「ファンタジー」と「そうじゃないゲーム世界みたいな異世界」のジャンル違いをよく感じていたんですが、この「ゲームファンタジー」という言葉で片づけられるものだったんですね。勉強になりました。
ゲーム上の常識をそのまま取り入れるのは、読者の中に暗黙の共通認識をもたせ共感しやすくなるので便利ですよね。特にドラクエ設定をスタンダードとした作品たちはまるでシェアドワールドみたいだなーと面白くも思います。
例えば勇者や武闘家やドワーフといわれればある程度読者の中で人物像の共通認識がある。その役割の中でいかにキャラを苦悩させ輝かせるか、というものを楽しむものですよね。原型なくして意外性はない。これはキャラに対する認識ですが、その世界に散らばる舞台装置「ギルド」や「イベントリ(だっけ?便利な道具箱)」も同じ様なものだと思ってます。
自分もそういったお約束事、(作中で制約としている場合もある)の中で頑張る話はまあいくつかは読んでいますし好きです。
でもステータスやら魔王やら便利な道具箱がないようなファンタジーが読みたいときは、こう・・・求めるものが全然違うんですよね。カレーとカレースープくらい違う。今はご飯が食べたいんだっ!てなる。もちろん単なる比喩なので、「ゲームファンタジー」が軽いとかそういうことが言いたいわけではないです。
人間同士・・・あるいは人間VSモンスターの泥臭い戦い。自分の場合むしろその方向の「ファンタジー」は「戦記物」の腹と近いように感じます。
切実にジャンル分けして欲しい・・・。
本文中引用させていただきます。
>「ゲームファンタジー」に拘っているのか、「ゲームファンタジー」しか知らないのか。
この作品のすべてはここに集約されていると思います。
既に「ゲームファンタジー」要素の小説を書いている人、その中でも意図せず無意識にゲーム要素の装置を出してしまっている人には耳が痛い内容かもしれません。
中には自分の中の「ファンタジー世界」、つまり自分の世界を全否定されたような怒りを覚える人もいるでしょう。
しかしちょっと一呼吸して、もう一度自分の作品と見つめ直す機会ととらえてはどうでしょうか?
この世界は普通のファンタジーだ
・だから普通に冒険者がいる
・冒険者って何?組織に属してる人の総称なの?
・その組織はだれがどんな目的でつくったの?
・組織構造は?資金源は?生計はどうやって立てるの?
・冒険者がいることによる利益は?社会問題は?
・冒険者が存在する場合としない場合の世界はそれぞれどうなってたの?
この世界は敢えてゲーム世界にしている
・だからイベントリが存在する
・イベントリって何?どこにどうやって出てくるの?
・どうやってアイテム探すの?文字?写真?
・誰がいつそんなものを作ったの?何の為につくったの?どうやってつくったの?何の成分でできてるの?
・どうして腐らないの?その中はどこにつながっていてどうなってるの?
・みんな使えるの?じゃあカバンや運送業はいるの?
「これはこういうものだ」という固定概念から一歩先に進んでみれば、より深い世界観が作り出されるかもしれません。自分が書くファンタジーにも若気の至りでつくってしまった「物がしまえる便利な魔法道具」なんてものがありますが、さてこれは一体どういうものなんだろうと考え直すきっかけとなりました。
当然私の勝手な感想なので「これこそが作者の考えなんだ!」と言っているわけではありません。
感じ方は千差万別。作品を読んでどう感じ自分の作品に生かすか、すべては自分次第ということですね。
先日、こんな話を見かけた。
「ファンタジー世界を舞台とする物語であっても、主人公がその世界の出身である(現実世界から転生、転移などで訪れた人物ではない)場合、『異世界ファンタジー』とは呼ばない」
最初に目にした時はそれこそ「???」となったものだが、「主人公が現代人としての目線を持っているからこそ、その世界を『異世界』と呼ぶのだ」と言われれば、納得せざるを得ない。
ただ、やはりどうしても感情的に納得しづらいというか、腑に落ちない部分があった。
おそらくは、それが筆者・林檎無双氏の挙げる『ゲームファンタジーしか知らない』世代との価値観の相違なのだろう。
web小説において『異世界転生もの』や『MMORPGもの』が繁栄を極める中、転生する手段、転生先の世界観、MMORPGのゲームシステムなどは、ゲームによくあるシステムや設定を用いて形骸化されているように感じる。
林檎無双氏がこれを問題視し、警鐘を鳴らし、疑問を呼び掛けている理由は、
ひとつの異世界を表現するにはあまりに力不足である『コンピューターRPG』でファンタジー世界を表現するために生まれた数々の仕組み(イベント、武器屋、ギルドなど)を、『小説』という媒体でそのまま模倣する必要があるのか?
ということだろう。
ただ、これについては安易に肯定も否定もできない。
ひとつの物語が生まれる上での仕組みには、必ず何かしらの意味があると思うためだ。
ここからは、web小説における『異世界転生もの』を例に挙げて書いていく。
トラックに轢かれて異世界に転生する――そんな一連の様式美が何故生まれたのか?
それはおそらく「ここ(現代社会)ではないどこかで大活躍したい!」という欲求を多くの人々が抱いていたためだと思われる。
もっとも、この欲求自体は決して批判されるものではない。むしろ、娯楽作品を楽しむ上では、ごく普通の感情だろう。
なら、どうして転生先の異世界がコンピューターRPGのルールを基調として構築されているのか。
それは、分かりやすいからだ。
D&Dと、そこから派生した多くのコンピューターRPG――『ゲーム』が生まれて、もう何十年も経つ。
年月を経るごとにゲームは万人に愛されるものへと変化し、ゲームもまた万人に愛されるために様々な進化を遂げてきた。
ひとつのゲームが生み出した分かりやすいシステムが、後のゲームに引き継がれていく。そうして作り上げられたものが『よくあるゲームシステム』、つまり異世界転生ものに多用される各種の概念だ。
コンシューマーゲームやソーシャルゲーム、ブラウザゲーム。ゲームを遊ぶための媒体は多く、大きく、広い。
そんな中、誰もがゲームを楽しむために最適化されたシステムが、誰にでも分かりやすく作られているのは、至極真っ当なことだろう。
異世界ファンタジーには、『分かりづらい』という側面がある。現実世界とのルールの違いを念頭に置いて読み進めなければならないためだ。
しかし、そこに『ゲーム』で作られたルールを導入することで、理解するための難易度はぐんと下がる。
「ここ(現代社会)ではないどこかで大活躍したい!」
「現代から転移した先の異世界で、どんな風に活躍するか?」
異世界転生もののweb小説でもっとも重要視されるのは、おそらくこの2点。
だとすれば、その活躍方法をわかりやすく描くための手段が、万人に理解されやすいゲームシステムであった、ということなのだろう。
つまり、ゲームファンタジー風の異世界というのは、物語を動かすための『手段』であって、それ以上の理由は存在しないのだ。
とはいえ、林檎無双氏の「ゲームファンタジーは人間が本来持つ想像力を阻害する可能性がある」という問題提起について、私はうんうん頷きたいくらい共感できる。
やはりこれも先日の話なのだが、「異世界に行ったって太陽と月は昇るし世界は丸いんだから、いい加減に異世界転生に夢を見るのは止めろ」という旨の発言を見かけたのだった。
……えっ、世界が平らで、端っこから水が滝のようにじゃぶじゃぶ流れている異世界とか、存在しないの!?
衝撃的だった。少なくとも、私にとっては。
世界が平らであっても、何らかの理由があれば太陽と月は運行するし、夜空の星は瞬く。たとえ現実的にはあり得ない、突拍子もない理由であってもだ。
それこそがファンタジーの魅力であると、私は常々思っている。
ただ、現在流行している『異世界転生もの』を好む読者にとって、それらの要素は不要なのだろう。
転生した先がどんなファンタジー世界なのか――そういった想像は、彼らの期待する娯楽には結びつかない。
つまり、『ゲームファンタジー』を用いた小説は、林檎無双氏が想定する『ファンタジー』小説とはまったくの別物なのだ。
とはいえ、旧来の『ファンタジー』小説であっても、娯楽作品である場合は、その時代の空気を反映したり、需要に合致するものが作られていたことは間違いない。
(私は『スペルシンガー・サーガ』のドラッグ描写と敵の昆虫がどうしても受け付けず、読了できなかった人間だ)
願わくば、林檎無双氏の文章に込められた問題提起が、ゲームファンタジーを含めたあらゆる『ファンタジー』を愛する人々にとって、意味あるものになりますよう。
長文失礼いたしました。
武器といえば剣、旅をしながら戦うのは冒険者、冒険者をまとめるのはギルド……そんな「当たり前」に切り込んだエッセイです。
定番のイベントやアイテムは、ネット小説としては便利なものです。定番になるだけの理由がありますし、そこで作品の個性を出せればそれだけで強みになります。
しかし、それだけではあまりにも浅い。昨今では、ギルドで中堅の冒険者に絡まれる、魔力計測機で主人公が特殊な結果を出す、などの展開は忌み嫌われる風潮があります(個人の感想)が、本質的には「ギルド」「イベント」「武器屋」「冒険者」などの要素自体もそれらと同じではないでしょうか。
このエッセイでは、そういう「当たり前になってしまって誰も深く考えなくなった安易な記号化」をまとめて「ゲームファンタジー」と表現しているように思います。
ゲームファンタジーは、わかりやすさ、面白さ、という圧倒的な強みがありますが、そこに歴史や背景はありません。あるのは、これはそういうものなのだ、という暗黙の了解と開き直りだけです。
このエッセイを古典ファンタジーに毒された世代の言葉だと切り捨てるのはあまりにも愚かしい。
少なくとも、この程度の「当たり前」に「なぜ」と問いかけられない人に、読者の胸を打つ物語を書けるはずがないのですから。