耳環と片腕 ~万葉浪漫譚~
九藤 朋
耳環と片腕 ~万葉浪漫譚~
春の色を
共に見ようと誓った
私の左耳に光る
お前は
*
優れた歌人として知られ、
天武天皇の御代に移り、華々しき
妻・
繊細で
歌を詠み、
だから、そんな穏やかに慎み深い彼の寝台の下から、白木の長方形の箱が発見され、もう色
そこには
まるで秘めた宝のように。
*
栄耀栄華を誇った蘇我一族は645年、
そんな世にも、
大権力者・中大兄皇子の第七皇子として生まれながら、志貴皇子は政権というものに
彼の心を捉えるのは、笹の葉を揺らす風であり。
第七皇子という立場の気軽さ、幸いにして恵まれた歌の才もあり、父にも臣にもとやかく彼の素行を
取り立てて
春の
本当は
やがて来る嵐も知らず。
*
「あれぇ? おい。
宮中から出て
空が健やかに蒼ざめた、爽やかな初秋のことだ。
驚いたのは、相手も同じだった。
上等な油で手入れされているのであろう、
明らかに
「どこの皇子様だよ」
「…………」
形良い細工物のような唇を迷い動かしながら、答えにくいな、と志貴皇子は思う。
相手は冗談で皇子などと言っているのだろうが。
しかし、真っ向から尋ねてくる少年の瞳は、志貴皇子の心の
果ての無い、大空のような明るい
こちらを見る目も、好奇心が多分に
考えあぐねた皇子は答えた。
「……私は、志貴」
「しき。……志貴。志貴皇子? 本物の皇子様か。へえ。俺は
まだ警戒を解かずに名乗ったのだが、相手はあっさり彼の身分を見破り、
それから雄高が志貴皇子の耳環の細工を褒め、それが話の糸口となって次第に二人は打ち解けた。同年代の少年らの、身分を超えた気安さだった。
上等な
二人は
約束をしている訳ではない。
行けば、相手がいて、お互いに心の中だけでほっとして、その癖、口では「何だ、また来たのか」などと減らず口を叩くのだ。
一人待つ間の心細さなど、決して知られまいとする。
雄高は、志貴皇子の翡翠の耳環を
そう熱心にねだられると、皇子としてはどこか
「これは、私も気に入っているのだ。ゆえに、ならぬ」
「じゃあ、こんなのはどうだ? 志貴はいずれ、国の
「礎になど、なるまいよ」
笑いながら志貴皇子がそう言うと、雄高は、大人びた眼差しで尚も主張した。
「なるよ。志貴が望むと望まざるとに関わらず。中大兄皇子と
「…………」
雄高の指摘は、志貴皇子が宮中で耳にする不穏な噂の
再び、多くの血が流れる予兆は、誰より志貴皇子自身が感じ取っている。
「……私は、そのように生まれついた
雄高の双眼が血走った。
「俺が欲しいのはそんなんじゃない。知らない顔をするな」
雄高の真っ直ぐな瞳は、翡翠よりも上等な玉石のようだ、と皇子は思った。
美しい玉石が悲しかった。
「……私には妻がいる」
「俺が欲しいのは地位じゃない。――――――――志貴の、心だ」
最後はぽつりと、小さな雨粒のような声だった。
翡翠の耳環を欲しがることで、彼は志貴皇子に想いを
志貴皇子は雨粒を
「私もお前が好きだ。
言葉を全て言い終える前に、雄高の屈強な腕が志貴皇子の
草の、青々しい香りに皇子は目を閉じた。
「……雄高。いつか、穏やかな春の日に、野の草原を共に見よう。芽吹いたばかりの
雄高は答えず、志貴皇子の翡翠をかちりと噛んだ。
しかし年始は
二人の春の予定は喰い違い、並んで早蕨を眺める好機は中々、訪れなかった。
彼らとていつまでも子供ではいられず、大人として担うべきそれぞれの役割が生じるようになった。
志貴皇子は、
国の中枢に
水を得られぬ花のように、彼の心は
今では、ほんの時折り、政務の間を縫って雄高に逢える時間だけが、皇子の心に
初めて出逢った頃と変わらぬ、雄高の曇りなき眼がこれ程に得難い宝となるとは、志貴皇子は想像だにしていなかった。
雄高と逢えていなければ、私はどうなっていたやら知れない、と言う志貴皇子の
異国に興味はないか、と彼に訊かれた皇子はきょとんとして、面白そうだと思う、とだけ答えた。
やがて二人の
身の危険をいち早く察知した大海人皇子は先手を打って、現在の奈良県・吉野山に出家、
天智天皇十(671)年のことである。
これが世に名高い
志貴皇子の住まう館を夜風が揺らす。
風音は皇子の心をも揺らめかしていた。
雄高の声が
〝百済の商船に渡りをつけた。密航船だ。百済は敗戦国だが(663年における
〝……妻子を捨てては、行けない。伴うことも無理だ……〟
〝この機会を逃せば、お前はしがらみだらけの人生になる。幼い頃のように、お前に
志貴皇子は寝台から床に足を降ろし、垂れ幕をめくった。
忍び歩きは慣れているので、着替えも一人で出来る。
夜闇に溶け込みそうな色の布地を選び、身に纏う。
館から出る時、左耳の翡翠を軽く撫でた。
雨風の中、難波津(港)まで、志貴皇子は馬を飛ばした。
冷たい雨だった。
見通しの悪い
まさかと思い、船のもやい綱を解こうとしていた水夫を手で制止すると、馬から降りた志貴皇子が駆けて来るところだった。
濡れそぼりながら、自分をひたすらに見詰めて。
「――――志貴!」
「雄高。すまぬ。遅れた……」
水浸しで二人、感極まる間も無く乗船せねばならない。
その時、一本の矢が雄高の肩を
水夫や、百済の民も混じっているのであろう乗客たちから悲鳴が上がる。
「皇子様っ、何処へ行かれます!」
「おのれ、皇子をたぶらかす逆賊かっ」
志貴皇子の館の
皇子の不在に気付いた
只でさえきな臭い情勢下だ。不審極まりない雄高を完全に敵視している。
「止めよ、矢を射かけるな、剣を納めよ!!」
皇子の制止も虚しく矢はびゅうびゅうと雨を裂いて雄高に向かう。
足元を滑らせた雄高に、志貴皇子は迷わず腕を伸ばした。
船と、岸の間に雄高の身が吊り下がっている。
支えは
皇子は死にもの狂いで雄高の腕を放すまいと掴んだ。
息を
「――――――――手を放せ、志貴」
こんな状況にも関わらず、雄高の声は今までで聴いたどれよりも、静かで凪いだ声だった。
声を出す余裕とて無い志貴皇子は、只、弱く素早く首を横に振った。
暗くて深い場所で、雄高が苦笑したのがなぜだか判った。
見開き通しで乾き、涙が滲みそうな皇子の眼球に、明らかに映る筈もないのに。
「しょうがないよねえ、お前」
雄高は腰の剣を右手で引き抜くと、志貴皇子がしがみついていた左腕を、自ら切断した。
急に軽くなった反動で仰向けに引っ繰り返る志貴皇子の耳に、どぼん、と無情な水音が響いた。
*
それから、長い歳月が流れたが、志貴皇子の時間は、あの嵐の晩に止まったままだ。
何度も春は
翡翠の耳環くらい、どうしてくれてやらなかったのかと、幾度も幾度も悔やんだ。
雄高は彼の全てを、志貴皇子にくれようとしたのに。
血生臭い抗争を横目に見ながら、皇子はひっそりと生きた。
雄高を失って以降の年月が、彼の余生だった。
皇子は次第に、
今度こそ、耳環をくれてやれる。
今度こそ。
〝及ばずながら俺が、志貴の片腕になってやるよ〟
その声を思い出し、寝台の下に置いた物を想う。
腐臭を誤魔化す為に、随分と色々な香をきつく焚いて過ごしてきた。
(ああ。雄高。ずっとお前の片腕と共に在ったよ)
死肉すらも愛おしい。
*
待ち侘びた春風が吹く
お前が、右の手を大きく振っている
これでようやく誓いを果たせる
いよいよだ
春の色を見よう
生きて芽吹く翡翠色の鮮やかさを
なあ雄高……これからだぞ
共に
共に見よう
*
耳環と片腕 ~万葉浪漫譚~ 九藤 朋 @kudou
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