」
背後から刺し込まれてきた迷妄刀の切っ先に、心臓を貫かれる。
手の中の螺導は力なく崩れ落ち、動く気配もない。
ならば、何故。
振り返る。
そこには無傷の螺導がいる。
二人に増えている。
陰陽爪クルトゥーラを用いた散悟とは異なり、まったく同じ姿の螺導が二人いる。
途端、強烈な引力を感じた。
体の中心に、何もかも吸い込み飲み込む孔が開いたように。
黒鱗同士に生じる形而上的引力。
飲み込まれれば、夜翅としての自己同一性は完全に消失する。来た道を戻り、別の枝に入ることが必要だと判断する意識の主体が喪われる。
そうなれば、いかなる見地から言っても完全なる敗北である。
抗うことは無意味。
なぜなら禍福は糾えるから。すでに螺導にとっての禍が終わり、福が来る。その絶対の順序の中に絡めとられ、もはや成すすべはない。
夜翅は、暗黒の眼球を見開いた。
――いいのか。
絶望的な自問。
――ここで終わって。
なんのために兆を越える年月を生きた? お前の本当の敵は何だ? 一矢も報いぬうちに、消滅を受け入れていいのか?
いいわけがない。
ではどうする。ここで抗うことも出来ず原初の黒鱗として融合しようとしている現状をどうするのだ。
――思い出す。
すべての因果の始まりを。
自分がいかにして今の自分になったかを。
●
大気という媒質から結晶が析出するためには、ごく短期間で多数の天使が命を奪われる必要があった。
苦悶を媒介として〈魂魄〉が大量に
ゆえにカルティ=ヴァは、己の背から六対十二枚生じた翅を縦横に閃かせる。
ひとつ大気に輝線が刻まれるたびに、ひとつ
穏やかな微笑みのまま、ゆっくりと回転しつづける顔、顔、顔。
切断面から紅い半球が盛り上がり、ふるふると震えていた。さっさと終わらせて重力圏に戻ろう。
「何故、こんなことを」
掠れる声で、リダリ=リが問うてくる。
「卵を、割らねばならない」
カルティ=ヴァはうっそりと言い放つ。
「何を言っているの。自分が何をしたかわかっているの」
「同胞の
「僕も、殺すの」
「安心しろ」
カルティ=ヴァはリダ=リに背を向ける。
「もう殺している」
ほろりと頭部が両肩の間から外れ、宙を漂う。二つの断面から鮮血が盛り上がり、震えながら表面張力で半球をなした。
ィン、と刃鳴りが遅れて吹き抜ける。
リダリ=リの薄い唇が、ゆるさない、と動いた。
のろわれよ、とも。
声は出てこない。肺と口の接続が断たれているから。
本来であれば、死に際の憎悪に意味などない。憎悪それ自体が生者に報いを下すことなどあり得ない。
禍福が糾えることは決してない。
だが。
この瞬間。
万象に無関心な
事前の予測より遥かに大きな
析出に、至る。
「おぉ――」
カルティ=ヴァは、幾多の天使の血に染まった己が両翅を、大きく拡げた。
銀霊樹の梢のごとく枝分かれした翼指の、それぞれの先端に、カルティ=ヴァの狂念が析出した刃状の魂魄結晶が伸びている。
それらが指のごとく動き、見えない巨きな卵を包み込むような形に変わる。
「リダリ=リ。心から感謝する」
魂魄結晶が、成長する。深い深い、純粋な感謝の念が、翅刃をさらに長大なものにしてゆく。
球状の空間に、渦巻くものがある。
――リダリ=リは、親友であった。
――カルティ=ヴァは、元人間である。雄性のみを有する肉体を持ち、他の天使たちから「欠けたるもの」として白眼視されていた。
――そんな自分にも、リダリ=リは分け隔てなく接してくれていた。
「君と出会えてよかった。君を殺してよかった」
頬を涙が伝う。
翅刃が形作る球状空間に、滲み出るようにして、黒色の濁流が渦巻き始める。
複数の渦状濁液が高速で回転しながら寄り集まり、融合してゆく。
黒とはすべての色彩を内包する渾沌である。
だが、リダリ=リの憎悪が向かう対象はカルティ=ヴァのみであり、それ以外の色彩は縁なきものとして球体の外に弾き出された。
紅、蒼、翠、黄褐、藍緑、紅紫、そして純白。
七つの色は、七つの結晶球として排出され、いずこかへと飛び去ってゆく。ここは無重力圏ゆえに、与えられた初速が減じることはない。
七鱗は、すでに存在している拷問具たちと融合し、ひとつになり、前の周回の記憶を伝える。
そして、この場に最後に残ったもの。カルティ=ヴァという存在の根本。
黒ではなく、闇。
内部に何も包括しない、純然たる不在因。
「闇」なる物質は存在しない。「闇」とは、ただひたすらに「無い」ことを示す言葉である。
螺旋と円環を描きながら高速で巡り続ける多数の奔流が、やがて溶け合いながらひとつの完全球体を形成してゆく。
いや、それは本当に球体だったのか。カルティ=ヴァは、己の頭上で蟠るその存在を見ても、「厚み」や「奥行き」を感じとることができなかった。
球ではなく、円なのではないのか?
無理からぬことなのかもしれない。純粋さと浅薄さは表裏一体だ。己の魂の色がそれほど薄っぺらいのならば、薄っぺらいからこそ成せることをしよう。
渦巻く円が、変形してゆく。
真円から、楕円へと。
いや、それは果たして変形なのか? 高き
確かなことはカルティ=ヴァにはわからない。
楕円は変形を続け、引き伸ばされてゆく。
しかし、同時に偏りも生じていた。
伸びた楕円の一方は大きく、一方は小さくなっているのだ。
これは二つの構成要素に起因する特徴か。
リダリ=リの憎悪と、カルティ=ヴァの感謝。
異なる二つの狂気による相克と和合。
しかしてその二つは等価ではない。
感謝の
ゆえに、偏りのある楕円型が出来上がる。
すなわち、卵型。
内部に異なる二つの重心を持つ構造体。
厚みのない形態のため、「鱗」と称されることも多いが、カルティ=ヴァはこれを卵と捉える。
内部で、相克と和合が進む。
あるいはそれらを超えた変化が。
――リダリ=リは善良で、公平な天使だった。
善因には善果を、悪因には悪果を。
富める者は、貧しき者のために力を使うべきである。
良き天使には祝福を、悪しき天使には報いを。
されど、悔い改めた者をそれ以上打ち据えることは赦されぬ。
報いを与えることに喜びを抱く者こそ悔い改めるべきである。
ゆえにその思想は、黒晶卵の中で脈々と息づき、カルティ=ヴァの感謝を糾弾する。
殻の中で、水と油のように反発しながら。
――あぁ、だが、リダリ=リ、美しき
どれほど
憎悪、などと。
なんて可愛らしい
そんなものを抱いている時点で、
「その憎悪が成就した時、君は愉悦を感じないのか?」
カルティ=ヴァがそう声を掛けた瞬間、
その隙を、見逃さなかった。逃げ場のない卵の中で、感謝の触手が憎悪の拒絶をこじ開ける。きつくきつく、絞殺さんばかりにきつく絡みつく。
もがくように、溺れるように
――そして
感謝は何も否定しない。憎悪すらも否定しない。
君はそれでいい。君の憎悪は美しい。君の矛盾と誤りは意味のあることだった。
だから
ただひとつの目的のためにすべてが仕組まれたこの世界に、穴を穿つために。
起源槍インケルタの専横を終わらせるために。
やがて、黒晶卵に、罅が入る。
それは、二つだったものが一つになったのち、再び分かれた――などという単純な現象ではない。
一つになった瞬間、それは変質し、止揚され、元の存在とはまるで異なる段階に至っている。その結果として、まったく新たな二つの思想が誕生しようとしている。
そこに生まれ出でたものは、大小の刀の形をしていた。
●
何を支払うべきかなど、明白だった。
――号して「因果鎖」。銘を「ノドゥス」。
一回戦第四典礼にて、餓天使〈罪業の惨禍〉より奪いし二振りの拷問具のひとつ。
その権能は、「甲ならば乙である」という定型文に任意の言葉を当てはめることで、本来は存在しなかった因果律を実体化させる。
甲と乙に代入できる言葉に制限はなく、人、物、現象、概念など、およそ人間が想起できるありとあらゆる事物を因果律の鎖でつなぐことができる。
ただし甲の部分に「いかなる場合においても」など条件を一切限定しない文言を入れても、事実上何も言葉を当てはめていないに等しいため、権能の発動条件を満たさない。
「――『迷妄刀メルギトゥルが夜翅・アウスフォレスの体内にある』ならば『夜翅の〈魂〉は保持される』。かくて禍福は糾えり」
この甲は妥協の産物だ。本来ならば『この世界がある限り』などの、もっと破られそうにない条件を課するべきなのだが、それだけは夜翅には不可能な条件設定だったから。
「……ほう」
黒刀が瞬時に引き抜かれる。突き込まれた時と同じく閃光のごとき所作。
だが、夜翅はその鍔元を掴む。
「咄嗟のことにわりには考えた条項でございますな」
メルギトゥルが夜翅の体内にある、という条項は、二通りの解釈が可能だ。ひとつは物理的にメルギトゥルの刃が夜翅の肉体に突き刺さっている状態。いまひとつは、夜翅が螺導を殺してメルギトゥルを奪った状態。
どちらにおいても夜翅の〈魂〉の存続は保障される。
「だがお分かりのはずです。その条項の裏命題は致命的な意味を有していることを」
老爺は因果鎖の権能をすでに知悉しているようだ。
突拍子もない二つの事物を因果律の鎖で繋いでしまえるノドゥスだが、「甲ならば乙」という命題の逆と裏と対偶もまた無条件に現実化してしまうという性質を持つ。
夜翅が設定したのが「『メルギトゥルが夜翅の体内にある』ならば『夜翅の〈魂〉は保持される』」という条項である時、
「『夜翅の〈魂〉が保持される』ならば『メルギトゥルは夜翅の体内にある』」が逆命題。
「『メルギトゥルが夜翅の体内にない』ならば『夜翅の〈魂〉は保持されない』」が裏命題。
「『夜翅の〈魂〉が保持されない』ならば『メルギトゥルは夜翅の体内にない』」が対偶命題となる。
因果鎖ノドゥスはこの三つをも同時に実現する。
すなわち、螺導はメルギトゥルを夜翅の体から引き抜くだけで勝つことができる。
みしり、と、双方の手が迷妄刀の同じ場所を握り、鬩ぎ合う。片や握力で、片や骨指術で。
螺導がメルギトゥルを溶解させ、自らの血中に戻す手は使えない。すでに二つの拷問具が惹き愛う引力は、宿主との絆を越えつつある。
焼けた針金を差し込まれたような激痛。
手首付近の経絡への指圧が、夜翅の神経網に誤った命令を送信する。
腕がまるで意志を持ったかのようにのたうち、力が抜けた。
「――当然、〈魂〉は折れますまい? 何の意味もございませんが」
がくりと膝が曲がり、どうしても立ち上がれない。立ち上がろうと力を込めただけで、腕から後背にかけての神経が引き千切られるような痛みを発する。
人間が耐えられる苦痛には限度というものがある。それは死のように平等で、精神力などが介入できる余地はない。
長期にわたる洗練された拷問は、決してこの閾値を超えるような苦痛をもたらさない。線が切れるように意識が途絶してしまうからだ。
――二人のことを、想った。
かつて自分が幼かった頃、世界とは絶望に埋没していることが当たり前だと受け入れていた頃、そうではないのだと教えてくれた人物たち。
明るい未来もあり得るはずなのだと、奮い立たせてくれた人々。
自分たちは怒るべきなのだと、教えてくれた人々。
猿叫が、上がった。すでにズタズタになっていた喉が引き裂かれ、夜翅は自らの血で溺れた。
迷妄刀を握る手が、滑る。
――離せば、終わる。
ならばどうするか。
もはやメルギトゥルを奪われる他ないこの状況、いかにして窮地を脱するか。
「あなたはきっと、老人としての経験もあったことでしょう。それも、無数に。しかし、あなたの本質は、その〈魂〉は、老いることをいささかも受け入なかった。初志の貫徹は立派でございますが、老いるという経験もなしに正常な時系列から外れてしまうと、どうにも余裕がなくなってしまうようで」
老爺の声は、こんな時でも慈しみに満ちている。
「――老いて見なさい。それは存外、悪いものではありませんよ。人生のすべての瞬間は、等価です。老いればそれが実感できまする。何気ない日常の一時と、苦痛と後悔に満ちた末期の瞬間。この二つに本質的な差などありませぬ。後者だけを重視し、前者がまるで無意味であるかのように考えるのは、典型的な若さゆえの強迫観念、認識の偏りと言うより他にありませぬ。終わり良ければすべて良し、などと――」
くつくつと愉快気に笑う。
「――まさかそんな迷妄を信じてなどおりますまい?」
時が過ぎても、生きた事実は消えたりしない。
そんなことを言ってきた人間など、万世不刊の生涯において螺導が最初であった。
もし、そうであるならば。
己の歯を、噛み砕く。それだけはしたくはなかったから。
――だが、是非もなし。
夜翅であることを、捨てる。
生きた事実が消えたりしないというのならば。
夜翅・アウスフォレスとは、〈
感傷から使い続けてきたが、それに引きずられて消滅の憂き目にあうと言うのならば冷徹な決断をせねばならない。
ごぼり、と。
黒濁した液体が、夜翅の七孔より溢れ出る。
かつて混じり合い、止揚し、あらたな次元に至ったはずの「感謝」と「憎悪」。
彼は。
かつてカルティ=ヴァであり、夜翅・アウスフォレスであったその者は。
「憎悪」を捨て、再び剥き身の感謝のみの存在となる。
「憎悪」は迷妄刀メルギトゥルとの引力に負け、吸い奪われてゆく。
そして――
「典礼、かく成就せり! 勝者、螺導・ソーンドリス! ますらおに誉れあれかし!」
「誉れあれかし!」
「誉れあれかし!」
その肉体は、まるで結合する力を喪ったかのように、朽ちた土くれのごとく、崩れ去っていった。
彼は。
すでにカルティ=ヴァでも夜翅・アウスフォレスでもないその者は。
もはや名乗るべき
もはや動かすべき
もはや従うべき
その、者は。
●
「――子供?」
老爺が眉をひそめる。
至聖祭壇に似つかわしくない、小さな小さな、人影。
その者が確かに実在した質量を感じ取れたのは一瞬のこと。
熱湯に投じられた一握の雪のごとく、それは即座に消滅した。
認識の範疇から、消え失せた。
螺導・ソーンドリスは、その存在感と、どこかで関わったことがあるような気がしていた。
藍緑、紅紫、漆黒の奔流が、夜翅の残骸よりまろび出て、螺導の血中に入り込んでゆく。
「おや」
だが、迷妄刀メルギトゥルが黒の神鱗に回帰することはなかった。
その力は強靭に変化したが、本質はなにも変わらなかった。
回収し損ねたものがある。
無謬刀アルビトリウムを構成する要素の半分が、欠けている。
「まだ、彷徨われるおつもりでございますか」
困った御方だ、と笑う。
踵を返し、至聖祭壇から去る。
「では、後悔なきよう。あなたの道行きに、どうかあなたなりの救いがありますよう祈っておきますよ、お若い方」
鏖都アギュギテムの紅昏 バール @beal
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