モジカ

芦原瑞祥

モジカ


 かさこそ、かさこそ。

 机の上で、何かがうごめく音がして、小説家は原稿用紙の束を持ち上げました。

 ──何もいない、か。

 疲れているのかな、と目をこすりながら、小説家は原稿用紙をトントンと整えました。

 小説家といっても、本はあんまり売れていません。

 一生懸命書いているのにな、と彼は万年筆に手を伸ばそうとしました。


 かさこそ。

 また音がします。小説家はシャツのすそで眼鏡をふき、机の上を見回しました。

 原稿用紙の束のいちばん上で、何かが動きました。

 顔を近づけてみると、それは、さっき自分が書いた文字でした。

 濃紺のインクの色をした線が、なんという文字だったかわからないくらいに、あっちへゆらゆら、こっちへゆらゆら、まるでボウフラのようです。


 わ

 という文字だった線の端を、小説家は人差し指で押さえてみました。

「わ」は、しばらくじたばたとしていましたが、やがて元の文字の形に戻りました。


 ──なんだこれ。

 試しに指を離してみると、文字はまた、うねうねと動き始めました。けれども、紙の上から出ることはできないようです。

「いい話を書きたいって思い過ぎたから、文字に魂が乗り移ったのかな」

 つぶやきながら、小説家は文字を押さえたり離したりして反応を楽しみました。


「いじわるをしないでくださいよ」

 どこからか、小さくてかわいらしい声がしました。

 人差し指で文字を押さえたまま、小説家はきょろきょろと、本だらけの部屋の中を見回しました。

「ここです」

 声は、机の上から聞こえます。

 見ると、紙の上の線が、押さえられていない部分をぐねぐねとさせています。


「君……かい?」

 小説家が指を離すと、文字はバンザイをするように両端をあげた形になりました。

「そうです、私です」

 お話の世界にどっぷり漬かっていたから、頭がおかしくなったのかな。

 首を傾げながらも、小説家は好奇心を抑えきれず、紙に顔を近づけました。


「君は、生き物なのかい?」

 文字は一本の線になったかと思うと、きれいな○を形作りました。

「この『わ』だった文字にだけ、魂が宿ったの?」

 ○がほどけて、となりの「だ」が動き始めました。

 どうやら一文字だけが生きているのではなさそうです。


「僕になにか、言いたいことがあるのかい?」

 「だ」をつつきながら、小説家は訊きました。

「私を助けてほしいのです」

 うずまき状になりながら、文字が言いました。

 ──しめしめ、これは小説のネタになるかもしれないぞ。

 小説家はにんまりしながら、わけを訊ねました。



 文字は、どこか遠い世界から来た生き物だそうです。

 体を持たないため、ほかの動物に寄生しないと生きていけません。

 けれども、文字の種族はまじめでやさしかったので、勝手に体を乗っ取ってはいけない、という決まりがありました。

 死にかけている動物に、助けてあげるから体に入らせて、とお願いして、「いいよ」と言ってくれた場合のみ、寄生できるのだ、と。


「私は、宿主を見つけることができませんでした。けれども、長い時間生命エネルギーをもらえなければ、死んでしまいます。そんなとき、あなたの原稿が目に入ったのです」

 小説家が書いた文字は、力に満ちあふれていました。彼の魂のかけらが、そこには宿っていたのです。


「これ以上、体なしではいられない。だから私は、あなたの文字に寄生しました」

 自分の書いた文字にそんな力があると言われて、小説家は内心得意になりました。

「まあ、俺の書いた文字でよければ、いくらでも寄生していいよ」

 文字が尺取り虫のように這って、まっすぐにほどけていきます。


「ひとつ、問題があるのです」

「なに?」

「文字は、本来生き物ではありません。だから、書いてから三時間もすると、生命力がなくなってしまうのです」

 小説家は背筋を伸ばして座り直し、考えをめぐらせました。

「つまり、三時間おきに何か書いてほしい、ってこと?」

 棒状に伸びていた線が、○の形になりました。


 ──三時間! それじゃ、おちおち眠れないじゃないか。こいつはやっかいだぞ。

「お願いです。力強い文字をつづるあなたを見込んで、頼みます」

 ほめられると、悪い気はしません。それに、やはり小説のネタにしたいし、自分を追い込んでひたすら書く動機にもなります。

 これは、いい取引かもしれません。


「いいよ。がんばってみよう」

 少しだけ「面倒くさいな」と思いながらも、小説家は胸をたたいてみせました。

「ありがとうございます!」

 うれしいのか、文字はうねうねと紙の上を動き回りました。


「ところで、君の名前は?」

「名前?」

 文字が動きを止めました。

「そう、名前。これから君のために書き続けるんだから、呼び名くらい教えてよ」

「そういう概念が、私たちにはないのです」

 小さな声で、文字が答えました。


「……じゃあ、モジカにしよう」

 昔の小説家が書いた、『文字禍』というお話を連想して、彼は言いました。

「かわいらしい響きですね」

 文字は、まんざらでもなさそうにゆらめいています。

 このときから、小説家とモジカの日々が始まりました。



 モジカのために文字をつづる。

 どんな文字でもいいわけではありません。ちゃんと意味を持って、しかもおもしろい文章でないと、小説家の魂が入り込まないのです。

 すかすかの内容の文字を書くと、モジカはけいれんを起こしたように動きを止めてわななきます。


 モジカのために、小説家はつねにおもしろいことを考え続けました。

 いろんな本を読んで、頭の中で整理し、力を込めて万年筆を握ります。

 会心の作をつづったときは、モジカは紙の上で飛び跳ね、小説家への感謝の言葉を歌いました。

 小説家は、そんなモジカのことが何より大切だと思うようになりました。



 季節がめぐり、小説家は疲れがとれなくなってきました。それもそのはず、彼は三時間以上の連続した睡眠をとっていないのです。

 こまぎれに眠っては、起きて万年筆を握る。眠くなったら、タバコを吸ったり、コーヒーを飲んだり、自分の足をつねったり。

 つらいとは思いませんでしたが、体のだるさはどうにもなりません。


「モジカ、いい話を思いついたよ! この文字は力一杯だぞ」

 いつのもように濃紺のインクで紙に書こうとすると、モジカが言いました。

「本当は、疲れてるんでしょ? もういいよ。無理しないで」

 目の下の隈が取れなくなった小説家を見るのはつらい。

 モジカは小説家のことが大好きだったのです。

 彼の書いた文字に入り込んで、彼の魂を全身で感じる。その幸せは、文字通り彼の魂を削って成り立っているのです。


「何を言うんだ。俺は、モジカが喜ぶところを見たいんだ。それだけで、疲れなんか吹き飛ぶんだから」

 小説家は、万年筆を動かし始めました。彼の中指には、大きくて痛々しいペンだこができています。

 まだインクの乾かない文字に入り込んで、モジカは彼の疲れが本当にひどいことを悟りました。彼のやさしさを感じながら、モジカは「いっそ泣けたら」と線状の体をうらめしく思いました。


 物語を書き終えて、小説家は机に突っ伏して眠りました。本当に疲れていたのです。モジカは寝息をたてる彼の顔を見ながら、「ありがとう」とつぶやきました。


 目が覚めると、窓から朝日が射し込んでいます。

 小説家は飛び起きて、時計をみました。

 決して越えてはいけない三時間が過ぎていました。


「モジカ!」

 小説家は原稿用紙の文字をなでました。すっかり乾ききった文字は、ぴくりとも動きません。

「モジカ、モジカ!」

 妖精のようなあの声は、聞こえてきません。

「すまない、俺が眠ってしまったばっかりに……」

 小説家は泣きました。涙が原稿用紙を濡らし、濃紺の文字をぼやけさせました。

 けれども、モジカが帰ってくることはありませんでした。



 小説家の書いた物語は、あちこちの本屋さんに並び、大人気となりました。たくさんの人が、彼のつづったお話に夢中になり、楽しい時間を過ごしました。

 けれども、モジカはいない。

 自分の書いた物語を、いちばん味わってほしい相手が、ここにいない。

 それはとても悲しいことでした。

 けれども小説家は、物語を編み続けました。

 いつか、モジカが帰ってきたときのために。



 万年筆にインクを入れているとき、玄関の呼び鈴が鳴りました。

 ──誰だろう。

 万年筆を机に置いて、小説家は玄関へと向かいました。

 ドアを開けると、見覚えのないきれいな女の人が立っています。

「どちらさまですか?」

 小説家が訊ねると、女の人はなつかしい声で答えました。

「……モジカです」


                                    了

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モジカ 芦原瑞祥 @zuishou

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