[6]

 午前1時すぎ、真壁は巡回に出ると断って歌舞伎町交番を出ると、風林会館の脇の細い路地で無線に耳をすませていた。

『男は1人か。間違いないか』『1人です』『顔、見えたか』『見えません』と、刑事たちの短いやり取りが続いている。

 何か動きがあるという落合の言葉通り、今夜また、窪田がヤクの受け渡しを歌舞伎町で行うと無線のやり取りが告げていた。

 真壁は無線の断片的な情報を頭の中で組み立て、現場を突き止めようとするが、仮に現場に突っ込んだ際、どうしたらいいのかという性急な思案へ頭を切り替えなければならなくなっていた。

 そのとき、無線の抑えた一声が囁いた。

『こちら、1班。スカイライン到着、停車』

『3班、移動準備。2班、持ち場で警戒』

 暗がりの中、脇道を大勢の靴音が駆け抜ける音がした。真壁は音がした方向へ走ると、歌舞伎町二丁目の遠くの街灯に黒い背広姿がいくつも浮かんでいた。

『全員、警戒態勢。3班、班長の指示を待て』

『1班、スカイライン発進した。区役所通り方向・・・』

 反射的に腕時計で確かめた時刻は、午前1時38分。スカイラインに乗った窪田が現場から逃げようとしている。

《こっちへ来たらどうする》と思った瞬間、いくつかの短い怒号と複数の足音が近づいて来て、「曲がるぞ!右折だ!」という叫び声が聞こえた。

 真壁は顔を上げた。甲高いブレーキ音を響かせて、黒い車が路地へ回り込んでくる。距離は約20メートル。強引な右折で大きくぶれながら、路地へ突っ込んでくる眩しいヘッドライトの光の輪が2つ。

 フロントガラスの奥に、ぼんやりと窪田の顔が浮かんだ。「止めろ!止めろ!」という複数の怒号、いくつもの靴音が折り重なるなか、真壁は突進してくる車のフロントガラス目がけて、自分の身体がふわりと移動していくのを感じた。そして眼前の車が止まっているような錯覚が見えた瞬間、激しいブレーキ音と衝突音とともに車が視界からかき消え、意識が飛んだ。

 車は電柱に突っ込んで止まっていた。たちまち駆けつけた刑事たちが取り囲み、ぶつかりあう人の輪から真壁ははじき飛ばされた。車から引きずり出された男に、捜査員たちがのしかかり、押さえつける。

「身柄確保!身柄確保!」

 その後、眼前の人だかりが動き出し、押さえつけられていた男が地面から引きずり起こされた。捜査員の隙間から、窪田の顔が見えた。

 耳元で「闘牛場へ行け」と誰かがささやいた。電柱に突っ込んだ車のフロントガラスに黒革のコートが引っ掛かっていることに気づくと、真壁はようやくそれが自分のコートだということに驚き、自分は何をしたんだと考えたが、それも思い出せずその場に立ち尽くしていた。

 後日、捜査員の許可を取って、真壁は取調室で窪田と対面した。どうしても聞きたいことがあったからだ。

 真壁と顔を合わせると、窪田は口角を緩めた。

「アンタのことは覚えてるよ。運のいい奴だ」

 真壁はこみあげてくる嫌悪感を抑えた。

「運の善し悪しなど、関係ない」

「・・・佳織の奴、どうなった?」

「死んだ。テレビで報道されてただろ。新聞とかネットでも」

「見ちゃいない」

「お前が打った注射で、人が死んだ。何か、言いたいことがあるんじゃないか?」

「頼まれたからさ。頼まれて、打っただけだ。手が震えるからって」

 窪田は何か苦しそうな表情を見せた。

「量は増えてたがな、いつもと同じだったんだ。あの日に限ってアイツの汗が止まらなくなった」

「ヤクへの耐性は、体内で急激に形成される。致死量は常用性によっても、体質でも体調でも、大きく変化する。だが、殺したのはお前だ」

 窪田は鼻を鳴らし、笑った。

「アイツの趣味みたいなモンよ。気晴らしさ。止めやしないさ」

 真壁はくり返し言った。

「お前が彼女を殺したんだ。違うか?」

「・・・死んでから、アイツ、どうなった?」

 真壁は窪田の顔を見つめたまま、黙っていた。

「引き取り手がいないなら・・・」

「父親が引き取った」

「何か言ってたか?」

「何も」

 父親は「馬鹿な娘」だと言っていたが、佳織の遺体をたしかに受け取ったのだ。

「・・・そうか」

 窪田は急に静かになった。

「たぶん、許してもらえたんだろうな」

 真壁は答えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新宿巡査Ⅲ 伊藤 薫 @tayki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ