壁を拭く男
小川市松
第1話 騒々しく美しい世界
暗く雲の蠢く隙間に、漏れる日光の揺らぎ。
煩く光が眼に流れ込み、風に桜が震える。
人の重なりの中に、湿り気と酒が匂う頃。
さあ歌おう、この世界は美しい。
美しくも騒々しい世界。
耳をすませ眼を開け。
私は生きている。
過ぎる日々は壁のようだ。大きな壁が一枚、また一枚と自分を隔てていく。乱立する壁はまるで、色も様々に明るくも暗くも、分厚く絵の具を塗り込められた絵画のようにも見える。足元は崩れた壁が砂になり、リゾートの海辺のように風に流されている。
夜に眠る間も、壁の合間をただ歩く間も、壁は歌を歌い続ける。私はその歌を聞くために、その歌の数々を忘れぬよう向き合うために、今日の壁を拭く日もあれば、四ヶ月前の壁を探さなければならないこともある。
まるで私は一人なのだと信じていた。一人と言う概念すらなかったのかもしれない。この世界は耳をすまさなければ聞こえない歌が重なり、騒々しくあるのだと信じていた。時折美しい響きをもつ瞬間に立ち会えるものだと信じていた。
あるがままに受け止めているつもりだったが、本当の私は違うものだった。その日、私が出会った少年と女性が、そのことに気付かせてくれた。或いは、その現実を突き付けられた。
壁を拭く男 小川市松 @ogawa_ichimatsu
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