断章は大事である。
ロラン・バルトもそう言っていた。
そうだ。テクストに挑む時我々が読むのはいつも断章なのだ。
サイダーの泡のように意味が生成せられては消えて行く。線ではなくて点なのだ。
思考は断章だ。生活は断章だ。読むものはどんなに長くてもやっぱり断章以外に読めやしないのだ。
持続的で体系的な線状の「意味」のウラでは沢山の断章がぶつかり合っている。
どんなに構築美を見せた文章でも細部では諸要素が矛盾対立している。
一貫した「意味」なんぞというものは運動会でどんなに嫌な思いをしても「ヨカッタヨカッタ」と纏められてしまうような形でしかありえないのだ。
「自我とはクソである」(作品本文より引用)
実感が籠った良い断章である。
「幸福は精神的な肥満である。人は幸福でないときほど速く走れる」
考えてみれば当たり前である。捨て鉢になれば速い。
時間論である。
ニュートンは時間が実在すると考えたがカントは認識に使う基準の一つでしかないと相対化したらしい。
時間が相対的だとすれば、時間が人によって違うとすれば速さとは本質かもしれない。
自分の時間を生きる。自分の走りを走る。