片割れの領主
日崎アユム/丹羽夏子
片割れの領主
昔々偉大な王がいた。
偉大な王には息子が二人いた。
双子だった。
いずれも同じほど文武両道に秀で、同じくらいに勇猛果敢で質実剛健、同じくらいに博学多識で頭脳明晰と、甲乙つけられぬ青年たちであった。
偉大な王は世継ぎを長らく決めかねていたが、晩年、己が身を引く時を前にしてとある妙案を思いついた。
自ら拡げた広い国土を二つに分ければいい。双子に同じ広さの国を与えて、双子が二人とも王になるよう便宜を図ればいい。
双子はそれぞれ両方ともが良い王になるだろう。それぞれの王がそれぞれの国に善政を敷くことで、いずれの国も双子がある限り平和で平穏で平安な同盟国として栄え続けるに違いない。
こうして分けられた二つの国は、東国が兄フルムの名を冠してフルミーヤ、西国は弟スルールの名を冠してスルーリーヤとなった。
それから幾世代を経て現在、フルミーヤの長は名をアッワルという。
アッワルは弱冠二十歳の青年だが、内政から外交まで毎日すべてを精力的にこなし、民からは力強く頼もしい領主だと評価されていた。
民は思っていた。
アッワルほど優秀で活動的な領主がいれば、我らがフルミーヤよりもはるかに歴史の浅い国へ膝を屈した現状を脱して、かつての大国の片割れであった頃の栄華を奪還してくれるかもしれない。
あるいは、もしかしたら、フルミーヤを屈辱的な小国の地位に貶めた悪逆非道な不倶戴天のかの国スルーリーヤをも打ち倒し、大陸の覇者であった時代を再びもたらしてくれるかもしれない。
しかし当のアッワル自身は、優秀であるからこそ己れが民の求めるような大業を為す大人物になれるなどとは思っていなかった。
むしろ逆だ。彼は、優秀であるがゆえに、己が力量を見切った。領主になった当初から、フルミーヤが帝国の中で少しでも有利な立場を保つよううまく立ち回ることにのみ専念する、と決めていた。
スルーリーヤと刃を交えたが最後、フルミーヤはスルーリーヤに呑み込まれてしまうだろう。フルミーヤの民が戦で犬死にするのみにとどまらず、帝国全体がスルーリーヤを含んだ西方同盟と対立することになる。アッワルは、それだけは回避せねばならぬ、と思って日々の政務をこなしていた。
さて、いくら優秀な領主であると言えども、アッワルは弱冠二十歳の青年だ。政務は政務で励んでいるが、政務と政務の間には、健康な若者ならではの潤いを求めていた。
アッワルには想いを寄せる女性がいる。遠縁に当たる二つ年下の姫君だ。豊かな黒髪と大きな黒い瞳の美姫であり、気性は穏やかでひとに安らぎをもたらす質の乙女だ。
帝都と領地を往復し続ける日々に忙殺されているアッワルには、落ち着いて愛を育んでいる時間はなかった。だが、アッワルとこの姫には、非常に頼もしい味方がいた。フルミーヤの大臣の一人でもある姫の父親だ。彼はアッワルを高く評価しており、娘との縁組も快くとりなしてくれた。
近い将来必ずフルミーヤ自慢の領主の正妻になるならばと、正式な婚姻の誓約書を取り交わしていないにもかかわらず二人がたびたび枕を交わしていることにも、目を瞑ってくれている。
時折、アッワルは、我に返っては己が浅ましさに頭を抱えている。
愛しい姫の胸に顔を埋めている時だけは、すべてを忘れられる。帝国全体の情勢も、領邦内部の情勢も、やらねばならぬ山積みの政務も、そして、誰にも知られてはならぬあの秘密も、彼女に包み込まれているうちはすべて忘れて一人のただの若い男として振る舞える。どんな重圧も彼女の広い愛の前では霧散した。
そんなアッワルの心境を察しているからこそ、大臣もまた、父である前に、一人の政治家として、また、かつては同じく若人であった男として、掟破りの婚前交渉を見逃してくれているようだった。
いつまでもこの父と娘に甘えているわけにはいくまい。アッワルは姫を心から愛している。彼女を信頼しているからこそ己れの弱い部分を委ねられるのであり、彼女をおいて他に妻としたい女性など未来永劫現れないであろう。この関係が明るみに出る前に本来の手順を踏んだ婚姻の儀を挙げたい、一刻も早く姫を正式な妻として迎えたい。万が一世に知れれば、姦淫の罪を問われるのは女性の方なのだ。姫の方がふしだらな娘として石を投げられる。アッワルは何としてでもそれを防がねばならない。
自分がこのような男であると知れたら、民は失望するだろう。自分は民が思い描いているほどの立派な領主ではない。政務の狭間に抱いている恋人の立場と政務そのものを天秤にかけているただの青二才だ。
廊下を歩く足音が聞こえてきた。アッワルは、うずたかく積まれた羊皮紙の束から顔を上げ、足音の方を向いた。
「アッワル、入るよ」
言いながら出入り口をくぐって一人の青年が部屋に入ってくる。
「疲れた顔をしているね。ちゃんと眠れている?」
アッワルは苦笑しつつ、大きく伸びをした。彼にだけは何もかも見透かされてしまう。
領民たちはアッワルをまるで人智を超えた存在かのように語る。こんな風にアッワルを人間扱いしてくれるのは、この世でたった二人だけ、彼とあの姫だけだ。
「最近どうも疲れが抜けなくて……。父上の後を継いでから、十年も二十年も一気に年を取った気分だよ」
青年は、アッワルの机の前まで来て、肩をすくめて微笑んだ。
「少し休んだらいいよ。アッワルが留守の間は僕が代わりに一通りの仕事をこなしておいたでしょう、確認をする時間はまだ取れていないのかな? 他にもできることがあれば何でも言ってほしい」
「確認するまでもないよ。お前は何もかも完璧だ、俺が特別あれこれ言わずとも全部俺の思うとおりにこなしておいてくれる」
彼は笑顔を絶やさぬまま、「当たり前でしょう」と応えた。
「どんなことでもできるよ。アッワルのすることは、一通り」
「本当だ、本当に助かる。おかげで民が皆俺が人間ではないかのように言うようになった。実際はお前が俺の仕事を半分請け負ってくれているからひとの二倍三倍働いているように見えるだけだというのにな」
「心配ないさ、誰も気づいていない。今後もこれまでどおり二人で回していけばいいよ」
彼の頼もしい言葉に、アッワルが頷く。
「お前がいてくれて、本当に良かった」
彼もまた頷き、「僕の方こそ」と告げた。
「アッワルのおかげで、僕は生きている。アッワルとして、ね」
そして繰り返すのだ。
「分担できることは全部分担しよう。今何が一番大変なのでしょう? 僕がやっておくから、アッワルは少し休んだらどうだい?」
「そうだな……、いや、今のところはいい、かな。これも全部、お前が署名したのだろう?」
「そうだけど、何かまずかった?」
「ちっとも。お前は俺が何を可として何を不可とするかまで分かってくれている。表題だけ目を通した、後はもういいだろう。筆跡で分かることもないだろうし、な」
「あ、そうそう。彼女の話も僕が代わりに聞いておいたからね」
アッワルはそこで初めて両目をしかと見開いた。
彼は相変わらず、穏やかに微笑んでいた。
アッワルと同じ顔で、アッワルと同じ声で、
「どうやら子供ができたようなんだ。今日は体調が優れないそうでもう自分の屋敷に戻ってしまったけれど、毎日幸せそうだよ。良かったね」
アッワルが最後に彼女と寝たのはいつのことだっただろう。
「お前……、彼女にも会っているのか」
彼はなおも微笑み続けていた。
「どうしてそんな顔をするのかな。別に構わないでしょう? だって、僕も、アッワルなんだから」
「お前まさか、」
「どちらの子供でも問題はないよね。顔も、声も、髪の色も、瞳の色も、背丈や手足の長さも全部同じなのだから。民も彼女も皆君のことも僕のこともアッワルと呼ぶのに、区別をつける必要はあるかい? つけられるのかい? どこで、どうやって」
――その昔、フルミーヤとスルーリーヤは大きな戦をした。フルムがスルールを殺害したのがきっかけだったという。結果勝利したのはスルーリーヤの方で、スルールを殺せたはずのフルムの国フルミーヤの方が縮小した。
双子は不吉だ。国を二つに分かつ。このような悲劇は二度と繰り返してはならない。
こうしてこの二つの国には、双子が生まれると必ず片方を『消す』風習が生まれた。
「ありがとう、アッワル。僕は本当は、生まれてすぐに死んでいたかもしれない――殺されていたかもしれないのに、今や、君のおかげで、君になり代わって、君のいない間、フルミーヤの領主をやっていられる」
アッワルは、今まで、残虐で忌むべき風習だと思っていた。
アッワルは、両親が情けをかけて殺さずに宮殿の地下で育ててきた双子の弟を地下から出し、ともに暮らせるようにした。今はまだ民にその存在を知らしめることができない、けれどいつの日か、双子が不吉だなどと言われない世が来たあかつきには、彼に改めて名を与え、自らの双子の弟として世に出そうと夢見ていた。
たった今、生まれて初めて、フルミーヤとスルーリーヤが相争うばかりの歴史を歩んでいる理由を悟った。
フルムがスルールを害した時、彼はきっと今の自分と同じ感情を抱いていたことだろう。
「次は何をしようかな」
彼は軽い足取りでアッワルの脇を抜けると、窓の方へ向かった。
彼が窓の外へ手を振る。窓の外にいるらしい民たちがアッワルの名を呼んでいるのが聞こえる。
アッワルは、腰の短剣を抜いた。
彼の背の上でアッワルの短剣の刃が煌めいた。
片割れの領主 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid
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